湖畔の亡霊
男がいた。男の名はベルという。
彼は湖畔を覗き込んだ。
泳ぐ魚に声かけようか。
「やいおさかな、おさかなさんやい。」
「なんだどうした人間やい。」
「これはこれはおさかなさん。人間語だって完璧だね。」
おさかなは尾ひれをちょいと跳ねてくるりと回った。
「そりゃそうさ。おれはもともと人間だから。」
「へえ驚いた。どうしておさかなになったんだい。」
「悪いことをしたのさ。とびきりとっても悪いことを。」
おさかなは身振り手振りで大げさに怖い顔をして見せた。
「そんなことがあるもんかい。いいかおさかな、人間ってのは悪いことをすると、ポリスに連れられて檻に入れられるのさ。さかなになんかなるもんか。」
「やい人間。おれはポリスに捕まったんじゃない。」
さかなはもう一度ぐるりと回って、こう言う。
「いいか人間。俺はとっても悪いことをしたんだ。だからさかなにされたのさ。」
「バカ言うんじゃないよ。さかなになるなんてあるもんかい。」
「ふん。俺の尾ひれは脚だったんだ。俺の胸びれは腕だった。ゆびもちゃんと生えていたんだぜ。」
そういってさかなはあおむけになって、見窄らしい胸びれを見せた。
「はっはっは、そうかそうか。それなら名前を名乗ってみせろ。もちろん人間だった頃の名前だぞ。」
わざと大声で笑って見せた。
するとさかなはにやりと口をひん曲げて、名乗ってもいいが、知ればお前は絶望だと言った。
「おう言ってみろおさかなよ。いや、哀れな人間よ。」
「ならば名乗ろう人間よ。いや、哀れなおさかなよ。」
こいつは誰がおさかなだっていうんだ。
そういえばやけに大きくなったな。
それになんだか息苦しい。
「おれは湖畔の亡霊だ。そしてお前が罪人だ。今日からお前が湖畔の罪人。」
なにを言うんだバカなさかなめ。
おれが罪人だって?悪いことなんか何にも...
「ここでさかなと喋ったことが。この湖畔でさかなと話したことこそおれの巨大な罪なのさ。」
なんてこと!そんなの聞いちゃいない!
「そうさおさかな。おれだってなにも聞いちゃいなかった。今日からおれはベルというのさ。お前は名もないおさかなさ。」
なんだとそれはおれの名だ!
「そうだおさかな。次はお前が亡霊だ。」
男はなにも言わず湖畔を立ち去った。
さかなは静かに沈んでいった。
男の名はベルという。