賢者(1)
アルヴィス家の反乱。
瞬く間に広まった噂はソランディア全土を騒然とさせた。
年前のオルシアによるソランディア征服以来、ソランディアの地で戦乱はほぼ絶えていた。散発的な蜂起はあったがオルシアの駐屯軍、後には総督軍により即座に鎮圧される程度のものでしかなかった。隣国カラニアはソランディアよりも早くオルシアの支配下に入っており、セリオン帝による中原統一の総仕上げと言える対シルリア戦においてもオルシアは圧倒的な武力にものを言わせて反撃を許さなかったために、シルリアはオルシア及びその支配下の国々に一歩も足を踏み入れることができなかった。また近年では帝国領が南方蛮族の地にまで達し、ますますソランディアの地から戦火は遠ざかった。ソランディアはその好戦的な国民性ゆえか戦渦に巻き込まれることが多く、皮肉なことだが「オルシアの平和」の恩恵を最も受けた地であると言えなくもなかった。
それが今、新たな戦の火が灯された。それも他ならぬソランディア人の手によって。
(さて、どうしたものか)
ノーザンは思う。ソランディアは敗れた故にオルシアに膝を屈しているが、その住民は元来好戦的で反抗的な性向にある。一度火が灯されれば、反乱は燎原の火のごとく広がっていくだろう。ことに若い者たちではその傾向が強いだろう。だがノーザンは老いている。ただ老いたのみでなく、蓄えた知識と生来の思慮深い性質がノーザンに先を見る目を与えていた。
(未だ時至らず)
それがノーザンの出した答えだ。
反乱はあまりに急すぎた。オルシアの隙を突くこと自体は間違ってはいないが、突発的であり過ぎたために味方もまた虚を突かれてしまったのだ。そもそも反乱を起こしたアルヴィス家の勢力は大きなものではないだろう。少なくとも他の勢力との連携なしにオルシア軍と互角に戦える力はないに違いない。先に述べた通りソランディア人は次々と反乱に加わるだろうが、それも多少の時間はかかる。また所詮は烏合の衆、組織として洗練された動きはできないだろう。
(それに…)
オルシア帝国は内乱状態にあるが、未だセルス軍とオスマンド軍は交戦してはいない。一旦オルシア本国から退き、ソランディアとの国境に聳え立つ難攻不落のウラド城に十分な守備隊を置けば残りの全軍を反乱鎮圧に向けることができる。
反乱を起こしたアルヴィス家の者たちは、オスマンドがわざわざ引き返してはこないだろうと踏んでいるのかもしれない。オルシアでの戦いと比すればソランディアの反乱など些事。オスマンドがそう考えて捨て置いてくれることを期待しているのかもしれない。だがノーザンの考えるところ、それはあり得なかった。オスマンドにとってソランディアは拠点にして重要な後背地だ。ウリアを筆頭とするオルシア本国南部の兵糧貯蔵庫は全てセルス軍が押さえている現状を考えれば、ソランディアを失うことはまさに死と同義だ。補給なくして軍隊は成り立たない。優れた司令官なら、いや普通の司令官でも補給を軽視することはない。大軍であれば尚更である。
また士気の面でもソランディアの反乱を許すことには問題がある。オスマンド軍には多数のソランディア人が加わっており、また正規軍の将兵にもソランディアに家族を残した者は多い。背後に不安があっては兵は満足には戦えない。戦場においてしばしば一角が突破されただけでその軍が敗北するのは、将兵が背後から襲われる恐怖に耐えられなくなるからである。ましてそこに大切な家族や財産があるとすれば、兵は前方の敵に集中できなくなるだろう。勝てる戦にも勝てなくなり、最悪の場合、軍は自壊してしまうだろう。
故にオスマンドはソランディアの反乱を甘くは見ない。必ずや鎮圧のための軍勢を送り込むだろう。「血みどろ坊主」のことだ。自分に逆らった者を許すことはなく、容赦なく叩き潰すだろう。
(まだ命は賭けられぬな)
ノーザンは老人だ。今さら死は恐れぬ。だが犬死は避けたかった。失敗するとわかっている反乱に加わるなど愚の骨頂。それでは己の知恵も知識も活かすことはできない。
(目の黒いうちに、仕えるべき主君に巡り会いたいものだ)
ノーザンは静かに茶をすすった。
「アルヴィス家の反乱だと…?」
マーラントは眉をひそめた。精悍なその顔には疑念と当惑、そして焦りの表情が浮かんでいた。
「はっ。故マルヴィオン将軍の孫を名乗る人物が旗頭とのこと」
「何、我が祖父の孫だと?」
「故マルヴィオン将軍の第三子、マロイス様の遺児だとか」
「ふむ。俺の他にアルヴィスの男が残っていたか」
マーラントは拳を強く握りしめた。
たとえ最後の1人となろうとも、オルシアを滅ぼすのはソランディアだ。そう言ったのはマーラントの祖父マルヴィオンだ。その言葉を支えに、これまでマーラントは準備を進めてきた。彼に従う武人たちもまた、マルヴィオンの予言とも言うべき言葉を信じて耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んできた。それが今、別のアルヴィスがオルシアに弓を引いたという。このまま反乱が成功すれば、最大の功労者、すなわち反乱軍の指導者はその者となってしまう。
抜け駆けをされた。マーラントらの気持ちを一言で表せばこうである。これは少なからず言いがかりではあった。マーラントとそのアルヴィスとは共闘関係にあったわけではなく、連絡を取り合っていたわけでもない。それどころか、少なくともマーラント側はもう一方の存在すら知らなかったのだ。反乱軍の行ったことは決して抜け駆けではない。しかし、マーラントの気持ちは収まらない。
「我らも後に続くべきだろうか」
後に続く、という部分が怒りと屈辱に震えるのを、その場の全員が感じ取った。
「まだ奴らはセルスもサイアンも討ち果たした訳ではない…」
マーラントが続けた。それは誰かに向かってというよりも、独白にこそ近かった。目も家臣たちではなく、どこか遠くを見ているかのようだ。
「…そうだ。まだ遅くはない…」
家臣の一人が熱に浮かされたように言葉を漏らした。その一言で、一同の感情の堰が切れた。
「まだ反乱が起きただけだ!」
「我らがサイアンやセルスの首を取れば良いのだ!」
「遅くはない!決して遅くはないぞ!」
「若!どちらが真のアルヴィスか、目にもの見せてくれましょうぞ!」
「マーラント様こそが故マルヴィオン将軍の正統なる後継者!」
「傍流に負けてはなりませぬ!」
「狂帝の愚息どもを討ち果たすのだ!」
「オルシアを倒すのは我らだ!我が君マーラント・アルヴィスだ!」
「オルシアを滅ぼすソランディアとは我々だ!」
「血みどろ坊主は去った!このまま全てのオルシア人を叩き出すぞ!」
「他のアルヴィスなど何するものぞ!」
家臣たちの言葉は最初から熱を帯びていた。しかし今やそれは、触れれば燃えそうな炎となっている。時に、傍流とはいえ主筋たるアルヴィス家を冒涜するともとれる言葉が出るほどに。
「待て!早まるな!」
場の空気にそぐわぬ一言が、突如として発せられた。それはあたかも、燃え盛る炎に浴びせられた一杯の水のようであった。
「早まるな、だと?」
「誰だそんなことを言う者は!」
激情に駆られた男たちは、異端者はどこかと辺りを見回した。
「俺だ。ロイナンだ」
皆の目が、一斉に声の主に向けられた。
すらりとした長身に、端整な顔立ち。涼しげな目元と通った鼻筋はいかにも貴公子然としていたが、口には意志の固さが滲み出ており、それが軟弱な印象をぬぐい去っていた。
男の名はロイナン。ロイナン・キルフ。アルヴィス家譜代の臣キルフ家の当主にして、現在マーラントを守り立てる男たちの一人である。
「ロイナン、貴様、臆病風に吹かれたか!」
猛々しい顔に無精髭を生やした、典型的なソランディア人といった顔つきの男が吠えるように言った。
「臆病風なものか!貴公らは己を勇者と思っているのか!貴公らのそれは男児の勇ではない!匹夫の勇だ!」
容姿に似合わぬ激しい口調でロイナンが返した。
「ロイナン…!お主、我らを匹夫と呼ぶか!」
激昂した一人が叫ぶ。
「そうだ!匹夫だ!さらに言えば不忠の徒だ!」
「不忠だと?言うに事欠いて我らを不忠だと?」
「ロイナン!貴様こそ不忠ではないのか!」
共に語気が荒くなっていく。ロイナンの目から涼しげな色が消え、代わりに炎が宿った。
「未だオルシアの勢威は衰えておらぬ。たしかにセリオンの遺児どもは二手に分かれて相争っている。多くの兵も死んだという。だがまだ疲弊したわけではない。双方ともに10万を超える軍勢を保っている。ソランディアの地からオルシアの軍勢が去っただと?たしかにオスマンドは出ていった。だがそれはソランディアの力によるのではない。オルシアの内乱のためだ!奴は軍勢を持ったままオルシアに向かった。それはつまり、オスマンドはいつでもその軍をソランディアに戻せるということだ。今、兵を挙げたところで少しも意味はない。徒に主を、若君を危険にさらす。これを不忠と言わずしてなんと呼ぶか!その場の衝動に駆られた、独りよがりの匹夫ではないか!」
ロイナンは火を吹くように、一息に捲し立てた。
「貴様…!ソランディアが敗れるとなぜ決めつけるか!」
「そうだ!オスマンドはオルシアに去った。たしかにそれは内乱のためだ。しかしだからこそ、奴は戻ってはこられないのではないか!」
「セルスの軍を前にして引き上げるような血みどろ坊主か!」
男たちはロイナンを睨みつける。
「オスマンドが帰ってはこないだと?いや奴は帰ってくる!奴自身ではないにせよ、必ずや軍勢を送り込んでくる」
「根拠はあるのか!」
「憶測でものを申すな!」
「憶測ではない!根拠はある!十分にだ」
「申してみよ」
場がしんと静まり返った。マーラントの声だった。男たちは主の前であったことを思い出し、はっとした。
「わ、若君…」
「見苦しいところをお見せいたしました!」
「申し訳ございませぬ!」
男たちは狼狽し、口々に謝罪の言葉を述べた。ロイナンとて例外ではなかった。
「よい。それよりもロイナン、申してみよ」
マーラントは短く言った。ロイナンは片膝をつき、語り出した。
「はっ。ソランディアはオスマンドにとって拠点であるとともに重要な後背地でございます。その大軍を支える生命線とも言える地です。なればこそ、オスマンドは今ソランディアを失うわけには参りませぬ。また緒戦の敗北は士気に影響いたします。特に根拠地で反乱ともなれば尚のこと。反乱が拡大するのは鎮圧する側が兵力を惜しみ小出しにした結果、反乱軍が勢いに乗る場合です。逆に言えば、初期消火に成功すれば反乱の火は先細りとなるのです。これを理解せぬオスマンドではありますまい。今、勢いに任せて挙兵したところで潰されるのは目に見えております。未だ時期尚早、準備を固めてから戦を挑むべきでしょう」
熱のこもったロイナンの言葉を、マーラントは静かに聞いた。
「ロイナン。卿の言い分、尤もだ。俺としたことが、先を越されて頭に血が上っていたようだ。よく諫めてくれた。礼を言う」
「はっ。勿体なきお言葉にございます」
ロイナンは深々と頭を下げた。
「しかし若君、これは私の思いついたことにはございません」
「と言うのは?」
マーラントは首を傾げた。
「街のはずれに、賢者が住んでおりまする。某はその賢者に師事しており、此度のことについても相談をしたのでございます」
「ほう、賢者か」
マーラントは興味深げな表情を浮かべた。
「その賢者、呼び寄せることはできぬか?」
「それが、どうにも頑固者でして。仕えるべき主君にしか仕えぬ、と言い張るのです。呼び寄せたところで来ますまい。いや、若君を仕えるべき主君ではないと申してるのではございませぬ。恐らくは若君御自ら出向かねば、出てはこないでしょう」
「なんと傲慢な…」
言ったのはマーラントではなく、家臣の一人である。だがマーラントはそれを無視し、腕を組んで考え込んだ。
「ふむ。俺としても優れた人物はいくらでもほしい。それに、いずれにせよ自分の目で見ねばわかるまい。よし、ロイナン。まずは話をつけてはくれぬか?」
「ご訪問の、にございますか?」
「そうだ」
「ははっ。すぐに行って参ります!」
言うが早いが、ロイナンは既に隠れ家を飛び出していた。
「しかし普段は冷静なロイナンが、な。その賢者とやらに早く会いたいものだ」
マーラントは誰にともなく呟いたのだった。