春
一月末。友人達と行くファミレスなんて久々であるから、ついつい勉強を忘れて喋り過ぎてしまう。まとめて支払うという口実で一人レジに向かう胸中は高鳴り、頬が赤くなるのが自分でも分かった。
「ね、めっちゃ店員笑ってなかった?」
一人がそう言って、探るような表情を私に向けた。一方もう一人の友人は、微かに笑みを浮かべている。
「ん?はは、いやーなんか結構仲良くてさ」
私は咄嗟にそう答えるも、これは半分本当で半分嘘であった。店員、思うにそのファミレスの店長と私とは、決して親しい訳ではなく、あくまでも私が一方的に思いを向けているだけであり、勉強をする為にただただ長いことこのファミレスに通っていたという状態に過ぎないのだ。あくまでそのような感情を抱き始めたのは、ここ数週間の話ではあるが。
「ふーん、謎」
電車が来るから、と急ぐ素振りを見せながら店から遠ざかる私の隣で、先程微かに笑みを浮かべていた友人が意味あり気にこちらに視線を送って来た。彼女は唯一、この件について知っているのだ。協力的な彼女と、毎週木曜にそのファミレスを訪れようと決めていた。そして来週には、連絡先を書いたメモをあの店員に渡すのだということも。ずっと勉強ばかりでうんざりしていたのもあってか、胸の高まりはかつての初恋のそれに似ているように感じた。
二月上旬。私は私立の試験に臨んでいた。自身の本命ではないものの、やはり気を散らす訳には行かないのだが、如何にも気になっては、そわそわしていた。数日前、遂に実行に移したのだ。その時のあの店員の顔を見るに、どうとも判断の付かない、或いは好印象だと言えるような手ごたえではあったのだが。こうして数日間も連絡が無いのだ、きっとそれが回答なのかも知れない。だが人間は、やはり僅かな可能性に縋ろうとする生き物であるので、私自身もそのように、彼を思わずにはいられなかったのだった。
メールボックスを開くと、『おつかれ』とその一言だけのメールが一件表示された。送信者はある男友達で、メールボックスの殆どが彼からのもので埋め尽くされていた。というかそもそも、今時メールで用件を話してくる相手が彼くらいしか居なかったのだが。それなりに付き合いの長い、それなりに打ち解けた男友達であった。そして彼のことを好きか嫌いかと問われれば、前者になる。しかし現在最も関心のあることはその男友達の彼ではなく、先日連絡先を渡したっきりのファミレス店員である。他にメールは、ゼロ。ああ、これで六日目だな、などと考えながら携帯電話を閉じた。
翌日、友人に引きずられながらそのファミレスを訪れた。無論、拉致の開かない現状を脱する為だ。こちらの事情を知るその友人は、いつも以上にそわそわと落ち着きのない私に幾度となく気の紛れるような話題を出してくれたのだが、私は如何にも視線が右往左往してしまう自身を感じ、手足の震えは一層増すばかりであった。そうしている間に、私の好意を寄せる、その店員が来た。難しいような顔でこちらを見つめながら。
駅までの道、私と友人は笑いながら足取りは軽やかであった。もう二度とあのファミレスには行くまいと誓いながら。
「大学どこだって?」
「京都のほうだって」
「京大!?」
「違う違う、多分私立かな。よく分かんなかった」
大人として、などと様々、見下すような言葉と嘲笑うような目で私が渡したメモを返してきてくれた彼に、私は質問攻めに遭わせてやったのだ。他人にいきなり出身校を尋ねることが極めて失敬なことであると分かっていたし、その時の一瞬の出来事により、彼に対する一種研究対象のような関心を抱いたから。そして何より、もう二度と会うことのない相手であると分かっていたから。不思議と悔しさは無かった。
「それに私、こんくらいの失敗しといたほうがいいと思うの。もうJKも少しだしね」
「それもそうだね。もう青春できないもんね。できないっていうか、価値が違うっていうか……」
本心から、そう思うのだ。試験を終え、高校生という時代も残り僅かな自分たちにとって、青春とは何なのかを問い直す時間は貴重であった。
「次は大学生かぁ。てことは、JK改めビービーエー?」
「それババアだよ。JD。まあどっちも同じようなもんなんだろうなぁ」
そう言って二人で笑いながら。けれども表情は、やはり其処か愁眉を漂わせて。いくら大学生活が楽しいものであると言えども、長年の習慣が一瞬で無くなってしまうのには一抹の不安や寂しさを禁じ得ない。
駅のホーム、友人と別れ一人になった私は、好きであった人にすっかり冷めてしまい気分が楽になった反面、心にすっぽりと隙間が出来てしまったような虚無感。それと相まって、もう直変わってしまうのであろう、今後の生活に対する不安を抱えていた。そんな複雑さに、焦りは無いが如何にも心は沈んでゆくばかりで。こんな時決まって、何かが頬を伝う。そして、誰かと共に生きたいなどと、生きることへの不安を理なく飲み込むのだ。“生きる”ことが如何いうことなのかなど、如何でもよかったのだが。誰もいない駅の待合室の中、椅子に腰掛けた。携帯電話を開くと、メールが一件。あの男友達からのものだ。
『受験が終わったら、コーヒー飲みに行こう』
それ以外は何も無い。
先程から私の目はずっと潤んでいるのだが、携帯電話を見つめながら一層視界が歪んで行った。
天井よりもっと上の方、空のもっと向こうから、何かが落ちてくるような感覚がした。
卒業式を終え、進路も決定し、残りの時間をどのように過ごせば良いのか分からない。生活リズムだけは崩さぬよう、早起きをして炊事をこなすこと以外何もすることはなかった。
気付けば携帯電話を片手に、何をするでもなく時間を潰していた。皆それぞれに忙しいのであろう、雑談を交わすような相手も少なく、偶に街に出ては喫茶店で一人あの男友達のことを考えていた。つい先日あのような出来事がありながら、今はもう他の男のことで頭が満たされているなんて、己はどれ程までに軽いのだろうかと疑ってしまう。ただあの時、その男友達からの僅かな内容のメールによって、乾いていた心が潤ったような気がしたのだ。確かに、以前より彼は、私の心に出来た隙間を埋めてくれる存在であったのかも知れない。彼にだけは嫌われたくない、そのような漠然とした感情を抱き、逆にあちら側も同じような感情であれば良いなどと考えていた。拠り所、そのような余りに抽象的な存在に縛られてはなるまいと、彼との関係をもはや問い直すことすら無く。気付けば空気のように、確かに存在はするものの、如何にも表現の付かない、描くことの出来ない、或いは表現することを拒否してしまうような何かとなっていた。けれども、少なくとも言えることは、この関係が恋愛感情を孕むものではない、ということだろう。
生きている内は、自身を取り囲むものが常識の範疇を脱していたとしても、それら全てを受け止めるものなのだ。
手を握られ、ずっと握られ、永遠に離さずに揺られる電車の中、「恋愛感情は無い」と言われ、特に気にも留めず、ただただ強くなる握力のみを感じていたのは、それがこの世の“例外”だと分かっていたからだろう。他人を好きになり、告白をし、互いに交際を始めること自体に意味を見出さず、互いを探ることもせず、黙って触れ合うことが必要であると感じたまでであろう。
春が来る。それだけで涙を流せてしまうのに、この感情を如何にも説明できないのだ。それはまるで、内に秘密を守るようであったから。また果たして、それを説明することに意味があるのだろうか。きっとそれは恋よりももっと深く、そして単純なものであるのだから。
四月、休みが多かった私にとって随分ゆるやかに大学生活は開始し、仲の良かった友人たちも、それぞれの道へ踏み出した。そうしてすぐに私は、その男友達と二人で会うことになった。
一日中連れ添い、決して煩わしいなどとは思わなかったが。互いが互いの生活に、ぼんやりと輪郭を残し始めているという感覚。その感覚は、ついこの間、あのファミレスの店員に抱いたものとは明らかに異なっていた。決して寂しいのではない、温もりを求めているのでもない。それなのに、どうして全てを許してしまえるのか。私はそのようなことを、誰にも打ち上げ相談出来ずに居た。あの友人にさえも。
つい先日高校を卒業したばかりであるのに、早くも、自身の中から大切なはずの何かが抜け落ちて行くのを感じる。青春を問い直そうとした矢先、それら全てから目を背けてしまったような損失感。けれども、私の中を満たして行く何かは歯止め無く溢れ続け、いつしか私の目を塞ぐのだ。何も見えなくなり、見えない視界の中で錯覚を起こし、生きて行く道のようなものを見出し、そして気付けば春が終わり夏を迎えるのか。
「元気にしてた?」
私はカフェオレの入ったカップを傾けながら、数週間ぶりに会った友人にそう言った。
「バイトの面接落ちたー」
そう言って苦笑いする彼女は、数週間前と何ら変わりはしない。彼女とは随分長く一緒に居るな、などと考えながら、その表情を懐かしんでいた。
「あそこのファミレス、求人出てた気がする」
「絶対嫌だ」
私の冗談めかした提案に、彼女は真顔で答えた。あそこのファミレス、というのが、以前お世話になった例のファミレスであるということを察したのだろう。そして既にそれは、過去の思い出の一つに収束されていた。
「そっちはどうなの?」
彼女が私にそう訊いた。一瞬は迷ったが、
「何も変わりないよ」
と言った。
一人暮らしの部屋には私しか居ないのだが、一人であることに対して何とも思わなかった。新しくできた友人たちは、一人暮らしの孤独感に押し潰されそうだと嘆くが、私は全くそのようには感じていなかった。或いは私は、一人が好きであったのかも知れない。群れる事無く、猫のように自由な、自身の意思のみに従う生き方が。誰かと共に生きることが煩わしい訳では無いが。
それ以上、何かを考える気は無かった。