第三回 のろわれた首
ここまでお読みくださったみなさま、どうもありがとうございます。今回はストーリの踏み切り台となります。どんどん加速させます(もしかして暴走するかも……笑)。もうしばらくおつきあいください。
あとグロ描写もふえるかもしれません。デリケートなかたはくれぐれもご注意おねがいいたします(だったら書くなよ、という突っこみは無しにしてください。笑笑)。
奇妙なかあさん
霧は商店街のアーケードにも立ちこめている。ここまでずいぶん長い時間歩きつづけてきた。くつをはいていないので足のうらが痛い。いつもの日曜日なら買い物客でにぎわう商店街もいまは人かげはまったく見えない。
やっぱおかしい。なにかがここでもすでに起きてるってことなのか。ふだんなら立ち読み客がおおぜいいる書店、行列ができるたこやき屋さん、クリーニング店、カフェ、やお屋さん、さかな屋さん、フラワーショップ……どの店にもお客さんどころか店員のすがたさえない。
みんなどうしちゃったんだろう。吸血鬼におそわれたのか、それとも全員逃げ出してしまったのか。もしかして、ぼくはもうこの町でひとりぽっちになってしまったのかもしれない。
そう考えると心細い。かあさんはぶじだろうか。ぼくは見おぼえのある三階建ての小さなビルの前に来た。ここの二階にかあさんがはたらくヘアサロンがある。ぼくはアーケード通りに面した二階の大きな窓を見上げた。〝ヘアサロン リリー〟という文字がガラスの上に見える。だけど店内に人のすがたはなさそうだ。
「かあさん! いるの? どこ?」
ぼくは思わずさけんでいた。ぼくの声だけが通りにこだまする。ふと耳をすますとなにか聞こえる。ヒタヒタと。だれかがモザイクもようのアーケード通りを歩いてくる。おねがい、吸血鬼でありませんように。
霧の中から現れたのは女の人だった。しかも……。
「かあさん!」
まぼろしを見ているんじゃないかと思った。まるで、ぼくのよびかけが聞こえたみたいに現れたのは、かあさんだったんだ。
「太一……」
かあさんはなんだかくたびれたような表情でぼくの前に立った。
「よかった、太一に会えて」
かあさんがほほ笑んだ。よかった、会えて。その気持ちはぼくも同じ。だけど、ふっと疑問がわいてしまう。これってほんとにぼくのかあさんだろうか。もし、かあさんがすでに吸血鬼になっていたとしたら?
かあさんはぼくを抱きよせてくれた。こんなハグ、これまでしてくれたことない。ぼくは心の中でまだうたがいをすてきれない。
そっと顔を上げてかあさんの首すじを見た。白い首。かまれて血を吸われたようなあとは見えない。
やった、ほんもののかあさんだ。
「太一、あなた、スニーカーどうしたの? なにがあったの?」
やっぱ、かあさんはぼくのこと気にかけてくれる。だけど、いまふと感じた違和感。なぜだろう。かあさんの胸にあまえながら、あまえきれないのはどうして? なにかが、変だぞ、おかしいぞ、って、ぼくの中でつぶやいている。
ぼくはかあさんをもういちどよく見た。白いブラウスに黒のパンツ。これは美容室で仕事をするときの制服みたいなものだって、かあさんがいつか言ってた。髪型もけさのかあさんとまったく変りない。でも、なにかがちがう気がする。
ぼくは心にうかんだ思いをかくして、かあさんにマンションでのできごとを説明しようとした。なかなか舌がうまくまわらなくて、小さな子みたいにたどたどしい話しかできなかった。それでも、かあさんはうなずきながらしっかり聞いてくれた。かあさんがこんなに熱心にぼくの話すこと聞いてくれるなんてめったになかったことだ。でも、それをよろんでいないぼくがいる。
かあさんは話を聞きおえるとこんどは自分の身に起きたことを話しはじめた。
「わたし、お店でお客さんの髪をカットしおえたところだったの。そしたら急に窓の外がまっしろになってきて、どうしたのかなって外へようすを見に出てみたら、人かげが消えていて……」
かあさんは肩を軽くふるわせた。
「店にもどったら、店長もお客さんもいなくなっていて、床に血みたいなものがこぼれていたわ。すぐ警察よぼうとしたんだけど、電話も通じなくて、だれかに助け求めようって商店街を歩きまわっていたら、あなたに出会ったのよ」
ぼくは気づいた。〝あなた〟って言葉。かあさんがこんな言いかたでぼくを呼んだことはない。いつも〝あんた〟だ。小さなことだけどぼくには気にかかる。
「だけど、あなたがぶじでなによりだわ」
ぼくはもういちどかあさんに強くだきしめられた。かあさんのからだはひどくつめたかった。まるでマネキン人形にだきしめられているみたいに……。ぼくはリーナの手のつめたさを思い出していた。
「とにかく、だれかほかの人をさがしましょ」
かあさんはぼくの手をひいて歩きだそうとする。ぼくは両足をつっぱらせ、ふみとどまった。
「かあさん、まず松本さんに連絡してみて」
「えっ、松本さんって?」
うそだろ。松本さんっていえば松本刑事のことにきまってるじゃないか。かあさんはあの人に何回も会ってるでしょ。それどころか独身でちょっとイケメンの松本さんのことひそかにすきだってこともぼくは知ってる。それなのにいまのリアクションってなに?
「かあさん、松本さんのケータイの番号とか知らないの?」
「えっ、ああ、わたし、あわてていて、ケータイどっかへなくしちゃったの。ともかく行きましょ」
「どこへ行くの?」
「安全な場所。ふたりでかくれていられるところ」
かあさんはぼくの腕に自分の腕をからめるようにして歩きだした。だけど、ぼくは足が痛くてこれ以上一歩も歩きたくない気分。
「かあさん、おれ、もう歩きたくない。足のうらが痛くて」
かあさんはぼくの足もとをじっと見て言った。
「おんぶしてあげようか」
まさか。小六になっておんぶなんて。いつものかあさんならそんなことぼくに言うなんてありえない。あまえないでよっ、が口ぐせなのに。
かあさんはしばらく考えこむそぶりをしてから言った。
「わかったわ。あなたのくつのサイズは?」
かあさんがぼくのくつのサイズ知らないなんておかしい。いつもぼくのスニーカーとか買ってくるの、かあさんなのに。ぼくがサイズをおしえると、「ここをぜったい動かないで」と言いのこしてかあさんは霧の中へすがたを消した。
かあさんと会えてもぜんぜんうれしくない。かあさんのようすはやっぱへんだ。頭の中がパニックにでもなってるのだろうか。
かあさんがもどってきた。手に新品のスニーカーをさげている。タグがついたままだ。
「それ、どうしたの?」
「この先のくつ屋さんから借りてきたわ」
「借りてきたって……だまって持ってきちゃったの?」
かあさんはうるさそうに顔をしかめた。
「あとでお金はらいに行けばいいでしょ。ごちゃごちゃ言ってないで早くはきなさいっ」
すぐキレるところはいつものかあさんらしいけど……。ぼくはタグつきのままのスニーカーをはくと、いっしょに歩きだした。いまはともかくかあさんと行動をともにするしかない。霧ははれそうなようすもない。ぼくの不安はつのるばかりだ。
「かあさん、おしえてよ。どこへ行くんだよ。かあさんはさっきのおれの話信じてくれたの? 吸血鬼がいるって信じるの?」
「信じるわよ」
商店街をぬけて表通りへ出たようだ。まわりのけしきがよく見えないのでいまいる場所もだいたいの見当しかつけられない。霧はじとじと、ぼくの体から体温をうばっていくかのようでひんやりつめたい。鼻をつくへんなにおいはあいかわらずだ。この霧にまぎれて吸血鬼は動きまわっているのか?
うしろのほうから自動車の走る音が聞こえてきた。ぼくはいつの間にか、かあさんのかげにかくれていた。あやしいと思ってはいてもついかあさんをたよりにしてしまう。車はしだいに近づいてくるようだ。どんな人が乗ってるんだろう。まさか吸血鬼が運転をしてる?
ぼくとかあさんはうしろをふりかえったままじっと立っていた。ヘッドライトの光が霧ににじんでふたごのおぼろ月のように見える。車はゆっくりしたスピードで現れた。ぼくらのすぐ近くまで来るといっそうスピードがおそくなった。白っぽい色の車なのでよけいめだちにくい。
どうか乗っているのがふつうの人間でありますように。吸血鬼ではありませんように。
車はぼくらのすぐ横に止まった。運転している人の顔を見てぼくは声をあげそうになった。
窓から顔をのぞかせたのは松本刑事だったんだ。
「太一くん!」
助かった、と心の底から思えた。ずっと連絡をつけたいって思ってた人に出くわすなんてこんなラッキーはない。ぼくはかあさんの顔を見た。やっぱへん。松本さんを見てもまったくの無表情。いつものかあさんなら、松本さ~ん、とかさけんで、頭の上にハートマークがうかぶようなリアクションをするのに。
松本さんが車をおりてきた。
「町はいま危険な状況です。ご自宅までお送りしましょうか」
かあさんがきき返した。
「いったいなにが起きたんですか」
「110番に通報が殺到してましてね。いま非番の警官にも招集をかけて情報収集とパトロール強化につとめているんです。町のあちこちで人がおそわれているようです」
かあさんはだまって聞いている。
松本さん、かあさんのようすがいつもとちがうってことに気づいてくれないかな。
「ところが通報でパトカーがかけつけても現場にはだれもいない。血痕だけがのこされているんです。なにか事件が起きていることはまちがいないんですが」
ぼくはマンションでのできごとを伝えようとした。でも、とちゅうでかあさんにさえぎられてしまった。
「太一。早くうちへ帰りましょ」
松本さんはかあさんを見て言った。
「太一くんの話をもっとくわしく聞きたい。どうもあのマンションがあやしいとはわたしも考えていたんだ。斎藤先生が失そう直前におとずれたのもあそこだし」
松本さんならぜったいぼくの話を信じてくれるはず。そう思ってぼくは声をはりあげた。
「吸血鬼だよ。あのマンションは吸血鬼のすみかになってるんだ」
とつぜんかあさんが笑いだした。
「ごめんなさい。この子、気が動転してるんです。おかしなことしゃべったりして。つまり、この町でいま起きているのは通り魔事件なんでしょ?」
松本刑事は小さく首をふった。
「そうとばかりも言えないんです。通り魔事件にしてはあまりに短時間にしかも広いエリアで起きています。犯人ばかりか被害者まですがたを消しているのもおかしい。しかも、犯人らしい者が被害者の首にかみついていたという目撃情報まである。吸血鬼がいるかどうかはべつにしても、太一くんの証言は重要です」
松本さんはこんどはぼくに向かって言った。
「太一くん、署までいっしょに来てくわしい話を聞かせてくれないか」
もち、ぼくはオッケー。かあさんがぼくの腕をつかむ手に力をこめた。
刑事はかあさんに言った。
「おかあさん。帰りは警察の車でご自宅まで安全にお送りしますので、ご協力おねがいします」
かあさんは返事をしない。
ぼくはこのチャンスをのがしてなるもんか、と思った。
「おれ、行くよ、松本さんといっしょに」
「さあ、乗ってください」
松本刑事がうしろのドアを開けてくれた。
かあさんはしぶしぶといった顔つきでようやくぼくの腕から手をはなした。
こうすけとの再会
言の葉警察署の建物は三階建てで正面に広い駐車場があるけど、いまは車はほとんど見えなかった。かあさんとぼくは松本刑事のあとをついて署へ入った。エントランスを通るとロビーになっていて、長いカウンターの中が事務スペースになっている。日曜日のせいなのか、それともみんなパトロールにでも出ているのか制服すがたの人はほんの数人しかいない。
ぼくはロビーのソファに知っている顔を見つけて思わず声をあげていた。
「こうすけ!」
こうすけはひたいにぼさぼさ前髪がさがり、なんだかくたびれた表情をしている。やあ、とだけ元気なくつぶやいた。そばに立っていた制服のおまわりさんが松本さんに敬礼して言った。
「パトロール中に路上にひとりでいたこの少年を発見しました。いま現在家族とも連絡がとれませんので署で保護しているところです」
「ごくろうさん。家族がむかえに来るまで年少者は外へ出さないほうがいい」
ぼくはこうすけの肩に手をふれ、きいた。
「どうしたんだよ。ひとりでなにやってたの?」
メガネの奥でこうすけのひとみがキラッと光ったように見えた。なみだぐんでいるのかもしれない。
「パッチを散歩させていたんだ。そしたら急に霧が出てきてまわりが見えなくなって、しかたなく帰ろうとしたら……」
こうすけはパチパチッとすばやくまばたきした。それが、緊張したり、なにか思いついたときのこいつのくせだってぼくは知ってる。
「霧の中になにかがいたんだ。パッチはとつぜんはげしくほえだして、霧の向こうからもすごいいうなり声が聞こえてきた。で、パッチはそれに立ち向かっていったんだ。それきりパッチは霧の中へ消えちゃった。いなくなるときパッチの悲鳴みたいな鳴き声がした……」
ぼくは〝ビーストさわぎ〟のことを思い出していた。あのときも森の奥にひそむ怪物にパッチは立ち向かっていった。またあれと同じことが起きたのか? あのときの敵は野生の世界に生きのこった野獣だった。だけど、こんどの相手は……?
「パッチをさがしてうろうろしてるうちにパトカーに出会ってここへ連れてこられたんだ」
松本刑事にうながされた。
「さあ、別室で話を聞かせてくれ。おかあさんはここでしばらくお待ちねがえますか」
かあさんはうなずいた。いまのかあさんがなにを考えているのかさっぱりわからない。こんなかあさんを見るのははじめてだ。ふだんならなに考えているのかわかりすぎるくらいオープンなかあさんなのに。
ぼくが連れていかれたのは二階の小さな部屋だった。窓に鉄格子がついているのがいかにも警察って感じ。つくえをはさんで松本さんと向き合ったらなんだか刑事ドラマに出てくる犯人になったみたいでどきどきした。
ぼくはリーナにまねかれたことからはじまって、地下室であきよ先生に出くわしたこと、おそわれそうになったこと、吸血鬼になった小さな女の子とおじいさんのことなどを話した。松本さんはときどきこまかなことを質問してきたり、メモを取ったりしながら聞いていた。ふたつ頭の怪物のことを話したときは、ちょっと顔をしかめていた。
ぼくがひととおり話しおえると、松本さんはフーッと大きく息をはいた。
「容易ならざる事態だ。吸血鬼がいるかいないかはともかく、凶悪な事件がこの町で進行中なのはたしかだな。ところで、きみはどこもケガはないかい?」
ケガ。首の傷。ぼくはふっと松本さんはだいじょうぶだろうか、と思った。このまえ会ったときより髪を短くしてるけどいつもどおりの松本さんだ。首を見た。あやしいところはない。
「どうした、太一くん」
「あっ、あの、松本さんって吸血鬼じゃないよね?」
松本刑事はにがわらいすると、アーッと口を開けてみせた。
「わたしに牙があるかい?」
「ううん、ごめんなさい」
あやまりながら、そうか、その手があったか、って思った。あとでかあさんにも口を開けてもらおうかな。牙さえなければひと安心だ。ぼくはここでかあさんに関して感じていることを松本さんにうちあけた。
「かあさんのようすがへんなんだ。松本さんのこともわすれてしまったみたいで」
松本刑事は腕を組んでちょっと考えるそぶりを見せてから答えた。
「わたしもいつものおかあさんとようすがちがうなとは思っていたんだが……まっ、この事態に気もちが動転してるということもありえるしな」
いくら気もちが動転してたって、松本さんのことわすれるなんてありえないって思うんだけど……。それにかあさんなら気が動転すればもっとあわてて大さわぎするはずだ。かあさんのキャラならそうなるだろう。いまのかあさんはぎゃくに落ち着きすぎてるって感じがする。
ノックの音がして、制服のおまわりさんが顔を見せた。
「松本巡査部長。県警本部から電話です。状況をくわしく聞きたいそうですが」
松本さんはいすからはなれた。
「うちの署だけでは手におえなくなってきたんでね。本部に応援を要請したんだ。警ら課のものに伝えておくから、おかあさんといっしょにパトカーで送ってもらうといい」
ぼくは松本さんとわかれてロビーへもどった。ソファの背もたれごしに、こうすけのうしろすがたが見える。
こうすけはだいじょうぶだよな? あいつは吸血鬼じゃないよな?
メグという女の子や、コンビニの吸血鬼はうまくふつうの人間になりすましていた。なんだかぼく以外の人間がぜんぶ吸血鬼に見えてきてしまう。
ぼくはうしろからこうすけにそっと近づいた。
「こうすけ」
呼びかけると、あいつはビクンッとまるでかみなりにでも打たれたようにいきおいよく立ちあがり、ふりむいた。いつもクールなこうすけのこんなようすはめずらしい。もしかしてこいつもいまおびえているのかもしれない。だからといって、百パーセントの安心はできない。
「こうすけ。口を開けてみてくれない?」
「はあ?」
こうすけはぼくの考えをさとったのか、いきなり腕をつかむとロビーのすみにある洗面台までぼくを引っぱっていった。鏡がある。ぼくとこうすけの顔がならんで映る。こうすけは頭ひとつぶんくらいぼくより大きい。そういえば、こいつはもう170センチ以上あるんだよな。
鏡の中からこうすけが語りかけてきた。
「ヴァンパイアは鏡に映らない。これで信用してくれる?」
「ごめん」
なんだか悲しくなってきた。こうすけのことさえうたがうなんて……。うたがい深くなっている自分がいやになってくる。だけど、かあさんのことは……。
あれ、そういえば、かあさんのすがたが見えない。
「見て」
こうすけは鏡の中に事務スペースが映る位置までぼくを引きよせた。カウンターの向こうでは制服を着た女性警官がひとりと男の人がふたりいて電話をかけたりパソコンに向かったりしている。こうすけにうながされてふりかえると、鏡に映ったのと同じ人たちがいる。
つまりいまこのフロアにいる人たちは全員吸血鬼じゃないって証明されたわけか。かあさんひとりをのぞいては……。
「おれのかあさん、どこ行ったか知らない?」
こうすけは首をかしげた。
「さっきトイレに行くって言ってたけど、ずいぶんおそいなあ」
ぼくは声をひそめた。
「ねえ、こうすけ。おれのかあさん、なんだかへんだって思わない?」
「さあ。ぼく、太一のおかあさんとはあんまり話したことないからよくわかんないけど」
女性警官がぼくらのほうへやってきた。
「松本巡査部長からあなたがたを自宅まで送るよう言われているんだけど、おかあさんはどちらへ?」
「お手洗いに行ってもどってこないんです」
女性警官はトイレのほうへすがたを消し、すぐもどってきた。
「女子トイレにはだれもいなかったわ。しばらく待ってみましょうか。ところで、こうすけくんだっけ? あなたはご家族と連絡とれた?」
こうすけはケータイを手にしながら首をふった。
「電話にもメールにも返事がこないんです」
ぼくはあのマンションで電話がいっさい通じなくなっていたことを思い出した。もしかして霧が通信をじゃましてるとか? 町ぜんたいがかなりきけんな状態になっているのかもしれない。
ぼくはこうすけに言った。
「おれのうちへいっしょに来いよ」
ただ、親切で言っただけじゃなく、こうすけがいっしょならなにかあっても心強い、って思いがあったんだ。
女性警官はほほえんだ。
「それがいいわね。こんなときはできるだけひとりにならないほうがいいわ。ところで、おかあさんがもどってくるまで飲み物でもどう? あたたかいココアでも作ってきてあげましょうか。インスタントだけど」
霧が出てきてからやけに肌寒く感じられるのであたたかい飲み物はうれしい。ぼくはこのやさしそうなおねえさんがだいすきになった。松本さん、この人と職場結婚すればいいのに……って、よけいなおせわか。
「ロビーは飲食禁止だからあっちの休憩室で」
テーブルといすがならぶ休憩室でこうすけにきいてみた。
「この霧ってなんだと思う? 吸血鬼と関係あるのかな」
こうすけはメガネをはずし、テーブルの上にあったボックスからティッシュをぬいてレンズをぬぐいはじめた。
「ヴァンパイアって実体を持たないものらしい」
そう言いながらこうすけはメガネをかけなおした。レンズがきれいになったせいか、目もとがいっそうシャープに見える。
「ヴァンパイアはもともと決まったすがたを持たないってこと。だから、人間以外の生き物にもすがたを変えられるんだ」
ぼくは吸血鬼映画のシーンを思い出しながらきき返した。
「こうもりとかオオカミとか?」
「そう。けものだけじゃなく、虫や鳥にも、場合によっては霧のように生き物でないものにだってばけられるらしい……」
ぼくは窓の外を見た。ここの窓にも鉄格子がついている。これって犯人が脱走できないようにしてあるのかもしれない。外はまっしろだ。この霧そのものが吸血鬼だとしたら……どこにも逃げ場所がないってことか!
どこかでガラスのわれるような音がした。とっさにこうすけと目をあわせた。耳をすませたけどあとはしずかになった。
ぼくは声をひそめてきいた。
「こうすけ。おれのかあさんってもしかしたら……」
とちゅうまで言いかけたとき、女性警官が紙コップをふたつ手にして現れた。
「おまたせ」
テーブルにトンッと置かれた紙コップのなかみを見てあれっと思った。あたたかいココアを持ってきてくれるはずだったのにゆげも出ていない。それになんだか色がへんだ。こうすけもふしぎそうにコップをのぞきこんでいる。
女性警官はにっこり笑った。
「さあ、お飲みなさい」
「これ、なんですか」
きき返すこうすけの声は少しふるえているようだった。
女性警官はほほえみをたやさなかった。
「ココアよりもっとおいしくて栄養のある飲み物」
こうすけの顔に緊張の色が走る。ぼくの顔もきっと同じだろう。
「しぼりたての……人間の血よ」
こうすけがさけんだ。
「太一、逃げろ!」
ぼくはとびはねるようないきおいで、いすからはなれた。女性警官は紙コップのなかみをおいしそうに飲みほした。くちびるのはしからしたたる血のしずくを指先ですくってなめながら、あざけりの笑いをうかべた。
「おまえたち! もうすぐ大公さまの支配がこの町すべてにおよぶんだ。だれもさからえない。だれも逃げられない。あきらめろ!」
女性警官の首にかみ裂かれたような傷が見えた。けたたましい笑いを聞きながら、ぼくはこうすけとともに部屋を飛び出した。女ヴァンパイアの声が追いかけてくる。
「大公さまへの貢ぎものを手にいれろ。おあまえたちがそれをするべき役なんだ。わすれるな!」
なにを言われているのかさっぱりわからない。いまにもうしろからガブッてやられるかもしれない、それだけがこわくて、首をすくめるようにして、ぼくらはロビーへ走り出た。事務スペースに人のすがたはなくなっていた。
「だれか、いないの! 松本さん!」
ぼくはこうすけとふたりで声をはりあげた。だけど、どこからも答える声はない。ソファのかげにたおれている人の足が見える。男の人みたいだ。のぞいてたしかめる勇気なんかぼくにはない。
「ここもあぶない。外へ出よう」
こうすけにうながされ、ぼくらはエントランスへ向かって走りつづけた。いったいいつあの女性警官はヴァンパイアになっちゃったんだろ。きっとガラスのわれる音がしたときだ。あのとき、なにかが起きたんだ。
かあさんだ。いやっ、ちがう、かあさんにばけたヴァンパイアのしわざだ。こうすけは、ヴァンパイアはなんにでもばけられるって言った。あのかあさんがヴァンパイアだとしたら、ほんもののかあさんはどこへ行っちゃったんだろ。
建物を飛び出したもののどっちへ逃げていいのかわからない。あたりは霧がまっしろに広がるばかりで何も見えない。
「うらへまわろう」
署のうらへ出た。建物の窓ガラスが一か所こわれている。鉄格子が〝く〟の字の形にまがっていた。だれかがすごい力で格子をひんまげて外へぬけ出たように見える。
こうすけとぼくはかべに背中を押しつけてあたりのようすをうかがった。自分の心臓の音がかべにはね返ってドクドクとひびいてくるような気がする。どこかで人の悲鳴らしいものが聞こえた。だれかがおそわれているのかもしれない。
かあさんはいまどこにいるんだろう。わざわざにせもののかあさんがぼくに近づいてきたってことは、ほんものはどこかに閉じこめられているのかもしれない。ぼくはあのマンションを思いうかべた。あの建物のどこかにかあさんがいるのだろうか? なんとかしてそれをたしかめたい。できることなら助けたい。ああ、でもそんなこと、ぼくらにできるだろうか?
「よし」と、こうすけが自分自身に気合いを入れるように短くつぶやいた。
「行こう」
「どこへ?」
こうすけの目には強い決意みたいなものがあふれていた。
「ヴァンパイアと闘えるかもしれない人のところへ」
だれ? そんな人、この町にいるんだろうか。
こうすけはうしろの自転車置き場を指さした。と、いっても、ふつうの自転車置き場じゃなく、町なかに放置された自転車の保管場所みたいだ。何十台という自転車のまわりはフェンスでかこわれ、入口にはカギがかかっている。
「あれを借りていこう」
「ひとの自転車だよ」
こうすけはまじめな顔で答えた。
「緊急事態だもん。しかたないよ」
ぼくらはフェンスを乗りこえると、カギのかかっていない自転車を見つけ、ふたりで力をあわせてフェンスごしに二台の自転車をかつぎ出した。そういえば、ぼくがいまはいているスニーカーもだまって持ち出してきたものなんだよな。
いいさ、町に平和がもどったらお店にあやまりに行ってお金をはらえば。だけど……この町に平和がもどることなんてあるんだろうか。いつになったらこのできごとがおわるんだろう。
ぼくの心はいま不安にのみこまれてしまいそうだ。
こうすけの自転車が走り出した。いったい、だれのとこへ行くつもりなんだろう。ぼくはこうすけの背中を追ってペダルをふんだ。霧がぼくらにまとわりつくようにせまってくる。
白いけだもの
ぼくらは霧の海を進んでいた。いまにもぶきみな深海魚が宙を泳いで現れそうな、そんなふんいきだった。ぼくの前を行くこうすけが急ブレーキをかけた。古い自転車らしくギーィィッとうなるような音をあげて止まった。
「なにか聞こえない?」
きかれたぼくは耳をすます。あたりはきみわるいくらい静まりかえっている。じっとりつめたい霧がぼくらのはだをなでていく。
「あっ、また、ほら」
こんどはぼくの耳にもとどいた。霧のかなたから長くかんだかくひびく声。地上の王者が勝ちほこるような声。
「犬がほえてる」と、ぼくがつぶやくと、
「ちがうよ。犬はあんなほえかたはしない」と、あっさり打ち消された。
「来るぞ」
「なにが?」
「わかんない。でも、なにかが来る。そうだ、これってパッチがいなくなったときと同じだ」
こうすけの声にはおびえたようなひびきがあった。
ぴたぴたぴた、とやわらかなものがリズミカルに道路をふむ音。なにかが早い足どりでこっちへやってくる。
頭の中で、早く逃げろ、って危険信号が鳴っている。でも、相手がどちらから来るのかもわからず、あたりにかくれられそうな場所もない。
それがとうとうぼくらの前にすがたを現した。
見たとき、ちょっと力がぬけそうになった。
「なんだ、やっぱ犬じゃん」
思わずそうつぶやいていた。たしかにそれは犬に見えた。しなやかな白い毛におおわれた細長くとがった顔。からだだってそう大きいわけじゃない。むしろこうすけのパッチのほうが強そうに見えるくらいだ。ピンととがった耳。するどい目がぼくらの心を読み取ろうとするかのようにじっとこちらを見ている。
なんだか動物の目って感じがしなくて、ぼくらと同じ感情をもった目に見つめられている気分だ。
「ちがう」
こうすけがつぶやいた。
「これは犬じゃない。ネットの画像で見たことある。これはたぶんオオカミだ」
マジ?
ぼくは言い返していた。
「オオカミ? で、でも、オオカミって絶滅したはずじゃないの?」
どうか、こうすけのかんちがいであってほしい。もうこれ以上、ありえないことがぼくらの前で起こらないでほしい。
こうすけは低い声で言った。
「もちろん、日本にはいない。だけど、地球上にはまだオオカミの生きのこっている地域があるんだ」
「それがここにいるってことは……?」
ぼくは白いけものから目をそらすと小さな声で言った。
「こうすけ、逃げよう」
こうすけは首をふる。
「むりだよ。オオカミは生まれながらのハンターなんだ。すぐ追いつかれておしまいだ」
じゃあ、どうすりゃいいんだよっ。このままオオカミ相手ににらめっこつづけるなんていやだよ。
ふいに、こうすけがオオカミに向かい話しかけた。
「ぼくらになんの用なの? ぼくのパッチをおそったのもきみなの? パッチを返してよ」
オオカミの口からヴルルルルッと低いうなり声がもれた。ぼくは自転車のハンドルを力いっぱいにぎりしめて逃げだしたい思いにたえていた。
オオカミはからだの向きを変えると、やわらかな足どりで霧の中へもやもやととけこんでしまった。
「こうすけ、やばかったな」
「シーッ。またなにか来る」
こんどは霧の中から黒いかげのようなものが現れた。それは人の形に見えた。
「ぼうやたち、わりと逃げ足はやかったのね」
黒いかげははっきり人のすがたになり、黒っぽいワンピースに長い髪の女の人がぼくらの前にすがたをさらけだした。
この人は……リーナのママだ!
「あなたたち、なんでめずらしそうにわたしを見ているの? さっき警察署で会ったばかりじゃない」
ぼくの想像が当たっていたことを知った。
「なんで、おれのかあさんにばけたりしたんだよっ。ほんもののかあさんをどこへやったんだよっ」
リ―ナママは口もとをほころばせた。くちびるは血をぬりたくったように赤い。
「あなたのおかあさまはいまごろすやすや眠っていらっしゃるわ。あなたがわたしのたのみをきいてくれたら、ぶじに返してあげるわ」
ヴァンパイアがぼくにたのみ? うまいことしゃべってだますつもりなのかもしれない。
ぼくは言い返していた。
「おまえのたのみなんかきかないっ。かあさんをすぐ返せ!」
リ―ナママは腰に手を当て女王さまのような態度で言いはなった。
「わたしにそんな口きくなんて大した男の子ね。ほんとを言えばこれはおねがいじゃなくて命令よ。わたしに協力なさいっ」
「なにを協力するんだよっ」
「リーナを大公から引きはなしたいの。その手伝いをなさい」
リーナをパパから引きはなす? どういうことだ。
「リ―ナは大公の心をうばい、わたしから妻の座をうばおうとしているの」
妻とか言ったってリ―ナはまだぼくらと同じ子どもじゃないか。しかも親子でしょ。リ―ナママの言ってることはさっぱりわかんない。
「リ―ナはわたしたちのほんとの娘じゃないの。それにわたしたち種族に人間のような年齢なんか関係ないの。たった数時間でおとなに成長することだってできるのよ」
このママが言ってることってほんとなのか。ぼくらをからかっているんじゃないのか。ぼくは頭の中をぐちゃぐちゃかきまわされているような気分になってきた。
「大公はリ―ナが成長したら、わたしを追いはらって、あの娘を妃にするつもりでいらっしゃるんだわ。わたし、そんなの、ゆるせないっ。あんな小娘にまけたくないっ」
リ―ナママは長い指でネックレスをつかみ、かきむしった。チェーンが引きちぎられ、黒い宝石が飛び散った。
「で、ぼくにどうしろっていうの?」
「リ―ナはあなたのことをとても気にいっているわ。だから、あなたがリーナの心をもっとしっかりつかんでこの町に引きとめておいてくれればいいの。そのすきにわたしは大公とともにこの町を去るわ」
「去るって……この町を支配するのが目的じゃなかったの?」
リ―ナママはぼくらを軽べつするようにほおをゆがめた。
「わたし、この町きらいなの。殺風景でやぼったくて、洗練されたものがなにもない田舎よね。ヨーロッパへもどりたいの。大公とわたしがいなくなりさえすれば、この町はもとにもどるわ。あなたはそのあともずっとリ―ナとお友だちでいてくれればいいのよ」
ほんとだろうか。ヴァンパイアの言葉なんか信用できない。
「この町をえらんだ目的はなんだったの?」
こうすけの質問にリ―ナママは目をほそめた。
「大公にとって重要なものがこの町にあるの。それを手に入れることがほんとうの目的だと思うわ」
ヴァンパイアにとって重要なもの? そんなものがぼくらの町にあるんだろうか。ぼくは女性警官のヴァンパイアが言ってたことを思い出した。
……大公さまへの貢ぎものを手に入れろ。おまえたちがそれをするべき役なんだ……。
ぼくらがそれを手に入れる役だって? どういうことなんだ。
「パッチはどうなったの?」
こうすけの声にはこんど怒りがこめられていた。
リ―ナママは軽くじょうだんでも言うような口調で答えた。
「ああ、あのワンちゃんのこと? わたしがせっかく気分よく散歩してたのに、ほえかかってきたりするから、ちょっとこらしめてあげただけ」
「まさか、死んだんじゃあ……」
「死んではいないわ。ただ、前より人をかむことがすきになったかもしれないわね」
こうすけが悲鳴に近い声をあげた。
「パッチ、ヴァンパイアになっちゃったのか!」
リ―ナママがぼくを見た。
「さあ、太一くん、どうかしら。わたしに協力すれば、ママを助けられるのよ。リーナのもとへ行ってあの子の心をしっかりつなぎとめてちょうだい。あの子にとってあなたがたいせつな人になりさえすればいいの」
そんなことできない。いまのぼくにとってリーナはおそろしい相手だ。あきよ先生のすがたが思いうかぶ。先生があんなすがたになってしまったのもリーナのせいだ。それに、リーナのそばにいたら心を支配されてしまいそうな気がする。
だけど、それでかあさんやほかの人たちを助けられるなら……ああ、どうしよう。
「太一、だまされちゃだめだ!」
こうすけの言葉に気をとりなおし、ぼくはきっぱり言いきった。
「いやだ。ヴァンパイアに協力なんかしない!」
リ―ナママは肩をすくめた。
「がんこな男の子たちね。みんながどうなっても知らないわよ」
リ―ナママはゆがんだ笑いをうかべると、あとずさりするように霧の中へすがたを消した。からだがとけて霧の一部になってしまったような消えかただった。しばらくしてけものの遠ぼえが聞こえてきた。
きっと、あのオオカミはリ―ナママだったんだ。
「こうすけ、どうしよう。このままだと、おれのかあさんもパッチもあぶないよ」
「だけど、ヴァンパイアと取引なんかしなくてよかったと思う。たぶん、みんなをほんとうに救える方法はひとつしかない」
「なに?」
「ヴァンパイアをたおすこと」
こうすけは自転車にまたがった。
「どこへ行くつもりなんだよ?」
「教会。言の葉町聖教会」
教会? たしかに映画とかだと十字架でヴァンパイアを追いはらうシーンがあるけど、ほんとにそんな方法が通じるんだろうか。あのふたつ頭の怪物だって、映画のような方法じゃたおせないって言ってたし。
こうすけはもう走り出していた。ぼくもペダルを力いっぱいふんであとを追いかけた。前を行くこうすけの背中を見ているうちにふっとなみだが出そうになってしまった。ひとりであのマンションから逃げだしたときはほんとにこわかった。だけど、いまはすぐ目の前に友だちがいる。それだけのことがすごくうれしくて、ぼくを勇気づけてくれた。
こうすけが背中を向けたままぼくに話しかけてくる。
「そこの司祭さまって、ぼくが通ってた幼稚園の園長先生と知り合いだったんだ。で、毎年クリスマスには幼稚園に来て、聖書の話を聞かせてくれたり、プレゼントをくれたりした。倉沢さんといって、もうおじいさんなんだけど、ぼく、その人となかよくなって、卒園したあともときどき司祭館へあそびに行ったりしたしてたんだ」
「でも、その人にヴァンパイアがたおせるの?」
「そんなことわからない。でも、いまは司祭さまに相談してみるしかない」
警察署でさえおそわれたのに、その司祭さんはヴァンパイアに立ち向かえるんだろうか。そういえば、松本さんはどうなっちゃったんだろう。
まさか、あの人まで……?
† カル公国の最期 †
公国ではカル新大公による支配がはじまりました。大公の座のとなりがリーナの座になり、物言わぬ首だけがあざやかな金銀の刺しゅうにいろどられた敷物の上にすえられました。リーナ妃の首につかえるために七人の侍女がえらばれました。彼女たちのだれもがその役をおそれましたが、大公の命令にさからうこともできず、ほとんど泣きべそをかくようにその役目をこなしていったのでした。
毎日、妃のお顔をふき清め、髪をくしけずり、ねんいりにお化粧をほどこすのが彼女たちの仕事でした。
ある日のこと、大公は家臣たちをよびつけ、こう命じました。
「この国でいちばん美しい娘をさがしてまいれ」
家臣たちはなかばあきれてしまいましたが、もし美しい娘を見つけて大公の側女に、ということにでもなれば、お心がリーナさまからはなれて、おぞましい首を見ずにすむかもしれない。そう考え、さっそく家来たちは美しい娘を見つけるために領内のあちこちへ散っていきました。
数日ののち、ひとりの娘が城へ連れてこられました。それはちまたでも評判になるほどの美しい娘でした。おびえた面持ちでひざまずく娘を見やって、大公は満足げにうなずくとこう言いはなちました。
「なるほど美しい娘だ。気に入った。即刻首をはねよ」
これには当の娘ばかりか、その場にいあわせた家臣一同までもがおどろきと恐怖にどよめいてしまいました。
「大公閣下、なにをおおせられます。この娘になんの咎があるのでございますか」
大公はごく平静な声でこうお答えになりました。
「咎などない。余はこの娘を気に入ったのだ。で、あるがゆえに首をはねよと命じるのだ」
大公は乱心めされておられる、いいや、もともとむごいことをこのむおかたなのだ、と家臣たちは青ざめました。ですが、命令にそむけば自分たちまでもがおそろしい責めを受けるかもしれぬ、そう考えると娘をあわれみながらも、したがわざるをえませんでした。
泣きさけぶ娘は城内の刑場へ引き立てられ、命令どおりその美しい首を落とされてしまいました。しかし、そのあとくだされた新たな指図は家臣たちをさらに恐怖させました。
「リーナ妃の首を娘のからだへつなぎとめよ。領内一の外科医をよべ」
家臣たちはもう言葉もなく、言われたことを実行にうつすほかありませんでした。さっそくよびよせられた外科医はリーナ妃の首とあわれな娘の胴体とをぬいあわせました。ぬい目は蜜ロウをもって封じ、その上からはだの色にあわせた顔料をぬりつけると、まるで生きているかのような女性の肉体ができあがったのです。
大公は侍女たちに命じ、その身に妃の衣装を着けさせ、丹念な化粧をほどこさせると妃の座にすえさせました。
「おお、まるで、リーナさまがよみがえったようだ」
家臣たちはおぞましい思いにかられながらも、生前そのもののリーナ妃のすがたに見入ってしまいました。しかし、だれよりも満足げであったのは大公ご自身です。日がな一日リーナ妃のそばにおいでになり、ときおりなにごとかを話しかけております。もちろんリーナ妃が返事をなさるはずもありません。
まわりから見ればそのような大公のふるまいは尋常とは思われませんでした。が、どうやら大公おひとりの耳にはリーナ妃の声が聞こえているようなのです。
「これだけ完ぺきな肉体を得たのだ。やがてはこの身にたましいが宿り、リ―ナはよみがえるであろう」
大公はもはやまつりごとはいっさい家臣まかせにし、リーナ妃とのふつうではない愛の日々をお送りになっておられました。ところが日がたつにつれ、妃のおからだからは異様なにおいがただようようになってまいりました。
妃の首とあわれな娘のからだとが腐敗しはじめたのです。大公はそのにおいを一向に気になさらないごようすでしたが、家臣たち、ことに侍女たちにとってはたえがたいものでした。においをまぎらわせようと一日じゅう香がたきしめられるようになりました。
そして、ある朝おそろしいことが起きました。侍女のひとりが妃の髪をくしけずろうとクシをあてたところ、はちみつ色の髪がひとかたまりもごっそりぬけ落ちてしまったのです。もちろんそれは侍女のせいではありません。妃の頭がすでにくさりかけていたからです。
大公はたいそうお怒りになり、妃の髪をそこねた罰として、泣いてゆるしをこう侍女の髪をすべて頭の皮ごとはぎ取らせてしまわれました。
それから数日して何人かの画工とロウ細工師が城によびよせられました。まず画工たちが命じられたのは、大公が語る生前のリーナ妃の美しさをもとに、想像力をはたらかせて妃のお顔をえがくことでした。
ひとりめの画工がえがいた肖像画は妃にはまったく似つかぬもので、大公のお怒りを買い、「おまえのような画工には美しいものを見る資格はない」と、その両目をえぐり取られてしまいました。
ふたりめの画工の作品はいくらかリーナ妃に似てはいるものの、技量が未熟であったことから、「おまえに絵筆を持つ資格はない」と、両手の指をのこらず切り落とされてしまいました。
三人目の画工がようやく大公のご満足がいく肖像画を完成させました。その画工にはほうびとして数枚の金貨があたえられました。
さて、肖像画をもとにこんどはロウ細工師が仕事を命じられました。それは、腐敗した皮膚をすべてはがされ、されこうべとなったリーナ妃の頭をロウでぬりかためてお顔を復元せよ、というものでした。その細工師は懸命に作業に取り組みましたが、できあがった顔は妃にはまったく似ておりませんでした。
大公はまたもお怒りになり、そのロウ細工師はロウを熱く煮たてた大なべにまっさかさまに投げこまれ処刑されてしまいました。
ふたりめのロウ細工師は十数日のあいだ眠ることも食べることもほとんどせず全身全霊を打ちこんだ作業のすえロウの首を完成させました。その顔はリーナ妃に生き写しなほどのできばえでありました。
大公はよろこび、細工師に休む間もあたえず、こんどはロウで妃のからだを作れとお命じになりました。ふたたび不眠不休の作業をはじめたロウ細工師の手により、しなやかな手足を持つ美しいからだができあがりました。
首とからだがつながると、大公は狂喜なさいました。
「これでリ―ナは永遠に滅ぶことのない肉体を手に入れた。よくやった。ほうびを取らすぞ」
しかし、そのときすでにロウ細工師は大公の前にひざまずいたまま息たえておりました。不眠不休のきびしい作業がかれのいのちをうばったのか、あるいはなにかの呪いででもあるのかはだれにもわかりませんでした。
ロウ人形ができあがってからというものの、大公はますます政務をおこたり、夜ごと城内で宴をもよおす日々がふえました。宴の際には、大広間に集められた人々はロウ人形の妃の前にひざまずき、うやうやしくあいさつすることを強いられました。
「大公のふるまい、もはや正気のさたにあらず」
「このままではこの国は滅びるぞ」
「ならば、いっそのこと……」
国の行くすえを案じる五人の重臣たちがあるはかりごとをめぐらせました。それは公国の西どなりにある神をうやまう国とひそかに手をむすび、大公をたおしたのち、ひとつの国に統一してしまおうというものでした。
公国の東どなりには異教の国々がせまってきており、このままだと公国は両陣営の板ばさみになるか主戦場にされてしまう。ならばいっそ、同じ神を信じるものたちとひとつの国になってしまおうと重臣たちは考えたのでした。
大公はかれらのはかりごとにはいっさい気づかぬようすで、連日物言わぬリーナ妃との語らいにうつつをぬかしておられました。ある日、大公はおもだった家臣たちを集めてこう言いました。「今宵より三日間、日夜をとおしての宴を開く。昼も夜も、飲み、食べ、歌い、踊り、さわぐのだ。その間はだれひとり城を出ることはならぬぞ」
謀反をくわだてる五人は、「さてはことが知れたのか」と青ざめました。と、いうのもちょうど四日後の夜明けに西の隣国から多数の軍勢が押しよせてくる手はずになっていたからです。それを機に五人はそれぞれの館から手勢をひきいてこの城をせめ、大公を討つつもりでいたのです。
先手を打たれたか、われらの動きは封じられたのか……五人の重臣は歯ぎしりしたくなるような思いとともにどのような罰がくだされるのか、と恐怖をいだきました。そしてそれぞれ胸の内で覚悟をきめました。いざとなればこの悪魔のような大公と刺しちがえて死のう、と。
大広間で宴がはじまりました。妃の座にはいつものようにロウ人形のリーナ妃が着かざったすがたでひかえております。大広間はありったけのろうそくの光で夜でも昼のようにまばゆく、大公おかかえの楽団がとぎれることなく軽やかな曲をかなで、長いテーブルには料理やぶどう酒がすきまがないほどならべたてられておりました。
五人はにぎやかな宴の間もゆだんなく大公のそぶりをうかがっておりましたが、大公は終始上きげんのようす。
番兵たちが広間へ押しよせてくることもなく、一日めの宴はおわりました。五人はそれぞれ城内にあたえられた一室でつぎの宴までのわずかなときをすごしました。眠ることなどできそうにありません。大公がいつ刺客を送りこんでくるかと不安だったからです。
いざというときのために隠し持っている短剣をにぎりしめて待ちかまえました。しかし、いつまでたってもなにごとも起こりませんでした。二日めも朝から夜ふけまで宴がつづきましたが、重臣たちの身にはなにも起きません。大公もあいかわらずにこやかです。
(大公はなにも気づいておらぬ。三日間ぶっとおしの宴というのも気まぐれから出たことで、われらの動きを封じるつもりなどないのだ)
五人は胸をなでおろしました。このぶんならだいじょうぶだ。われらのもくろみは成功する……。ただ、二日めの宴のさなかに重臣のひとりが厠へ立とうとして廊下のすみできみょうなうわさを耳にしました。
女中頭が明けがた、大公に手をひかれて城内を歩くリーナ妃を見た、というのです。女どうしの立ち話を聞くともなしに聞いてしまった重臣はまゆをひそめました。
(ばかな。いくら生きているように見えてもあれはロウ人形ではないか。たとえ妃のされこうべが封じこめられているとはいえ、あれにいのちが宿ることなどありえようか。臆病な女のたわごとにすぎまい)
重臣はそう考え、この話は自分ひとりの胸にひめてしまいました。そしてむかえた三日めの宴。列席者たちの顔にもさすが疲れが見えてまいりました。そろそろ日が暮れようかというころ、大公がとつじょ一同にしずまるよう命じました。音楽がやみ、にぎやかだった大広間はしずまりかえりました。
「みなの者。この国に栄あるのも余に忠実な家臣あってのことである」
これは意外なお言葉、とだれもが思いました。日ごろから横暴で残忍な大公には似つかわしくない物言いである、と。
カル大公はあくまで上きげんです。
「そこでじゃ、今宵はとくに忠義をつくしてくれた家臣にとくべつなふるまいをしたいと思う。持ってまいれ」
運ばれてきたのは五つの銀のさかずきでした。謀反をたくらむ五人はさかずきの数を見て、不吉な予感にとらわれました。
「これは今年領内でできた中でも極上のぶどう酒じゃ。これをその者たちにふるまいたいと思う。その者どもの名を言う」
大公は家臣たちの名を声高らかに告げました。五人の顔はもうまっさおでした。名をよばれたのはまさにかれらだったからです。大公のかたわらではリーナ妃がまるで生きているように美しい微笑をたたえております。
「さあ、五人の者たち。さかずきを取り、極上の酒をあじわうがよい」
重臣たちはたがいに顔を見合わせました。大公の意思はあきらかでした。毒殺です。五人に毒入りの酒を飲ませて殺すつもりにちがいありません。かくなる上は、とかれらはふところひそかに帯びた短剣に手をのばしかけました。
大公は楽しげに笑いました。
「なんじゃ、毒でも入っていると思うておるのか。しかたない。余が毒味をして進ぜよう」
大公はさかずきのひとつを取ると、なかみを口へふくみ、のどを鳴らして飲んでみせました。
「うまい。どうじゃ、これで安心できたであろ。さあ、飲むがよい」
ここまでされれば飲まないわけにはまいりません。今夜一晩待てば味方の軍勢が押しよせてくる。それまでは大公のうたがいをまねくようなふるまいはさけねばならぬ。五人は腹をくくってさかずきを手にしました。
それぞれが口もとへ持っていったとき。
「うっ、なんだ、これは」
みな、顔をしかめ、ひとくち飲んでしまった者はたちまち口を押さえてしまいました。
大公は五人のありさまを楽しむかのようににこやかです。
「どうした。みなの者。なぜ、飲みほさぬ?」
「大公閣下。こればかりはちと……」
大公の顔から笑いが消えました。そして意外なことをきいてきたのです。
「そちたち。この世でいちばんたいせつなものはなにかな?」
「そ、それはもちろん大公閣下に忠義をつくすことにござります」
大公はほおをゆがめて一瞬だけ笑いをうかべました。
「ははは。余に気をつかわずともよい。まことのことを申せ」
重臣たちはなぜそのようなことを問われるのかふしぎに思いながらも答えました。
「はずかしながら、わが館にはまだ嫁入り前の娘がおりまする。それがしにとってはその娘がなによりのたからもの」
「わたくしは妻をだれよりも愛しております」
五人はそれぞれ妻や娘、老いた母、りっぱに成長した息子、あるいはおさない孫などをあげました。ひととおり聞きおえると、大公はおそろしく太い声で言いはなちました。
「ならば、さかずきの中のものを飲めるはずであるな。そこに注がれてあるのは、そちらがもっとも愛する者たちの血であるのだから」
「なにを!」
五人がついに短剣に手をかけたとき、大広間のとびらが開き、兵士たちがいっせいになだれこんでまいりました。謀反をたくらむ重臣たちは兵によってその場にねじふせられてしまいました。
「その者どもを引ったてい! のこらずくし刺しの刑に処する!」
大公の声が大広間にひびきわたります。
「反逆者どもの家族の血はリーナにささげられた。この三日間、生き血をあたえつづえけたかいあって、リ―ナはようやく歩くことができるようになった。やがては語ることも歌うことも、踊ることさえできるようになるであろう」
大公はさかずきをリーナ妃の口に押しあてました。すると、ロウでできているはずの赤いくちびるがうっすら開き、ひとしずく、またひとしずくとさかずきのなかみがのどの奥へ吸いこまれていくのがわかりました。それは人形にたましいが宿ったためであるかのように見えました。
広間のどこかで女性が悲鳴をあげました。男たちでさえ、いま見た光景に背すじをふるわせておりました。大公はリーナ妃に向けていた愛おしげなまなざしをするどいものに変えると、一同を見まわしました。
「さあ、いくさへのそなえじゃ。明朝、敵が押しよせてくるぞ!」
このあと領内は巣をなくしたハチが飛びかうようなさわぎになりました。男たちは少年から老人にいたるまで城の前に集められ、武器を手わたされました。女たちは投石用の石を集めたり、敵にあびせる熱湯の準備にかりたてられました。
しかし、領民の中でも少なからぬ者たちがこのいくさにやぶれることをひそかに望んでおりました。と、いうのも、大公の残忍さは領内一円に知れわたっておりましたし、なによりも神を信じぬ人物を領主としてあおぐことは信仰心のあつい領民たちにはたえられなかったからです。このまま大公の支配を受けるよりは敵の手に落ちたほうがましだ、そう考える者が多くおりました。
空に青みが差しかかるころ、敵軍は襲来しました。十字をえがいた旗をかかげた軍勢は嵐のようないきおいで森をぬけ、公国の領土内へいっきに押しよせてまいりました。兵力の差のみならず、この戦いに意味を見いだせない公国軍は当初から劣勢でありました。
「引くな! しりぞく者、逃げる者はことごとく処刑する!」
カル大公は、自ら馬で戦場をかけめぐり、兵たちを叱咤しましたが、態勢を立てなおすことはできそうにありません。ついには大公自身が敵のまっただなかへ剣をふりかざして斬りこんでいきました。その強さ、残忍さは敵をおびやかすにじゅうぶんでしたが、押しもどすほどまでにはいかず、しだいに敵軍は城にせまりつつありました。
「いかん。リーナが!」
大公はもはや国のことよりも城にのこしてきたリーナ妃が案じられてなりませんでした。馬首を返し、敵に背を向けるや、いちもくさんに城を目ざします。
「大公が逃げたぞ、追え!」
敵の軍勢はますますいきおいづいてまいります。行く手をはばむ敵をつぎつぎ剣でなぎたおしながら、大公は城へ帰り着きました。城内のそちこちでは敵がはなった火矢によって調度品などが燃えあがっております。
大公は馬にまたがったまま城の中をかけまわり、妃のいる部屋へたどり着きました。侍女たちはわれ先に逃げだしたようで、リーナ妃のほかにだれのすがたも見えません。
「リーナ!」
大公はがくぜんとしてしまいました。リーナの衣装に火が燃えうつり、けむりがあがっております。しかも、その熱のために妃の手足はすでにとけはじめていました。カル大公はこのときはじめて〝恐れ〟という感情をいだきました。それはリーナをふたたび失うのではないかという恐れでした。いまや美しいロウ細工の顔もあごのあたりからくずれつつあります。
大公は最後の手段に打って出ました。敵の血でぬれた剣をふるってリーナの首を切りはなすと、ありあわせのビロード地でくるみました。首をこわきにかかえるや、自らの足で城の外を目ざします。すでに城内へ押し入っている敵兵たちがおそいかかってきました。大公は片手にリーナの首をかかえたまま、剣で敵を打ちたおしていきました。
闘いのさなか、ある記憶がよみがえりました。
(おれはこの国を手に入れるときもリーナの首をかかえ、片腕一本で闘ったのだ。いま、また同じように闘いをくりひろげている……)
敵をしりぞけると大公は城の裏手に広がる森の中へと逃げこみました。マントをひるがえし、ビロードにくるまれた首をかかえて森をかけぬけるそのすがたは悪魔そのものでした。
(リーナ。そなたがふたたび完全な肉体を得てよみがえる日をわれは待ちつづける。何百年、何千年でも待ちつづける。その日が来るまで何百万の人の血をすすってでもわれは生きのびてみせる)
公国は滅びてしまいました。
が、それと同時にいまここに永遠のいのちを持つ吸血鬼が誕生したのでした。
倉沢司祭の罪
ぼくらは教会の門の前で自転車を止めた。古びた鉄の門のわきに(重要文化財)と書かれた看板が立っている。この教会のチャペルはできてから百年以上たつらしい。
チャペルはチョコレート色のレンガづくりで三角形の屋根のはしに小さな塔があって、鐘がつりさがっている。チャペル前のモミの木はまるで天からおりた巨大な手でもぎ取られたようにとちゅうから上がなくなっていた。
去年だったかな、かあさんの車でこのチャペルの前を通りかかったことがある。ちょうど十二月でモミの木には宝石のようなイルミネーションがかざりつけられていてきれいだった。いったいこの木はどうしてしまったんだろう。
チャペルのとなりに白いペンキぬりの小さな家がある。司祭さんはふだんはそこに住んでいるらしい。こうすけとぼくは司祭館の前に立った。ペンキがぼろぼろにはがれたドアにはチャイムではなく、古めかしい木のノッカーがついている。こうすけが何度ノッカーを鳴らしてもだれも出てこない。
「るすかな」
こうすけがつぶやく。教会の庭はしずまりかえっている。ぼくはいやな予感にとらわれた。
「こうすけ」
ふりむいたこうすけの顔も青かった。
「もしかしてここもヴァンパイアにやられたんじゃあ……」
こうすけは強く首をふった。ぼくの言うことなんか信じたくもない、そんな態度だった。
「ヴァンパイアが教会に入ってこられるはずない」
ぼくのほうもなんだかこうすけの言葉を否定してみたくなった。
「そんなことわかんないじゃないか。映画とかだと、ヴァンパイアは太陽の光によわいってことになってるけど、まだ昼間なのにあいつらは動きまわってるし。もしかしてほんもののヴァンパイアは十字架なんかこわがらないのかもしれないよ」
こうすけは手を顔にかざして霧に閉ざされた空を見上げた。
「霧が太陽をさえぎって、ヴァンパイアを動きやすくしてるのかもしれない。そう考えればやっぱりヴァンパイアは太陽によわいってことだよ」
この霧にはそういう役目があったのか? そういえばリーナのパパはまぶしい光によわいって言ってた。だとすれば……ヴァンパイアにも弱点はある!
このとき、ぼくらのうしろで声がした。こわごわふり返ると、チャペルのとびらの前に黒い服を着た男の人が立っていた。男の人とは言ってももうおじいさんで、頭はまるくはげあがり、あごに白いひげをたくわえていた。手に持った小さな十字架を高くかかげている。
「ゆっくり。ゆっくりこちらへ来なさい」
しわがれた、それでいてよくひびく声だった。
「司祭さま」
こうすけがさけぶ。
司祭さんはそのまま姿勢をくずさず、表情も変えなかった。言われたとおり、ぼくらがゆっくり近づいていくと、ようやくほほ笑みを見せてくれた。十字架をかかげる手がおろされた。
「こうすけくんか。ひさしぶりだね」
こうすけは泣きだしそうな顔になっていた。
「うたがったりしてすまなかったね。わたしには礼拝堂にいる人たちをまもる義務があるのでね。ゆるしてくれ」
ぼくはここではじめて倉沢さんという人をよく観察した。背はそんなに高くはないけど、肩はばの広いがっしりしたからだつき。まるくて大きな顔の中で目鼻はしわにうずもれている。鼻の上のめがねごしにぼくらを見る目はやさしげに細められている。
「入りなさい」
司祭さんに手まねきされて、ぼくらはチャペルの入り口をくぐった。中に入っておどろいた。そんなに広くないチャペルは人でいっぱいだったんだ。
そうか、きょうは日曜だからお祈りに集まっているのか、最初はそう思った。
だけど、ようすがおかしい。チャペルの床には長い木のベンチがならんでいる。そのベンチばかりかせまい通路まで人でうめつくされていた。正面に黒ずんだ大きな祭壇があって、十字架にはりつけされたキリストの像と大きなマリアさまの絵がみんなを見おろしている。その祭壇の下にも赤ちゃんをだいたおかあさんやおばあちゃんや小さな子どもたちがすわりこんでいる。
みんながいっせいにぼくらのほうを見た。だれの目もおびえていた。赤ちゃんが泣きだした。その声につられたのかべつなところで小さな子が泣きべそをかきはじめた。司祭さんと同じ服を着た若い男の人がいて、みんなにはげますような言葉をかけている。
「みなさん、この町で起きていることにおびえて、逃げこんできた人ばかりなんだよ」
そうだったのか。でもその中に男の人がひとりも見えないのがちょっとふしぎだった。
「みんな、信者さんなんですか」
こうすけの問いに倉沢さんは首を横にふった。
「信徒であろうとなかろうと、助けを求めてきた人はすべてかくまうつもりでおった。ところがざんねんなことにこのとおりせまい礼拝堂でね。すべての人をかくまうのはむりだった。しかたなく元気そうな男のかたたちにはごえんりょいただいたんだ」
司祭さんはちょっと悲しげに目をふせた。
ぼくは思った。いくら元気な男の人だってヴァンパイアには勝てっこないよ、って。
倉沢さんはこうすけを見て笑った。
「しかし、しばらく会わんうちにきみも大きくなったものだ。思い出すよ。きみがまだ幼稚園児だったころ、神さまがいるならその証拠を見せてよ、と問いつめられて、ずいぶん困ったことがある」
ふーん、こいつはそんなに小さいころからむずかしいことしゃべるやつだったのか。
こうすけはてれたようににやにやしている。その笑いをすぐに打ち消して、あいつはきいた。
「司祭さまはもう知っていると思いますけど、いまヴァンパイアが町であばれまわっています。ぼくらもおそわれそうになりました」
ぼくもマンションでのできごとを話そうとした。司祭さんはそれをさえぎり、ぼくとこうすけは横の小さなドアから廊下へ連れ出された。
「みんなにおそろしい話を聞かせたくないのでね。ここで聞こう」
うす暗く、せまい廊下のすみっこでぼくは自分たちが体験したことを伝えた。司祭さんは顔色ひとつ変えず、それどころか眠たげに見えるほどおだやかな表情で話を聞いていた。聞きおわると、霧にけむる窓の外を見てつぶやいた。
「三週間ほど前のことだ。樹齢九十年、どんな嵐にもびくともしなかったモミの木が引き裂かれて折れてしもうた。とつぜんの落雷によってな」
あきよ先生のブログにも書いてあったふしぎなかみなり。あれが落ちたのはここの木だったのか。これってぐうぜんなのだろうか。三週間前っていえばリーナが転校してきたころだ……。
「いま思えば、あれはなにかの警告だったのかもしれんな」
こうすけの声が暗い廊下にひびいた。
「司祭さま、助けてください。警察の人たちでもヴァンパイアには勝てないと思います。司祭さまが天の力を借りて、みんなを助けてください」
倉沢さんはすぐには返事をしなかった。指先で白いひげをなでながら、なにかをじっと考えこんでいるようすだ。こうすけもぼくも身動きひとつせず、司祭さんがなにか答えてくれるのを待っていた。古びた教会の建物はときおりミシミシと鳴る。なんだか、この場所ではいま時間が止まってしまったように感じられた。
しばらくして倉沢さんはささやくように低い声で言った。
「吸血鬼退治。それはいわば悪魔ばらいだね。悪魔ばらいというのは聖職者ならだれでもできるというわけではないんだよ。とくべつな修行を積んだ上で司教の許可を受けた者でなければゆるされないおこないなのだ」
悪魔ばらいという言葉を聞いて、ぼくは自分がホラー映画の中にまぎれこんでしまったような気がした。
「しかも悪魔ばらいは人なみ以上の体力と気力を必要とする。ちゅうとはんぱな悪魔ばらいはかえって危険なのだ。ぎゃくに悪魔にとりこまれてしまうこともあるのでな」
ぼくは胸をかかえるようにして両腕を組んだ。もう春もおわろうとしているのに、ひどく寒いんだ。教会をかこむ霧があたりの熱をじわじわうばい取っているような気がする。
倉沢さんはさびしげな目になってつぶやいた。
「わたしももう年でな。ここへ逃げてきた人々をかくまってあげるくらいがせいいっぱいなのだ」
こうすけはだまってくちびるをかんでいた。司祭さんができないっていう以上、どうしようもない。
なんだ、やっぱ、ここへ来たこともむだになっちゃったんだ。あと、ほかにぼくらができることってなにかあるだろうか。だめだ、もう、なにも思いつかない。なにも考えられない。
さっきぼくらが出てきた小さなドアが開いて、若い司祭さんが顔を出した。うしろ手にドアを閉じると、少しふるえるような声を出した。
「先生。わたくしにやらせてください、悪魔ばらいを」
倉沢さんの目つきがけわしくなった。
「むちゃなことを言うものではない。自分の立場をわきまえなさい」
倉沢さんは若い司祭さんをぼくらに紹介してくれた。
「この青年は三浦くんといってな。まあ、見習い司祭のようなものだ。神学校で勉強をおえて、ここへ派遣されてきたんだよ。教区の運営や信徒との接しかたを学んでおる。毎日わたしにしごかれて泣きべそをかいておるのだ」
倉沢さんはそう言って笑ったけど、あとはだれも笑うものはいない。
三浦さんは真剣な表情をくずさなかった。
「自分の未熟さはわかっております。ですが、おさない子どもたちやその母親たちまで、みんなおそれ、おびえきっております。あの人たちをなんとかして救ってあげたいんです。わたくしは学校ではスポーツもじゅうぶんやりました。体力や気力には自信があります」
倉沢さんはためいきをついた。
「体力や若さだけで悪魔に立ちむかえるものか。いや、むしろ、若者のほうが悪魔にとりこまれやすいかもしれん」
倉沢さんはぼくらをうながした。
「ここはやけに寒いね。この季節にしてはへんだな。さあ、中へもどるとしよう」
そして三浦さんに命じた。
「バザーのときくばったビスケットがあまっておるだろ。あれをみなさんにわけてあげなさい。こんなときは少しでもおなかに食べものを入れたほうが心が落ち着くものだ」
チャペルにもどると、まだ赤ちゃんが泣いている。三浦さんが大きなカンの箱をかかえてビスケットを
くばりはじめた。ひとり一枚しかいきわたらなかったけど、バターの風味とかすかなあまみがして、とてもおいしいビスケットだった。だれもがだまって一枚きりのビスケットを口へ運んでいる。
倉沢さんは祭壇の前に立つと木の台に置かれた大きな本を開いた。お祈りのような言葉をつぶやいている。あの本は聖書なのかもしれない。
そのとき、外からとびらをたたく音がした。みんながいっせいに入り口のほうを見た。チャペルの中にピーンと緊張が走った。司祭さんだけは顔を上げることもなくお祈りの言葉をつづけている。
三浦さんがとびらごしに声をかけた。
「どなたですか」
とびらの向こうで声がした。
『助けて。吸血鬼に追われてるんだ』
子ども、しかも男の子の声だ。その声にききおぼえのある気がした。三浦さんがとびらのかんぬきをはずそうとしている。ぼくはとっさにその手にとびつくようにして引きとめた。メグのママがドアごしにぼくをだまそうとしたことを思い出したんだ。
三浦さんはふしぎそうにぼくを見た。
「どうしたの? なんでとめるの?」
「だれだか、たしかめてからにしたほうがいいよ」
三浦さんはちょっと考えてからとびらの向こうへきき返した。
「あなたはだれですか。小学生? 中学生? 名前と学校をおしえてください」
しばらく沈黙があった。やがて答えが返ってきた。
『おれ……東小の二階堂太一っていいます』
ふざけんな! 東小の二階堂太一ってのはぼくだけだ。もう相手の正体がわかっていた。
ぼくはとびらの向こうへ声を投げつけた。
「おまえ、シュウジだろ! なんで、うそつくんだよ!」
とたんにげらげらとぼくをばかにするような笑いが聞こえた。
『なーんだ、太一、おまえ、そこにいたのか。なんで教会なんかにかくれてるの? わかった、おれたちのことがこわいんだろ。そこでふるえて泣いてたんだろ』
ぼくはむきになって言い返した。
「ふるえてるわけねえだろ。おまえなんかちっともこわくねえよ!」
とびらがガタガタゆれた。シュウジのやつがゆさぶっているみたいだ。
『だったらよ、これからうんとこわがらせてやっからよ』
外がしずかになった。三浦さんはぼうぜんととびらを見つめている。
だれかが悲鳴をあげた。ふり返ると、高いところにあるステンドグラスにへばりつく人かげがぼんやり見える。あの窓まで地面からだと三メートルくらいはあるかもしれない。ヴァンパイアになっちまったあいつにはそれくらいの高さをのぼるのはわけないことなんだろう。
ひざまづく女の人に手をさしのべるキリストらしき男の人。そのようすを色ガラスでえがいたステンドグラス。そのガラスをバンバンたたく手があった。
『もうすぐここもおれたちのなかまに取りかこまれるんだ。おまえら、だれもにげられないぜ。一生ここにかくれてるつもり? みんな飢え死にしちまうよ』
赤ちゃんにつづいて小さなこどもたちまで泣き出した。
倉沢さんはお祈りの言葉をとなえたきり、ステンドグラスのほうなど見むきもしない。
シュウジのやつ、調子に乗ったのかさらに大きな声をはりあげた。
『おまえら、ここに閉じこめられたらどうする? そうだ、みんな腹がへったら、ねずみの死骸でもさしいれてやるよ。きっとうまいぜ』
三浦さんはくやしそうにステンドグラスを見上げている。
シュウジの高笑いがした。
ちくしょう、あいつ、いい気になるなよな。ぼくの声が向こうにとどくかどうかはわかんない。だけど、言い返さずにはいられなかった。
「やめろ、シュウジ! こんなことしてなにがおもしろいんだよ!」
ぼくの声は聞こえたらしい。
『楽しい~んだよっ。おれ、わかったんだ。みんななんでおれのことあんなにいじめたのかなって。もしかして、おれにもわるいとこあったのかな~とかいろいろ考えた。でも、いまわかったんだ。おれがびびって言いなりになるのを見て、みんな楽しかったんだろうな。いまのおれならその気もちわかるよ。人をおどして、びびらせて、言いなりにさせるのってすっごくおもしれええんだよなっ』
シュウジのことをこわいとも思わないし、腹が立つこともない。ぼくはただ悲しくなっただけだ。シュウジがこれまでどんなにつらい思いしてきたのかやっとわかった気がする。でも、そんなシュウジが自分が強くなったとたん、こんどは人をいじめる側にまわるのか? なんでだよ。どうしてだよ。
こんどは天井から屋根をどたどたふみ鳴らす音が聞こえてきた。あいつ、この教会をおもちゃがわりにしているんだな。
そのとき、倉沢さんが聖書から顔を上げ、みんなのほうを見た。
三浦さんが天井を指さした。
「先生、悪魔が上におります」
倉沢さんは首をかるく左右にふった。
「あれは悪魔などではない。ただの子どもだ。心のよわさにつけこまれ、あやつられているだけだ。わたしたちがおそれればおそれるほど、相手の思うつぼになってしまう」
倉沢さんはそう言うと、こうすけ、つぎにぼくの顔を見た。そしてしずかなほほ笑みをうかべた。
「さて、勇気ある少年たち。しばらくのあいだ、わたしの話を聞いてくれるかな」
ヴァンパイアがすぐそこに来ている中で、司祭さんはなにを話すつもりなのだろう。
倉沢さんはほかの人たちへも目を向けた。
「みなさんにもお聞きいただきたい。わたしが過去におかしたあやまちと罪を」
司祭さんのあやまちと罪? それがヴァンパイアとなにか関係あるんだろうか。
だれもがあっけに取られたように倉沢さんのほうを見ていた。
司祭さんは語りはじめた。
特殊捜査班出動!
マンションのまわりに警察車両が集まっていた。県警本部刑事部から送りこまれてきた特殊捜査班(Special Investigation Team )、通称SITは県警警備部機動隊との打ちあわせをおえ、機敏な動きで待機位置へと移動しつつある。
SITは人質を取ったたてこもりや誘かい事件などにおける犯人との交渉や制圧、人質救出の専門訓練を受けた特殊チームだ。
指揮をとるのは、正木警部補で刑事部門を二十年歩んできたベテランだ。特殊捜査班のリーダーなのでほんらいなら〝班長〟とよばれるべきだが、それだとおそうじ当番のリーダーみたいで威厳がないとの声もあり、部下たちからは〝隊長〟とよばれている。
すでにマンションへ通じる道路には検問がしかれ、機動隊員たちが警戒にあたっている。正木隊長はいつになく不安をいだいていた。このマンションで、この町で、いまなにが起きているのか、事件の具体的な内容がつかみにくいのだ。
言の葉署の松本という刑事からくわしい話は聞きとったものの、いまだ事件の全容を把握しきれていない。ただ、松本刑事の口から「吸血鬼」という言葉を聞いたときはしかりつけてやったが。
『警察官がこれから現場にのぞもうとするときにふざけたことを言うんじゃない』と。
それにしても、その松本と自分がここで打ちあわせをしているあいだに言の葉署がおそわれるとは予想もしなかった。報告によると署内に当直警官のすがたはだれも見えず、大量の血痕がのこっていたという。保護されていた少年ふたりと母親のゆくえもわからないままだ。
正木は胃の底にきりきりするような痛みをおぼえた。神経がとがってきているあかしだ。容易ならざることがこの町で起きているのがわかる。それでもなんとか常識にてらして事件のイメージを頭の中でえがいてみた。
複数の凶悪犯による連続傷害および拉致事件。小学校の養護教諭失そう事件もかかわりあるはずだ。容疑者たちはこのマンションにひそんでいる可能性が強い。
いちばんあやしいのは最上階に住む浦戸公作三十六歳とその妻エマだ。夫妻には海外で生まれた十二歳になる娘もあるが年齢から考えて娘は事件には関与していないだろう。
これまでわかったところでは、浦戸は自称キュレーターでハンガリー共和国ほかヨーロッパのいくつかの国々で美術館関係の仕事をしたのち二か月ほど前に日本へ帰国した。
しかし、夫妻の親類や友人などのだれにも帰国の連絡がなかったという。ひさびさに帰ってきたにしては不自然に思える。入国審査は問題なくすんではいるものの、パスポートや娘の出生証明書は偽造された可能性が高い。なにものかがほんものの浦戸夫妻になりすまして日本へ入国したにちがいない。
かれらが事件の首謀者だとしたらその目的はなんだろう。もしかして浦戸となのる男女は国際テロ組織とかかわりあるのかもしれない。連続して人を傷つけているのも世間に不安をもたらすのが目的だから? それならば警察署をおそうという大胆な行動にも説明がつけられる。しかし、テロならもっと都会をねらうはずでは?
正木なりに考える。これはさらなる大がかりなテロへのリハーサルなのかもしれない。だいぶ前に大都会の地下鉄内でカルト集団が毒物をまきちらすという事件があった。あのときもカルト集団はあらかじめ地方の町で同じ毒をまいて、いわばリハーサルをおこなっていたのだ。こんどのケースもそれに通じるのかもしれない。
考えてみればこの事件も政治的なテロというよりはむしろ宗教的カルトのにおいがする。被害者が血を吸われていたという報告もある。それはなにかオカルト的な宗教儀式と関係あるのではなかろうか。
では、ふつうの市民がほかの人をおそっていたという目撃情報はどう解釈する? なんらかの薬物か、マインドコントロールを用いて犯行に加担させたと考えるのが妥当だろう。いずれにしても吸血鬼などのしわざでないことはあきらかだ。
おそらくは浦戸という男を教祖とあおぐカルト集団の犯行にちがいない。
正木隊長は自分なりに事件を合理的に解釈できたことでいくらか不安がしずまった。敵のすがたが見えてきた気がする。
正木のイヤホーンに無線連絡が入った。
『第一班突入準備完了』
「了解」
『第二班突入準備完了』
「了解」
『第三班……』
とつぜん通信に高らかな笑い声がわりこんできた。聞く者をあざ笑うような太く低い声だった。
正木は肩に装着したマイクロホンに向かいどなりつけた。
「ばかもん! だれだ、いま笑ったやつは」
応答があった。
『だれも笑った者はおりません』
どこかべつな無線と混信しているのだろうか。それにしても笑い声だけ無線に入れるやつがあるものか。正木は釈然としないものの、このできごとで作戦にいまさら変更をくわえるわけにはいかなかった。
『第三班突入準備完了』
各五名ずつの小チーム三班がマンションへの突入タイミングをはかり、さらにその背後を機動隊と一般警官のあわせて百名以上が取りかこんでいる。SITのチームは正面玄関と非常口からほぼ同時に突入し、のこる1チームがうしろから援護する手はずになっている。
突入後は一、二階をSITが制圧し、人質となっている住人があれば救出、あとを機動隊が引きついで、フロアの安全を確保する。その後SITは合流して非常階段をつかって上へ上へと順次制圧をつづけていく。もちろん敵の抵抗があれば戦闘行為もありえるが……。マンションの上階へと追いつめていけば敵はふくろのねずみになるはずだ。
「各班待機。指令を待て」
無線のマイクに言いのこして正木はうしろにいる松本巡査部長をよびよせた。
「容疑者は銃器を所持していると思うか」
松本も私服の上から防弾防刃用ベストを装着している。日やけした顔には緊張感があふれていた。この刑事はいいかもしれない、と正木は感じた。SITのつぎの人選でスカウトしてみようか、そんなことを思いながら松本の答えを待った。
「根拠はしめせません。ですが、相手は強力な武器を所持しているという前提に立つべきだと思います」
正解だ、と正木はうなずいた。状況把握がじゅうぶんでない段階では最悪の事態を想定して行動すること。これが現場での鉄則だ。安易な楽観主義はいのち取りになりかねない。
「きみは浦戸夫妻とは面識があるんだよな」
松本は、はいっ、と答えた。養護教諭失そう事件の聞きこみで松本はこのマンションをおとずれている。正木は考えた。多数の住人の中からどうやって夫妻を見わければいいか? 夫妻の顔を見ている松本ならそれができるかもしれない。
正木の考えをさとったように松本が言った。
「自分も突入メンバーにくわえてください。自分ならかれらの顔を見わけられます」
正木は松本を上から下までじろっと見まわした。
「けん銃は持ってるか」
「はい」
松本の協力を得れば、容疑者の捜索もやりやすくなるだろう。チームの中に新参者がひとりまじればチームワークがみだれるおそれがあるが、この刑事ならそつなく行動してくれるかもしれない、と正木は期待した。ひとつ気になるのはかれが吸血鬼などというばかげた言葉を口にしたことだ。が、それは今回は聞かなかったことにしておこう。
正木は松本刑事を第ニ班のうしろにつけて行動させることにきめた。
「いずれかの住人と連絡はついたか」
松本はきびきびした口調で答える。
「ついておりません。マンション管理会社の住人名簿に記載された電話番号にはすべて連絡してみたのですがまったく通じません。電話のケーブルが切断されている可能性があります」
正面玄関のオートロックシステムも稼働していない。裏の非常口のドアはスペアキーを管理会社から借り受けているので突入はかんたんだ。表の自動とびらは破壊するしかあるまい。あとだいじなのは突入のタイミングだった。容疑者側からの要求や犯行声明はなにも出ていない。いまだ沈黙をつづける相手がぶきみだった。
正木はマンションを見上げた。霧の中から三角にとがった最上部が突き出して見え、まるでそびえ立つ古城のようだ。吸血鬼という言葉をつい思い出してしまった。
ふふんっ、ドラキュラの城か? いっそ、部下たちに十字架とニンニクでも持たせりゃよかったかも、と正木は心の中でジョークをつぶやき緊張をほぐそうとつとめた。
このジョークがやがて現実のものになるとは、かれはまだ夢にも思っていなかった。
第四回めのストーリーは4月29日(日)前後に投稿予定です。