第四回 不死なるもの
隠された十字架
みんなの目が倉沢司祭にあつまった。倉沢さんの罪ってなに? なんで、いまここでそんな話をはじめるのだろう。倉沢さんはメガネをはずし、ゆっくりした口調で語りはじめた。
ぼくもこうすけもしばらくシュウジのことなどわすれて倉沢さんの話に耳をかたむけた。
「みなさん。わたしが聖職者への道をふみ出したのは若いころのあやまちがきっかけでした。わたしは二十代のなかばまで自堕落な日々をすごしておったのです」
倉沢さんはちょっと言葉をとぎらせ、遠くを見るような目をした。
「そのころのわたしは、心の中がうつろでいつも寒々とした風がとおりぬけていくような、そんな気分にとりつかれておったのです」
倉沢さんはちょっとうつむいた。
「気をまぎらわせるように毎晩のようにお酒をたくさん飲んだり、かけごとに熱中したり、ときには行きずりの人とけんかをして暴力をふるったりと、すさんだ毎日をすごしておりました」
ふーん、司祭さんってそんな人だったんだ。いまのイメージからは想像できないけど。
「そんなわたしにも家庭ができました。つかの間わたしの心はおだやかになり、家庭をまもろうとしたものの、やがてまた堕落した生活へもどっていきました。妻をひとりぽっちで家にのこし、毎日朝まであそびほうける日々だったのです」
いまの話がヴァンパイアにどう関係してくるのか、ぼくにはわからない。天井からはあいかわらずシュウジのやつがどたどたあばれまわる音がひびいてくる。それでもみんなは司祭さんの言葉に耳をすませていた。
「そんなある日、妻はなくなりました。わたしが夜あけまであそんで小さな家に帰ると、妻はちゃぶ台によりかかるようにして息をひきとっておりました。寒い冬の朝のことでした。ちゃぶ台にはわたしのためでしょう、食事の用意がしてありました。妻はあみものをしていたらしくあみぼうを手にしたままこと切れ、毛糸のたまがそばにころがっておりました。妻は赤ちゃん用のケープをあんでいたのでした」
倉沢さんの顔はかわらずおだやかだった。
「そう、妻はこれから生まれてくる子どものためにあみものをしながらわたしの帰りを待っておったのです。部屋には火の消えたストーブがありました。死因は一酸化炭素中毒でした。おそらく、わたしの帰りを待つあいだに、ストーブが不完全燃焼をおこし、中毒になってしまったのでしょう」
そこまで話したとき倉沢さんはとてもくるしそうな表情を見せた。
「しかし、ほんとうの意味で妻のいのちをうばったのはストーブの事故などではない、このわたしです。妻ばかりではない、生まれてくるはずだった子どものいのちもふくめてふたりの人間を死なせてしまったのはわたしなのです。わたしが家庭をまもるよき夫であれば妻も子どもも死なずにすんだでしょう」
倉沢さんはここまで話すとつかれきったようにフーッと大きく息をはいた。
「わたしが信仰の道に入ったのはそれから一年後のことでした。いま、わたしは信徒のみなさんに正しきおこないやら、救いの道などを説いておりますが、正直にもうしあげます。ほんとうのわたしはそんな資格のない人間なのです」
「もう、おやめください、先生」
そう声をあげたのは三浦さんだった。三浦さんは口をキッとむすんで泣くのをこらえるような表情をしている。
倉沢さんは三浦さんに向かって、かるくほほ笑んだ。
「わたしはこの道に入って五十年をすぎました。けれど、いまだただひとりの人さえ救いの道へみちびけたとは思っておりません。これがわたしの実感なのです」
倉沢さんがふいにこうすけとぼくのほうを見た。なにを言われるのかと、ちょっとドキッとした。
「わたしはきょう、もしかしたらはじめてだれかを救えるかもしれない、という機会をあたえられました。ふたりの少年がそれをもたらしてくれたのです」
こうすけとぼくが?
みんなの目がぼくらに向けられるのがわかって、はずかしかった。
倉沢さんはゆっくりとチャペルにいる人たち全員の顔を見ていった。
「わたしがこれからしようと考えているおこないはとくべつな許可をえた者でなければしてはいけないことなのです。しかし、わたしは主に問いかけました。わたしにそれをすることをお許しいただけるか、と」
それってヴァンパイア退治のこと? 司祭さんは決心してくれたのだろうか。
倉沢さんは祭壇の十字架に目をやった。
「主のおゆるしがあった、とわたしは信じます。この町のみなさんのために、そしてわたし自信の罪をあがなうためにもいまこの町を支配しつつある悪魔に立ち向かわねばならないときが来たようです」
倉沢さんは天井を見上げた。シュウジのあばれる音が聞こえてくる。
「人が人を救うために立ち上がらなければ、絶望したひとびとの心に悪魔がつけこむやもしれない。悪魔をはびこらせないためにも、わたしは行くことにきめました」
倉沢さんはじっと立ちつくす三浦さんに言った。
「三浦くん、準備を手伝ってくれないか。悪魔をはらいにいかねばならぬ」
ぼくはこうすけと顔を見あわせた。ぼくらのねがいがかなった。だけど、こうすけの顔にはほっとしたようすは少しも見られない。それはぼくもおなじ。これからどうなっていくのか、ほんとうにヴァンパイアをたおせるのか、それがしんぱいだ。
そのとき、シュウジの声が外からとどいた。
『もうすぐ日がくれるぞ~。おれたちの時間がはじまるぜ~』
あいつ、調子にのりやがって。
「先生。なにを用意すればいいでしょう」と、三浦さんがきいた。
「聖水をフラスコにつめてくれんか。あと十字架と聖書をバッグに。ロザリオもな。わたしは地下の書庫へ行ってくるのでな」
あっ、やばっ、こんなときなのにおしっこしたくなってきた。
ぼくは三浦さんにこっそりきいた。
「すいません。トイレってどこですか」
三浦さんはちらっとぼくを見おろし、めんどうくさそうに答えた。
「廊下の奥の階段をおりて右」
ぼくは司祭さんのあとにつづいてせまい階段をおりた。古びた木の階段はてらてら光っていて、歩くたびにミシミシ鳴る。地下はかべもゆかもコンクリートでできていて、黒ずんだドアの奥のトイレはうすぐらく、ゆうれいでも出そうでこわかった。ぼくがすばやく用をおえて出ると、こうすけがいた。こいつもいつの間にか倉沢さんのあとをついてきたみたいだ。
「いかん。きみたちは上にいなさい」
倉沢さんはぼくらを見つけるときびしい声を出した。
こうすけが言い返した。
「ぼくにもなにか手伝わせてください」
倉沢さんはほほ笑んだ。
「いいや。ここへ来てきてくれただけであとはじゅうぶんだよ」
「まだ、じゅうぶんじゃありません」
司祭さんは笑いながら肩をすくめた。
「あいかわらずきみはがんこだね。それじゃあ、さがしものを手伝ってもらおうか」
倉沢さんはリングにとおされたカギたばのキーを使い、書庫の重そうな鉄とびらを開いた。
「この書庫は火災やどろぼうをふせぐためにとくに厳重なつくりになっておる」
つぶやきながら、かべのスイッチを入れるとぼんやり明かりがともった。せまい部屋のかべに書棚がはりつくようにならび、いちばん奥に大きな金庫があった。室内にはカビくさくてひんやりした空気が立ちこめている。まるで穴ぐらのような部屋だ。
司祭さんは小さな木のふみ台に乗ると、書棚の上のほうからぶあつい書物を引きぬいた。書棚の横のつくえに書物を置き、こんどはルーペを取り出した。ルーペごしに書物のページをにらみ、なにか調べだした。
ぼくもうしろからのぞいてみたら、ページのすみからすみまでびっしり文字がならんでいる。アルファベットにはちがいないけど、もようのような変わった書体だ。
「ラテン語かもしれない」
こうすけがつぶやくと、倉沢さんはルーペをのぞいたまま言った。
「そう。わたしはこの教会に保管されている古文献の読解にずっと取りくんでおってな。神学校時代につかったラテン語辞典を引っぱり出してきてはうんうんうなりながら読みつづけてきたんだよ」
なにかをたしかめおえたらしい司祭さんはメモを取ると、よいしょ、とつぶやきながら奥の金庫へ進んだ。メガネをしっかりかけなおし、金庫の前にしゃがみこむとメモを見ながら、とびらのダイヤルをカチッカチッと左右にまわしては首をかしげている。ダイヤルをまわす。メモを見る。そのくりかえしだ。
こうすけもぼくも身動きひとつせず、倉沢さんの手もとを見まもっていた。ずいぶん長い時間がたったように感じられたころ、金庫のとびらが開いた。
「きみたちの手を借りたい。これを持ってくれんか」
三人がかりで金庫から引っぱり出したのは長さが五十センチくらいある細長い包みだった。黒くてなめらかで厚い布にくるまれた箱のようなものだ。腕にズシッとくる重さがある。太いひもが十文字にむすばれ、むすびめに小さな銀色の十字架が封印のようにくくりつけてある。
ぼくらは三人でそれをゆっくりつくえの上に乗せた。倉沢さんはこんどは小さなナイフを取り出すと、お祈りの言葉をつぶやきながらまず封印の十字架をていねいに取り外し、ひもを切った。くるんである布をはがそうとして倉沢さんは苦心しているようだ。
「いかんな。長年しっかりくるんであったせいか、生地どうしがくっついておる」
「水でぬらしてみたらどうですか」と、こうすけが知恵を出した。
なるほど、とつぶやき倉沢さんはどこからかカップに水を満たして持ってくると、お祈りをつづけながら生地に少しずつ水をかけていった。
ぼくら三人がかりで布をひきはがしにかかった。バリバリッと音がしそうなほど生地はかたかった。現れたのは細長い木の箱だ。倉沢さんがふたを開くと、その中にさらにひとまわり小さい箱が。こんどは木箱ではなく、銀色ににぶくかがやく金属でできているようだ。包みが重かったのはこの箱のせいかもしれない。
かまぼこ型にゆるくアーチをえがくふたには十字架にぶどうのつるくさのようなもようと、小さな天使のレリーフがきざまれている。ふたについている留め金をはずすと、赤い布につつまれた〝なにか〟がおさまっていた。倉沢さんはおごそかな手つきでそれを持ち上げた。またお祈りをとなえながら倉沢さんの手がなかみをあきらかにした。
それは黒ずんだ銀の十字架だった。たて木が三十センチ、横木が二十センチくらいの大きさで、たて木の下の先が短剣のようにするどくとがっている。シンプルなつくりだけど、十字がクロスする部分には小さく丸いメダルがはめこまれ、メダルの中心にはさらに小さな十字架のレリーフがきざまれていた。
ぼくたちはしばらくのあいだ十字架に見入っていた。気のせいか、十字架がときおりきらっと光をはなつようにも見える。
「この十字架はとくべつなものなんですか」
こうすけの問いに倉沢さんはうなずいた。
「古文献の記述によれば百年以上むかしにこの国へ持ちこまれたものだ。悪霊をたおす力をひめているという。じっさいにこの十字架を以て悪霊を退散させた事実もあるらしい」
「ふつうの十字架とどこがちがうの?」
ぼくにはチャペルの祭壇にあった十字架のほうがよっぽどりっぱに思える。この〝じみな〟十字架にどうしてそんなパワーがひめられているのか、ふしぎだった。
倉沢さんは両手で十字架を頭の上にかかげるようなしぐさをして答えた。
「この中には鋳造のさい、あるものが鋳こまれたという」
「あるものって?」
「くぎのかけらだ」
くぎのかけら? それがそんなにとくべつなものなのだろうか。
倉沢さんがぼくらのほうを見た。目の中に暗い光のようなものがやどっている。
「ただのくぎではない。イエスの身を十字架に打ちつけたときに用いられた三本のくぎ。そのうち一本のひとかけら、と文献にはある」
ぼくはなにかの絵で見たキリスト処刑の光景を思いうかべた。キリストの両手と、かさねた両足はくぎで十字架に打ちつけられていた。じっさいに人のからだにそんなざんこくなことがおこなわれたなんて思うと……背中がぞわぞわっとしてくる。
「聖遺物か……」と、こうすけがつぶやいた。
せいいぶつ? なんだ、それ?
こうすけがおしえてくれた。
「キリストの処刑にかかわるさまざまな品がのこされているって言い伝えがあるんだ。キリストの遺体をつつんだとされる聖骸布が有名だけど、ほかにもキリストのわき腹を刺したヤリとか、頭にかぶらされたイバラのとげとかも、のこっているって本で読んだことある。でも、司祭さま、なんでこんな貴重なものがここにあるんですか」
倉沢さんは十字架を箱にはもどさず、赤い布にじかにつつみなおしながら答えた。
「この十字架をうばい取ろうとする一派があったということだ。もちろん、海の向こうでの話だ。死者まで出るほどのあらそいのすえ、布教のため日本へ向かったある宣教師がこれを運び出したのだという。これをうばおうとしたのはおそらく悪魔に組する一派であろう。遠くはなれた極東の島国にかくせば敵の目からのがれられる、その宣教師はそう考えたのかもしれん。それがさらに日本でいくつかの教会や修道院をへてここへうつされた理由はわたしにもよくわからぬ。ただ、司教からは書庫にある貴重品の管理はくれぐれも厳重に、とは言いつかっておったが」
ぼくらは十字架のつつみをかかえた司祭さんとともに上にもどった。
「先生。準備がととのいました」
倉沢さんは三浦さんの顔にじっとまなざしをそそいで言った。
「この教会のことはきみにたのんだよ」
「先生。わたくしにもお供させてください」
倉沢さんはうなずかなかった。
「ならん。礼拝堂にいる人々はこれから三浦くんがまもらなければならない。わたしがここを出たのちはそれがきみの役目だ」
倉沢さんはこんどはぼくらをふり返った。
「きみたちも三浦くんの言うことをよく聞いて、いろいろ助けてやってくれないか」
「ぼくも行きます」と、こうすけが強く言い返した。
司祭さんの声がきびしいものに変わった。
「だめだ。これからわたしが向かう場所は子どもには危険すぎる」
「おとなにとっても危険すぎると思います」
倉沢さんはにが笑いした。
「きみはあいかわらず理論家だね。だが、わたしがこれからやろうとしていることはいのちがけの仕事になるだろう。きみたちを連れていくことはできん」
そう言われて心の中でホッとしているぼくがいた。ヴァンパイアがうようよしているあのマンションにもどるのはこわい……。
こうすけは引きさがらなかった。
「ぼくらがここへ来たのは、司祭さまにすべてをおまかせして、自分たちはかくれていようとか、そんなことを考えたからじゃないんです」
ぼくはこの教会にひそんでびくびくしている自分を想像してみた。倉沢さんがひとりでヴァンパイアをたおしてくれることをねがいながら……。
また、天井から屋根をふみ鳴らすシュウジの足音が聞こえてきた。
『おまえら、どうせびびってんだろ。くやしかったら出てこいよ~』
なんだか、さっき感じたシュウジへの同情がうすれて、むかついてきた。あんなやつらに負けたくないって思いがわいてくる。
それにぼくのかあさんもとらえられている。ぼくだってひとりであの〝ヴァンパイアの城〟から脱出してきたんだ。その体験を思い出しながら、ぼくは言った。
「司祭さん。ぼくはヴァンパイアがいる建物のようすがわかります。ぼくがそこまで案内します」
ほんとはそんなに強くないぼく。だけど、〝なにか〟が、ぼくにそう言わせていた。
倉沢さんは目をとじたきり、だまっている。
ぼくはつづけて言った。
「ぼくのかあさんもあいつらにつかまっちゃったんです。なんとかして助けたいんです」
倉沢さんはぼくらの顔をしずかに見つめていたけど、やがて低い声で言った。
「では、案内だけしてもらおうか。ただし、とちゅうまでだ。おそらく警察のかたがたも警戒に出ているだろうから、悪魔の巣窟の手前できみたちを警察のかたにあずける。あとはわたしひとりの仕事だ。いいね」
ぼくはこうすけと顔を見あわせた。こうすけは目だけでうなずいた。これ以上ぼくらがなにか言えば、倉沢さんは連れていってくれないだろうっと思った。
三浦さんが黒いバッグを倉沢さんに差しだした。
「それはぼくが持ちます」
こうすけがバッグを受け取った。倉沢さんは片手に十字架のつつみをかかえている。
「司祭館の裏に車がある。それを使うとしよう。外へ出たら、わたしからけっしてはなれぬようにな」
そして司祭さんは三浦さんに言った。
「わたしたちがここを出たら、すぐとびらのかんぬきを閉じ、あとはすべての窓に聖水をふりかけなさい。窓べに十字架を立てるのもわすれぬように」
三浦さんは胸の前で十字を切った。
「先生がたに主のご加護ありますように。エイメン」
「きみにもな」
倉沢さんはこうすけの手にあるバッグからフラスコを取り出した。フラスコといっても、理科室にあるガラスのものとちがって、銀色の水筒のような容器で口にはコルクで栓がしてある。
三浦さんがとびらのかんぬきに手をかけ、ぼくらのほうをふり返る。倉沢さんの声がおごそかに告げた。
「よいか。では、参るぞ」
とびらが開いた。
ぼくはなんだかひざがカクカクしてきてうまく歩けない。やっぱ、安全な場所にかくれていたいって気もちもまだある。だけど……もうあとには引けない。
ぼくら三人は倉沢さんを先頭に霧の中へ足をふみ出した。うしろでとびらが閉まり、かんぬきのかかる音がひびいた。
魔界への突入
SIT第一班は正面エントランスのかべぎわに待機し、突入の指示を待っていた。ガラスとびらの一部に人がくぐりぬけられるほどの大きさだけ前もって粘着テープが貼りつめられ、隊員のひとりがハンマーを手に身がまえている。
一班のメンバーは五人。ふだんは通常の警察職務に従事し、緊急時にSITとして招集がかけられるが、これまでなんども同じメンバーで突入や犯人逮捕の訓練を受けている。現場では言葉をかわさなくともかんたんなジェスチャーだけで意思を通じることができた。
あたりは立ちこめる霧とせまりくる夕ぐれのため、視界はかなりわるくなっている。各自LEDライトの用意はしてあるが、暗くなってからの突入は危険が倍増する。隊員のだれもが一分でも早く突入してかたをつけたいとねがっていた。言の葉署が襲撃されたことで、かれらの胸にはなかまがやられたという思いが強い。隊員たちはまだ見ぬ敵に闘志を燃やしていた。
無線が入った。
『突入せよ』
『了解』
五人がいっせに動いた。ひとりがハンマーをふりあげ、粘着テープ部分に一撃をくわえた。にぶい音を立ててガラスはくだけたが、テープの粘着力にささえられ飛びちることはない。われたガラスで隊員が負傷しないための措置だった。
ふたりがかりですばやくテープを引きはがすと、人がくぐれるだけの穴がきれいに開いた。
五人は警棒を手にマンション内へ突入した。全員が腰のホルスターにけん銃を携帯しているものの、敵が銃器を所持しているかどうか確認できるまで、けん銃の使用はひかえねばならなかった。
防弾防刃ベストと強化プラスチック製のフェイスカバーつきヘルメットに身をかためた五人はあたりにゆだんなく目をくばりながら進んだ。
管理人室と表示されたドアがある。ひとりがドアのわきに立ち、援護の体勢を取りながら、もうひとりがすばやくドアを開けた。せまい室内に人のすがたはない。
ついでボイラー室へ通じるスチールのドアを開ける。三名が入り口でまわりを警戒し、二名がLEDライトで行く手を照らしつつ、用心深い足どりではしご段をおりた。ボイラー機の音が空気をゆするように、にぶくひびいている。小さなつくえの上に大きな水槽。
なぜ、こんなところに水槽が? いぶかしく思ったものの、にごった水の中に人がかくれているはずもなく、そのまま見すごし奥へ進んだ。大きなポリバケツが取りのこされたように置かれている。あの大きさなら人がひそんでいられるかもしれない。ふたを取ってみようと手をのばしかけたとき、うしろでべつな隊員の声がした。
「ここは異常なさそうだ。行こう」
ふたにのばしかけた手を引っこめ、ボイラー室を出た。
第ニ班は一班とほぼ同時に非常ドアから突入した。中へ入るとすぐ階段のコンクリ製手すりに五人は身をよせ、上階の気配をうかかがうのをおこたらなかった。せまい階段口に屈強な男たちがひしめいた。かれらのいちばんうしろに松本刑事がいた。
隊員のひとりが一階フロアに通じるドアを指さしオッケーの合図をした。松本は無線機をつけていないのでわからなかったが、一階フロアは異常なしとの連絡が第一班から入ったようだ。松本をふくめた六人はかべぎわに身をよせ階段を上がった。
踊り場の手前ではとくに慎重になった。二階フロアに出るドアがある。SITはふたりひと組の体勢で援護しあいながら二階廊下へぬけ出た。松本はSITの背後についたままチームワークのとれたかれらの動きに感心していた。だれかが動けばかならずほかのメンバーたちがまわりに目をくばりサポートしていくのだ。
L字型におれまがる廊下をはさんで各世帯のドアがならんでいる。SITはドアをつぎつぎ開けて室内をチェックしていった。いずれの世帯にも人かげはなかったが、テーブルに食べかけの食事がのこされた部屋もあり、住人がとつぜん消えうせたことを思わせた。カギもかけずにみんな外出しているなどありえない。住人たちはどこかのフロアに集められ人質になっているのかもしれない。
このマンションはぜんぶで八十世帯が入る。一世帯平均四人家族としても三百人をこえる人たちが住んでいるはずであり、日曜だから事件発生時に在宅していた人も多いだろう。そんなにおおぜいの人たちを人質として監禁しておけるスペースがマンション内にあるのだろうか、と松本は疑問をいだいた。
二階フロアの確認をおえた。無線で異常なしとの連絡を入れて、非常階段までもどり三階へ向かう。そこでも同じ手順で各部屋のチェックをおこなっていく。ここも無人かと思われたとき、異変があった。ひとつだけ開かないドアがあったのだ。
隊員たちは目くばせしあう。ドアの両わきに身をひそめ、腕をのばしてチャイムを鳴らす。たまたまカギをかけて外出中だったのかもしれない。それでも用心はおこたれなかった。松本もかべに背中をはりつけるようにしてドアを見まもった。
ドアがほそめに開けられた。ガチャンッと防犯用チェーンがのびきり、すきまから顔をのぞかせたのは、まだおさない少女だった。目におびえの色がある。ヘルメットをつけた隊員たちの異様なすがたをこわがっているのかもしれない。
「わたしが話してみます」
松本が進み出た。二階堂太一のような小学生たちとこれまでかかわってきたので、子どものあつかいはこころえている。
「おじょうちゃんはここのおうちの子?」
少女は首を横にふった。
「どうしてこのお部屋にいるの?」
「にげてきたの」
松本はピーンと背すじを緊張が走りぬけるのをおぼえた。この子の口から敵の正体をさぐり出せるかもしれない。
「だれからにげてきたの?」
「おばけ」
おばけ?
太一が言っていた吸血鬼のイメージが頭をよぎった。しかし、いまはドアを開けさせ、少女を保護するのが最優先だ。
「おじさんたちはおまわりさんで、おじょうちゃんを助けに来たんだ。ほかにだれかいるのかな?」
「おじいちゃん」
松本は背後のSITメンバーをふり返った。早くドアを開けさせろ、メンバーの目がそう告げていた。
「おじょうちゃんとおじいちゃんを助けてあげるから、ドアを開けてくれるかい?」
少女はうなずき、いちどドアが閉じた。カチャカチャとチェーンをはずそうとする音。
松本は考えた。子どもの目におばけと映る犯人像とは? 恐怖心がそう見せたのか、あるいはほんとうに人間ばなれしたすがたをしているのか。まさか、黒マントをひるがえしたドラキュラではあるまい……。
ドアはなかなか開かない。おさない手ではチェーンをはずすのに手まどっているのかもしれない。自分でやらずにおじいちゃんという人にたのめばいいのに。
このとき、松本はきみょうな感覚におそわれた。このシチュエーションになぜか記憶がある……はて、どこで経験したことだっけ? 閉ざされたドア。なかなかはずれないチェーン。この既視感はなんだ。おれはどこでこのシチュエーションを経験したのだっけ?
ようやくドアが開き、松本を先頭に室内へなだれこんだ。全員がためらうことなく土足のままだ。奥のリビングに少女が言ったとおり老人がいた。ソファにぐったりすわりこんでいる。やせほそり、とても健康そうには見えない老人で、タオル地のガウンには血がこびりついていた。
「だいじょうぶですか」
松本は老人の前にかたひざをつき、声をかけた。
「けがをされたんですか」
老人はよわよわしく首をふり、かすれた声を出した。
「逃げてくるとちゅうで……たおれている人につまずいてしもうた。血はそのときついたと思う」
「だれかけが人がいるんですね? いったい、なにがあったんですか」
老人は息も苦しそうで、呼吸のあいまにぽろぽろと言葉がこぼれ出るように答える。
「あいつのしわざだ。上にいるおそろしい男。みんな、おそわれた。わしとこの孫むすめだけがやっと逃げてこられた」
そこまでしゃべると、老人はぐったり頭をたれた。松本は枯れ枝のような老人の手首をとり、脈拍をたしかめた。ひどくつめたい腕で、脈もほとんど感じられない。こんな状態で意識がはっきりしているなんてふしぎだ、と松本はいぶかったが、すぐSITたちに告げた。
「すぐ病院へつれていかないと」
隊員のひとりが無線機でしばらく通話したのち言った。
「いま機動隊員が上がってきます。かれらに外まで運ばせましょう」
松本はかたわらでうずくまる少女にきいてみた。
「おばけってどんなすがたをしていたの?」
「あのね、お目めがまっかでね。長い歯がとがってるの」
まさに吸血鬼だ、と思ったが、おびえた少女の目に凶悪な犯人のすがたがそう見えただけのことかもしれない。
機動隊員がふたり現れた。
「動けますか」
老人は機動隊員の肩につかまり、立ちあがったがすぐによろけてしまう。
「おぶっていきましょう」
老人とその孫だという少女はそれぞれ機動隊員のたくましい背中に背負われた。
「いま、エレベーターを使うのは危険です。非常階段を行ったほうがいい」
松本の言葉に隊員たちはうなずいた。きたえぬかれたかれらなら、子どもや老人を背負って階段をおりるくらいたやすいことだろう。
「よし、われわれは捜索をつづける」
松本たちは機動隊員が非常口へむかうのを見とどけてから、廊下をさらに奥へと進もうとした。そのとき老人のしわがれた声が聞こえた。
「助かってよかったなあ、メグちゃんや」
かれらのすがたはスチールドアの向こうへと見えなくなった。松本はSITのメンバーに追いつこうとしてふと立ちどまった。なにかが頭の中によみがえる。閉じたドア。なかなかはずれないチェーン。おさない女の子。よぼよぼの老人。メグちゃん……。
しまった、二階堂太一の証言だ! おれはなんてまぬけなんだ。どうしてすぐ気づかなかったんだ。
太一くんにおそいかかった女の子。追いかけてきた老人……。
松本刑事は非常口をふり返った。ドアは閉ざされ、その向こうからは物音ひとつ聞こえない。かれは先を行くSITによびかけた。
「すぐ来てください! ふたりがあぶない!」
隊員たちはいぶかしげに松本を見た。
「なに言ってるんだ。老人と女の子ならだいじょうぶだよ。機動隊員がふたりもついているんだから」
松本はわめきながらすでに走り出していた。
「ちがう、ちがう! あぶないのは機動隊員のほうなんだ!」
非常口のドアを開け、踊り場へ足をふみだした。松本の右手はスチール製の特殊警棒をしっかりにぎりしめている。かべにそい、階段をしんちょうな足どりでおりていく。二階の踊り場まで来たとき、たおれているふたりの機動隊員の背中が見えた。あたりに血だまりができ、老人と少女のすがたはない。
松本は警棒をかまえたまま、機動隊員に歩みよった。
「だいじょうぶか!」
隊員は首のあたりから出血しているようだ。松本はかがみこんで隊員の脈をたしかめた。トクントクンといういのちのリズムが伝わってくる。まだ息がある、早く病院へ運ばないと、いや、その前に止血だ。
ちくしょう! 松本は心の中で毒づいていた。二階堂太一の言ったことはほんとうだったんだ。やつらは吸血鬼だったんだ。で、なけりゃ、老人や子どもにこんなまねができるわけないじゃないか。
たおれている隊員の応急処置にとりかかろうとしたそのとき、首のうしろにポタリとなにかなまあたたかいものが落ちたのを感じた。反射的に首に手をやり、たしかめると指先に赤いものがこびりついている。
血だ……。なぜ、天井から血が?
見上げると天井にあおむけにへばりつく老人と目が合った。老人はにやりと笑った。つぎの瞬間、相手は頭上からおそいかかってきた。松本は老人のからだを受け止めたままあおむけにたおれてしまった。ヘルメットとぶあついベストのおかげで大きなダメージはまぬがれたものの不覚だった。
すぐ目の前に老人の顔がある。カッと開いた口だけがしなびた顔とうらはらに力強い野獣のようだった。するどい牙はあきらかに松本ののどぶえをねらっている。松本はとくいの柔道の寝技を用いて形勢を逆転させようとこころみた。しかし、やせほそった老人のパワーは強じんだった。
なんてこった、柔道三段のおれがこんな老人相手に大苦戦するなんて……。
格闘のさなかに松本はさとった。これは老人の肉体が持つパワーではない。邪悪で凶暴な目に見えないなにかが老人にみかたしているのだ、と。
牙はせまってくる。それは唾液にぬれて白くかがやき、肉食獣の牙そのものだった。
松本はかろうじて自由になった右手の警棒を真横にして老人の口にかませた。いきおいあまった牙はスチール製の警棒をがっしりとかんだ。一瞬、相手がひるんだ。そのすきをのがさず、松本は柔道の動きで相手のからだをはねのけ、すばやく立ちあがった。
老人は警棒を口からはきだそうとしたが長い牙がわざわいして果たせず、もがいている。松本は敵との間合いを取り、身がまえた。そのとき、すさまじいいきおいで腰に飛びついてきたものがある。
な、な、なんだ?
よろめきつつあとずさりした。コンクリのかべに肩がぶちあたる。相手の正体が知れた。あのメグという少女だ。まだ小学校にも上がらぬような女の子がおれをかべぎわへ追いつめている。松本はつめたいあせが背中を伝うのを感じとった。
メグはファーッと敵をおびやかすようなうなり声をあげ、小さな牙をむきだした。
松本はありったけの力をこめてメグを腰から引きはがした。
いっぽう老人ははき出した警棒を両手でつかむと、さして苦労も見せず〝く〟の字型にへしまげてしまった。カランッと音をたて、まがった警棒が床にころがった。それを見て松本ははじめて恐怖にとらわれた。
老人や子どもでさえ、これだけの力を発揮している。と、なれば、上の階にはどれほど手ごわい敵が待ちかまえているのか、と背すじがひえていく思いがした。
「どうした! だいじょうぶか!」
上からSITのメンバーがかけおりてきた。
松本はさけんだ。
「あぶない! 近づくな!」
老人は早くも起き上がっていた。はだけたガウンからのぞく胸板はしわくちゃの古紙をはぎあわせたようにやせて貧弱だった。しかし、老人は暗いほらあなのような口からほこらしげに牙をみせびらかし、笑った。
「ほら、見てくれ。わしはこんなに強くなったぞ。人の血を吸うたびにわしのからだはどんどんよみがえっていく。もっともっと血を吸って元気になってやる」
SITの隊員たちはあっけに取られたように老人を見ていた。
「なんだ、あのじいさんは。取りおさえろ」
老人は信じられぬほどの跳躍力を見せて、二メートル以上の高さがある天井に飛びついた。つづいてメグが階段の手すりに立ちあがるとジャンプした。ふたりはヤモリかクモのように両手足を使って天井をはった。
「なんのギャグだよ、あれは」
老人とメグは器用に手足をうごめかし、上階へとはっていく。松本にもSITにもなすすべはなく、ただ見ているしかなかった。やがて、かれらは松本たちの死角に入って見えなくなってしまった。
「ともかく負傷者を運ばないと!」
隊員たちはたおれている機動隊員にかけよった。
「よし、まずヘルメットを取ってやれ」
ぐったり動かない機動隊員の肩と背中をふたりがかりでささえ、ヘルメットをはずしにかかった。と、負傷者の手足がかるくけいれんするのがわかった。声をかけるとあきらかに反応をしめし、SIT隊員たちは手足を持ちあげ運び上げる体勢をつくった。
松本は息をふき返した機動隊員のようすに違和感をいだいた。
なにか変だ……。
その機動隊員は目を開けると、SIT隊員たちの手をはらいのけ、ひとりで立ちあがった。
「お、おい、だいじょうぶなのか」
髪をみじかく刈りあげたタフな顔つきの機動隊員は自らの首に手をあてた。そこにはかみ裂かれた傷がなまなましくのこり、血がこびりついている。かれは自分の手についた血を舌先でなめた。
SITのメンバーはいぶかしげにかれの行動を見ていた。松本はこのときすでに気づいていた。なぜ、あの老人や少女に人間ばなれした動きができたのか、を。吸血鬼にかまれた者は人間ではなくなるのだ……。
「あぶない!」
松本が声をあげたが一瞬おそく、よみがえった機動隊員はSITのひとりにおそいかかっていた。もうひとりの機動隊員もいつの間にか立ち上がり、かたわらのSIT隊員に飛びかかった。
せまい踊り場は混乱におちいった。日ごろ、きたえられ、凶悪な犯罪者に立ち向かっているかれらでさえ、この事態になすすべがない。いまや得体の知れないモンスターと化したふたりの機動隊員を取りおさえようとSITのメンバーは必死に闘った。
いったんはこの場から退避し、態勢を立てなおすしかない、と松本は考えた。
× × ×
そのころ一階のフロアでは十人の機動隊員がそれぞれの持ち場についていた。かれらの任務はだれかが現れたらすぐ身がらをおさえること。たとえ相手が一般住人に見えてもゆだんするな、との指示が出ている。重い鉄のドアに閉ざされた非常階段の上で起きている異変にかれらはまだ気づいていなかった。
エントランスホールの奥で警戒にあたっている隊員にはさきほどから気にかかっていることがあった。つきあたりにボイラー室と表示されたドアがあるが、それがなんども細めに開いたり閉じたりをくりかえしているように見えるのだ。
最初はドアがきちんとしまっていないからか、と思った。しかし、このフロアには風の通りもなく、ボイラー室のドアは見るからに重そうなスチールドアだ。あんなにふらふらと開いたり閉じたりするのは不自然だ。
隊員はドアのほうばかり見ていた。やはり、ときおりスーッと開いてはしばらくすると閉じてしまう。人の手がくわわっているのはあきらかだ。だれか住人でもかくれているのだろうか。しかし、SITがこのフロアはすべてチェックし、人のすがたはなし、との結果をえているはずだ。
かれは報告を入れようと無線のスイッチに指をふれた。つぎの瞬間イヤホンから笑い声が耳にとびこんできた。それは低く陰険に人をあざ笑う声だった。声のぬしが警官であるはずがない。
なにものかが無線にわりこんでいる……もしそれが犯人グループだったらこちらの動きがつつぬけになってしまう。うかつに無線は使えないぞ。
かれはしかたなく持ち場をはなれてなかまのほうへ歩いていった。
「無線おかしくないか」
「ああ。変な笑い声が入ったな」
かれは同僚にボイラー室のことを伝えた。
「だれもいるはずないんだけどな」
「気になるんでちょっと見てくる」
そう言いのこすときびきびした足どりでボイラー室のドアに近づいていった。ドアに顔をよせ耳をすませてみる。かすかに機械がうなるような音が聞こえるのみだ。思いきってドアを開いた。階段の下はまっくらだ。かれへ手でかべのスイッチをさぐりあてた。あかりがつくと低いはしご段をおりた。
ドアはひとりでに閉じた。
(なんだ、あのドアは重みでかってに閉じるのか。じゃあ、さっきから気にかかっていたことはたいしたことじゃなかったんだ)
そうひとり合点したものの、いちおうは奥までたしかめておこうと足を進めた。
「だれかいるのか」
声がかべにあたって反響する。人がいるようすはない。よごれた水槽と大きなふたつきポリバケツ。この部屋には場ちがいな気はするが、かといってとくにあやしいものではない。もどろうとしてあることに気がついた。
あのドア……。ひとりでに閉じることはありえるが自然に開くということはあるのだろうか。
かれはふり返るともういちどボイラー室を見まわした。大きなボイラー装置が音を立てているほかになんの動きもない。そのときかれの目にポリバケツのふたがズルッと動くのが見えた。
× × ×
おそいな、あいつ。ホールにいるもうひとりの隊員はなかまが入っていたボイラー室のほうへ首をのばした。しばらく見まもってみたが出てくるけはいはない。あそこはせまい部屋のはずだ。ようすを見るだけならそんなに時間のかかるわけがない。なにをしているんだろう。
だれもいないはずの部屋でなにかトラブルってことはありえないが……しだいにじっとしていられなくなってきた。もし問題が発生していればこちらの責任にもかかわることだ。ちょっとなかまのようすを見てくるだけなら無断で持ち場をはなれても問題ないだろう。それに、さわぎたててなんでもないとわかったら、かっこわるいし。
かれは目だたぬようボイラー室へ向かった。ドアを開けて、あれっ? と思った。まっくらなのだ。
あいつ、暗闇でなにしているんだ?
かべのスイッチをさぐりあてて明りをつけた。
「おい、どうした。なにかあったのか」
よびかけても返事はない。はしご段をおりてみた。どこにもなかまのすがたは見えない。
そんなばかな、あいつ、どこへ消えたんだ?
ガラスの水槽。大きなポリバケツ。へんなものが置いてあるな。人がかくれられる場所などない。ただひとつ、あの大きなバケツになら人間ひとりくらいは入れるかも。
だが、とすぐ打ち消した。子どものかくれんぼじゃあるまいし、なんでおとながあんなところへ入らなきゃいけないんだ?
それでもねんのため、ふたを開けてみた。
瞬間、息をのみこんでしまった。黒いヘルメットが見えたのだ。
「どうした!」
なかまの隊員は手足をおりまげた姿勢で中へ押しこめられている。肩にふれ、ゆさぶってみたが、反応がない。まさか、自分からこんなところへもぐりこむはずがない。
いったい、だれがこんなまねを……。
かれはなかば血走った目で室内を見まわした。ふと見上げた目で天井のすみ、ちょうどボイラー機のかげになるあたりにそれが見えた。目と目が合った。それは人間の声を出した。
「あなたの……血をちょうだい」
それは超人的な跳躍力でおそいかかってきた。
奇跡の自動車
チャペルのまわりは霧にとざされている。すぐとなりの司祭館までが遠く感じられる。ぼくは首が肩にめりこんじゃうんじゃないかって思うほど緊張している。こうすけはいつもと変わりないようす。
なんで、こいつはこんなに落ち着いていられるんだ? チョコ少女事件や首なし魔女のときもこうすけはひとりクールな顔で行動していた。まったく、ふしぎなやつだよな。
とつぜん、ぼくらの行く先に飛び出してきたものがある。シュウジだ。わざとらしく、大口を開け、するどい牙を見せびらかした。両手をつきだし、ひっかくまねをしてみせる。
サルかよ、こいつ!
シュウジは歯を鳴らすような声で言った。
「おまえら~どこへ行くんだよ~」
倉沢さんは重々しい声を上げた。
「そこをどきなさい。悪魔をはらいに行くのだ。そうすればきみの身も心も悪霊からときはなたれるだろう」
シュウジはカーッとのどを鳴らして地面につばをはいた。つばはなにかの薬品のようにぶくぶくあわだち、ジュッと消えた。
「おまえらに大公さまはたおせやしないよ~。大公さまは強いおかたなんだ~。神さまより強いんだぜ~」
また、タイコウさまかよ。ぼくはこうすけにそっときいてみた。
「タイコウさまってなんだろ?」
「小さな国を支配する領主。日本の歴史で言えば、とのさまみたいなものかな」
倉沢さんがほほ笑むのがわかった。
「ほう。そんなにりっぱなおかたなのかね。お目にかかるのがたのしみだな。ところで道をあけてくれんか。先をいそいでいるのでね」
シュウジはあかんべをしてみせた。目はまっかな血の色をしている。
「い~や~だ~ね」
倉沢さんは肩をすくめると、フラスコの水を指先につけ、シュウジに向かってふりかけた。
「全能なる父とその子イエス、そして聖霊の名のもとに命ずる。悪霊よ、去れ」
つぎの瞬間、信じられないことが起きた。シュウジの胸から肩にかけてふりかかった水が熱湯のようにゆげを立てはじめたんだ。
「熱、あつ、あつーい!」
シュウジはまるでほんものの熱湯をあびたみたいにバタバタとはねまわった。
倉沢さんが一歩進み出た。
「いまひとたび告げる。悪霊よ、この少年の肉体より去れ!」
シュウジは悲鳴を上げて、とびのいた。
かわいそうだけど、ちょっとざまあ見ろって気分。
「おまえら、おぼえてろよ! 大公さまに言いつけて、おまえらみんな、やっつけてもらうからな」
シュウジは負けおしみを言いのこして霧の中へ消えた。
倉沢さんは悲しそうな目でシュウジが消えた方角を見ていた。
「あの少年は心に大きな痛みと苦しみをかかえておったのだろう。悪魔はそこへつけこみ、その人の心を支配してしまう」
大きな痛みや苦しみ?
みんなの前でズボンをぬがされそうになっているシュウジのすがたが思いうかんだ。泣きながら必死にていこうしていたシュウジ。
あいつはずっと苦しんでいたんだ。そこに悪魔がつけこんだ? リ―ナとのことを思い出した。シュウジは苦しさからのがれたくてリーナのしもべになってしまったのかもしれない。苦しさに負けてしまったんだ、きっと。さっき、あいつのことをざまあ見ろって思った自分がちょっといやになった。
それにしても司祭さんのふりかけた水ってなんなんだろう。
ぼくは司祭さんにきいてみた。
「その水ってヴァンパイアにきくの?」
「これは祈りによって清められた水だ。ふつうの人がふれてもなんともないが、悪霊やそれにとりつかれた者がこの水にさわると、熱湯にふれたような苦痛を感じてしまう」
倉沢さんがぼくらのほうをふり返り言った。
「悪魔とはけっしてからだをふれあってはいけない。ふれあえば、こちらの心の中にあるものを読み取られてしまうのでな」
ぼくはリーナに指を手当てしてもらったときのことを思い出した。あのときリーナはぼくがアイナのことを考えていることを言いあてた。やっぱ心を読まれていたのか……。ぼくは指先を見た。リ―ナがまいてくれたハンカチのきれはしはいつの間にかなくなっていた。
リーナのあのときのやさしさがほんものであってくれたなら、どんなによかったかなあ。せっかくステキな(こんな言葉つかうのはじめてだけど)女の子と友だちになれたかと思ったのに……ちょっと、ざんねんな思いもある……かな。
司祭館の裏に小さな車が置いてあった。ボディはあちこち傷だらけで、ワイパーのアームはさびついている。
「乗りなさい」
こうすけは倉沢さんのとなり、ぼくはうしろのシートにすわった。シートもぼろぼろでなかみのスプリングがはみだしている。
「この車はね、二十年いじょう前に信徒から寄贈されたものでな。いまでもなかなか重宝しておる」
倉沢さんはキーをまわした。カカカカッとたよりない音がひびくばかりでエンジンはなかなか、かからない。司祭さんがお祈りの言葉をとなえながらアクセルをふみこむと、ヴ―ンとうなってようやくエンジンがスタートした。車にお祈りがつうじたのか? まさか……ありえないと思うけど。
エンジンがかかり、アクセルをふんでも車は走り出さない。倉沢さんはいっしょうけんめいアクセルをふみこんでいる。
どうしたんだろ?
倉沢さんは低い声でつぶやいた。
「悪魔どもがわれわれの行く手をはばんでおるのかな」
ヴァンパイアが魔力でこの車を動かなくしてるってこと? シュウジがさっそく大公にぼくらのことを知らせたのかもしれない。あいつらの手がもうここまでのびてきたのか……。
とつぜん倉沢さんが顔をしかめた。
「いかん。サイドブレーキをはずすのをわすれておった」
……沈黙。
車はぶじにスタートした。霧の町は信号さえよく見えない。ほかの車ともまったくすれちがわない。つめたい氷にとざされたような光景に背中がぞわぞわしてくる。ヘッドライトの光が霧にあたると雪のかべのように目の前にせまって見えた。
車のスピードはひどくのろい。倉沢さんが安全運転をしているのか、この車がこれしかスピードが出ないのかはわからないけど。
とつぜん車の前に人かげが現れたのでドキッとした。倉沢さんがブレーキをかけ、車はゆるやかに止まった。まさかヴァンパイア? 気づくとぼくらの乗る車は何人もの男の人たちにかこまれていた。十五、六人はいる。若い人もおじさんもいるけど、みんな殺気だった顔をして金属バットや木刀などをかまえている。
おりろ、とどなる声が聞こえた。倉沢さんは肩をすくめて、言うとおりにするしかなさそうだな、とつぶやいた。
外に出たぼくらにみんながせまってきた。
「口をあけてみろ」
いばりくさった態度でひとりが言った。倉沢さんはおだやかな口調できき返した。
「どういうことですか。わたしたちになんの用です?」
「おまえらがばけものかどうかたしかめるんだ。牙があるかどうか見せてみろ」
いやだと言えば、バットや木刀でおそいかかってきそうなふんいきだ。ぼくらはしかたなく口を開けてみせた。
「よし。行ってもいいぞ」
ひと安心したら、なんだかむかついてきた。この人たちはなんでこんなにいばった態度でぼくらに足どめしたのだろう。
「あなたがたはいったいここでなにをしてるんですか」
倉沢さんの問いかけに、相手は肩をそびやかして答えた。
「おれたちは自警団だ。町をあらすばけものどもと闘うんだ。警察ももうあてになりそうもねえしな」
倉沢さんはかすかに首をふりながら言い返した。
「あぶないまねはやめたほうがいいですよ。そんな武器でかれらに立ち向かえるはずがない」
男たちはムッとしたようだった。
「だまりな、じいさん。おれたちはそこいらのへなちょこ男とはちがうんだ」
倉沢さんはぼくらをふり返った。
「時間がおしい。行くとしよう」
男のひとりが道ばたを指さしてつぶやいた。
「ばけものども。商店荒らしまでしやがって」
それまで霧にかくれていてよくわからなかったけど、このあたりには道路にそって何軒かのお店がならんでいる。男の人が指さす先に一軒の洋服屋さんがあって、ショーウィンドーがわれ、品物がちらばっていた。
でも、ヴァンパイアがどろぼうのまねするとは思えないんだけど……。
「だれか来るよ」
こうすけが声を上げた。みんなはいっせにこうすけの言った方角へ目をやった。霧の中にもやもやと黒っぽい人かげが近づいてくるのが見える。
ひとり、ふたり、さんにん……ぜんぶで三人の人かげ。ヴァンパイアなのか、それともふつうの人たちなのか。
おーい、と自警団のひとりが声をかけた。人かげが大きく腕をふってこたえるのが見えた。
ぼくはこうすけにささやいた。
「あれって、ヴァンパイアじゃないのかな」
「たしかめてみよう」
こうすけは司祭さんの車にかけよると、ドアミラーの位置を調整してのぞきこんだ。
「うん。人のすがたは三つ、ちゃんと映ってる」
ぼくもミラーをのぞいてみた。鏡の中に小さな人かげが三つ、ぼくらのいるほうへ向かってくるのが見える。よかった。あの人たちはヴァンパイアじゃないってことだ。
「助けを求めているのかもしれん」
倉沢さんがつぶやいた。自警団の人がもういちどよびかけた。
「おーい、だいじょうぶかあ」
人かげはしだいに近づきつつある。相手がまた手をふり返してきた。上半身をゆらすような変なふりかただ。また腕をふった。大きくゆらゆらと。なんか変だぞ。ほんとにふつうの人たちなのか。だけど人かげはミラーにちゃんと映っているし……。
霧の中から三人がすがたを現した。みんな同じくらいの身長で、まっすぐ姿勢をただしたままこちらへ進んでくる。女の人ばかり……って、まさか!
倉沢さんがさけんだ。
「いかん! 早く車に乗りなさい!」
三体のマネキン人形が地面に投げたおされ、そのうしろから牙をむいて三人のヴァンパイアがすがたを見せた。
なんてこった! 洋服店のショーウィンドーを荒らしたのはやっぱヴァンパイアたちだったのか。マネキンはあそこから持ち出されたんだ!
自警団の人たちは武器をふりかざして立ち向かったけど、あっという間に数人がのどに食いつかれ、のこる人たちは武器をすてて逃げ出してしまった。
ぼくもこうすけも車のドアへとびついた。シートに身を投げ出すようにして乗りこみ、ドアを閉めようとしたとき……。
しまった!
ぼくは女ヴァンパイアに足首をつかまれてしまった! のこる足を必死にけって追いはらおうとしたけど、ヴァンパイアの力は強い。車のドアに両手でしがみついた。だめだ! あっ、あっ、と思ううちにぼくのからだはたちまち車の外へずるずる引きずりだされていく。
地面に背中を打ち、うーんとうなりそうになったけど、声をあげるひまもなく、女ヴァンパイアの長い髪がバサッとぼくの顔にふりかかった。ヴァンパイアがのしかかってきた。つりあがった目はカーニバルのお面みたいで、長い牙がせまってくる。
いくら押しのけようとしてもかないそうにない。
ああ、もうだめだ。ぼく、血を吸われちゃうのかな。そしたらヴァンパイアになっちゃうのかな。どんな、気分だろう、ヴァンパイアになるのって。シュウジのやつはうれしそうだった。だけど、ぼくは……ぜったい、いやだ!
とつぜん、ヴァンパイアの顔がぼくから遠のいた。
「熱い、熱い、熱い!」
髪をかきむしりながら立ちあがった女ヴァンパイアがもがいている。倉沢さんがフラスコの聖水をふたりめのヴァンパイアに向かってふりかけるのが見えた。
「司祭さま、あぶない!」
こうすけの声がした。
倉沢さんのうしろからあらたなヴァンパイアがおそいかかろうとしていた。倉沢さんがふり返るのと同時にヴァンパイアは司祭さんの両肩をがっしりつかみ、車のボディに押しつけた。顔を近づけ、首にかみつこうとしている。
どうしよう。司祭さんがやられちゃう。
ぼくはとっさに車の中を見まわし、ダッシュボードの上にある聖書をつかむと、倉沢さんに手わたした。
「司祭さん、これをかませて!」
メグの口にクッションをかませて攻撃をふせいだことを思い出したんだ。
「主よ、おゆるしください」
倉沢さんはそうさけぶと、ヴァンパイアの口に聖書のかどを押しこんだ。本のぶあつさとかたい表紙に牙をはばまれ、ヴァンパイアはうろたえている。両手が司祭さんの肩をはなれた。そのすきに倉沢さんはフラスコの水を敵の顔めがけてふりかけた。
ヴァンパイアは聖書をはき出すと、苦痛のうめきをあげている。
「早く車の中に!」
倉沢さんは聖書をひろいあげ、ぼくらを乗せて車を発進させた。
ぼくはドアをロックしたけど、それでも安心できなくて、必死にドアを押さえていた。うしろをふり向くと……追いかけてくる!
三人のヴァンパイアが髪をふりみだして走ってくるのが見える。
「司祭さん、早く、早く! 追いつかれちゃうよ」
ぼくは思わず声を上げていた。倉沢さんがアクセルをふみこむのがわかった。エンジンがうなり、少しスピードが上がる。ヴァンパイアのすがたがしだいに遠ざかっていく。かべをはい上がったり、高くジャンプしたりはできても走るのはあまりとくいじゃないみたいだ……。
「いかんな。聖水をだいぶ使ってしもうた」
ハンドルをにぎりながら倉沢さんはこうすけにたずねた。
「聖書のなかみがぶじかどうか見てくれんか」
こうすけはひざの上で聖書を開いた。
「だいじょうぶです。表紙に歯型がちょっとのこってますけど」
倉沢さんは満足そうに笑った。
「あやつらもこの本には歯が立たなかったと見える」
ヴァンパイアとたたかう武器はフラスコにのこった水と聖書、そして十字架だけだ。ほんとにこれで司祭さんは勝てるんだろうか。
ぼくは窓に顔を押しつけるようにして霧につつまれた町を見ていた。
不死の男
正木隊長はいらだっていた。機動隊員の中に負傷者が出ているもようだ。だが、敵の人数や所持する武器などの正確な情報がなにも入ってこないのだ。第一班は三階へ移動、第二班からは住人が機動隊員をおそったのちゆくえふめいになった、との連絡があった。正木には首をひねりたくなる内容だった。かれは現状確認と援護のため、第三班とともに自分も突入することを決意した。
無線通信をおえた機動隊の指揮官が深刻な顔をしている。
「一階フロアでうちの隊員がふたり見えなくなったらしい。いったいなにがどうなっているんだかさっぱりわからん」
正木は非常口わきで待機をつづける第三班をじかにひきいてマンション内へ突入した。非常階段を進むうちに踊り場に血のあとを発見した。メンバーにたちまち緊張が走る。
一、二階はすでに機動隊が確保している。隊員がゆくえふめいというのが気になるがそれは機動隊にまかせるしかない。正木とSIT第三班は三階へ向かった。
無線を入れると第一班が応答した。
『五階にて容疑者らしき男を発見』
「たしかか」
『十二階に居住する男にまちがいありません』
「よし、身柄確保せよ。第三班もこれより向かう」
『了解』
正木はメンバーに言った。
「われわれも五階へ行く」
四階の踊り場をすぎたところで、爆竹を鳴らしたような破裂音がなんども聞こえた。正木たちは反射的にかべぎわへ身をよせた。
いまのは……銃声だ。犯人側が発砲したのか、それともSITのほうだろうか。正木は無線機のマイクにきいた。
「いまのはだれの発砲だ。第一班、応答せよ」
無線機の向こうは沈黙していた。とつぜん耳をふさぎたくなるほどの高笑いがイヤホンを通して流れてきた。正木はほとんど激怒し、マイクにどなり返した。
「だれだ!」
なにも聞こえなくなった。いくらよびかけても応答がない。
かれは部下たちを見まわした。
「なにか聞こえるか」
隊員たちはいちように首をふった。
「自分たちの無線もまったく通じなくなりました」
もしかしたら、敵は通信を妨害できるようなシステムをそなえているのかもしれない。これでは、各チームは孤立してしまう。正木はふと敵の存在が巨大なかべとなって立ちはだかってきたように感じた。
正木は判断し、命じた。
「よし。五階へ進むぞ。けん銃のセーフティロック解除」
SIT隊員にだけ特別貸与されるオートマチック型けん銃をいつでも取り出し撃てる態勢をととのえた。五階フロアに通じる非常ドアを開けるときには緊張感が走った。ドアを開くや、うしろのメンバーの援護を受けて二名がすかさず廊下へとびだす。かれらの合図を受けて全員が五階へなだれこむ。
「これは!」
第一班の隊員がひとり廊下のなかほどでかべに背中をもたせかけ、ぐったり手足を投げ出している。正木は隊員たちにあたりへの警戒を指示してから、そのメンバーにかけよった。かれは正木の声に反応し、ヘルメットの下でうっすら目を開けた。そしてかすれた声をもらした。
「いくら……撃っても……やつはたおれませ……ん」
なんだって? やつって浦戸という容疑者のことか。いくら撃ってもたおれないってどういうことだ? 相手も防弾ベストを装着してるってことか。だが、防弾ベストではカバーしきれない手や足を撃つことだってできたはずだ。いくら撃ってもたおれないとはどういうことなんだろう。
「ほかのメンバーはどこへ行った?」
隊員はがっくり頭をたれ、返事をしなくなった。
正木は三班のメンバーたちをふり返った。
「だれかこいつを下まで運んでくれ。救急車を要請しろ」
ひとりが自ら進んでなかまを背負い、非常階段へと引き返していった。正木はのこる四名に向かい告げた。
「各部屋を捜索する」
ドアをひとつひとつ開けてたしかめていった。いったいほかの一班のメンバーはどこへ消えちまったんだ。まさか負傷したなかまを置きざりにして行っちまったわけじゃあるまい。つぎのドアを開けたとき、玄関先にたおれている一班の隊員を見つけた。
かかえおこして声をかけたが、息はなかった。正木は胸がちりちり焼けるような思いにとらわれ、目はかすかになみだぐんでいた。
ちくしょう、おれの部下をこんな目にあわせやがって。いっしょに訓練をかさね、現場では力をあわせてきたなかま。来年はこいつらを引き連れて警視庁SATと合同訓練できるのを心待ちにしていたのに。
正木はそれでも感情をあらわにせず、冷静な口調で隊員たちに告げた。
「このフロアに容疑者がひそんでいる可能性がある。ゆだんするな」
かわいそうだが息のない隊員はしばらくこのままにしておくしかない。正木は相手の頭をそっとおろすと立ちあがった。つぎの瞬間にその隊員のまぶたがぴくぴく動いたことにはまったく気づかなかった。
廊下へ出たとき、いっせいに身がまえる隊員たちのようすが映った。、正木も廊下の奥を見て、思わず肩の筋肉に力をこめた。
長身の男が立っている。黒づくめの服装で、まるでもの思いにでもふけるようにごく自然にたたずんでいた。男の顔だちはどこか日本人ばなれして見えた。彫刻家がたんねんにほりあげたように陰影にとんだ顔は端正だが、見る者をゾッとさせるような暗さにあふれている。
正木は十七世紀バロック絵画にえがかれた人物像を連想した。かれはがらにもなく絵画を鑑賞するのが趣味で、非番のときには美術館めぐりをすることもある。闇と光のコントラストを強調するどぎついバロック絵画をその男のおもかげは連想させたのだった。
男の口からはごくなめらかに日本語が流れ出た。
「ああ、まだほかにもいらしたんですね、官憲のかたが」
正木は相手から邪悪な意思を感じ取った。気合負けしないよう、強い口調で言い返しす。
「おまえはだれだ! ここの住人か」
男はかろやかにバレエのステップでもふむように一歩をふみ出した。
いちおうは問いただしてみたものの、正木にはわかっていた。この男こそ一連の事件の張本人であり、部下たちを傷つけた凶悪犯である、と。
「おまえは浦戸公作だな」
男のほおがゆがんだ。笑ったのだ。
「うらど? ああ、たしかそんな名前を借りたようなおぼえがあるな、この国へ入るときに。だが、ほんものの浦戸夫妻はみにくいばけものにすがたを変えてしまいましたよ」
この男はいったいなにをしゃべっているんだ?
正木は近づいてくる相手をけん制しようとさらに大きな声を上げた。
「負傷者が多数出ている。おまえがやったのか」
男は肩をすくめた。
「かれらには永遠のいのちをさずけてやったまでだ」
「おまえを傷害、および公務執行妨害の現行犯で逮捕する」
男はせせら笑った。
「この国の流儀にしたがうつもりはない」
近づくにつれ、男のすがたはいよいよ大きなものに映り、正木は恐怖さえいだいた。男の全身からは邪悪なオーラが発散している。そのとき背後がばたばたとあわただしくなった。男への警戒をおこたらず、かべぎわに身をよせ、すばやくふり返ると、息のなかったはずの隊員が立ちあがり、ほかの隊員につかみかかっていた。
な、なんだ、いったいなにが起きたんだ?
さすがの正木も頭の中が混乱し、うろたえた。
「おまえの血をよこせ」
SIT隊員どうしの格闘がはじまっていた。息をふき返したばかりの隊員はほかの四人を相手にしてもまったくひるむようすがなかった。さっきまで意識さえなかったのに、なんであんなに動けるんだ?
だが、正木がぼうぜんとしたのもほんの一瞬だった。ふたたび男に向き直ると、警棒をふり上げた。
「とまれ! 武器を捨てろ」
男はおどけたように両手を開いてみせた。
「武器? 武器など持ってはおらんよ」
正木は信じなかった。きたえぬかれたSIT隊員を素手でたおせるはずがない。だが、部下の言葉が頭の中によみがえる。……いくら撃ってもやつはたおれません……。
男は優雅にさえ見えるしなやかな足どりで正木との距離をちぢめつつある。正木は警棒をおろすと反射的にホルスターからけん銃を引きぬいた。それは〝恐怖〟がとらせた行動だった。この自信たっぷりの相手に警棒ではたち打ちできない……本能がそう告げていた。
「とまらんと撃つぞ」
トリガーに指をかけたが、銃口は天井へ向けたままだ。心のすみにまだためらいがある。相手はひとりで、しかも武器の有無は確認できていない。この段階でけん銃を取り出すのは、さだめられた銃の使用規定に反する。それをわかっていても、けん銃を引っこめる気にはなれなかった。
「とまれ。聞こえないのか」
男が笑った。端正な顔がゆがんでひどくみにくいものに見えた。正木の目は男の口からのぞく二本の牙をとらえた。
牙? まさか。
松本という刑事が口にした言葉。吸血鬼。あのとき正木はあざ笑ったが、いま目の前に松本が正しかったという証拠を見せつけられた気がした。それでもなお、理性が吸血鬼と言う発想を打ち消そうとしていた。
あれは牙なんかじゃない。新種の武器だろう。歯に装着して格闘のさい、相手のからだに突きたてるための武器にちがいない。人工の牙の中にはなんらかの薬物がしかけられていて、その作用で相手をコントロールできるのだろう。そうにきまってる。あの武器にさえ気をつければ勝ち目はある。
男の歩みはしなやかにそして着実に正木のほうへ向かっている。ついにかれは銃口を相手に向けた。銃をにぎる手に左手をそえ、撃てる態勢をととのえた。相手は黒いドレスシャツを身につけているだけだ。防弾ベストなど装着していないのはあきらかだ。
いくら撃ってもたおれない――あの言葉は意識がもうろうとした部下の口から出た妄想だろう……。
警察官が相手を撃つにはふたつのプロセスが必要だった。まず口頭で相手に、撃つぞと警告すること。つぎにわざとねらいをはずして威嚇射撃すること。警告はすでにあたえた。だが、屋内での威嚇射撃はかえって危険だった。かべや床にあたった弾丸がはねかえり、ほかの人間を傷つけるおそれがある。
男までの距離はいまおよそ六メートル。正木の射撃の腕ならこの距離でねらいをはずすことはありえない。
「これが最後の警告だ。とまれ。両手をあげて、ひざをつけ。さもないと撃つぞ」
男の口からするどい声がほとばしった。
「わたしに命令するな。口をつつしめ」
この男は自分が置かれた状況をわかっていない。なにかの妄想にとりつかれているのかもしれない。もしかして自分をほんとうに吸血鬼だと思いこんでいるのではないだろうか。正常な判断力をなくした相手だとすればなおさら危険だ。
正木は相手の目が邪悪な情熱にそまるのを見た。あれは人間の目ではない……。
この男は人間じゃあない。ほんものの怪物だ。正木は恐怖に支配されつつあった。
男が牙をむいた。けだものがえものにとびかかる寸前、息をとめ力をためる。いまがその瞬間だった。
正木は銃口をやや下へ向け、こらえきれずにトリガーにかける指に力をこめた。
火薬がさくれつし、発射の反動が指先から手首、ひじへと伝わる。からになった薬きょうが飛び出し、床へ落ちた。銃弾はまちがいなく男の左足、ひざ下あたりに命中したはずだ。男の顔はたちまち苦痛にゆがみ、ガクッとひざをつく。正木はそんな光景を思いえがいていた。
だが、相手は歩みをとめなかった。その表情には悪意と闘志があふれ、痛みを感じたようすはみじんも見られない。正木は恐怖がつのるのをおぼえた。
ばかな、なぜ、こいつはたおれないんだ? 衝動的に二発目を撃った。こんどは肩をねらってだ。弾丸はまちがいなく左肩に命中した。
男は笑った。
正木はパニックを起こしかけていた。三発目はためらうことなく男の胸にねらいをさだめて撃ちこまれた。男は一瞬だけ立ち止まった。しかし、すぐまた足をふみ出した。顔つきにはなんら苦痛の色もない。
いくら撃ってもこの男はたおれない……。
正木はこのとき、自分が非力な子どもにもどってしまったような無力感にとらわれた。
おれの手にあるのはおもちゃのピストルで、これはおまわりさんごっこだ。あのいじわるな男の子はいくら撃たれてもたおれるふりをしてくれない……。
だが、すぐ現実をとりもどした。おれはベテラン警察官でSITのリーダーだ。おれが手にしているのはほんもののけん銃で、そこからとびだす銃弾は人間の肉体を確実に破壊できる威力を持っている。
正木はほとんどやけのようになってカートリッジの中の弾丸を撃ちつくした。それはのこらず、男の肉体に撃ちこまれた。これで相手が死亡すれば、おれはけん銃の不適切使用で処罰されるだろう……。
しかし、そんな心配は無用だった。なぜなら、男はまだ生きているから。ほほ笑みさえうかべて。
相手は腕をのばせばとどく近さまで来ている。正木はからになった銃を捨て、あらためて警棒を引きぬいた。スナップをきかせた強烈な一撃を相手の首すじめがけてはなった。どんな人間でもこれで意識をうしなうか、激痛のあまり動けなくなるはずだった。
だが、相手は打たれたことにほとんど無関心なようすで、正木の手首をつかみ返してきた。つぎの瞬間、かれは自分の手の骨がおれる音を聞いた。電流を流されたような痛みとしびれが腕から肩、上半身へとひろがっていく。
男がこぶしで一撃するや、顔面をカバーする強化プラスチック製フェイスカバーに亀裂が走った。
……なんて腕力なんだ。いくらきたえたとしてもこれはもはや人間わざではない。
正木は相手の圧倒的な力に押しつぶされるようにひざをついていた。首に牙をつきたてられるのがわかった。
痛み、というよりも熱いものを押しあてられたような感触だった。
ああ、おれの中からいのちのみなもとがどんどんぬけ出ていく、おれはどんどんからっぽになっていく……。
やっと、わかったよ、この男はほんものの吸血鬼なんだ。こいつらはほんとうにいたんだ。この町を、この国を支配しようとしているんだ。みんなの血を吸って満腹しようとしているんだ。これからは国民の〝血税〟は吸血鬼対策にもっとつかわれるべきだ……。
そんなことをぼんやり思いながら正木の意識は闇の底へしずみこんでいった。
闇の中にうかびあがってきた光景がある。どことも知れぬ土地に広大な森がひろがり、白い建物が見える。古城だ。目のくらむようないなびかり。女がたおれている。むごたらしい光景。だが目をそらすことはできない。
べつななにかがからっぽになったおれの中へ入りこんでくる。おれはいままでとちがうなにかに生まれ変わりつつある……。邪悪な、しかし力強いなにものかがおれの全身を、おれの細胞のひとつひとつを、たっぷりと満たしていく。おれはいちど死んだ。だが、ふたたびよみがえるときは近い。新たな存在となって。
おれはいまよみがえる……。
よみがえる者たち
松本刑事は何発もの銃声らしき音を聞いた。かれは第二班のメンバーとともに六階のフロアへ入ったところだった。
「いまのは?」
「下の階からだ」
ひとりが無線機に向かい、よびかけたが応答はないようだった。
「どうする、このままつき進むか」
「いいや、状況把握できるまでここで待機したほうがいい」
「下へもどって一班と合流するべきだろう」
「連絡もとれないままここにいてもしかたないだろう」
「なんで無線が通じないんだ」
意見はわかれた。
松本はだまって耳をかたむけていた。ここはSITにしたがうしかない。チームりーダーの隊員が言った。
「やたらにつき進むのは危険だ。まず、だれかが偵察におりて、それから判断しよう」
松本はここではじめて口を開いた。
「自分が行きます」
「いいや。一般警官にはまかせられん」
リーダーはメンバーをふたり指名し、かれらはすぐ非常口へと向かった。
松本は〝一般警官〟よばわりされたことでプライドが傷ついていた。これまでいだいていたSITへの敬意にひびが入った気がした。
松本は言の葉署に配属される前にSIT出動現場に立ち会ったことがある。家賃の支払いをめぐるトラブルから散弾銃を持った男が家主の老夫婦を人質に民家に立てこもった事件だった。
人質事件は対応がむずかしい。人質の安全を優先させれば解決まで長期戦を覚悟せねばならず、犯人逮捕をいそげば人質を危険にさらすことになる。そのあたりのジレンマは捜査員にとって大きなプレッシャーだ。SITはそのプレッシャーに打ちのめされることなくあざやかに人質を救出し、犯人も無傷で逮捕することに成功したのだった。それいらい、松本はSITに尊敬の念をいだいてきた。
しかしいま、SITのメンバーたちはうろたえ、あせり、心理的に混乱しているように見える。たしかにいま起きていることはあまりに異常だ。ただの犯罪とよぶのさえためらわれるほど理解しがたい状況。
だが、わりきって考えれば解釈できる。いま、われわれの前に立ちはだかっている敵は吸血鬼なんです。そう言いきってしまえばそれですむ。なぜ、かれらは超人的な力を発揮し、おそいかかってくるのか? どうしてかべや天井をはうことができるのか? なぜいちどたおれた者がふたたびよみがえるのか?
答え。はい、それはかれらが吸血鬼だからです。
もっとも不合理な解釈がもっとも合理的な結論である場合もこの世にはありえる、と松本は思う。だが、そんなことを口にすれば笑いものになるのがオチだろう。
偵察に行った二名がもどってきた。
「なんだって?」
報告を受けて緊張が走った。
「隊長までやられた? 一班も三班も全滅したのか」
「なんてこった」
リーダーは考えこんだが、さすがに決断は早かった。
「われわれだけで行動しても事態の収拾はつけられない。いったんは屋外へしりぞいて、本部の指示をあおごう。その前に」と、全員を見まわして言った。
「生存者があれば救出する。まず階下へおりて、負傷者の収容にあたる!」
松本とほかの四人は非常階段から五階へ向かった。フロアに出る前にリーダーが告げた。
「いざというときはけん銃を使用する。いいな」
SITの隊員たちはオートマチック型けん銃を手にした。松本もホルスターからリボルバーをぬいたが、いまの敵に銃が通用するのかどうかさえおぼつかなかった。松本は銃を手にしたことでぎゃくにひどく緊張した。さいわい、というべきかこれまで実戦でけん銃を撃った経験はかれにはない。
警棒のように自分のからだと一体化させて用いる武器とはことなり、銃器はひきがねをひいてしまえば結果をコントロールすることはできない。自分の意思に反して重大な結果をまねいてしまうこともありえる。その思いがかれをひどく緊張させたのだった。
「よし、行くぞ」
フロアにいっせいにとびこむ。廊下に人のすがたはない。さきほどここへ偵察に来た隊員はあっけにとられたようすだった。
「おかしいな。さっきは何人もたおれていたのに。どこへ行っちまったんだ」
「自力で起き上がって退避したのかもしれない」
松本は心の中で、ちがう、とつぶやいた。二階の踊り場で息のない隊員が立ちあがるのを見たじゃないか。どうして、みんな吸血鬼の存在をみとめないんだ?
とつぜん廊下に面したドアのひとつが開いた。現れたのはSITの装備を身につけた男だ。
「おう、ぶじだったのか。けがはだいじょうぶか」
声をかけられても相手は無言だった。ヘルメットの下の目はうつろで、はだは青白い。松本はただならぬ気配を感じて相手を観察した。つづいてとなりのドアが開いた。さらにそのつぎと、開いたドアからはSITの男たちがつぎつぎすがたを見せた。
「ど、どうなってんだ。あっ、隊長」
正木隊長がいた。精悍だった顔つきはいま生気をうしない、目はどんよりにごって見える。隊長がこちらを見た。まるで死んださかなの目だ。かわいてひびわれたくちびるがわずかに動いた。
「おまえたち、おれのなかまだよな」
第二班のメンバーたちは顔を見合わせたがひとりが答えた。
「もちろんです」
隊長のほおがゆがんだ。笑ったのだ。
「なら、おまえらの血をよこせ」
よみがえったSIT隊員たちは二班のメンバーにいっせいにおそいかかってきた。
松本はさけんだ。
「闘っても勝ち目はない! 退避しろ!」
リーダーの声もひびきわたる。
「撃つな! なかまを撃ってはならん!」
「非常階段へ! 撤収! 撤収!」
現場は混乱した。おそいかかるかつてのなかまたちに二班のメンバーと松本は警棒のみで防戦しつつ非常口のほうへしりぞいていった。だが……非常ドアがとつぜん開き、ひとりの女が現れた。女はふらふらとさまようような足どりで近づいてくる。
松本は見た瞬間に戦慄をおぼえた。女はまるでこわれた人形のパーツをつなぎあわせたように異様なすがたをしていた。首、腕、足がアンバランスにねじくれ、それでも彼女は生きていた。目、鼻、口はひととおりそろってはいるものの、もはや感覚器官としての役をはたしていないように見える。
女はうめくような声で言った。
「血、血を……ちょうだい」
この女性は失そうした斎藤教諭だ、と直感的にさとった。こんなすがたに……恐怖の中で、人間にたいしてこんな仕打のできる敵に松本は怒りをおぼえた。
女は手をこちらへのばし、そろそろと近づいてくる。
「いかん、早くこっちへ」
松本はとっさに近くのドアを開け、生きのこったSITのメンバーをうながした。室内へすべりこむとドアをロックした。外からドアをゆさぶる音がひびく。
松本はふたりの隊員を見まわした。
「ほかのメンバーは?」
「やられた。ぶじなのはおれたちだけだ」
たおれた者たちもやがて起き上がってくるだろう。吸血鬼と化して……。
松本刑事は奥の部屋へ進むと窓の外を見た。霧はいっそうこくなり、夕闇もじわじわせまりつつある。
「おれたちはここへ閉じこめられたってことか。これじゃあ、人質と同じだ」
隊員がうめくような声をあげた。
「人質救出に来たおれたちが人質になったんじゃあ、シャレにもならないぜ」
松本は室内にある電話を取り上げてみたが不通だった。自分の携帯電話も取り出してみたが圏外になっている。
いったいどうなってんだ。電話も無線もいっさい通じないなんて。
この霧が原因か? 霧が外の世界とこの建物とをへだてているのか?
松本はベランダへ出る窓を開けてみた。外の空気はひんやりつめたく、じっとりと皮膚にしみとおるようなしめりけをおびている。鼻をつくにおいが霧にまじっている。これは……血のにおいだ。
二階堂太一のことを思い出した。いまごろぶじでいるだろうか。あの少年はバルコニ―を伝わり脱出したと言っていた。度胸のある子だ。おれたちにも同じことはできないか?
階下をのぞきこんだ。なるほど、このマンションはおもしろい構造になっている。ななめに切り取ったような片側の壁面にだんだん畑のようにバルコニーが下までつらなっているのだ。
たしか、このマンションの建設計画がもちあがったとき、まわりの住人から、日あたりがわるくなるというクレームがついたため、日ざしをさえぎらないよう、こんな構造になったんだよな。
ここからおりられるかもしれない。十一歳の少年にできたことがおれたちにできないはずがない。
松本は脱出を決意した。
室内へもどると隊員どうしのいさかいが起きていた。
「入ってきたら応戦するしかない」
ひとりがけん銃を手につぶやいた。ドアの外で銃声がひびいた。ノブのわきがつきやぶられ、弾丸が貫通したのがわかる。銃弾でかぎをこわそうとしているのはあきらかだ。
もうひとりが首をふった。
「自分にはできない。なかまを撃つなんて」
「やつらはもうなかまじゃない! おれたちにおそいかかってきたんだ。ばけものだ!」
「なにかにあやつられているだけだ。それを撃っちまってどうすんだ」
「だったらどうすればいい? ここにずっとかくれているのか。おれたちはSITだぞ」
松本はあいだに入り、バルコニーからの脱出を提案した。
隊員たちはしばらく考えていたが、やがてうなずいた。
「それしか方法はなさそうだな」
三人がバルコニーへ出てようすをたしかめようとしたとき。
「おい、あれはなんだ?」
ひとりが上階のかべを見上げてうめくような声をあげた。さすがの松本もぼうぜんとなってしまった。
マンションのかべに何十人、いいや何百人という数の人間がはりつき、はいまわっている。まるで昆虫のむれのように見えた。
「いったい、どうなってんだ。あれはここの住人たちなのか」
松本は人質たちの居場所がわかった気がした。かれらはああしてこの建物のあらゆる場所でうごめいていたのだ。いまや、怪物と化した人々がここにはうようよしている……。
もはや、よゆうはない。いますぐここから脱出しなくては。
松本はふたりをうながし、カーテンをひきはがすと脱出用ロープを作りにかかった。
ここまで読んでくださったみなさま、おつかれさまです。
次回は5月10日(木)前後の投稿になります。
どうぞよろしく。