陰謀
「今、何と言った…?」
「はい。先帝であられる皇祖セリオン陛下は、オルシア帝国2代皇帝としてサイアン殿下を指名されました」
宮廷書記官長ガインの言葉に、宿将ハウロスは己の耳を疑った。
確かにサイアンはセリオン帝の嫡出子ではある。だが他にも3人の嫡出子がおり、いずれもサイアンより年長である。特に長子のセルバドスは父の政務を補佐し、事実上の皇太子であると目されていた。
「他の嫡子の方々は?」
「皇祖セリオン陛下はサイアン殿下を後継者にご指名なさいました」
「だがセルバドス殿下が…」
「皇祖セリオン陛下のご遺言にございます」
ガインは1枚の文書を差し出した。ハウロスは半ば引ったくるように文書を受け取った。読み進めるにつれて、ハウロスの顔は青ざめた。もう一度始めから読み直すと、ハウロスは思わず叫んだ。
「馬鹿な!」
言ってからハウロスは慌てて口を押さえ、周りを見回した。先帝の遺言に対して「馬鹿な」とはあまりに不敬であり、オルシア帝国では死罪とされても文句は言えない。案の定、ガインは顔をしかめた。
「ハウロス将軍。言葉にはお気をつけなされよ。今のお言葉、将軍がサイアン殿下の傅役であられることに免じてなかったことにいたしますが、今後は庇いきれぬかもしれませぬぞ」
(さっきから不快な言い方ばかりしおって…。虎の威を借る狐、いや鼠めが!)
ハウロスは内心で吐き捨てた。
「だが何故、陛下はこのようなことをお命じになられるのか…」
セリオン帝の遺書として手渡された文書には、信じがたいことが書かれていた。サイアンを次の皇帝とする。それはガインの口からも聞いていたから、衝撃は小さかった。だが、その後に書かれていたことはハウロスには想像もつかないことであった。
「私めなどには、皇祖の御心中を慮ることなどとてもできませぬ。しかし皇祖セリオン陛下のこと、我々などには思いもつかないご深慮があるのでしょう」
「だが…」
「将軍。まさか皇祖セリオン陛下のご遺言に疑いを持たれるのですか?」
「いや、そういう訳ではないが…」
慌ててハウロスは言ったが、少しも納得はできなかった。だが君命ならば仕方がない。オルシア皇帝の言葉は絶対なのだ。
「サイアン殿下が即位される。そうなれば、殿下の傅役たる将軍は重く用いられましょう。もっと嬉しそうな顔をなされよ」
確かにそうだ。王侯の傅役は主君の成人後、即位後も最も信頼する家臣として重用されるのが常だ。ましてオルシア皇帝の傅役ともなれば、栄達のほどはいかばかりか。
だがハウロスの顔は晴れなかった。良くも悪くも実直な武人であるハウロスは、皇后とガインが遺言を書き換えたなど想像もできなかった。ただ、先帝の遺言におののき、帝国とサイアンの行く末に一抹の不安を覚えたことは確かであった。
帝国の北方に位置するギリア地方。中心都市のホーランには、支配の拠点として総督府が置かれていた。
「サイアンの即位…?兄上の自害…?」
セルスは受け取った書状を読み、己の目を疑った。
「はっ。まことに無念ながら…」
手紙を運んできた使者の声は震えていた。怒りと悔しさのためであろう。
使者は帝都からのものではなかった。それどころか、公式の使者ですらなかった。ギリアの西に位置するトルダール総督府の将軍シーワードの派遣した、火急の密使だった。
2通の書状には驚くべきことが書かれていた。1通目は帝都からトルダールに送られた書状の写しであり、先帝の遺言により第四皇子サイアンが帝位についたことを告げ、さらに「不肖の子セルウィウス」に自害を命じていた。2通目はシーワードからのものであり、セルウィウスの死を知らせ、セルスにはくれぐれも「早まった行動」を取らないように求めていた。
(何ということだ)
恐らくは、いや確実にあのカラニア女の陰謀だ。セルスは直感した。
セルスとサイアンはともにセリオン帝の嫡出子ではあるが、母を異にしていた。サイアンは皇后、いや今は太后サーリアの息子であり、セリオン帝の嫡出子としては末子である。そしてセルスと長兄セルバドス、次兄セルウィウスはセリオン帝の最初の正妻ラーナの子であった。
(あの女、サイアンの帝位継承に邪魔な俺たちを殺しにかかったな)
セルスは帝位を望んだことなど一度もなかった。5歳上の長兄セルバドスは政治力に優れ、父帝をよく補佐していた。生来の才能と豊かな経験、穏和な人柄で将来よき皇帝になるだろうと噂されていた。セルスもこの兄との関係は良好で、尊敬もしていた。次兄セルウィウスとともに武将として軍事面でセルバドスを支えていこうと考えていた。
だが野心溢れるサーリアには、セルスの思いなどどうでもよいのだろう。自らの子サイアンを帝位につけ、禍根を絶つために他の嫡子は根絶する。古今東西、多くの国々で行われてきた醜い陰謀である。
(ということは、帝都にいるセルバドス兄上も今頃は…)
セルスはぶるっと身を震わせた。明日は我が身だ。他人事でいられるはずもない。
(さて、シーワードの言う「早まった行動」とは、セルウィウス兄上の後を追うことだけを指しているのかな?)
選択できる「早まった行動」はもう1つある。セルスはそれを行うだけの力を持っていた。また、いたずらに座して死を待つつもりは微塵もなかった。
「オスワン、ギルム、メムノンを呼べ!今すぐにだ!」
小姓が弾かれたように駆け出していく。その背を見つめながら、セルスは自らの手が震えているのを感じた。それが興奮のためか怒りのためか、あるいは恐怖のためか、定かではなかった。