最終回 地をはう妖魔
よみがえるたましい
リーナがいる。白いドレスを身に着け、バラをしきつめた床にひざまづいている。髪には赤でなく白いバラがかざりつけられ、目を閉じた青白い顔のなかでくちびるの赤さだけが目立つ。赤い部屋に置きわすれられた白い人形。そんなすがただ。リーナのまわりにはたくさんの小さな光をはなつものがある。それは目だった。
たくさんの光る目。ねこたちだ。何十ぴきというねこたちがリーナをまもるようにそのまわりを取りかこみ、うずくまっている。シュウジがリーナの命令で集めてきたねこたち。
「なんなんだ、これは」
松本刑事がつぶやいた。
リーナが目を開いた。なにも見えていないようなうつろなまなざしだった。バラのかおりが鼻にツンとするほど強くて頭がくらくらしてくる。わるい夢を見ている気分。
ぼくらはかべに背をおしつけ、カーテンのかげにひそんであたりのようすをうかがった。
「あの男はどこにいるんだろう」
松本刑事が低い声をもらすと、こうすけが部屋の奥を指さした。
暗闇の一部を切り取ったように黒いかげがもやもや動き出した。まるで影絵を見ているよう。それはリーナに近づき大公のすがたになった。大公の動きはなんだかにぶい。倉沢さんの十字架の一撃がきいているのかもしれない。
大公は両手でなにかまるくて白っぽいものをリーナのほうへさしだした。
「愛しきものの御魂よ、よみがえれ。いま、ここへ来たれ」
うそ……。それは人の頭の骨だった。されこうべ。あごから下はなく、ぽっかりと目のあとだけがうつろな穴になっている。
リーナは表情も変えず、されこうべを受け取った。大公は白バラでかざりたてられたリーナの頭にそっと手を乗せた。
「この身にやどれ。リーナ」
リーナはあごのない頭蓋骨をしっかり胸の前でかかえた。
これが儀式なのか? リーナがなにかちがうものへ変わっていくのか。
こうすけがつぶやく。
「このままだと、ヴァンパイアたちはもっと大きな力を手に入れちゃうかも」
松本刑事がスーッと息をはくのがわかった。なにかを決意したようなしぐさだった。
「みんな、はなれろ。なにかあったらあいている部屋にかくれていろ」
松本さんは十字架をこわきへかくすようにかかえ、進み出た。大公がゆっくりふり返る。最初からぼくらがひそんでいるのを知っていたように落ち着いた動きだった。
「来たか、衛士めが」
松本さんはフッと笑った。
「えじ? まあ、われわれの職業はそう呼べないこともないが」
松本さんはまた一歩大公のほうへふみ出した。
「おまえがその十字架をわれのもとへ持ち来りてくれたのか。礼を言う」
スポーツマン体型の松本さんも大公の前に出るとなんだか小さな人に見えてしまう。
リーナのまわりにいるねこたちがいっせいにすさまじい鳴き声をあげた。聞いているうちに、やすりで神経をぎりぎりこすられたような気分になって、耳をふさぎたくなってくる。
大公の顔が松本さんの肩ごしにぼくらを見た。その口もとは、倉沢さんにはきかけた血ののこりでよごれている。いまの大公はきたならしくてこわいただの怪物だ。
「ぼうずども。ここまで来た勇気だけはたたえてやろう。われのしもべにくわえてやってもよいぞ。おい、ねずみ!」
ぼくらのうしろにいるシュウジがビクッとふるえるのがわかった。
「ねずみ、おまえがそのぼうずどもに血をわけあたえ、なかまに引きこめ。よいな」
ぼくはシュウジをふり返った。さっきの約束をぼくは信じている。シュウジはきっと人間にもどれるって。でも、シュウジの目はおびえていた。その口から言葉がもれた。
「いやです」
「なんだと?」
「太一たちにかみつくなんてできません。だって……友だちだから」
大公は口をゆがめて笑った。
「なまいきな。まだ人間に執着しておったのか」
大公がふたたび松本さんのほうへ目をやった。
「衛士どの。どうなさる? われをたおすつもりか」
相手をからかうような口調だった。
松本さんは力強い声で言い返した。
「おれは警察官だ。おまえを逮捕する」
大公の高笑いがひびきわたる。
「われをタイホだと? まだ人間どものやりかたが通用すると思っておるのか」
大公は右胸の下に手をふれた。
「老いぼれ司祭は人間どもが救世主とあがめる男と同じ傷をわれにあたえた。奇しくも司祭がわれを救世主であるとのあかしを立ててくれたも同然だ」
どういう意味なんだ?
思わずこうすけの顔を見たら、ささやくような声でおしえてくれた。
「キリストは処刑のとき、ヤリで右胸の下を刺されたんだ。その傷が救世主のシンボルになってるんだ」
大公はいまにも血をはきだしそうなほどのいきおいで言った。
「われは闇から出でし救世主なり。ひとたびわが血を受ければ、望み絶たれし者の目に光やどり、病める者は立ち上がり、死せる者はよみがえる。奇跡こそわがわざなり」
こんどは松本さんが笑うばんだった。その笑い声はなんだかわざとらしく聞こえた。そしてこう言い返した。
「望み絶たれた者ははげましてやる。病気の者は見舞ってやる。死んだ者はとむらってやる。それくらいのことしか、おれたちにはできねえよ。たかが人間だからな。だがな、されど人間なんだ。悲しんだり、くるしんだりするのがそんなにわるいことなのかよっ。おそれも悲しみも知らねえなんてのは心をなくした怪物だけだ。おまえなんぞいくら奇跡を起こそうがしょせんはばけものなんだよっ」
まるで大公をわざと怒らせようとしているかのようだった。
大公の目がひときわかがやき、長い腕を松本さんめがけてのばした。
「あぶない!」
こうすけがさけび、ぼくは目を見開いた。こわいけど目をそらすことができない。十字架をにぎる松本さんの左手が高くあがった。大公の指がその手首をとらえようとするのがわかった。
ああ、だめだ、いくら松本さんでも大公の力にかなうはずがない……。
このとき松本さんの右手がすばやく動き、ベストの下からなにかを引きぬいた。その手にはもう一本の十字架がにぎりしめられていた。
えっ、十字架が二本……なんでだ?
松本刑事は右手の十字架ーその切っ先で体当たりに近い一撃を大公の胸のどまんなかめがけてくらわせた。つぎの瞬間に爆発がおきた。そう、それはほんとうに爆発のような衝撃だった。十字架のパワーと大公の力とがいっきにぶつかりあった、そんな感じだった。
あたりの空気がふるえ、ぼくのからだにまで、そのいきおいが伝わってくる。ぼくは思わずよろけて、
あとずさってしまった。こうすけも足もとをタタタッとよろめかせている。
松本刑事のからだははじかれたようにうしろへふっとび、しりもちをついていた。大公の左胸、ちょうど心臓のあたりに三分の二ほどまで突き刺さった十字架が見える。十字架はまぶしいほどまっしろな光をはなっていた。
大公はまっすぐ突っ立ったまま、なにが起きたのかわからない、といった表情でぼうぜんとしている。その顔がやがて紙きれをくしゃっとにぎりつぶしたようにゆがんで、しわがきざまれていった。長い銀色の髪が細いへびのようにのたうち、はらはらと頭からぬけ落ちていく。腰がまがり、大公の肩からガクッと力のぬけるのがわかった。のろのろからだの向きをかえると、リーナのほうへ向かい、重そうな足どりで歩きだした。
リーナは心をもたない人形のまなざしで大公を見ていた。
大公はしわがれたうめき声をあげた。
「もう時がなくなった。早うよみがえれ。いまひとたび、おまえのすがたを見たい。声が聞きたい。早うこの娘の身に乗りうつれ」
リーナの腕の中でどくろがふるえた。
聞こえる。悲しいすすり泣きの声が。
リーナのかかえるされこうべが泣いている。ぼくはもう息もできないような思いでその光景を見ていた。松本さんでさえ、立ち上がったきり、あっけにとられたようにいま起きていることを見つめるばかりだ。
赤い闇の中を細く悲しいフルートのようなひびきが伝う。大公がリーナの前にひざまづいた。くずれるようなひざまづきかただった。リーナをかこむねこたちがおびえたようにはなれ、つぎつぎと暗がりへ消えていった。
大公の口から声がもれた。
「われは十字架に負けたのではない。時だ。時間がこの身を打ちやぶった」
大公はいま、よぼよぼのおじいさんのすがたになっていた。肉が落ちてほとんど骨のような手をリーナのほうへさしのべた。されこうべはまだすすり泣いていた。リ―ナの右手が前にさしだされた。大公はその手にほおずりするつもりなのか、顔を近づけたけど、首は頭の重さにたえられなくなったかのようにガクッとたれた。
リーナはひややかな目で大公を見おろしている。
このあとなにが起こるのかぼくには想像さえつかない。
大公はひと声大きくくるしそうなさけびをあげると十字架を引きぬいた。背中がエビのようにまがり、
からだがけいれんしはじめた。
そのとき、あの声が聞こえてきた。オオカミのうなる声。
松本さんが身がまえ、ふり返った。
白いオオカミが廊下をこちらへ向かって進んでくる。
松本さんが腰のホルスターからピストルをぬくのが見えた。
「撃たないで、松本さん」
こうすけが言うと、松本さんはピストルを手にしたままつぶやいた。
「おそってきたら撃つしかないだろ」
オオカミは近づいてくる。リ―ナママのオオカミはおそいかかってくるだろうか。
だけど、オオカミがぼくらのほうを見ることはなかった。まっすぐ大公のほうへと進んでいく。
大公はすっかりおじいさんになってしまった顔でオオカミのほうをふり返り、しわがれた声を出した。
「来るな、エマ」
その声はひどくよわよわしかった。オオカミは大公の背中に鼻をこすりつけ悲しげな鳴き声をあげた。大公はからだをねじり、オオカミを追いはらおうとしている。
「エマ。おまえはひとりで海の向こうへ帰るがいい。トランシルバニアの森でなかまとともにくらせ」
オオカミはリーナに向かって、怒りをこめたするどいうなり声を投げかけると、いきなり大公の服をかんだ。そのまま、もう力をなくした大公のからだをひきずっていく。
「どうするつもりなんだ、あのけだものは」
リ―ナママは大公をリーナから引きはなそうとしている……。ぼくはそう思った。
大公はさからうこともなくオオカミに廊下をひきずられていく。行く先のつきあたりに大きなガラス窓がある。窓の外には青みがさしていた。
もう夜明けだなんて! こんなに長い時間がたっていたことにぼくらは気づかなかったんだ。
オオカミは先が行きどまりであることなど気にするようすもなくずんずんと突き進んでいく。つぎの瞬間、すごいジャンプ力で大公のからだをくわえたまま窓ガラスに体当たりした。ガラスがくだけ、オオカミと大公は窓の外へとすがたを消した。ここは十二階だ。
「落ちたぞ!」
松本さんがさけびながら窓べにかけよった。ぼくとこうすけも走っていた。スニーカーの底でガラスのかけらがピシッピシッと鳴る。われた窓からは夜明けのひややかな空気がふきこんでくる。霧がみるみるはれていくのがわかった。うすれていく霧のすきまから明け方のうす青い空がのぞいている。オオカミと大公がどうなったのか、ここからは見えない。
ぼくはリーナのことが気にかかり、廊下をかけもどり、室内をのぞきこんだ。リーナは目を見開いたまま立ちつくしている。その手からされこうべが落ちた。しきつめられたバラの上でされこうべはくだけた。白い骨のかけらが貝がらのようにあたりにちらばる。
リーナは目を閉じると、ひざをつきそのまま床にたおれこんだ。
「リーナ!」
ぼくはかけより、リーナの手にふれてみた。石のようにつめたい。気づくとうしろに松本さんとこうすけがいた。松本さんがリーナの手首を取って脈をみた。
「いかん。すぐ病院へ運ばないと」
リーナはこのまま死んじゃうのだろうか。魔力がとけてふつうの女の子にもどってくれればいいのに。
リーナが人間らしい笑顔を取りもどしてくれたら、ぼくはうれしい……。
非常階段のドアが開いて、何十人という警察の人たちがなだれこんできた。白いヘルメットをつけた救急隊の人がうしろにつづく。
「あちらにも心肺停止の老人がいる」
松本さんが告げると救急隊の人たちは倉沢さんが横たわる部屋のほうへ走っていった。
リーナも担架に乗せられ、運ばれていく。
松本刑事がほかのおまわりさんたちに伝えた。
「被疑者は窓から落ちた。すぐ地上のメンバーに確認してくれ」
警察の人たちは無線機や携帯電話を使ってあちこちへ連絡をとりはじめた。
松本さんが意外そうな顔をした。
「通信機器は復旧したのか」
「はい。さきほどから通じるようになりました」
ぼくはさっきから気になっていたもう一本の十字架のほうへ目をやった。ぼくより先にこうすけがそれを拾い上げた。松本さんが最初こわきにかかえていたほうの十字架だ。
こうすけは十字架をたしかめると、ぼくに向かってさしだした。受け取っておどろいた。
アルミホイル? お料理をつつむ銀色のホイル。ホイルの表面はスミでもぬったように黒ずんでほんものの十字架に似せてある。ホイルをひきはがすと中からは輪ゴムを使って十字に組んだ長いハシとパン切りナイフが現れた。
これが最初の十字架の正体だったのか。表面の黒いよごれはレンジの内側についているようなススだった。松本さんはこれを作るためにキッチンへこもっていたのか……。かくすようにしてかかえていたのはにせものだって見やぶられないためだったんだ!
無線でしゃべっていたおまわりさんが松本刑事に告げた。
「いま、地上で人間と動物のものらしい遺体が発見されたそうです」
松本さんはぼくらに言った。
「きみたちはほかの警官といっしょにここにいなさい」
松本さんは非常階段へ向かってさっさと歩きだした。
ぼくはこうすけと目くばせしあった。
(おれたちも行く?)
(もちろん。ヴァンパイアの最期をたしかめないと)
(よし、行こう!)
ぼくとこうすけは走って刑事に追いついた。
松本さんはぼくらをふり返ると、顔をしかめた。
「きみたちは来ちゃいけない。見ちゃだめだ」
こうすけが息を切らしながら言い返す。
「ヴァンパイアの最期をたしかめたいんです。そうしないと安心できなんです」
松本さんは肩をすくめた。
「あしたからごはんがのどを通らなくなるかもしれないぞ」
ごはんか。そう言えば、倉沢さんの教会でビスケットを一枚食べてからなにも口に入れていない。おなかがすいたなんてことはすっかりわすれていた。
ここまで考えてぼくはあることを思いつき、なんだか、いやな気分になった。ぼくが食べたリ―ナママの料理ってほんとうにふつうの料理だったんだろうか。あの料理にもしヴァンパイアのわながしかけられていたなら?
ぼくは非常階段をおりながらおなかのあたりを思わずおさえていた。
生きている血
一階の非常口から外へ出ると、「やったー」と、声に出してさけびたいくらいホッとした。と、同時にひざががくがくふるえるのを感じる。これでおそろしいことはすべておわったのかな。どうかそうでありますように。
ぼくのかあさんは? ほかのみんなは? ぶじだろうか。
地上ではおおぜいの警察の人たちがあちこち走りまわっていた。なんだか混乱しているみたい。
松本さんがつぶやいた。
「あの男がもしほんもののヴァンパイアでなかったら、わたしは殺人未遂罪に問われるかもな」
マンションのすぐ下の路上におまわりさんたちが集まっていた。ブルーシートをもってこい、とだれかのどなる声がした。そのあたりに大公とオオカミは落ちたみたいだ。
松本さんがもういちどぼくらをふり返り言った。
「いいかい。きみたちは見てはいけない。ヴァンパイアの最期はわたしがたしかめて、あとで状況をおしえてあげるから。いいね?」
松本さんはちょっとこわい目でぼくらを見てから、みんなが集まっているほうへと去っていった。こうすけとぼくはしかたなくその場に立ちどまったままでいた。
「なあ、こうすけ。ほんとにヴァンパイアは死んだのかな」
こうすけはメガネの中の目を細めた。
「わかんない。あれだけの魔力をもつ相手が高いところから落ちたくらいでほろびるかな……?」
警察の人たちがさわぎだした。ぱらぱらと飛びちるようないきおいでおまわりさんたちがかけ出してくる。なにか起きたのかな。ぼくはこうすけといっしょにおまわりさんたちのほうへ向かった。松本刑事も立ちつくしてなにかを見まもっている。
ぼくはおまわりさんたちのうしろからのびあがるようにしてみんなと同じほうを見た。黒いものと白いものとがぐったりつぶれたように横たわっている。なんだかむかむかしてきて思わず口もとをおさえてしまった。
大公とオオカミのまわりには赤いものがひろがっている。ぼくは十二階にしきつめられていた赤いバラを連想してしまった。それはじわじわとあたりに流れていく。
だけど、なんだかへんだぞ。
血はあぶらのかたまりのようにねばねばとひろがり、ぶくぶくとこまかくあわだっている。
動いている……あれは流れているんじゃなくて、〝うごめいている〟んだ。まちがいない。大公とオオカミのからだから流れ出た血はひとつにかたまり、ねばねばずるずると道路をはいまわっている。
「なんなの、あれは」
ぼくはひとりごとのようにつぶやいていた。こうすけにだって答えがわかるはずない。だけど、あいつはすべてお見通しみたいな口調で答えた。
「生きている。ヴァンパイアの血だけが生きているんだ……」
それって、マジか? ぼくはきみわるさをこらえて目をこらした。赤いものはひとつのかたまりとなってはいまわり、ときおり焼いたもちがプッとふくれるようにのびあがった。
「あれを見て」
こうすけに言われて目をやると、大公とオオカミのからだはいつの間にかカラカラにひからびていた。手足のかたちに枝をつきだした枯れ木のようだった。ヴァンパイアのいのちはほろびたからだをぬけ出たんだ、きっと。
その血はいまとげとげのようなものを突き出したり、ひっこめたりをくりかえしながら動きまわっている。
「偽足かもしれない」
こうすけの言った意味がよくわからなかった。
「義足? 足の不自由な人が使うあれ?」
「ちがうよ。アメーバみたいな原生動物はからだの一部を足のように動かして移動したり、えさを取ったりする。その足を偽足っていうんだ。きっとあれがヴァンパアの正体だったんだ。血液そのものがひとつの生命体だったんだ」
あれがヴァンパイアの正体だって? じゃあ、大公とオオカミのからだははじめから借り物だったってこと?
赤い生き物はなにかをさがし求めるようにあちこちをはいまわり、その動きはしだいに早くなっていく。
松本さんはぼくらがすぐそばにいることに気づいたらしい。
「おい、きみたち、あぶないから下がってろ」
「松本さん、あれってなんなの?」
「そんなこと、わたしにもわからない。遺体から流れ出した血がいきなり動きだしたんだ。あっ!」
おまわりさんのひとりが赤いアメーバにつかまった。それはおまわりさんの足首からひざまではいあがり、腰までほとんどつつみこんでしまった。おまわりさんはそれを引きはがそうとしているけど、こんどはその手がのみこまれた。
おまわりさんは必死の顔つきでもがいている。もう肩のあたりまで赤い生き物にのみこまれている。おおぜいのおまわりさんたちがとりかこんだけど、どうすることもできないみたいだ。そのとき、松本さんがマンションの植え込みめがけて走り出すのが見えた。
どうするつもりだろう?
松本さんは植え込みのかげにある水まき用の水道にかけより、リールつきのホースを手にした。水道の栓をひねると、ホースをひきずりながら、アメーバと格闘するおまわりさんのほうへ走る。リールがくるくる回転し、長いゴムホースがぐんぐんのびていく。
松本さんが手もとのハンドレバーをにぎると、ジェット噴水にきりかわったホースの先から水がふきだした。太い一本のすじとなった水はおまわりさんをのみこもうとしている赤い怪物へあびせられた。たくさんの水をあびたアメーバは全身の色がうすまっていき、その中でもがくおまわりさんのすがたがうっすら見えた。
アメーバがとつぜんパンッとはじけた。赤いつぶつぶが飛びちる。ようやくぬけだしたおまわりさんは、走りだした。道路にちった赤いつぶはなかまをさがしもとめるようにずるずるはいまわり、またひとつにかたまりはじめる。
ぼくはこのとき、マンションの廊下でこうすけが捨てたハンカチがうごめいたことを思い出した。あれはまぼろしじゃなかったんだ。ヴァンパイアの血をすいこんだハンカチはほんとうに動いていたんだ……。
「みんな、早くはなれろ!」
松本さんはさけびながらも、なお放水をつづけている。アメーバはまたもとの大きさにもどり、巨大な赤い玉になっていた。ころがるようないきおいで放水攻撃をかわしながら、こんどはぼくのほうへ向かってきた。
「太一、にげろ!」
それが松本さんの声なのか、こうすけの声なのか、考えるようゆうさえなく、ぼくは走りだしていた。
「太一、早く、早く、追いつかれるぞ」
うしろをふり返るひまなんかない。走るうちにとつぜん足もとがもつれた。なにかがからまった気がして下を見るとぼくの両足は赤いものにまきこまれていた。
やばっ! 追いつかれた!
やわらかくて熱いものがぼくの足をはいあがってくる。痛くもくるしくもないけど、からだじゅうがむずむずくすぐったくなり、お湯につかったように熱い。全身の感覚がにぶくなってきた。頭もボーっとしてくる。なんだか眠りの中へ引きこまれていくような気分。
もう一歩も歩くことさえできない。
「太一、太一!」
だれかの声が遠くから聞こえてくる。アメーバをひきはがそうと手をふれると、こんどはその手がのみこまれ、熱いものが肩まではいあがってくるのがわかった。
ふしぎなことが起きた。ぼくはいま白い光の中にいる。ふわふわと宙をただよっているような感覚。つぎの瞬間、背中の肉をもぎとられたような痛みを感じて、ぼくは悲鳴をあげていた。
そのあと急に暗闇が来た。
いくら目を見開いても、あたりは一面の闇。
闇の中に小さな光がともった。光は広がり、その中に見えてきたものがある。森だ。そびえたつ大きな木々がどこまでも海のように広がっている。深い森の向こうにお城のような白い建物が見える。
声が聞こえる。いさましいときの声。なにをさけんでいるのかわからないけど、何百人、何千人という男たちのあげる声だ。
動くものがある。たくさんの馬。長いヤリをかかえたおおぜいの男たち。かぶとやよろいを身につけている。戦士? 映画に出てくるような、遠いむかしの、どこかの国の戦士たち。
そこまで見たとき、ふきとばされるような衝撃が来た。
「太一、いまだ、にげろ!」
ぼくは全身にはげしいいきおいで水をあびせられていた。なんとか自由に動けるようになった。
赤い生き物はばらばらに飛びちり、ぶきみにうごめいている。にげようとしたけど、足がもつれてうまく走れない。おまわりさんたちがかけよってきて、ぼくは両腕をかかえられた。ほとんど引きずられるようにして、ぼくはこうすけたちのいるところまでにげきることができた。
「太一、だいじょうぶ?」
だいじょうぶじゃあない!
足はガクガク、心臓はまだドキドキしている。それにしてもさっき見えたお城や戦士たちの光景ってなんだったのだろう。自分になにが起きたのかさっぱりわからない。
松本さんのほうを見たら、放水攻撃はもう限界みたいだ。アメーバはまたひとつにかたまり、動きが活発になっている。おまわりさんたちがいっせいにひとつの方向を見てさわぎだした。
「こら、入ってくるな! いま危険なんだ」
近くまでやってきたのはコンクリートミキサー車だ。大きなタンク(ほんとはミキサードラムっていうらしいけど)をゆっくり回転させながらこちらへ進んでくる。おまわりさんたちは両手をふりまわして、ミキサー車をストップさせた。運転手が窓から顔を突き出した。若い男の人だ。
「はあ? なんも聞いてないっすよ。会社に言われて、きょうはそこの工事現場で基礎工事やるってことで、生コン運んできたんですっ。急に通れないとか言われてもこまるんだよな」
おまわりさんはあらあらしい声を出した。
「緊急でおたくの会社に連絡がまにあわなかったんだ。ともかくここから先は侵入禁止だ」
松本刑事がホースをほうりだして、ミキサー車のほうへ走っていくのが見えた。
「おーい、ちょっと待ってくれ。そのミキサー車を通してくれ」
みんな、ふしぎそうに松本さんのほうを見ている。松本刑事はミキサー車にかけよると、窓ごしに運転手さんといっしょうけんめい話をしている。運転手さんはしばらく考えこむようすだったけど、首を横にふった。
松本さんの顔つきがけわしくなった。
「緊急事態だ。協力してくれ。責任はこっちで取るから」
運転手さんはしぶしぶといった感じでうなずいた。ミキサー車はゆっくり動きだした。松本さんが先を走り、車の進む方向を誘導している。
「松本さん、なにをするつもりなんだろ」
ぼくがつぶやくとこうすけは首をふった。
「さあ。わからない。なにかうまい手を思いついたのかも」
松本さんは、つぎのえものを求めてはいまわる吸血アメーバのほうへ自分から進んでいく。
「あぶない! 巡査部長、早く退避して!」
おまわりさんたちがさけんでも、松本さんは動こうとしない。あと数メートルまでアメーバが近づいたとき、松本さんはとつぜんダッシュをかけた。エンジンをかけたまま止まっているミキサー車のほうへと走っていく。
走りながら松本さんは手をあげてミキサー車の運転手に合図らしいものを送った。松本さんはミキサー車のすぐうしろに立つと、近づくアメーバのほうへ向きなおった。
「さあ、ここまで来い! おれをのみこんでみろ!」
アメーバはこうすけが言ったとおり偽足というものをとげとげのようにたくさんつきだし、松本さんの足もとへとせまっていく。
ぼくはがまんできずにさけんでいた。
「松本さん! にげて、にげて!」
松本刑事まであと数十センチというところまでアメーバがせまったとき、ミキサー車のうしろについたパイプからどろどろの生コンクリートがふきだした。アメーバは急に動きをとめることもできずコンクリが流れ落ちる真下へ進んでいった。
生のコンクリはいっきにアメーバの全身を押しつぶし、赤い怪物は灰色のコンクリにおおわれ、たちまち見えなくなってしまった。生コンクリートは小さな山のようにもりあがり、アメーバを封じこめてしまったようだ。
だれもがその場を動けずにいた。コンクリの山はしずまりかえって、下でなにかが動くけはいもない。
みんなは松本さんのほうへ集まりだした。こうすけとぼくもかけていく。おまわりさんのひとりがぼくらに気づいて、はなれてろ、と、追いはらうしぐさをしたけど、かまうもんか。
ぼくは松本さんにかけよった。
「これで完全に閉じこめたのかな」
松本刑事はひたいにしわをよせて、うなずいた。
「これだけの量のコンクリにうずもれて動き出せるはずがない。それでもしばらくは警戒する必要はあるが」
あたりがいっきにさわがしくなった。
飛び立つもの
マンションのまわりにはパトカーだけでなく、何台もの救急車やレスキュー隊の車が集まっていた。建物からはストレッチャーに乗せられたひとびとがつぎつぎ運び出されてくる。きっとヴァンパイアにかまれた住人たちだろう。あの中にぼくのかあさんはいるだろうか。
酸素マスクをつけて運ばれてくるおじいさんがいた。あの人ってもしかして? ぼくはこわごわストレッチャーに近づいてみた。おじいさんはぐったり目を閉じ、鼻血でも出たのか鼻には白いものがつめられている。
「こらっ、はなれて」
救急隊の人におこられたけど、そのおじいさんはまちがいなく、ぼくを追いかけてきたあのおじいさんだ。いまはぐったりして意識もなさそう。もとの人間にもどってまたからだが不自由になってしまったのか。
オレンジ色の制服を着たレスキュー隊の人におんぶされくる女の子がいる。泣きじゃくっている。鼻になにかつめているのはあのおじいさんといっしょだ。なんでだろう。助け出されてくる人はみんな鼻血を出しているみたいだ。
女の子の顔に見おぼえがあることに気づいた。あの子は……メグちゃんだ! みんなふつうの人間にもどったてことなのかな。そういえばシュウジはどこへ行っちゃったんだ。それよりぼくのかあさんはどこ?
わりと元気そうな人たちがおまわりさんにつきそわれてマンションのエントランスからぞろぞろ歩いて出てくる。ぼくはかあさんの顔を求めてそっちへ走り出した。男の人、女の人、若い人、おとしより、みんな、たったいま目がさめたばかりといった感じのどんよりした顔をしている。そしてやっぱ、ハンカチやティッシュで鼻をおさえている。
おまわりさんどうしの会話が耳に入ってきた。
「へんだな。救出された人たち、なんでみんな鼻血を出しているんだろう」
「なにか病理的現象なのかもしれん」
ビョウリテキゲンショウ? なんのことか、ぼくにはわかんなかったけど、こうすけはつぶやいた。
「ヴァンパイアの血が魔力をなくして、人のからだからぬけ出しているのかも」
ぼくはこうすけの横顔を見た。こうすけは口をキッとむすんだきりコンクリの山をにらんでいる。
「太一!」
声にふり返ると、かあさんがこっちを見ていた。くたびれたような顔で、髪もぐしゃぐしゃだけど、まちがいない、ぼくのかあさんだった。
かけよろうとして、思わずハッと足をとめてしまった。あれはほんとうにぼくのかあさんだろうか? ぼくはもりあがっているコンクリの山のほうをふり返った。
リ―ナママはもういない。大公の血といっしょにあの中へうまっている。
まちがいない。こんどこそほんもののかあさんなんだ。
ぼくはかあさんにとびつくようにして抱きついた。ほんもののかあさんのからだはあたたかかった。
「いままでどこにいたの? なにがあったの?」
かあさんは遠くを見る目になって答えた。
「お店にリーナちゃんのママがまたやってきたの。このあいだの髪型が気に入らないからやりなおしてほしいって。それで相手をしていたら、なんだか急に気分がわるくなって、目の前がまっくらになっちゃったの。どこからか、けものがうなるような声が聞こえて、すごくこわかったわ。気づいたら、どこだかわからない部屋に閉じこめられていたの。さっき警察の人たちにようやく助け出してもらったわ」
ぼくはこうすけのほうをふり返った。ケータイでいっしょうけんめい話をしている。家族と通じたのかもしれない。ぼくには気になることがたくさんある。シュウジは? 倉沢さんは助かるだろうか。リーナはふつうの女の子にもどれたんだろうか。そして……あきよ先生はどうなったんだろう。それこそ奇跡が起きて先生がぶじなすがたを取りもどしてほしい。
スガオやカズマやかなえたちはだいじょうぶだったのか。魔女三人組は? ぼくには気になる人たちがたくさんいる。
ヴァンパイアの血を封じこめたコンクリのまわりには黄色い柵がはりめぐらされ、おまわりさんたちが見はりに立っている。はなれた場所からカメラを向けたり、見物する人たちも集まり出して、おまわりさんに追い返されていた。
「なんだ、ありゃ。なんかにじみ出してきたぞ」
だれかが大声で言った。おまわりさんたちもいっせいにふり返り、コンクリの山を見ている。
「ちょっとたしかめてくる」
こうすけがつぶやいて、そちらのほうへ走っていった。
ぼくはかあさんの顔を見上げた。
「おれも見に行っていい?」
いつもならそんなこときいたりしないぼくだけど、いまはかあさんの前で小さなころのぼくにもどってしまった気分だった。
かあさんは首を横にふった。
「あぶないから、だめ。もう、うちへ帰りましょ」
あたりがさらにさわがしくなった。
「危険です、さがって、さがって!」
おまわりさんたちの声があたりにひびく。ぼくはがまんできなくなっていた。ふしぎなものに興味しんしんの太一にぎゃくもどりしていた。ごめん、とつぶやいて、かあさんの手をふりほどくとぼくは人だかりのするほうへ走り出していた。
コンクリの表面に黒いしみのようなものが浮き出ている。それはしだいに大きくひろがり、やがて横長のだ円形になった。その両はしがとがっていき、カイトのような形が|現れた。
ぼくはこうすけを見つけるとそばによった。
「あれ、なんだろ」
「わかんない。ヴァンパイアと関係あるのかもしれない」
ぼくらはうしろからおまわりさんに肩をたたかれ、さがって、と命令された。しかたなくその場を動こうとしたとき、まだかわききっていないコンクリートの山がはじけた。あたり一面に灰色のかたまりが飛びちる。それはまるでミニチュアの火山噴火を見るような光景だった。
「ふせろ!」
だれかに言われてぼくらはしゃがみこんだ。コンクリの山をぶちくだいて、黒く巨大なものが舞い上がった。
ぼくは両腕で頭をかばいながらその正体を目でたしかめようとした。
マジかよ!
それは大きなつばさとけものの顔を持つ動物だった。
大コウモリ!
つばさを開いたそれははしからはしまで二メートルいじょうはある。つばさをゆするたびに風が起こり、ぼくらの上をかすめていく。
コウモリは赤い目でぼくらをギロリとにらんだ。ぶたのような鼻の下に開いた口からするどい牙がのぞく。おそいかかってくるのか、と、ぼくはからだじゅうをかたくしながら、目がはなせなかった。
コウモリの口から声がもれた。キキューッとつめでガラスをこするようなかん高い、いやな声。思わず耳をふさいだ。
大コウモリはつばさをはためかせて空へと舞い上がっていく。
こうすけがつぶやいた。
「ヴァンパイアの血がまたすがたを変えたんだ。飛び立ちやすい生き物に」
コウモリはどこまでも高く、空のかなたへ飛びさっていった。
消えたペットたち
ヴァンパイアにかまれた人たちのほとんどが人間にもどった。ぼくを追いかけてきたおじいさんもふつうの人間に返って、また寝たきりになってしまったらしい。メグちゃんは児童相談所というところへ入れられたそうだ。あのおかあさんはメグちゃんを置いてどこかへいなくなっちゃったんだって。人間にもどれてもあの女の子にしあわせはもどってこなかったんだ……。
パッチは元気なすがたでこうすけの家に帰ってきたようだ。
だけど……。
倉沢さんは助からなかった。
あきよ先生も……。
ぼくらの町がもとにもどったなんて、けっして言えない。
東小のぼくらは全員あきよ先生のお葬式に参列した。だれもがリーナをにくんでいた。リーナこそがあきよ先生をこんな目にあわせた張本人だって、みんな思っていた。
ぼくの思いは……ふくざつだ。大公が去ったいま、リーナはふつうの女の子にもどったはずだ。そのリーナのことをわるく言ったってどうしようもない。でも、やっぱ、リーナが転校さえしてこなければ、あきよ先生だってずっと元気でいられただろう。
倉沢さんのお葬式は教会でおこなわれた。信者の人ばかりでなく、あの日、司祭さんに助けられた人たちもおおぜい集まった。倉沢さんが天国で家族に会えることをぼくはねがっている。
あきよ先生の愛犬ヤヌは新しい飼い主がなかなか見つからなくて、なんと、こうすけが引き取ってくれることになった。ヤヌは三歳でおすのコリー犬。パッチとは〝男どうし〟でなかよくやってるらしい。毎日二頭を散歩させるのはたいへんだ、って、こうすけはぶつぶつ言ってたけど。
スガオもカズマもかなえも、そして魔女三人組もみんなぶじだった。あの日ちょうど町をはなれていたり、家族と家に閉じこもっていたりしてヴァンパイアの手をうまくのがれることができたらしい。
リーナのほんとうのパパとママも人間のすがたにもどった。事件のあと、マンションの一室ではだかのすがたでたおれている男と女の人が見つかったんだって。それがリーナの両親だった。ふたつの頭をもつ怪物のことは松本刑事でさえ信じてくれていないようだ。リーナの両親は薬を飲まされてずっと監禁されていたっていうのがおとなたちの解釈らしい。
リーナは事件のあともずっと町立総合病院に入院している。大公の魔力からときはなたれてもまだ健康が回復しないようだ。
そして、ぼくはいま病院のロビーに来ている。だれもリ―ナのお見舞いをする人がいないって聞いたからだ。ぼくとこうすけだけがその例外だった。
ぼくはかあさんからもらったお金でバラを買い、持ってきていた。病室は三階のひとり部屋だった。リーナはパジャマすがたでベッドの上に起きあがり本を読んでいた。ちらっと見たら、『羽根をなくした妖精』というタイトルだった。外国の小説らしい。
「やあ」
ぼくはむりにほほ笑んでみせた。こうすけはほとんど無表情でリーナを見ている。リーナはうれしそうにバラを受け取ってくれた。赤いバラ、白いバラ、黄色いバラ。フラワーショップの人は、赤い花は血を連想させるのでお見舞いにはふさわしくないって言ってたけど、きっとリーナは赤いほうをよろこぶだろうと思ったからむりに赤い花もまぜてもらったんだ。
リーナはぼくを見上げてにっこり笑った。ほとんど血がかよっていないような白い顔。ルージュをぬったように赤いくちびるだけがめだつ。
「ママ!」
リーナの声に、おかあさんがすかさず入ってきた。
「このお花、かびんに活けてちょうだい」
つきっきりでリーナのせわをしているらしいおかあさんはバラを受け取りだまって出ていった。ふと見たらベッドのわきにもバスケットにかざりつけられた花があった。
だれかほかにもお見舞いに来た人がいたのかな……。
リーナはぼくの視線に気づいたのか、つぶやいた。
「警察の人が持ってきてくれたの。とてもやさしい男の人だったわ」
松本さんだと、ぼくにはすぐわかった。やっぱ、あの人はそういう人なんだ。なんだかうれしかった。
「わたしね」と、リーナがしゃべりだした。
「この町で起きたことってよくおぼえていないの。なんだかすべて夢の中のできごとだったみたいな気がしてる」
ぼくもすべてが夢であってくれたならよかったって思ってる。そうすれば、あきよ先生も倉沢さんもぶじなはずだから。だけど……あれは現実だったんだ。
こうすけがきいた。
「ほんとうのパパとママのことはわすれていなかったんでしょ?」
リーナはこうすけのほうを見ようともせず首を横にふった。
「いまのパパとママって、なんだかほんとうのパパとママじゃないって気がしてる。すなおにパパ、ママって呼べないの。わたしにとってほんとうのパパとママは……」
そのあとの言葉をリーナはすぐには口にしなかった。かわりに窓の外へ目をやっていた。病院の中庭を見おろせる窓。庭には花壇やベンチもあって、患者さんたちが日なたぼっこしたり、車いすで散策したりしている。
リーナがぽつりと言った。
「わたし、ときどき想像するの。ほんとうのパパとママはどこか遠い国にいて、わたしのことを心の中でじっと見まもってくれているんじゃないかしらって」
それきりだまりこんだ。ぼくもほかになにを話していいのかわからない。ききたいことはあるんだけど、口に出すのがこわいようなことばかり。
ぼくはこの部屋にいることをだんだん息ぐるしく感じてきた。
リーナのおかあさんがかびんにバラをさして持ってきた。リーナはちらっと見やり、「これじゃ赤い花がめだたないわ。やりなおして!」と、きつい口調で注文をつけた。
おかあさんは悲しそうな顔をしてまた出て行った。
リーナがぼくを見つめてくる。なんだかリーナの顔を見るのがこわくなってきた。
リーナはふいにいたずらっこの顔つきになって言った。
「わたし、ひとつだけはっきりおぼえていることがあるの」
まっかなくちびるがゆがんだように見えた。
「それはね……」
リーナはぼくをじらすかのように間をあけてから言った。
「……太一くんの血のあじ」
リーナは楽しそうにクスッと笑った。えくぼが浮かぶ。あの地下室で見たのと同じえくぼ。
ぼくはこれいじょうこの部屋にいることががまんできなくなった。
「早く元気になって。さよなら」
こうすけのそでを引っぱるようにして病室を出た。給湯室と表示されたスペースの前を通ると、リーナのおかあさんがいた。バラを一本ずつていねいにさしなおしている。そのほおになみだが伝わっているのが見えて、ぼくは思わず足をとめてしまった。おかあさんがこちらをふり返り、目が合った。
十分後、ぼくらとおかあさんは病院内の談話室という部屋にいた。おかあさんは自動販売機のドリンクをぼくらの前に置いて、リーナのことを話しだした。
「あの子は生まれつき病気をせおっていました。造血機能に先天的な欠陥があり、血をじゅうぶんにつくることができないんです。ふつうの子のように外であそぶこともできず、しょっちゅう貧血を起こしては寝たり起きたりの生活をつづけていました。当時住んでいた国のお医者さんからは、リーナはおとなになるまで生きられないかもしれないと告げられました」
ぼくもこうすけもドリンクに口をつけるのもわすれて話を聞いていた。
「原因も治療法もさだまらない特異な体質だと言われました。夫とわたしは悩みくるしみました。ヨーロッパの先進医療でもなおせない症状を世界のどこかに治療してくれるお医者さんがいるだろうか、と。ほかの国々の医療機関にも問い合わせ、検査も受けさせましたが、どのお医者さんも首をかしげるばかりでした。そんな中でリーナが七歳になったときのことです。カルと名のる男がわたしたちの前に現れました」
こうすけが身を乗り出した。すごく興味をもったしるしだ。
「カルは、伝統医学を研究する医学者だと名のりました」
「でんとういがく?」
こうすけがきき返すと、おかあさんは遠い日々を思い出すような目をして窓の外を見た。
「なんでも、現代医学とはちがう体系をもった、太古からの知恵を結集した医学なのだそうです。薬や手術にたよらず、あらゆる病気をなおすのだとか。たぶん漢方のようなものだろうとわたしたちは考え、医学から見はなされた思いでいたわたしたち夫婦はおろかにも、娘の治療をこの人におねがいしてみようと考えてしまったのです」
なんだか廊下がさわがしい。ガラス戸ごしに看護師さんたちがぱたぱたと急ぎ足で通りすぎるのが見えた。
「カルは毎日やってきては数時間リーナとふたりきりですごしていきました。だれにもじゃまされずに集中して治療術をほどこす必要があるというのがかれの言い分でした。ところがひと月ほどたつと、リーナはほんとうに元気になってきたんです」
それはヴァンパイアの魔力がやっせみせたことじゃないのか。いまのぼくならそうわかる。
「それまでのリーナは部屋に閉じこもりがちで、ちょっと動けばぐったりしてベッドにもぐりこんでしまうのがつねでした。そんなリーナが庭で元気よくあそんだり、カルといっしょに一時間も散歩に出かけてはつかれたようすもなくはしゃいで帰ってきたりするようになりました。わたしたちはカルを救い主のように思い、感謝をささげました。そのうちリーナは小鳥を飼いたいと言いだし、わたしたちはのぞみをかなえてあげました。ところが数日もたたないうちに鳥はいなくなってしまったんです。すぐさまべつな小鳥を買ってあげましたがまたしても鳥かごからすがたを消してしまいました」
小鳥がつづけて消えた? ぼくにはその理由がなんとなく想像できたけど、口に出して言うのはこわかった。
「小鳥のあとはハムスター、ねこ、そして子犬と、娘に言われるままペットをつぎつぎあたえたのですが、みんな数日するといなくなってしまうのです。それと同時にリーナが日に日に健康を取りもどしていくのがわかりました。わたしたちはそのことがうれしくて、消えたペットのことなどあまり気にもとめませんでした。ところがある日……」
おかあさんはかるく肩をふるわせた。
「庭の手入れをしていた夫がすみにうずめられている動物の骨を大量に見つけたんです」
リーナは動物たちの血を吸って元気になっていった……?
「夫もわたしもそれがリーナのしわざだとはとても信じられず、とまどいました。カルはその後もやってきてはしだいにあるじのようにわたしたちを指図するようになっていました。あるときかれはビロードにくるまれた箱を持ってきました。その中身を知ってわたしたちはおどろきました。それは古びた人間の頭蓋骨だったんです」
儀式のときリーナに手わたされたされこうべ。あの骨はその後どこからも見つかってないと松本さんは言っていた。
「カルは悪魔をたたえるおそろしい男だったんです。そのことを知ったときはもう手おくれでした。リーナはカルを神さまのようにあがめておりました。そしてある日、カルはわたしたちに告げました。リーナをかれの養女にしてつれていく、と」
おかあさんはくちびるをふるわせた。
「このままではわたしたち家族のくらしは悪魔にこわされてしまう。夫もわたしもカルに、もうこの家には来ないでくれ、ときっぱり伝えました。カルはあざ笑うばかりでした。そしてリーナとともに部屋に閉じこもってしまったのです。わたしたちは娘をまもるためにドアをこじあけ、部屋に入りました。ところがふたりのすがたは消えていたんです。ドアにも窓にも中からカギがかかっているにもかかわらず」
廊下のほうがまたさわがしくなった。あわてたようすの看護師さんたちが通りすぎていく。
「なにが起きたのかわからず、ぼうぜんとするわたしたちにあの男は頭の上からおそいかかってきました」
ヴァンパイアがかべや天井をはいまわる光景を思い出してぼくはまたぞっとしてしまった。
「すさまじい力でわたしは突きたおされ、そのあとのことはよくおぼえておりません。ただ、あの男の声を聞いた記憶はあります。リーナを育てた功にめんじていのちだけは助けてやろう。そのかわり、おぞましい怪物のすがたになってわれにつかえよ、と」
ふたつ頭の怪物が生まれたのにはこんなわけがあったのか。ぼくはぬるぬるした怪物の感触を思いだして、背中が寒くなった。いま目の前にいるやさしそうなおかあさんがその怪物だったなんて信じられない。
そのとき入口から女の看護師さんが顔をのぞかせた。
「あっ、おかあさん、ここにいらしたんですか。お嬢さんがどこへ行ったかわかりませんか。ずっとすがたが見えないんですけど」
おかあさんは首をかしげた。
「ベッドで眠っているはずですけど」
おかあさんはイスから立ち上がった。
「きょうはお見舞いに来てくださってありがとう。リーナもよろこんでいると思います。また、いらしてくださいね」
おかあさんは看護師さんといっしょにいそぎ足で談話室を出ていった。
こうすけがささやくような声で言った。
「リーナってもしかして……」
「もしかして?」
「カルの魔力でヴァンパイアにされたわけじゃなく、あの子自身が生まれたときからヴァンパイアだったんじゃないだろうか。そんな気がする」
「ありえない」と、ぼくは答えた。
「だって、リ―ナのパパとママはふつうの人間じゃないか。ふつうの人間からどうしてヴァンパイアが生まれてくるんだよ」
こうすけは首をかしげた。
「そこいらへんはよくわかんないけど、たとえば、突然変異みたいなものかもしれないし」
ぼくとこうすけはあれこれしゃべりながら廊下へ出た。
「新しく司祭になった三浦さん、ずいぶん悩んでいるらしいよ」
こうすけの言葉に、若い司祭さんの顔を思いだした。
「外国の教団があの聖なる十字架の所有権を主張して、十字架を返せって要求してきてるんだって。三浦さんは倉沢さんの勇気と自己犠牲のシンボルとしてあの十字架をまもっていきたいらしいんだけど、その教団は、もし返さないのなら裁判を起こすってさわいでいるんだって」
そんなことが起きていたのか。ヴァンパイアはいなくなった。だけど、人間どうしのあらそいはつづいている。そう言えば、シュウジのやつもみんなに見えないところで前よりひどくいじめられているみたいだ。
こうすけとぼくはもう帰るつもりでいた。と、いきなり意外な人に出会った。白衣すがたの中本先生、カズマのおとうさんだ。中本先生には自分の診療所があるはずなのになんでここにいるんだろう。
「おっ、きみたち、どうして、ここへ?」
「リーナって子のお見舞です。それより先生はなんでこの病院にいるの?」
先生はメガネの中の目を細めてほほ笑んだ。
「総合病院はどこも医師不足でね。週に一回診療の手伝いに来てるんだよ。そうか、きみたちはあのリ―ナさんと知り合いだったのか」
中本先生の言葉は意味ありげだった。
「先生はリーナを診察したの?」
「うん、ああ、ちょっとだけね」
言葉をにごすような返答だった。
こうすけがきき返した。
「なんだか、病院の人たちがあわてているみたいですけど、なにかあったんですか」
リーナが見えなくなったことでさわいでいるんだろうか。どうもそればかりじゃない気がする。
先生は声をひそめた。
「これ、よそにはないしょだけど、輸血用の血液が、保管してあった冷蔵庫から消えてしまったらしいんだ。手術の予定にも影響するってことでみんなあわてているんだよ」
ぼくはこうすけと顔を見合わせた。リーナのすがたが見えない。そして輸血用の血がなくなった……。
ぼくはふたつのできごとをむすびつけて考えていた。
中本先生は、じゃあ、と、かるく手をあげて去っていった。
「こうすけ、どう思う? もしかしてリーナが?」
こうすけの顔に暗いかげがさしたようにも見えた。
「ありえる。なにかがこの病院で起きているのかも」
どうしよう。松本さんに知らせようか。でもなあ、リーナになにか起きたのかどうかまだはっきりとしないしな。さわぎたてないほうがいいのかな。どうしよう。
ぼくはいろいろ考えながらこうすけといっしょにエレベーターホールへ向かった。リーナの病室の前を通るとき、ちょっとようすを見ていこうと思いついた。リーナがもどったかどうか気にかかっているんだ。
ぼくはこうすけと目で合図しあって、病室のドアを細めに開いてみた。中から声が聞こえてくる。
これは……中本先生の声だ。
……担当の医師とも話したんですが、お嬢さんはもっと大きな病院で精密検査を受ける必要があります。お嬢さんの健康状態はいまの医学の常識では理解できないんです……。
ぼくとこうすけはしんけんに〝盗み聞き〟をつづけた。
こんどはリ―ナのおかあさんの声。
……あの子をモルモットみたいな実験台にされるのはいやです……。
……ちがいます、おかあさん。お嬢さんを救うためには原因究明が必要なんです。はっきりもうしあげて、お嬢さんのからだは医学的には生存の条件を欠いています。内臓の多くが壊死しており、そのうちいくつかの臓器は炭化さえ起こしています……。
……どういうことなんですか……。
中本先生の声がためらいがちになった。
……つまり、その、医学的知見からすれば、リーナさんの肉体はもう何年も前に死んでいるということです……。
なんだって!
ぼくははじかれたように頭を起こし、ドアに肩をぶつけてしまった。ガタンッと大きな音がした。
あいかわらずドジなぼく!
中からドアが開き、中本先生があっけに取られた顔でぼくらを見ていた。ベッドはまだからっぽだった。リーナのおかあさんはぼくらのことなど目にとまらないようすで、泣きそうな声をあげた。
「うそです、そんなのうそです。わたしはきょうもあの子と言葉をかわしました。あの子はちゃんと生きています」
「失礼。死というのはもののたとえです。ですが、ふつうの人間ならいまのお嬢さんと同じ健康状態では生きていられないのも事実です。しかし、お嬢さんは見た目には正常だ。これは医学的には考えられないことなんです」
先生の言葉におかあさんも、そしてぼくもこうすけも、だまって立ちつくすばかりだった。
× × ×
病院の地下フロアは昼間でも、うすぐらく陰気だった。この春に看護学校を出て、ここへ配属されたばかりの彼女はためらいがちな足どりで階段をおりた。
まったく、女の子をさがしてこい、だなんて、あの看護師長もいじわるだわ。そりゃ、あたしに仕事のミスが多いのもたしかだけど、なにもこんな役目、言いつけなくてもいいんじゃないの?
ほかのフロアはすべて見てまわり、のこるはこの地下だけだった。彼女は地下室のかべにひびく自分の足音を聞きながら各部屋のドアを開けて中をたしかめていった。リネン室に物置き部屋、いまは使われていないロッカールーム、空調室に、なんだかわからない空き部屋。
それにしてもあの女の子はどこへ行っちゃったんだろ。彼女はなんどか見かけたことのあるリーナという少女を思いうかべた。ちょっと暗いかげりのある、きれいな女の子。古い時代の西洋のお人形みたいで、見ているとなんだか、やさしくつつみこんであげたくなって、母性本能ならぬ〝おねえさま本能〟をくすぐるタイプの少女。
きっとへんな事件にまきこまれ、ずっと病室に閉じこめられて息がつまちゃったんだろうな。だからといって、こんな陰気な地下にひとりで来るとは思えないんだけど。
廊下はもう行きどまりだ。のこる部屋はただひとつ……霊安室。なくなった患者の遺体を安置しておく部屋。
そういえば、『病院の怪談』なんて本もあったし、テレビとかネットの投稿サイトでも病院で起きたこわい話なんてよくあるよね。
霊安室の白いドアはひっそりとしずまりかえっている。まるでだれかが来るのをじっと待ちうけているかのように。彼女はドアを開けるのをためらった。以前どこかで聞いた怪談話が頭をよぎる。
……遺体のほかにだれもいないはずの霊安室から深夜、読経の声が聞こえてくる……遺体にそなえられた線香が何時間たっても消えず、ぎゃくに長くのびてくる……きちんと寝かせられていたはずの遺体が、看護師が見まわると、胸をかきむしるポーズをしていた……。
ああ、いやだ! なんでこんな話ばっか思い出しちゃうんだろ。
彼女はごくっとつばをのみこむとドアノブに手をかけた。手さぐりでかべのスイッチを押して明りをつける。どう考えても女の子がこんな部屋にいるはずがない。いるはずがな……彼女はのどまで出かかった悲鳴をあやうくこらえた。殺風景な白ぬりの部屋。奥に作りつけの小さな祭壇。さいわいなことにいま遺体はない。でも、すみにうずくまる人かげが見えたのだ。
で、出た、ゆうれい! 思わず逃げ腰になる。だけど、冷静になってよく見たら、それはパジャマすがたの女の子だった。両足をそろえた〝体育すわり〟で顔をひざにうずめている。長い髪が肩から腕にふりかかり、ゆうれいじみて見えるけど、まちがいなく、彼女がいまさがしている少女にちがいない。やせた、かよわそうな肩がかすかにふるえているのがわかる。
看護師は少女に歩みよった。
「あなた、リーナちゃんでしょ? どうしたの、だいじょうぶ? みんなしんぱいしてるわ。お部屋に帰りましょ」
看護師は少女の肩にそっと指をのせた。ふるえのとまるようすはない。
きっと泣いているんだ。かわいそうに。おそろしい事件にまきこまれ、みんなからはわるものあつかいされて、よほどつらい思いしてきたんだね。
〝おねえさま本能〟が首をもたげて、彼女はかたわらにしゃがみこむとやさしい声で言った。
「こんなところにいたらかぜひいちゃうよ。さっ、あたしといっしょにお部屋に帰りましょ。ねっ?」
彼女は少女の腕にふれた。なんてつめたい体。ひえきってる。このままじゃほんとにかぜひいちゃう。 肩はまだふるえている。クククッとかすかな声がひざにうずめた顔から聞こえてくる。
ふと、少女の足もとに半とうめいのパッケージ状のものが落ちていることに気づいた。
もしかして、これは……。
ラベルを見れば輸血用血液のパックであるのはあきらかだ。なかみはからになっている。
少女はまだクククッと小さな声をもらしている。
看護師はふと違和感をおぼえた。そして気づいた。
ちがう。この子は泣いているんじゃない。笑ってるんだ。この女の子は霊安室でひとり笑っている……。それにこのパジャマのよごれ、これってなに?
よごれの正体を知り、看護師は背中が寒くなるのをおぼえた。それは血だった。パジャマを血まみれにし、ひとり霊安室で笑いつづける少女。
看護師は思わず相手からはなれようとして、いきなり手首をつかまれた。
少女がゆっくりと顔をあげた。
吸血鬼をめぐる対話
シュウジは男子に取りかこまれ、頭をたたかれたり、腰をけられたりしている。いじめっこの数はこれまでよりふえていた。七、八人はいる。あいつは背中をまるめてうずくまり、やられっぱなしだった。
「おめえよ、吸血鬼の子分になんかなりやがってよ、調子こいてんじゃんねえよ。どうしたんだよ、人間にもどったら手も足も出ねえのかよっ」
放課後の体育館のうらでは先生の目もとどかない。ぐうぜん通りかかったぼくは最初、はなれた場所から見まもっていた。シュウジとのやくそくが頭をよぎる。ぼくらはいちどシュウジに助けられた。こんどはぼくがあいつを助けるばんだ。
いじめてるやつらはこれまでいじょうに凶暴そうだ。人数もふえてるし。はっきり言っていま足がすくんでいる。ぼくが行けば、あいつらはこんどはぼくにおそいかかってくるだろう。
でも、だめだ。行かなくちゃ。シュウジとのやくそくだろ。そうは思ってもからだが前に出ていかない。ああ、どうしよう。
「おらっ、おめえ、ぶっつぶすぞ!」
声をあらげていじめっこ集団はうずくまるシュウジをけとばし、つばをはきかけた。
先生、そうだ。先生を呼んでこよう。そのほうがいい。
ぼくが校舎のほうを向いたとき、建物わきの暗がりに人かげが見えた。おとなだ。だれか先生が気づいて来てくれたのだろうか。
それは女の人だった。白衣を着てメガネをかけて、髪をうしろでたばねて……あきよ先生だった。ふっくらとやさしそうな顔は、ぼくらがよく知ってるあきよ先生の顔だった。先生はぼくを見て少しさびしげに、でも、にっこりと笑ってくれた。
……太一くん。わたし、あなたたちのことずっと見まもってるからね……。
ぼくは心の中でつぶやいた。ありがとう。あきよ先生はいまでもぼくらの先生です……。先生はリーナを健康にしてあげようとしてあんなおそろしい事件にまきこまれてしまったんだよね。生徒のために自分を犠牲にしたんだよね。
……わたし、いまでもこの学校のみんなをだいすきだよ……。
先生は消えた。
ぼくはもういちど、シュウジたちのほうへ向きなおった。息をとめ、心の奥に力をためた。
背中のランドセルをほうりだすと、おなかの底から声を出した。
「シュウジ! いま行くぞ!」
ぼくはやつらのまっただなかへとびこんでいった。たちまち、エリやそでは相手につかまれ、パンチがとんできた。負けない、負けない、負けたくない。ただそれだけの思いでぼくはあばれまくった。つきとばされ、ころんだひょうしに地面の土をつかみとると、のしかかってくるやつの顔にこすりつけてやった。そいつは悲鳴をあげ、目をおさえてうずくまる。
よし、逆転のチャンスだ。
「太一! ありがとう」
シュウジは立ちあがると、ぼくのまねをして、土や石ころをひろっては敵めがけて投げつけている。ぼくは逃げ腰になった相手のひとりに体あたりをくらわせ、いっしょにもつれあったまま地面をころがった。そのあとはふたりVSいじめっこ集団のめちゃくちゃなたたかいになった。
どこかで女の子のさけぶ声がした。
「早く、職員室! 先生呼んできて!」
この声は……魔女三人組のだれかだっけ? って、考えるひまもなく、つぎの敵が組みついてきた。
負けない。負けたくない。ぼくは負けない。くじけない。悪魔となんか取引しない。自分の力でたたかってみせる。
ぼくとシュウジはひるむことなく、あばれまくってやった。
「まったく、あんたがケンカなんてするとは思わなかったわ」
学校からかあさんのケータイに連絡が入ったらしい。うちへ帰ってくるなり、かあさんはぶつぶつ言いだした。
「もう、あぶないことはこりごりなんだから、気をつけてよ」
あのあと、男の先生が四人もかけつけてきて、ぼくとシュウジはあいつらから引きはなされた。先生を呼んでくれたのはやっぱ魔女三人組だった。ぼくらのだれもが、からだじゅうすり傷とあざだらけになっていた。
「おれたちがシュウジとあそんでたら、太一がいきなりとびかかってきたんだ」
やつらは先生の前でそう言い、シュウジは「太一はおれを助けようとしてくれた」と、かばってくれた。けっきょく、ケンカはどっちもわるい、なかよくしなきゃだめじゃないか、みたいなことを言われ、さんざんしかられ、全員保健室で手当を受けて帰された。保健室には新しい女の先生がいる。傷にしみる消毒薬に顔をしかめながら、ぼくはあきよ先生に心の中でなんども、ありがとうを言っていた。
きょうのばんごはんは、かあさん手づくりのカニコロッケとマカロニサラダ。あの事件いらい、かあさんはぼくのすきなものばっか作ってくれる気がする。どうしちゃったんだろうな。ぼくへの愛情にめざめちゃったとか……?
そんなかあさんにはわるいけど、いまでもかあさんがヴァンパイアに変身する夢を見てうなされることがときどきあるんだ。町で人とすれちがうときも、急にその人が牙をむきだし、おそってきたらどうしようとか考えてしまったりもする。ぼくの中ではまだヴァンパイア事件はおわっていないって感じ。
ごはんを食べながらテレビを見ていると、超常現象番組によく出てくる大学の先生と、評論家のおじさん(おじいさん?)とが、あの事件について話をしていた。
大学教授が言う。
『言の葉町で起きた事件について一部のメディアが〝吸血鬼〟などという言葉をつかって報道してるけど、まったく無責任だと思います。もっと医学や生物学、病理学、心理学など、はばひろい分野の専門家を集めて多角的に検証すべきです。今後あの事件を語るときには吸血鬼なんていうばかげたキーワードはつかわないことを提案しますね』
たれ目でちょっとこわい顔の評論家が言い返した。
『ぼくは吸血鬼というキーワードはいちがいに否定すべきじゃないと思うね。いまの時代、政治にも経済にも日常生活にもみんな行きづまりを感じてるんだ。そんな中で多くの人が救世主の出現を待ちのぞんでいるのかもしれない。人間をこえる力をもったなにものかが一瞬にして世界を変えてくれる、そんな願望の裏がえしが吸血鬼という共同幻想を生みだしたんじゃないのかな。吸血鬼っていわば超人でしょ? ひとびとの超人願望が生みだしたものなんだよ、きっと。超人が閉塞した現実を打ちやぶってくれることをみんな期待しているんだ。だから吸血鬼という幻想そのものはけっして否定するべきではない』
『幻想なら否定されるべきじゃないの?』
『ちがうよ。幻想だからといってすべて否定してたら芸術だって文学だってなりたたないじゃないか。たとえばバブルという超好景気の時代が1980年代にあった。あのころは経済大国という巨大な幻想があって、ひとびとはその中にどっぷりつかってさえいれば、あとは目先の小さな現実に対応していくだけでそこそこ楽しくやれたわけだ。ところがもうその幻想はとっくにはじけてしまって、世界は夢なんかどこにもない巨大でシビアな現実そのものになっている。ひとびとはそんな中で心のささえになる自分だけの幻想を求めつづけているんだ』
『それが吸血鬼となんの関係あるの?』
『だまって聞きなさい。ところが人間にとって自分ひとりだけの幻想ってのは最後まで信じきれないし、ささえていくのはしんどいものだ。そこでみんなで同じ幻想を共有しようとしはじめるんだ。むかし、はやったギャグじゃないけど、どんなうそでもみんなで信じりゃこわくない、だ。吸血鬼だってそんな共同幻想のひとつかもしれないってこと』
教授の声がかん高くなった。
『なに、わけわかんないこと言ってるの? そんなこと言ってるから文系の人はだめなの。〝はやぶさ〟を見てごらん、科学とテクノロジーの集大成だよ。どこにも幻想の入りこむ余地なんかないんだよ。すべては科学。サイエンスなの。だいいち理科年表のどこ見たって吸血鬼が出たなんて書いてないんだから』
評論家は声をあらげた。
『理科年表なんか関係ない! はやぶさだって宇宙を人間の目で見きわめたいっていうロマンがあったから実現したんだ。ロマンってのは一種の幻想でしょ。幻想の動機づけがない科学やテクノロジーなんてただの空論や機械いじりにすぎない!』
『話にならない! 科学の裏づけがないロマンなんてただの妄想なの! とにかくジャーナリズムは吸血鬼なんていうでたらめを書くな!』
評論家が、手にしていたボールペンの先を突きさすようないきおいで相手に向けた。
『でたらめとはなんだ! アカデミズムがジャーナリズムに口をはさむな! アンパンマンのおやじみたいな顔しやがって』
教授のほおがまっかになった。
『アンパンマンでわるかったな! あんたこそ目たれてるくせになんでそんなにこわい顔してるの? たれ目の人ってふつうはもっとやさしく見えるはずだよ』
『よけいなおせわだ、このやろう!』
とうとうケンカがはじまった。
200X年(過去の一夜) ブダペスト
先ほどまで恐怖に見ひらかれていた女性看護師の目は生気をうしない、いまや黒い服の男の言いなりだった。男は赤んぼうをだいたまま暗い声できいた。
「この産院にここ数日中に生まれた女の子はいるか」
「はい。ですが、東洋人、しかも日本人の子ですが」
男は帽子の下で異様にかがやく目を細めた。
「東洋人か。まあ、よかろう。われらはもともと実体など持たぬ。人間の目をあざむくためならば顔かたちを東洋人に似せるくらいわけもない」
看護師は新生児室のベッドから小さないのちをひとつだきあげると、男のもとへ運んできた。日本人の赤んぼうはこの世に生まれて何日めかの眠りをやすらかにむさぼっている。男の腕にある西洋人の顔を持つ赤んぼうと日本人の赤んぼうとが交換された。おさなごを見つめる男のまなざしに慈愛の色はみじんもない。
男は看護師に告げた。
「この子の母親に伝えよ。リーナと名づけろ、幸運を呼ぶ名である、とな。よいか」
看護師は忠実な態度でうなずいた。
「わが娘が成長したあかつきにはかならずや、一族の長たるべき高貴なおかたが現れ、かたいちぎりを結んでくださるだろう。そのときこそ、わが一族の繁栄がふたたびもたらされる」
男の口から低く地鳴りのような笑いがもれた。そして日本人の赤んぼうをぞんざいな手つきで胸にだきよせた。
看護師がたずねた。
「その赤ちゃんはどうなさるおつもりです?」
「儀式のいけにえにちょうどよい」
男は赤んぼうをだいて産院を出て行った。そのすがたは冬枯れの古都の闇にまぎれてたちまち見えなくなってしまった。
看護師はすりかえられた赤んぼうを、さきほどまで日本人の子が寝ていたベッドに横たえさせた。赤んぼうの髪の色や顔だちはごく短時間に東洋人に似せて変化してくるだろう。
看護師は役目をおえると首すじに手をやった。そこにはまだ血のにじむなまなましい傷あとがあった。
男が日本人の赤んぼうをいずこへ連れさったのか、知る者はほかにだれもいない。
エピローグ 赤い月
ばんごはんがすんで、自分の部屋にいたぼくはカーテンごしに異様なけはいに気づいた。夜空が赤くそまっているように見えたんだ。カーテンをはいでみた。赤い月が出ている。
ふと、リーナのことを思い出した。あのあとリーナは病院の地下で見つかったらしい。ふしぎなことにリーナは見つかったけど、こんどは看護師さんがひとりゆくえふめいになっているとのことだった。
リーナはあれからしばらくして両親とともにこの町をはなれた。東京の大きな大学病院で長い期間をかけてくわしい検査と治療をうけるために引っこしていったんだ。あの日のお見舞いのあと、ぼくがリーナに会うことは二度となかった。
今夜はなぜかあの子のことを思い出してしまう。
ぼくはベランダに出た。なんとなくそうしてみたくなったんだ。
黒い夜空にぽっかりあいた赤い穴。それが今夜の満月だった。
血をたらしたような円の中にひらひら飛ぶ黒いものが見えた気がする。
……二階堂太一くん。
耳の奥でリーナの声をはっきり聞いた。
……また、どこかで会いましょうね。
気がつくと、赤い月に黒い雲がかかり、やがて月はかくれて見えなくなった。
お わ り
本文&イラスト © Kenichi Takano 禁無断転載
最終回までおつきあいいただいたみなさま、ほんとうにありがとうございます。
少しでもお楽しみいただけたならさいわいです。
第一回のまえがきにも書きましたが、二階堂太一を主人公とする同タイトル作は過去五作まで刊行されたことがあります(本作はこのサイトのみのオリジナルです)。出版社が消滅(トホホ!)したため、すべて絶版となっておりますが、ご参考までに(あまり参考にはならないでしょうが……笑)、過去五作のタイトルのみ、しるしておきます。
『ぼくらの町 ミステリーロード -チョコ少女の亡霊ー』 (2006年刊)
第一回福永令児童文学賞受賞作。「ミステリーロード」というタイトルの意味はこの第一作のラストであきらかにされていますが今回は割愛させていただきまず。
『ぼくらの町 ミステリーロード -ビーストの牙ー』 (2006年刊)
『ぼくらの町 ミステリーロード -歯車男がやってくるー』(2006年刊)
『ぼくらの町 ミステリーロード -首なし魔女の復活ー』 (2007年刊)
『ぼくらの町 ミステリーロード -死神のゲームー』 (2007年刊)
ほかにこのシリーズとはべつに『 夏の森 』という作品があります。同じ出版社から刊行されたのでこれも絶版ですが、はじめて書き上げた児童ものですので自分なりに愛着のある小説です。こちらのサイトをふたたびお借りして、投稿完了しております。本作とはタイプのことなる小説ですが、よろしければどうぞごらんください。
今後ともどうぞよろしくおねがいいたします。
追記
第一作『ぼくらの町ミステリーロード~チョコ少女の亡霊~』が改稿の上、(でじたる書房)さまより配信中です。立ち読み可ですのでお時間のあるかたはのぞいてみてください。