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オルシア帝国の動乱  作者: 北の旅人
1/16

暴君の死

ーセリオン帝、崩御すー


一言で世を騒がせるならば、これほど波紋を呼ぶ言葉は他になかったであろう。宮廷はもちろんのこと、市井でも皇帝の死の話題で持ちきりだった。当局は箝口令を敷いたが、人の口に戸を立てることなどできようはずもなかった。


風雲児。名将。戦の天才。中原を統一した英雄。偉大な皇帝。血にまみれた暴君。ありとあらゆる称号を欲しいままにした専制君主もまた、人の子の宿命には抗い得なかった。そして絶対的な権力者の死は、野心家たちを刺激せずにはいられなかった。




夜。漆黒の闇はすべてを覆い尽くし、人々の営みを守り、また隠した。それが良きものにしても、悪しきものにしても。


(長かった…)


サーリアは過ぎ去った日々に想いを馳せた。


サーリアが14歳の少女であった頃、祖国カラニアは強国オルシアの侵攻を受け、滅ぼされた。宮殿には火がかけられ、王族は情け容赦なく殺された。ただ1人、サーリアを除いては。


サーリアは生かされた。他の王族が皆殺しの憂き目にあったにも関わらず、彼女だけは生かされた。ただし、慈悲には大きな代償が求められた。もっともそれを慈悲と呼ぶことができればの話ではあったが。


汚れなき乙女であったサーリアは、血にまみれた悪魔によって蹂躙された。少女の必死の抵抗を踏みにじり、泣き叫ぶ声に嗜虐の心を満たし、その男はサーリアを征服した。すべてが終わり、すすり泣く少女を男は嘲笑い、侮蔑も露に言い放った。今日からおまえは奴隷だ、と。


地獄は一度では終わらなかった。手が空いた時、気が向いた時、男はサーリアを辱しめ、弄んだ。激しく抵抗すると、男は容赦なくサーリアを打ち据えた。涙なしに明ける夜はなかった。幾度、死を望んだことだろう。しかし、神ーあるいは悪魔ーは哀れな少女を見捨てることはなかった。


2年後のある日、男の妻が死んだ。長年連れ添った妻の死に、さしもの悪魔も取り乱し、我を忘れて嘆き悲しんだ。心の穴を埋めるため、男はサーリアの下を訪れた。奴隷を痛めつけ、屈服させることで心の平安を保とうとしたのである。


部屋に入ってきた男の目を見て、少女は自らの身に迫る危険を悟った。それはこれまでとは比べ物にならぬ恐怖を伴っていた。死を忌む本能が、理性の制止を待たずに彼女を突き動かした。サーリアは自分でも知らなかったほどの扇情的な眼差しと仕草で男に迫った。傷つき、疲れ果てた男は若い少女のこれまでにない様子にたじろぎ、おののいた。だが、次の瞬間には少女を抱き上げ、寝台に投げ下ろしていた。その一夜を境に、男と少女の関係は変わった…。


追憶は扉を叩く小さな音に遮られた。


「入れ」


サーリアが低く言うと、扉が開き、小柄な人影が忍び込んできた。影はサーリアの前にひざまずいた。


「皇后陛下」


そう、サーリアは皇后だった。一度は奴隷も同然の身に落ちぶれたが、今や皇后にまで登り詰めていた。そして皇帝亡き今、広大な帝国で「陛下」と呼ばれるのは彼女1人だった。


「ガインよ」


サーリアはひざまずく人影に呼びかけた。


「例のものは」


「はっ。こちらにございます」


ガインは皇后に4枚の紙を差し出した。サーリアはそれを受け取り、注意深く読み始めた。二度ほど目を通し、ガインを見つめると大きく頷いた。


「流石は書記官長ガイン、この上なくよくできておる」


「恐れ入ります。つきましては…」


「ああ、わかっている。殿下、いや陛下にはそちの忠義のほど、しかと伝えようぞ」


「ありがたき幸せにございます」


ガインは鼠のような顔に笑みを浮かべた。


忠義。ガインの忠義は先帝に向けられたものでは決してなかった。彼が行ったことは、遺言書の改竄だった。書記官長としてセリオン帝の側近く仕え、文書の作成を行っていたガインはその権限を濫用し、偽の文書を作り上げた。すべては自身の栄達のために…。


そして皇后は不正を許容した。否、それどころかこれは、サーリアがガインに命じたことであった。然るべき報酬を餌に、ガインを買収したのだ。そう、彼女もまた自身の権力のために…。


夜は深さを増していく。この夜行われたことが、世にどれほどの影響を及ぼすか、この時点で正しく知り得た者はいなかったであろう。ただ、運命の女神の糸車に一筋の暗い糸がかけられたことだけは確かだった。




ソランディア。かつては歴とした独立国であり、中原の覇権を握るほどに栄えたこともある強国。しかし今は広大なオルシア帝国の一地方に過ぎなかった。この南の辺境の地にもまた、中央の異変は伝わってきた。


「マーラント!おい、マーラント!」


道の中央を堂々と歩く若者は、自身の名を呼ぶ声に振り向いた。


「大変だ、マーラント」


「皇帝が死んだことがか?」


マーラントの返事に声をかけた若者は身震いし、辺りを見回した。


「しっ。言葉に気を付けろ。役人やら密告者やらに聞かれてみろ。あっという間にこれだぞ」


若者は自分の首をはねる真似をした。


「ふん」


マーラントはだが、臆した様子もなく鼻を鳴らしただけだった。


アルヴィス家のマーラント。大柄な身体は筋骨隆々とし、浅黒い肌と黒い髪は身体に流れる南方の血を窺わせた。黒い瞳は鋭く、果断な性格を示すとともに聡明さを湛えていた。見るからにただ者ではないこの若者は、血統の点でも周囲とは異なっていた。


アルヴィス家はソランディア王家に代々仕える譜代家臣の家柄であった。幾人もの名将や優れた大臣を輩出し、ソランディアの繁栄を支えてきた。主家の滅びの際には最後まで勇敢に戦い抜き、男は全滅、女子どもは多くが自害して果てた。生き残った者はごくわずかだった。


マーラントは、一族滅亡時の当主の孫である。当主の嫡男マルスは自らの子を孕んだ若い妻を殺すに忍びず、信頼する召し使いに託して密かに落ち延びさせたのだった。しばらくして、マーラントが生まれた。母と忠実な召し使いに育てられたマーラントは、18の青年に成長していた。外見からして力に満ち溢れたマーラントは、ごく自然に同じ年頃の少年たちの首領の座についていた。マーラントの屈強な体格、見事な剣の腕、荒々しいまでに強靭な精神は少年たちの羨望の的、崇拝の対象だった。


(それにしても、ついに死んだか。あの悪魔も、一応は人間だったという訳か)


「…マーラント?」


笑みがこぼれるのを、マーラントは抑えることができなかった。遂に俺の時代が来る。マーラントの想いを言葉にすれば、こうであっただろう。専制君主の死。統一から未だ13年に過ぎない帝国は、万全の体制にあるとは言い難かった。セリオン帝により創建されたオルシア帝国は、帝あっての国家だった。古来どのような国であれ、君主の死は動揺を招く。まして、絶大な権力を握っていた皇帝の死ともなれば尚更だ。


(乱世が来る。腕一本でのし上がれる時代が来る。俺の時代が来る)


平静でいることなど、今のマーラントにはできなかった。彼の大きな拳は力強く握りしめられていた。




(暴君が死んだか)


部下からの報告を聞いたリュホードは5年前のことを思い出していた。


22歳の頃、リュホードはセリオン帝を見た。いや、正確に言えばセリオン帝の乗る豪華な馬車を遠目に見た。その時、リュホードは漠然と思ったものだった。俺もいつか、あんな馬車に乗ってみたい、と。


それから2年後、リュホードは村の男たちと共に宮殿の造営に駆り出された。しかし、目的地に着く前に大雨で足止めされた。オルシアの法律は厳しい。如何なる事情があろうとも、遅延は許されない。例外なく死刑だった。また仮に許されたとしても労働は厳しく、生きて帰れる者は少ないという。ただ死にに行くのも馬鹿らしいと考えたリュホードは仲間たちを語らい、脱走した。故郷に帰る訳にもいかず、彼らは生きるために流賊に身を落とした。リュホードは持ち前の機転と天性の人間的魅力のために自然と集団の長に祭り上げられていた。自分たちと同じ境遇の農民たちを襲う気にはなれず、かと言って政府の役所を襲って義賊を気取るほどの力もないため、リュホードは商人を中心に襲撃を繰り返した。役人や兵士を巧みに避けて行う襲撃は大きな成果を挙げ、リュホードの一党は飢えを知らなかった。噂を聞いた近隣の農民や食いつめ者たちが次第に集まってきて、気づけばリュホードは200人の手下を従える首領になっていた。


(さて、世の中はどう変わるかな)


所詮はお偉方の話だ、とリュホードは思う。しがない盗賊に過ぎない自分には関係のないことだ。ただ、皇帝の死により世の中が多少なりとも乱れてくれれば、役人どもは賊の討伐どころではなくなるだろう。


(食うもん食って、生きていられりゃ十分さ)


だが運命の女神は気まぐれだ。リュホードは、自分が歴史の大河に飲み込まれつつあることに、未だ気がついていなかった。

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