血みどろ坊主
「我が軍が…壊滅…?」
サーリアは衝撃に目を見開いた。
バルド城での敗北にも驚いたが、奇襲の要素があったということで納得していた。だが、軍と軍が正面からぶつかり合う会戦で敗れ、兵のほとんどを失い、さらに大元帥ハウロスまでが負傷したとあっては、損害の深刻さは比較にもならなかった。
「我が方にはあとどれほどの兵が残っているのだ?」
「はっ。近衛軍団が1万、その他の正規兵が3000余り。西域の兵や傭兵が5000。また、北方から1万の山岳民を呼び寄せております」
2万8000。決して少ない兵力ではない。だが14万を数えるセルス軍と比べれば明らかな寡兵だ。質の点でも帝国軍最精鋭の近衛軍団をはじめとする正規兵については問題ないが、その他の兵は能力や経験、また信頼といったことに疑問が残る。
「また、バリザード・テルニア将軍が敗兵や周囲の守備隊を合わせ、2000の兵力で街道沿いの砦に籠城しておりまする」
「2000か…」
2000とは言え、補給線を叩くなど後方を撹乱することは可能だ。セルスと言えど無視することはできず、多少の足止め程度にはなるだろう。だが軍事に疎いサーリアには全くの無意味であるように感じられた。
「ソランディアの兵はまだか…」
サーリアは項垂れた。
3日後、新たな報告がもたらされた。
「申し上げます!ウリアが陥落いたしました!」
「何、ウリアが?」
ウリアはウルヴァーンの南方に位置する都市である。物資集積所として大量の兵糧や武具が蓄えられていた。ここが奪われてしまったことは大きな痛手だった。だが、イフリタからウリアは決して近くはない。歩兵の足なら1週間はかかる距離だ。それを早くもセルスは制圧したという。
しかし、凶報はこれで終わりではなかった。
「北方よりの援軍、壊滅!」
「バリザード将軍、敗走しました!」
(まさに神速…。信じがたいな)
南方のウリアが落とされたかと思えば、北方の軍勢が攻撃を受ける。まさに神出鬼没だった。セルスが機動力を用いた戦法を得意とすることを、改めて痛感させられたのだった。
「テウクロスたちはうまくやったようだな」
「はっ。それにしても、騎兵がかくも素晴らしい兵科であったとは」
セルスはにやりと笑い、傍らのギリウスら若き勇将たちは感嘆の目で主君を見た。
バリザードが途中の砦に籠城したのを見たセルスはヨスア家のミレウスに6000兵を預けてこれを包囲させ、本隊は進軍を続けた。さらに万が一バリザード軍が包囲を破った時に備え、新たな補給線の構築を図った。自身の幕僚テウクロスに3000の騎兵を預けると、南方の都市ウリアに向かわせたのだ。ウリア付近に辿り着いたテウクロスは騎兵の機動力を活かして一気に突入した。門を閉める間もなく雪崩れ込まれたウリアは大混乱に陥った。守備兵の多くはセルス軍との戦いに投入されており、これほどの重要拠点でありながら僅かな兵しかいなかったことも、ウリアの不運だった。
ウリアはテウクロス隊により制圧され、大量の物資がセルス軍の手に落ちた。
2日後、ウリアを確保するためにセルスが送り出した援軍が到着した。2000両の戦車に乗った将兵である。これらの戦車はそれぞれ3人の兵を乗せており、合計で6000の兵がオーリンの指揮の下、ウリアに入城した。この6000兵は最低限の武装すらしていなかった。ウリアに入りさえすれば武具は豊富にあるため、セルスは機動力を優先させたのだ。途中でサイアン派による襲撃を受ける危険性については、考慮しなかった。サイアン派は動員できる兵は全てハウロスに預けたという情報が入っており、オーリン隊に手出しする余裕などないと考えられたからだ。
持てる戦力の全てを結集し、敵に叩きつける。戦略としては間違ってはいない。だが一大決戦に敗れた今、余剰兵力がないことはサイアン派にとって致命的だった。機動力を活かした戦い方を得意とするセルスがその能力を存分に発揮できる環境を作ってしまったのだ。
セルスはさらに、騎馬民族のソルカンとジルゴアダイ率いる7000騎を北方に派遣し、サイアンに雇われた山岳民を攻撃させた。山岳民は1万を数えたが皆歩兵であり、セルス軍騎兵部隊はあっという間に彼らを包囲した。
騎馬民族の生活習慣である乗馬や狩猟はそのまま戦闘訓練に直結するため、彼らは生まれながらの戦士だった。機動力と高度な訓練。この2つが組合わさった遊牧民から成る騎兵部隊は、精強な戦力だった。狩猟で鍛えられた見事な連携を遺憾なく発揮した彼らは、数で勝る山岳民部隊を翻弄し、壊滅に追い込んだ。
この時に降伏兵は1人もいなかったことは特筆に値するだろう。しかし、これは山岳民がサイアンに心から忠誠を誓っていたことを示すものではない。産業の少ない山岳民にとって、オルシアの傭兵というのは重要な働き口である。ここで簡単に陣営を変えては、山岳民傭兵の信用に関わる。そのため、彼らは降伏という選択肢を捨て、玉砕したのである。
いずれにせよ、サイアン派の重要な戦力を撃破したセルスは次に、バリザード軍の殲滅を図った。配下のギリア総督軍から1万の兵を選抜し、軽装鎧と投槍で武装させ、フォロール家のユージーンに指揮を委ねた。ユージーン隊がバリザードらの籠る砦に近づくと、包囲していたミレウス隊は迎撃するふりをした。その装備からユージーン隊を山岳民の援軍と勘違いしたバリザード隊は、ミレウス隊を挟撃するために出撃した。ミレウス隊及びユージーン隊はただちにこれを包囲し、徹底的に叩いた。バリザードは辛うじて逃げ延びたが、兵の多くが討たれ、生き残った者も四散した。
重要拠点ウリアを占領し、サイアン派の軍勢2つを滅ぼしたセルスはいよいよ帝都ウルヴァーンに攻め入らんとしていた。だがそこに、新たな報告がもたらされた。
ソランディア総督軍、南よりオルシアの地に入る。その数、10万以上。指揮官はセリオン帝以来の宿将、「血みどろ坊主」オスマンド・ワルド。
「10万…?何かの間違いではないのか?」
「総督に与えられた兵力は均等なはずだ」
「それを言うならば、セルス陛下とて6万の常備軍を有しているではないか」
「いや、だが10万だぞ」
「桁外れだ。ソランディアがそれほど豊かな地とは聞いておらんぞ」
セルス軍に属する将軍たちは皆有能な男たちだったが、予想を超える報告に軍議の席は乱れた。
「オスマンドが…」
常は重厚な宿将オスワンもまた、動揺を隠しきれない様子だった。もっとも彼の動揺には、他の者たちとは別の原因があった。
ソランディア総督軍を率いる「血みどろ坊主」オスマンドは、オスワンと同じワルド家の人間であった。それも遠縁では決してない。従兄であり、さらに義理の兄でもあった。
何十年も前、当時のワルド家当主オスロエンは子がないことを常々悩んでいた。50を過ぎても子ができなかったオスロエンは、弟の息子オスマンドを養子に迎え入れ、跡取りと定めた。だが数年後、オスロエンに待望の息子が生まれた。彼はオスワンと名付けられた。オスロエンも人の子、やはり実子がかわいく、なんとしてもオスワンに跡を継がせたかった。そこでオスマンドを神殿に預け、聖職者の道を歩ませることにした。全ては解決したはずであった。
だがオスマンドの気性は、オスロエンが考えていたよりずっと荒かった。聖職者などに甘んじられるはずもなく、遂にある日、神殿を飛び出した。オスマンドは傭兵として各地を転戦し、次第に優秀な傭兵隊長として名を馳せていった。やがて当時王弟であったセリオンに仕官し、後にセリオンが兄王に対して反乱を起こすとそれに加わり、大功を立てた。その凄まじい戦いぶりと神官としての前歴から「血みどろ坊主」の異名をとり、セリオン麾下でも有数の猛将として勇名を轟かせた。
そのような生い立ち故、オスマンドはオスワンを強く憎んでいた。オスワンが生まれたばかりに、自分のものになるはずだったワルド家当主の座を手に入れ損ねた。人生を狂わされた。オスマンドの心は憎悪で満たされていた。当然、オスワンは自分を憎むオスマンドと反りが合おうはずもない。彼らは非常に近い血縁関係にありながら、むしろそれ故に、破局的に仲が悪かった。さしものセリオン帝もそれは理解しており、彼らを同じ戦線に投入することは決してなかった。
その2人が今、敵として両軍に分かれている。この内乱はオルシア皇帝の座を巡る争いであるとともに、長年に渡るワルド家宿命の対決ということもできるかもしれなかった。
セルスが横目で見ると、オスワンの手は微かに震えていた。それが激情故か、おののき故かは、定かではなかった。