トワの大いなる学習帳:「男」
白い部屋の中央にあぐらをかいて俺は二、三度あくびをし、夢の中でも眠気があるものなんだな、と一人で感心していた。いつの間にか目の前に現れこちらを見ている少女の存在に気付き、ゆっくり立ち上がる。少女は暫く俺を観察しているようだったが、今回俺が特に何も目新しいものを持ち合わせていないことを把握し、少し残念そうな顔になった。
「今日は何も無いんだ。この間お前にやるために新品の歯ブラシを枕元に置いて寝た時、妹に見られたみたいでさ、それ以降なんか心配そうな目で見られてんだよな。だから有耶無耶になるまでは、おあずけ」
トワ(少女の名である)は俺がこの世界に持ち込んだものを壁際に一列に立て掛けていた。その隊列の最も手前に位置している歯ブラシだったが、既に毛先はボロボロになり四方へ不規則に折れ曲がっていた。嫌なことでもあったんだろうか。
「あなた、何?」
少女は俺を指さしていった。藪から哲学的命題が唐突に飛び出してきた。
「俺はアキラ。前も言ったろ?」
「私より大きい」
「まぁ男だからな」
「男って何?」
これまた哲学的な質問だな。俺は腕を組み、指でトントンと上腕二頭筋を叩きながら少女の求めていそうな答えを思案した。二頭筋は特に何も答えず普段通り俺の腕の上に収まっていた。
「女以外の人間、かな」
「オンナ」と少女が言った。
「トワのことだよ」
「・・・つまり、男は他者?」
「いやいや違うよ」
違うし、ちょっと待ってくれ、と俺は少女を制した。俄かには信じがたいが、この子はもしかしたら俺以外の人間に会ったことが無いのかもしれない。少なくとも他の女性と接触したことが無いような印象を受ける返答だった。
「トワは俺以外の人間と会ったことある?」
少女は短く首肯した。どれぐらい?と訊くと右手をピースさせた。
「二人か。どんな人?よく会う?」
俺の言葉に少女は微妙に眉を顰め(少女は基本的に無表情だったが、よくよく観察すると僅かだが感情を表していることが諸々の機微から見てとれた)、俺を指さした。
「男、何?」
どうやら質問するのは自分側なのに俺に質問を浴びせられて腹が立ったらしい。子供かよ。いやまぁ、子供なんだけど。
「んーそうだなー、つまり男というのはだな・・・」
白状すると俺はこの質問に対し真面目にとり合う気は更々なかった。学術的、例えば生物学的観点から真っ当な話をし始めたところで文節ごとに質問攻めにされることは目に見えていたからだ。何しろ歯ブラシも知らない少女である。自転車も知らないしフォークも知らないしストラトキャスターも知らない。暖簾に腕押し、トワにマジレスなのだ。
「例え話をしよう。その方が正しく説明出来るから」と俺は完全に煙に巻きにかかった。とりあえず人間には男と女がいる、これは良いな?と尋ねると少女は納得したように何度か頷いた。
「お前よく“武器か?”と訊いてくるだろ。だからそういった例え方をするとだな、男は武器で、女は防具だな」
「何故?」
「男は攻撃的で、直線的で、野生的というイメージがあるからだ。対して女は柔和で曲線的、社会的」
「イメージ」
「そう、イメージだ。他にも男は論理的で客観的だが、女は感情的で宗教的なイメージがある。イメージというか、記号を持ってる」
「キゴウ・・・?」
「聖性とかそういう話だな」
「セイセ・・・・・・」
「また男は理想を求めるのに対し、女は現実を求める」
「ま、待つ、今の変、さっきのと逆・・・」
「男は答えの出てることをよく後悔するが、女は答えの出ないことでよく悩む」
「アキラ!」
「男は大きいが心はそこまで大きくないぞ。女は・・・」
「アキラ!アキラ!アキラ!」
トワがポカポカと殴ってきた。ゴメンゴメン、と俺は笑った。徐々に感情的になる少女の表情の変化が面白くてつい必要以上にふざけてしまった。こんなにムキになったトワを見たのは初めてだった。やっぱり女性は感情的で無くちゃな、と俺は大仰に頷いた。
「アキラのオトコ!オトコ!」
いや、“男”は悪口じゃないぞ。
今日学んだこと
男・・・大きい。厄介。要警戒。