ソランディアの蠢動
「ほう。セルスが反乱を起こしたか」
マーラントは郊外のさびれた小屋の中で部下からの報告を受けた。この部下というのは、日頃彼が引き連れている不良少年ではない。既に中年といってよい年頃の男だ。農民風の粗末な服を着てはいるが、鋭い眼光は彼が庶民などではないことを示していた。
「はっ。セルスの軍には元々セルウィウスの部下だった者も加わり、その軍は7万を超えるとのこと」
「ならば、ソランディアにいるオルシア兵どもも呼び戻されるか」
「はっ。最低限の兵力を残すのみかと」
「同志たちがなるべく多く残留部隊に残ってほしいものだな」
「多少の工作はする所存です」
「うむ。頼んだぞ」
「ははっ!」
マーラントよりも年長で、眼光鋭く、情報にも通じた男。彼はアルヴィス家の遺臣だった。ソランディア滅亡時の激戦の中、アルヴィス家は当主マルヴィオンをはじめ一族郎党多数が命を落とした。僅かに残った者たちは離散し、逃亡と潜伏の日々を送った。彼らのうち幾人かは野に伏し山に隠れ、あるいは庶民に紛れ込んだ。別の幾人かは旅に出てアルヴィス家の末裔を探し、また各地に同志を求めた。また別の幾人かはあえてオルシア帝国軍に志願し、密かにその内情を探らんとした。彼らは秘密裏に連絡を取り合い、情報を共有し、来るべき蜂起の日に備えた。それはいつ来るとも知れぬ、いやそもそも来るかどうかも知れぬ日だった。だがアルヴィス家の遺臣たちは挫けなかった。そのうち他のソランディア人も仲間に加わってきた。
そして2年前、遂に彼らはアルヴィス家の血を引く少年を見つけた。町の不良少年たちの中で、あらゆる点において際立っている少年。ただ者ではないと直感し、密かに彼の家に使いを立てた。少年がマルヴィオンの孫マーラントであることを知ると、使いの者は秘密の隠れ家に彼を連れていった。マーラントと対面した遺臣たちは感涙に咽んだ。彼らは口々にマーラントへの忠誠を誓い、いつの日かソランディア再興の兵を挙げる時には指導者になってくれるよう懇願した。遺臣たちの変わらぬ忠誠に感激したマーラントもまた涙を流し、1人1人の手を取って彼らの忠義に報いることを約束した。
そして今。オルシア帝国を打ち立てたセリオン帝はこの世を去り、その遺児たちは真っ二つに分かれて争いを始めようとしている。絶対的な支配者の死と後継者争いによる分裂、そしてそれによる帝国の弱体化。支配される者たちが立ち上がるには、まさに理想的な状況と言えた。
(もう少し、消耗してくれれば…)
サイアン派、セルス派に分かれたとはいえ、オルシア帝国は強大だ。全土から集めた軍勢は正規軍団だけで20万を超える。ソランディア総督軍が出立する前に動けば間違いなく潰されるし、出立した後でも早すぎれば両派の大同団結を招いてしまうかもしれない。戦いが進んで両派ともに兵を損ない、もはや手を組むことがかなわぬほどに憎悪が膨らんだ時にこそ、マーラントたちの出番がある。時が訪れるまでは情報収集に努め、同志を募り、できる限り多くの兵を集めることが重要だ。
(オルシアを滅ぼすのは、俺だ)
マーラントの祖父マルヴィオンは落日のソランディア軍を率い、オルシアの大軍に果敢に立ち向かった。彼の優れた指揮能力は幾度となくオルシア軍を苦しめた。最後はオルシアの奸計と味方の裏切りにより敗れたが、セリオン帝の征服戦争において最も難航したのが対ソランディア戦だとも言われている。無念にも討ち死にしたマルヴィオンは今際の際にこう叫んだという。
「たとえ最後の1人となろうとも、オルシアを滅ぼすのはソランディアだ!」
マーラントはソランディア人として、アルヴィス家の男として、マルヴィオンの嫡孫としてオルシア帝国の滅亡を願い、それを果たすのは自分をおいて他にはいないと信じていた。マーラントはオルシアに征服される以前のソランディアを知らない。自分と母以外のアルヴィス一族に会ったこともない。英雄である祖父マルヴィオンの顔も、父マルスの顔も見たことがない。だが彼の心は誇りと自尊心に満ち溢れていた。
(待っていろよ、オルシアめ。今に見ていろ、狂帝の息子どもめ)
マーラントは心の内で炎が燃え上がるのを感じた。その熱は体の内側を焦がすかのようだった。
「何、ソランディアのオスマンド将軍から内密の書状だと?」
サーリアはガインからの報告に首を傾げた。サイアンの即位後、宰相に任じられたガインはサーリアの腹心として宮廷を切り盛りしていた。
「はっ。こちらにございます」
サーリアはガインから受け取った密書を読み進めた。
オスマンド将軍。「血みどろ坊主」の異名を持つ猛将が送ってきたのは、以下のような内容であった。曰く、ソランディア総督に任じられているセリオン帝の庶子シールムはセルスに与しようとしており、これは先帝及び現皇帝への不忠であり、不義である。「忠臣たる自分」には到底許容できないことであり、シールムの誅殺の許可をいただきたい。しかし、ソランディア総督の座が空くのはまずいため、一先ず自分を総督に任じてほしい。その2つを許してもらえれば、ソランディア総督軍の精鋭及び現地人や南方人から募った勇猛な戦士たちを連れてサイアン陛下の下に馳せ参じるつもりである。
(つまりは、どさくさ紛れに権力を握ろうというのだな)
オルシア帝国における総督とは特別な地位である。
オルシア帝国は全土を41の州に分けており、各州を統治するのは州長官である。だが成立から10年余りを経たのみである帝国の支配は未だ行き届いているとは言い難く、官制も整ってはいない。滅ぼした旧6国の民が反乱を起こす可能性もあり、また外敵の侵略もあり得る。
そこでセリオン帝は体制が安定するまでの一時的なものとして、総督という役職を設けた。旧6国のうち、北方の騎馬民族の地に接するトルダール、ギリア。東のアロキア王国に隣接するシルリア。そして南方蛮族の地と向かい合うソランディアに総督が置かれ、彼らには精強なオルシア帝国軍部隊と強大な権力が与えられた。その権力のうちには軍を養うための徴税権、独自に部隊を編制する権利、反乱や侵略に対して速やかな軍事行動を行う権利などが含まれていた。これは旧6国の王に準ずるほどの大権であり、ある意味では中央集権を進めようとする帝国の方針と矛盾する存在でもあった。
無論、セリオン帝はこれだけの力を警戒なしに総督たちに与えた訳ではない。セリオン帝は良く言えば慎重派、悪く言えば猜疑心の強い人間であり、総督の人選及び離反への対策には細心の注意を払っていた。
トルダール総督には次男セルウィウス、ギリア総督には三男セルスを。ソランディアには庶子シールム、シルリアには甥のシガーロを配置した。全てを近しい親族で固めたのだ。
オルシア帝国において特別な地位である総督。オスマンドはそれを自分に寄越せという。眉をひそめざるを得ない要求である。だがサーリアにはこの要求を断ることはできなかった。もし拒めば、オスマンドは何だかんだと理由をつけて出陣を先延ばしにするだろう。下手をすれば、セルスに味方しようとするかもしれない。というより、オスマンドの言葉を信じるならば、ソランディア総督シールムはセルス側につこうとしているのだ。
(背に腹は代えられぬ、か)
ソランディア総督軍は正規軍だけで5万の兵力を有しており、またオスマンドやバルカイン、フェルナンといった宿将たちもいる。この戦力は何としてでも味方に引き入れたかった。
「ガイン。余人には任せられぬ。そちが筆記せよ」
「はっ」
サーリアは声を低めて言葉を発し、ガインがそれを文字にしていく。サーリアは己の魂が汚れていくのを感じた。
(何を今さら)
サーリアは半ば自嘲を込めて苦笑した。夫の死後、幾人の命を奪ってきたことか。直接手を下した訳ではないにせよ、命じたのはサーリアだ。今また殺した人数が1人増えるだけで、何が変わろうか。
全てを手にする。それが、夫であり悪魔のような暴君である男に全てを奪われたサーリアの、ただ1つの願いだった。