第二回 霧の中の声
よみがえった死者
水しぶきがあがった。ぼくはよける間もなくしぶきをあび、ぬれてしまった。水はひどく生ぐさいにおいがした。なにかが水中でもがいている。水槽のふちにピタンッとはりつくように現れたものがあった。手? 人間の手にしては小さい。でも、ちゃんと五本の指があり、つめがある。もう一本の手がのびてきた。この小さな手は赤ちゃん? まさか、人間の赤ちゃんが水にもぐっていられるはずがない!
やがてふたつの頭が水中から飛び出したとき、ぼくはこんどこそほんものの悲鳴をあげていた。それはまちがいなく人間の顔だったんだ。どちらの顔も生まれたての赤ちゃんくらいの大きさだけど、黒い髪がぬれて顔にはりついている。目は細くはれあがったようでつりあがっていた。まるで顔にできた大きなしわのような目だった。
小さな鼻と口。その口がさけぶようにカッと開かれた。口の中にはじゃりつぶほどの小さな歯がびっしりならんでいるのが見えた。しわくちゃでほんものの赤ちゃんにも似た顔だった。それは水槽のふちに両手をかけるとはいあがってきた。首が現れ、肩が見えた。ぼくはもう悲鳴をあげることさえできない。
ふたつの頭はひとつのからだにつながっていたんだ。
リ―ナの声がまるで楽しむようにほがらかにひびいた。
「ねっ、かわいいでしょ。わたしのペット。塩素を入れると苦しがって飛び出してくるの。ふだんは水の中でも息ができるのよ」
ぼくはけんめいの努力でやっと声を出した。
「こ、これってなんなの? さかな? 動物? カエルのなかま? ま、まさか人間じゃないよね?」
リ―ナはどう答えよっかな、と考えこむようにあごに手をあて首をかしげた。そのしぐさはかわいいどころかひどくぶきみなものに見えた。
「むかしは人間だったの。でも、パパにめずらしいおさかなを飼いたいってたのんだらこんなのを作ってくれたの」
リ―ナのパパが作っただって? じゃあ、これは生き物じゃなくてロボットかなにかなの? そんなはずない。これはどう見ても生きている。それとも遺伝子操作とかでできた新しい生物?
それは水槽のふちへよじのぼるとつくえの上にビシャッと飛びおりた。頭でっかちの体型に似あわず身軽な動きだった。ぷっくらした風船のようなはだかのからだから短い手足が突き出している。ふとももだけはやけに太くてからだをしっかりささえていた。
両腕のつけねにパクパクうごめくエラがあるのを見たとき、ぼくは思わず食べたものをはきそうになってしまった。わるい夢を見ている気分だ。
……リーナ。モウ、コンナコトハヤメテクレ。パパトママヲ、モトノスガテニモドシテクレ……。
キ―キ―とサルが鳴くようなかんだかい声がした。立ち上がったそれは身長はぼくのひざくらいまでしかないけど、人間の言葉をしゃべった。しかも、パパとママってどういうことなんだ?
リ―ナは顔をしかめた。
「まだ、そんなこと言ってるの? また塩素入れちゃうわよ」
ふたつの顔のうち、長い髪のほうが口をパクパク動かした。まるでさかながしゃべっているようにも見える。わかった。髪の長いほうが女で、もういっぽうは男なんだ。
……リーナチャン、オネガイダカラ、モウ、アクマノテサキニナルノハヤメテ、ワタシタチヲ、モトノスガタニモドシテチョウダイ。ソシテ、サンニンデムカシノヨウニ、シアワセニクラシマショ……。
その声はすすり泣いているように聞こえた。ぼくのひざはかたかたふるえている。耳をふさいでここから逃げだしたい気分。
リ―ナの声に怒りがこめられた。
「わたし、あなたたちといっしょだったころなんて、ぜんぜんしあわせじゃなかったわ。わたしを救ってくれたのはいまのパパよ。あなたたちじゃないわ」
ふたつの頭をもつ生き物はキ―キ―と鳴いた。悲しんでいるようだった。あとずさりするぼくを見て、リ―ナはあざ笑った。
「太一くんって、やっぱり弱虫だったのね」
弱虫じゃなくたって、こんなものを見ていたらだれだってこわくなるよ!
ぼくはリ―ナへ言葉を投げ返した。
「おまえってほんとうはなにものなんだよっ。なんでこんな怪物を飼っているんだよっ。この怪物はさっきパパとママって言ったよな。おまえは怪物から生まれたのかよっ」
言ってしまってからドキッとした。リ―ナの白い顔にどすぐろいかげのようなものが差すのがわかった。ひとみの中で青白い炎がもえあがったようにも見えた。
「わたしが怪物から生まれたですって? ひどいぶじょくだわ。それにあなたにおまえ呼ばわりなんかされたくないわ。わたしは偉大なものから生まれてきたのよ」
リ―ナのまっかなくちびるがゆがんだ。左右のほおにえぐったように深いえくぼが浮かぶ。べつな場所でそのえくぼを見たらかわいく感じたかもしれない。だけど、いまのリ―ナの顔はまるで悪魔の化身のようにも見えた。
「太一くんのことゆるせないっ。そうだわ、いいこと思いついた」
リ―ナはつくえの上でぶるぶるとからだをゆすって鳴き続ける怪物へ命令口調で言った。
「この男の子をこらしめてちょうだい。かみついてもひっかいてもなにしてもいいわ。うんとこわくて痛い思いをさせてあげて。言うとおりにしたら、パパにたのんであなたたちをもとの姿にもどしてあげてもいいわ」
怪物はピタッとすすり泣きをやめ、ふたつの顔がいっしょにリ―ナのほうを見た。はれぼったいまぶたの下から目を見開き、いっせいにキンキンした声をあげた。そのハーモニーは深い井戸の底から聞こえてくるようにも聞こえた。
……イマノコトバハ、ホントダネ? ソノオトコノコヲコラシメレバ、モトノスガタニモドシテクレルンダネ?
リ―ナは怒りの声をあげた。
「しつこいわね! わたしの言葉をうたがうつもりなの? 早く言われたとおりにしなさいっ」
ふたつの顔がぼくのほうをキッと見た。顔と顔はおたがいに相手をじゃまあつかいするようにほおをぶつけあっている。女の顔が声を出した。
……アナタ、ヤメマショウ、アノオトコノコハ、カンケイナイノヨ。
……ダマレ。コレデ、モトノスガタニモドレルノナラ、リ―ナノイウコトヲ、キコウ。
……ワタシハ、イヤデス!
男のほうの顔がカッと口を開いた。ぼくをおびやかすように細かくするどい歯ならびを見せつけた。短い両手をつくえにつくと、ジャンプし、床へ着地した。小さなからだのわりに力はありそうだ。ぼくは出口のほうへあとずさるしかない。
怪物はよつんばいにぼくのほうへ向かってきた。
「来るなよ、あっち行け!」
ぼくはさけびながら、はしご段のほうへクルッと向きを変えた。だけど、怪物はすばしこかった。床をササッと走り、ぼくの前方へまわりこんでいる。その姿はふたつの頭をもったカエルにも似ていた。たとえ小さな口でもあの歯でかみつかれたら痛いにきまってる。
ぼくは逃げ場所をもとめて、つくえのまわりを走りまわった。
リ―ナのはしゃいだ声がした。
「さあ、鬼ごっこのはじまりよっ。太一くん、がんばって!」
ふざけんな! だけど、ぼくに怒ってるひまはない。目の前はコンクリのかべとボイラーの機械。ぼくはたちまち地下室のすみへ追いつめられてしまった。
ああ、どうしよう。ふたつ頭の怪物はじりじりぼくへせまってくる。とびかかる体勢をつくるのがわかった。ぼくはなにか身をまもれる武器になるようなものがないかとあたりを見まわし、すみの大きなポリバケツに目をとめた。
あのふたで怪物のこうげきをふせごう。ふたに手をのばそうとしたとき、バケツの中でなにかが動いた。ガタッ。ゴソゴソッと。
中になにかがいる……生きているものが。どうかノラねことか〝ふつうの生き物〟でありますように。怪物はぼくにせまっている。ためらうひまはない。ぼくは手さぐりでふたを取り、身がまえようとして、ふとバケツの中へ目がいった。黒いものがつまっている。
なんだ、ごみぶくろか。
ぼくはふたを楯のようにかまえると怪物と向き合った。
……アナタ、ヤメマショ。オトコノコガカワイソウ……。
怪物の声を聞きながら、すぐ横でなにかが立ち上がる気配を感じた。
な、なんだ、こんどは。とっさにかべにそって横へ移動し、ポリバケツのほうを見た。
うそ、信じられない……。
黒いものは人間の頭だったんだ。黒いぼさぼさの髪。つづいて顔がバケツの中から現れた。髪がたれさがり表情はよく見えない。青黒いはだ。やがて首が現れ、肩が見えた。腕がのび、バケツのふちをつかむ。よごれたきたならしい手。赤黒いものがこびりついた細い腕。立ち上がったそれは女の人のようだった。ところどころやぶれてよごれたシャツとスカート。
リ―ナの声がした。
「あーあ、せっかくおひるねしていたのに、太一くんがさわぐから目をさましちゃったんだわ」
目がさめた? ねむっていたのか、このバケツの中で?
立ち上がった女の人が顔をあげた。ぼくはもう少しで気が遠くなりそうになった。目、鼻、口はそろっているけど、その顔はゴムボールをつぶしたようにゆがんで見える。はだはぼろきれをはぎあわせたようにボロボロとくずれかけている。首すじに糸でぬいあわせたようなあとが見えた。まるでちぎれた首をつなげたように……。
その女の人はバケツのへりをのりこえ、床に立った。はだしの足もよごれている。ぼくはなぞの女とふたつ頭の怪物とをこうごに見やりながらじりじり横へ移動した。せまい地下室に逃げ場はないってわかってる。だけど、たとえ数センチでもおそろしいものからはなれたかったんだ。
立ち上がった女が口を開いた。ねじれたくちびるが動くと、かすれたような声がもれた。
「太…一くん。ひさしぶり」
いまの声。ぼくの名を知っている。これって……だれなんだ。
「太…一くん、あたしをわすれたの? そうかっ…じゃあ…こう…しよう」
女はぐしゃぐしゃのシャツのポケットからなにかを取り出し顔にあててみせた。レンズがわれ、ぐにゃりとひんまがったメガネ。女はメガネを顔にあてたまま、もういっぽうの手で髪をうしろへグイッと引っぱった。メガネをかけ、髪をうしろでたばねた女の人。
まさか、うそだろ。
ぼくは思わずなみだぐんでいた。
この女の人は……あきよ先生だ……。
ぼくはなみだがとまらなくなっていた。おそろしくて、悲しくて。どうして、なぜ、先生がこんな姿になっちゃったんだ。
「ほんとにあきよ先生なの?」
先生ののどからはごぼごぼと空気がもれるような音がした。
「あ…た…し、からだがこわれちゃったの……だけど、こうして、生き返ることができた……しあわせ…だわ」
リ―ナの声。
「先生はパパから逃げようとして電車にひかれてからだがちぎれちゃったの。それをパパがつなぎあわせていのちを吹きこんであげたの。すごいでしょ」
先生の腕にも糸でつなぎあわせたあとが見えた。足にも同じあとが……。先生が一歩進み出てきた。ぼくには逃げ場がなかった。反対側にはあの怪物がぼくにおそいかかる体勢のまま息をひそめている。
あきよ先生の口からふたたび苦しそうな声がもれた。
「だけど……あたし、血を補充しないと……からだがくさっちゃうの……だから、新しい血がほしい…新鮮な血が…ほしいの」
先生のどすぐろい色をしたくちびるが開いた。二本のするどい牙が見えたとき、ぼくにはすべてわかった。こうすけの言ったことは正しかったんだ。吸血鬼。リ―ナもそのパパもママも、そしてあきよ先生も、みんな吸血鬼なんだ。
ぼくは恐怖と怒りをこめてリ―ナのほうを見た。この子は怪物だ! となりのクラスの男子が言ったことはほんとうだったんだ。リ―ナは口裂け女や妖怪どころか、それ以上の怪物だったんだ。
リ―ナを遠くを見るようなまなざしでつぶやいた。
「わたし、保健室の斎藤先生がだいすきだった。いつもやさしくしてくれたんですもの。だから先生にはわたしのほんとうのお友だちになってほしかった。それなのに先生ったら逃げ出しちゃうんだもの。先生が電車にはねられたとき、わたし、とっても悲しかった。それでパパにお願いして先生を生き返らせてもらったの。パパはわたしの願いをかなえてくれた。パパにできないことなんかないんだから」
血……血、とあきよ先生がうめき声をあげて近づいてくる。でも先生の目はぼくを見てはいない。どんよりと死んださかなのような目をしていた。光をうしなった目。それでも先生のからだは動いている。
どうしよう。ぼくは身動きさえできない。
リ―ナの声がした。
「あなたたちは水槽にもどっていいわ。太一くんのことは斎藤先生におまかせするから」
おまかせって……たとえ、あきよ先生でも血を吸われるのなんかぜったいいやだ! ぼくは出口めざして猛ダッシュをかけた。はしご段までたどり着くといっきにかけあがり、とびらに手をかけた。鉄のとびらはピクリとも動かない。そうだった、管理人がカギをかけていたんだ。
ぼくはつめたいとびらをたたきまくった。
「助けて! ここを開けて! だれか来て!」
手が痛くなるまでとびらをたたき続けた。うしろからリ―ナの声が聞こえた。
「むだよ、太一くん。あのコンシェルジェはわたしとパパの言うことしかきかないんだから」
ぼくはとびらに背中を押しつけて地下室を振り返った。あきよ先生がそろそろした足取りでぼくのほうへ向かってくる。
「太一くん……あなたの血を……わたしにちょうだい」
もう、あきよ先生はいないんだ。いま、こっちへ歩いてくるのはよみがえった死者、吸血鬼なんだ。こわいよ、悲しいよ、こわいよ、こわい……。
そのときだった。それまで床でじっとしていたふたつ頭の怪物が高くジャンプすると、リ―ナの顔へ飛びかかった。リ―ナの悲鳴が地下室にとどろいた。怪物はリ―ナの顔にむしゃぶりつき、小さな手でリ―ナの髪をかきむしっている。
「やめてえっ! わたしの顔にさわらないでっ!」
リ―ナも顔にしがみつかれてはどうすることもできないらしく、さけびながら両手を振りまわし、へたなダンスでもおどるようにクルクルッとみだれたステップを踏んでいる。とつぜん、ぼくのうしろでとびらの開く音がした。ぼくをつきとばすようにかけこんできたのは管理人だった。
「お嬢さま、だいじょうぶですか!」
管理人はリ―ナにかけよると、顔にへばりつく怪物を両手でひきはがし、床へ投げつけた。投げられながらも怪物がさけぶ。
……ボウヤ、ハヤクニゲテ!
信じられない。あの怪物はぼくにみかたしてくれるのか! そうだ、このチャンスをのがしちゃいけない。ぼくは管理人が開けっぱなしにしていったとびらから外へ飛びだした。そのままエントランスめがけてダッシュする。
「血……太一くんの血」
あきよ先生の声が追いかけてくる。あのやさしかったあきよ先生がぼくにおそいかかろうとしている。そのことがめちゃくちゃ悲しくておそろしかった。だけどそんな思いも、エントランスのガラスとびらが見えたとたん、ふっとんだ。いまはこのマンションから脱出するのが最優先だ。
ぼくはぶつかるようないきおいでとびらまでたどり着いた。〝開〟と書かれたレバーにふれる。オートロックシステムのとびらは中からなら自動で開くはず。だけど、とびらは動かなかった。
「太……一くん、待ってえ」
先生がせまってくる。血によごれた青黒い顔と手足。歩くたびに手足のつなぎめから血がじわっとしみだすのが見える。ぼくはぞっとした。
とびらはどうしても開かない。ぼくのほうへさしのべられた先生の手は指が異様にねじまがり、つめが血でよごれている。ほんの一瞬だけ、熱が出て保健室へ行ったときのことを思い出した。ひたいにあてられた先生の手のぬくもり。あたたかくて安心できる手だった。
でも……あのぬくもりはもういまの先生の手にはないのかもしれない。
なんでとびらが開かないのか、もうわかっていた。管理人のしわざだ。あいつはリーナの命令で自動とびらが開かないよう細工したにちがいない。ぼくを逃がさないために……。
ぼくは声をはりあげていた。
「先生! ほんもののあきよ先生とはちがうの? なぜ、人をおそうの? 心の中まで変わっちゃったの?」
先生の目玉がぎょろっと動いた。左右の目がちがう方向を向いた。
「あたし……太一くんの顔がはっきり見えないの……だけど、おぼえているわ。かわいい男の子……あたしのかわいい生徒たち……」
先生のほおを黒いものが伝うのが見えた。黒い血のなみだ……。
「太一くん……あたし、もう前とちがうんだよ。あたしには……血が、血が必要なんだよ。だから」
先生の口がカッと開かれた。するどい犬のような牙がのぞいた。
逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。先生から逃げなくちゃ。
ぼくはあたりを見まわし、非常口をさがしもとめた。非常口の方向をしめすグリーンのサインが見えた。だけど、だめだ。そっちへ行くには先生のすぐ横を通りぬけなきゃいけない。それじゃすぐつかまっちゃうよ。
ぼくはとっさにエレベーターをめざした。ちょうどいま一階にとまっている。ぼくはとびらを開けるボタンにとびついた。とびらが開いていく。
あきよ先生がこっちへ向かってくる。とびらが開ききるのも待ち切れず、ぼくはすきまからエレベーターの箱へすべりこんだ。〝閉〟ボタンを必死で押す。近づいてくるあきよ先生が見える。とびらの閉じるスピードがやけにおそく感じられてぼくはじりじりあせった。
どこへ逃げよう。ぼくは階数をしめすボタンをにらんだ。少しでも先生からのがれるためにはできるだけ上の階のほうがいい。でも、最上階だけはだめだ。そこではきっとリーナのパパとママが待ちかまえている。リ―ナの話がほんとうなら、あのパパこそが吸血鬼のリーダーにちがいない。どこかとちゅうの階、七階か八階くらいならどうだろう。そこでおりてだれか住んでいる人に助けを求める。それしかない。
ぼくは八階のボタンを押した。とびらが閉まったのと先生がすぐ外にせまったのとほぼ同時だった。エレベーターは上昇をはじめた。腰がぬけそうな気分。エレベーターのかべに背中を押しつけ、上昇をしめすランプを見守った。
不安がこみあげてくる。もし、着いた先にすでに先まわりされていたなら? あの管理人のすばやい動きを思い出すとしんぱいだ。ぼくの心臓は波打つようにはげしく鳴っている。どうかあいつらがいませんように。
2、3、4……5、6……7。エレベーターの動きがのろく感じられる。ああ、早く、早く追いつかれませんように。とちゅうでとまったりしませんように。
八階に着いた。とびらが開いていく。ぼくはいのる思いで廊下のほうをにらんでいた。人の姿は見えない。ぼくは一歩踏み出し、エレベーターを出た。そのとたん、とびらがすっと閉まり、エレベーターの動きだす気配がした。ハッと振り返ると、エレベーターは下降をはじめている……ってことは、だれかが下でエレベーターを呼んだってことだ。きっとやつらが上がってくる。
廊下の両側には各部屋のドアがならんでいる。外に面した窓はつきあたりにあるだけで、天井の照明がやわらかな光をはなっている。ぼくはいちばん手前のドアのチャイムを鳴らした。反応がない。つぎのドアのチャイムも鳴らした。ここもだれも出てこない。ドアは左右あわせてぜんぶで十あった。三軒目、四軒目からも返答がない。ドアノブに手をかけてがちゃがちゃやってみたけど開かない。みんなるすなのか。だれもここにはいないの?
ぼくはエレベーターのほうをもういちど振り返った。上昇をはじめている! いまもう二階まで来ている。あせったぼくは五つ目のドアをはげしくたたいた。
「開けてよっ。だれかいないの! 助けて!」
ガチャンとロックをはずす音。やった。人がいた。でも、ドアは完全には開かなかった。セキュリティー用のチェーンがいっぱいにのびきっている。ドアとかべとのあいだにはおたがいの顔が見えるほどのすきまができただけだ。
ぼくはそこからのぞく顔を見た。相手と目があった。
おおかみと七ひきの子やぎ
ドアのかげからぼくを見ているのはまだ小さな女の子だ。五歳か六歳くらい。おびえたような目でぼくのようすをうかがっている。ぼくはちょっとうわずった声を出していた。
「わるいやつに追いかけられているんだ。中へ入れてくれない?」
女の子はかたく閉じていた口を開いた。
「おにいちゃんはおばけじゃないの?」
おばけ? もしかして吸血鬼のことをさしているのだろうか。ぼくは首を横に振ってみせた。
「ちがうよ。ぼくは人間だよ。いま、おばけに追われているんだ。おねがいだから助けてよ」
ぼくはうしろを振り返った。エレベーターはもう五階まで来ている。
早く、早く、このドアを開けてくれ! いまは目の前の女の子に助けてもらうしかなかった。女の子はこっくりうなずくと、いったんドアを閉じた。カチャカチャとチェーンをはずそうとする音が聞こえる。でも、なかなかドアは開かない。小さな子だからチェーンをはずすのにてまどっているのかも。
ぼくはエレベーターの動きが気になってしかたない。もう七階へ来ている。ああ、あと何秒かでここへ着いちゃうよっ。
「早く、早く!」
ぼくはドアごしに声をはりあげた。心臓がのどからとびだしそうな気分。
ドアが開いた。女の子はまだうたがわしそうにぼくを見ている。それを押しのけるようにぼくは中へとびこんだ。ドアを閉め、カギとチェーンをしっかりかけなおす。これでしばらくはだいじょうぶだ……。
ぼくはすぐには身動きできず、玄関にしゃがみこんでしまった。
もうエレベーターはこの階に到着しただろう。だれがおりてくるのだろう。吸血鬼かそれともふつうの人間なのか。ぼくの心臓はまだ高鳴っている。やっと立ち上がると、ドアの防犯用レンズから廊下をのぞいてみた。だれの姿も見えない。もしかしてこのフロアの住人が帰ってきただけなのかもしれない。そうでありますようにとぼくはいのった。
ようやく落ち着いて女の子を見ることができた。肩までおおう長い髪をひたいで切りそろえ、その下にいまにも泣きだしそうな顔があった。きっとこの子もいまおびえているんだ。
ぼくはむりに笑顔を作ってみせた。
「ひとりなの? おうちの人はいないの?」
女の子はこっくりうなずく。
「パパやママはどこへ行ったの?」
女の子の顔が悲しげにゆがんだ。
「あたし、パパはいないの。ママだけ」
ああ、この子はぼくと同じなんだ、と胸がうずくような気がした。
「ママはいま、どこ?」
「きのうの夜、お友だちのとこへ行くって出かけてずっと帰ってこないの」
「ママはひとりで行っちゃったの?」
女の子の声がかんだかくなった。
「ママはいつもそうなの。いつだってあたしをおいて行っちゃうの。あたし、ひとりでおるすばんなんていや! ママにそばにいてほしいのに」
女の子はうつむくと泣きだした。ぼくにはどうしていいのかわからない。ともかくスニーカーをぬいで部屋に上がった。女の子はしゃくりあげながらついてくる。ぼくはのどがからからだった。
「お水もらってもいい?」
ぼくはキッチンへ足を踏み入れた。シンクの中はよごれた食器でいっぱいだった。アニメのキャラつきのフォークがつっこまれた食べかけのカップめんがある。女の子はひとりでカップめんを食べてすごしていたのかもしれない。
よごれていないコップを見つけて水道の水を飲んだ。二はい飲んだ。これで気持ちがいくらか落ち着いてきた。室内を見まわすと、同じマンションでもリ―ナたちの住まいよりずっとせまいみたい。フロアによって間取りがちがうのかもしれない。
「さっき、おばけって言ってたけど、おばけを見たの?」
女の子はあごをこくっと動かした。
「どんなおばけだった?」
女の子はこわいものを思い出したのか、小さな肩をちょっとだけふるわせた。
「こわい男の人と女の人が、ガーッってよその人にかみついたの。みんな、キャーってにげてた」
「どこでそれを見たの?」
「ドアのところから」
「いつ見たの?」
「朝。あたし、ママが帰ってこないかなってドアのすきまからお外をずっと見てたの」
朝だって? じゃあ、ぼくがリ―ナたちとこのマンションへ来たときはもう吸血鬼たちがあばれまわったあとだったのか。だけど、吸血鬼って朝や昼でも活動できるものなのか? 映画とかで見たのとちょっとちがうぞ。
どっちにしろ、このマンションでおそろしいことが起きていることはたしかだ。それにしてもこの子のママはなぜ帰ってこないんだろう。
「ママってケータイとか持って出なかったのかな」
女の子はまた泣きそうな顔になった。
「ママのケータイに何回もお電話してみたの。だけど、ママ出てくれないの」
ママの身になにかが起きたんだ。もしかしてこの部屋を出てすぐおそわれたのかもしれない。おとなたちがつぎつぎおそわれているんだ。このままじゃ大変なことになっちゃうぞ。
「電話はどこ? ぼく、助けを呼んであげるから、電話をかして」
女の子にきいて、ぼくはこの家のコードレスホンを手にした。だれに電話しよう? かあさんのところ? ああ、だめだ、かあさんのケータイの番号おぼえてなかった。用があるときはメモを見ながらかけるんだけどめったにかけたことないし。やっぱ、警察だ。だけど、いきなり吸血鬼の話なんかして信じてもらえるだろうか。いたずら電話だと思われるかもしれない。どういうふうにしゃべろう?
そうだ、このママンションで人をおそっている男がいるって話そう。ぼくはいま小さな女の子といっしょに隠れています。早く来てください。そう伝えよう。
110番にかけた。だけど電話の向こうはまったく沈黙している。もしもしと何度声をかけても反応がまったくない。あきらめてこんどは119番へかけてみた。やっぱ通じない。呼び出し音さえ聞こえない。故障? それともこれも管理人のしわざか。
そのとき玄関のチャイムが鳴った。女の子がびくっとしたように顔をあげた。ぼくの胸も高鳴る。だれだろう。エレベーターをおりてきたなにものかがやって来たのか。
二度、三度とチャイムはくりかえし鳴る。かべのインターホンが目についた。
ぼくは女の子に言った。
「返事してみて」
女の子はインターホンの受話器を耳にあてていたけど、すぐ表情があかるくなるのがわかった。
「ママ! すぐ開ける!」
玄関へ向かってパタパタかけていく小さな背中を見るうちにぼくの頭にひらめくことがあった。どうしてあの子のママは小さな子ひとりのこしてずっと帰ってこなかったんだろう。外でなにかがあったってことか? その〝なにか〟ってなんなんだ?
「開けちゃだめ!」
ぼくはドアの直前で女の子に追いつくと肩をつかんだ。ちょっとらんぼうだったかもしれない。女の子はおびえたように振り返る。
「ごめんね。だけど、インターホンの声はほんとにママだった?」
女の子はうなずく。
またチャイムが鳴った。こんどはいらだったようにあらあらしい鳴らしかただった。
「だってママだもん」
ドアのロックをはずそうとする女の子をぼくは押しとどめた。
「だめ。ちょっと待って」
ぼくも必死だ。相手がほんとうにこの子のママなのかどうかたしかめるまでドアを開けさせちゃだめだ。
ドアの外で声がした。
「メグちゃん、なにしてるの。ママよ、早く開けて」
ふつうの人間の声。女の人の声。だけど……。
「ママ、ママ、ママ」
メグちゃんはぼくの手をふりほどこうともがいている。ぼくはなんだか弱いものいじめをしている気分になってきた。でも、やっぱ、いますぐドアを開けさせちゃだめなんだ。ぼくはメグちゃんに向きなおるとできるだけやさしい口調で言った。
「さっきぼくが来たときみたいにチェーンをかけたままちょっとだけドアを開けてほしいんだ。もしかしたらこわいおばけがママにばけているかもしれないから。ママの顔を見てほんもののママだってわかったら開けてあげるんだ。いい、わかった?」
メグちゃんは鼻をすすりながらこくっとうなずく。かわいそうだけどいまはこうするしかないんだ。ゆるして、メグちゃん。
ぼくはひとつ深呼吸をした。どうか、ドアの向こうにいるのが吸血鬼ではありませんように。ふつうのママでありますように。ドアチェーンがきちんとかかっているのをたしかめてぼくはロックのつまみに手をのばした。ロックがはずれるのとドアが外からいきおいよく引っぱられるのと同時だった。のびきったチェーンがガチンッと音を立ててドアをとちゅうで食いとめた。
女の人がこちらをのぞきこんでいる。ショートヘアにハーフコート姿。おどろいたようにぼくを見ているけど、あやしいところは感じられない。
「あなた、だれ? なんでわたしのうちにいるの? 娘をどうするつもり? 早くチェーンをはずしてドアを開けなさいよっ。さもないと警察を呼ぶわよ」
できるなら呼んでほしい。おまわりさんが来てくれるならそのほうがぼくもうれしい。
メグちゃんがぼくの顔を見上げて言った。
「おにいちゃん、ママよ。ほんもののママよ。おばけじゃないわ」
ぼくも信じる気になりかけた。メグのママはすきまから手をさしこみ、ドアのはしをがっちりつかんでいる。このドアを閉じさせてなるものかといった感じで。メグちゃんは待ちきれないようにママの手にふれようとした。そのときぼくの目に気になるものが見えた。
ママの指先。そのつめ。よごれている。つめの中に赤黒いものがこびりついている。それは血に見えた。かわいてかたまった血。なんで血がついているの?
「その血どうしたの?」
ぼくはきいた。声がふるえていたかもしれない。ドアとかべのすきまからのぞくママの目が細められた。
「なんでそんなこときいてくるの? よけいなおせわじゃないかしら」
ぼくも必死だった。ここであせってドアを開ければ大変なことになっちゃうかもしれない。
「おしえてよっ。で、ないと、ドアは開けませんっ」
ママの口からためいきがもれた。
「ゆうべ出かけたとき、夜道でころんでケガしちゃったのよ。頭を強く打って気をうしなったらしくて、けさになって気づいたら病院にいたわ。そのあと検査や点滴を受けたりしてすぐ帰ってこられなかったの。この血はそのときのものよ」
いまの話ほんとうだろうか。信じたい。だけど信じきれない気がする。ぼくは、ママの顔をもういちど見た。コートのエリを立てて、少し目がつりあがってこわい顔に見える。
ぼくはふと管理人の首にばんそうこうがはってあったのを思い出した。映画とかで見たことあるぞ。吸血鬼にかまれると首に傷あとがのこるって。このママの首に傷はあるだろうか。それをたしかめることができれば……。
このときぼくはおかしなことを思い出してしまった。グリム童話の『おおかみと七ひきの子やぎ』。小さなころ読んだことがある。子やぎたちのママにばけたおおかみはドアのすきまから白くぬった前足をさしいれて子やぎをだまし、ドアを開けさせる……。
だけど、ぼくはだまされないぞ。
ママはうなるような声をあげた。
「どうして、あんたみたいな子どもにいちいち指図されなくちゃいけないわけ? ここはあたしのうちなのよ。早く開けなさい!」
ぼくはポケットに入れておいたものを思い出した。こうすけから借りた鏡。これに映せば正体がわかるかも。ぼくはコンパクトを手の中で開いて、ママの顔を映そうとした。
その瞬間。
ドアを開けろぉぉぉぉぉ。
深いどうくつの奥からひびいてくるような声でママがさけんだ。
「メグちゃん、早く奥へ逃げて!」
ぼくはドアをしめようとからだを押しつけた。ママの手はドアとかべのあいだにはさまってしまった。でも、痛みも感じないのか、ママの口からは高らかな笑いがもれた。
ばかな子だねぇぇぇぇぇ。あたしたちに勝てるわけないだろぉぉぉぉぉぉ。
メグちゃんが泣きだした。
「ママ! ママ! ママ!」
ぼくはメグちゃんを引きずるように奥のリビングルームへ逃げこんだ。ガスンッガスンッとドアをゆする音が聞こえてくる。
メグちゃんは泣きやまず、ママを呼びつづける。
「だめだ、メグちゃん、あれはママなんかじゃない。おばけだよ。メグちゃんを食べちゃおうとしてるんだよっ」
メグちゃんがぼくの胸を小さなこぶしでたたいた。
「あれはママよっ。うそつき。おにいちゃんなんか大きらい!」
メグちゃんが大きくしゃくりあげた。なんだか、ぼくまで泣きたくなってくる。ドアをたたく音はやむことがない。あのチェーンはいつまでドアをささえてくれるだろうか。ぼくとメグちゃんはいつまでここに隠れていればいいのだろう。
ぼくは部屋じゅうをうろうろ歩きまわり、ふと外のようすが気になってカーテンを開けてみた。
な、なんだ、これは。
窓の外はまっしろになっていた。ぼくはガラスに顔を押しつけ外の光景を見守った。空も町なみもかすんでよく見えない。これって……霧だ。こい霧が立ちこめているんだ。
でも、どうしてだ? さっきまで青空がひろがっていたのに。なんで急に霧なんか出てきたんだ?
開けろぉぉぉぉぉ。メグゥゥゥゥゥ。ここを開けろぉぉぉぉぉぉ。いまいましい子ども! おまえにわざわいあれぇぇぇぇぇぇ。
耳をふさぎたくなってくる。だけど、ぼくの前にはおびえきったメグちゃんがいる。ぼくがびくびくしていたらメグちゃんがますますおびえてしまう。
ぼくはメグちゃんをソファにすわらせ、腰をおろした。
「だいじょうぶだよ。きっとだれかが助けに来てくれるから。それまでここに隠れていよう」
ほんとうに助けなんて来るかどうかぼくにはわからない。でも、いまはそう言ってあげるしかなかった。メグちゃんがぼくを見た。とぎれとぎれに言葉を投げてくる。
「おにいちゃん……ここにいてくれる? メグのこと、まもってくれる?」
「もちろん。まもってあげるよ」
ぼくにそんな自信なんかない。でもうなずいてみせるしかない。
「おにいちゃん、メグのお友だち?」
「うん。友だちだよ」
メグちゃんのほおにようやく笑みらしいものが浮かんだ。
「ほんとに、ほんとにお友だち?」
「そう。ほんとうの友だちだよ」
メグちゃんは顔を手でぬぐった。ぼくは近くにあったボックスからティッシュペーパーを一枚ぬくとメグちゃんの鼻やほおをぬぐってあげた。なみだはもうかわいちゃったのか、メグちゃんの顔はさらっとしていた。
メグちゃんがうれしそうに笑った。こんどは心の底からの笑顔に見えた。少しは安心してくれたのかもしれない。
「おにいちゃん、ほんとにほんとにお友だち?」
ぼくはちょっとうるさく感じて、うんうんとだけうなずいてみせた。
メグちゃんの笑顔が消えた。
「じゃあ、おにいちゃんの血をちょうだい」
メグちゃんの口がカッと開くと、小さな牙が見えた。そのひょうしに髪がバサッとゆれて首すじの傷があらわになった。
う、うそだろ!
かわすひまもなく、メグちゃんがとびかかってきた。ぼくは両手でメグちゃんの肩をつかみ、必死に牙をかわそうとした。なんでだ、なんで、小さな女の子なのにこんなに強いんだ。
おすねこがファーッと敵をおどすようにメグの口から息がもれた。つめたいこがらしみたいな息だった。するどい牙はいまぼくの血を求めてる。
ぼくは大苦戦だった。メグははげしいいきおいでぼくを押したおし、のしかかってくる。
玄関のほうからあざ笑う声がひびいてきた。
メグゥゥゥゥゥ。その男の子をやっつけたか。思うぞんぶん血を吸ってやりな。
ぼくは両ひざをまげて力をためた。足のうらをのしかかるメグのおなかにあて、ひざのバネをいかすと思いきり足を突きあげた。パワーはあっても体重の軽いメグのからだはぼくをこえてはじき飛んだ。
ともえ投げ。柔道の得意なスガオがいつだったか公園のしばふでおしえてくれたわざだ。
ぼくは息つくひまもなく立ちあがった。
メグのからだは床に落ちたけど、すばやい動きで起き上がり、ぼくらはにらみあう形になった。メグの口からうなり声がもれた。ぼくはソファにあったクッションを取ると身がまえる。メグがふたたびとびかかってきた。クッションを持つ手を突き出し、メグの牙をふせいだ。二本の牙がクッションをかみ裂いて、なかみのガラがふぶきのように飛び散った。
そのすきにぼくはとなりのドアを開けて中へ飛びこんだ。このドアにロックはついていない。ぼくはドアに肩を押しつけ必死にふせぐ。ドアの向こうからメグがガツンガツンと体当たりをくらわせるいきおいが伝わってくる。そのたびにドアはブルンブルンとふるえた。ぼくは歯をくいしばってメグのパワーにたえていた。
そのうちにパタパタかけ去る足音とともに、ママ、ママと呼ぶ声がした。メグは玄関のドアを開けに行ったのだろう。ママの力を借りるつもりにちがいない。ふたりでぼくの血を吸うために……。
ぼくはドアにからだをくっつけたまま、室内を見まわした。ここはどうやらママの部屋らしい。ベッドにドレッサー、チェスト。なにかドアを開かないようにできる道具はないか、と目だけでさがし求めた。玄関のほうからチェーンをはずそうとカチャカチャする音が聞こえてくる。
ママが入ってきたらおしまいだ。メグでさえあんなに強いのに、おとなの吸血鬼を相手にしたら、ぼくに勝ち目はない。
考えろ、考えろ、太一。なにか知恵を出せ。これまでだって危険をのりこえてきたんだ。チョコ少女事件のときもおそろしいやつらに閉じこめられたことがあった。あのときもぶじに脱出できたじゃないか。だけど、あの場にはこうすけがいた……いまは、ぼくひとり。
メグはチェーンをはずすのにてまどっている。いまならまだ少し時間がある。ぼくはドアから飛びはなれるとチェストの中をさぐった。ママのものらしいマフラー。これって使えるか? ぼくはマフラーのはしとはしをそれぞれドアのノブとすぐわきのドレッサーの取っ手にしっかりむすびつけた。引っぱってたしかめると、たよりないけどほんのしばらくはドアが開くのをふせいでくれそうだ。
あの子どもはどこへ行ったぁぁぁぁぁ。
ママの声が近づいてくる。
ああ、とうとう入ってきちゃったんだ。
「ママのお部屋に隠れてるわ」
もうふくろのねずみだね。ふたりであの子の血を吸いつくしてやろうぅぅぅぅぅぅ。
親子でクククッと笑う声。やばい。来るぞ。一本のマフラーじゃすぐ引きちぎられてしまうかも。この部屋にも長くはいられない。ぼくは窓に飛びつくようにカーテンを開いた。外はバルコニーになっている。
ぼくはバルコニーへ出てみた。地上のけしきがかすんで見える。なんだろう、変なにおいが立ちこめている。ツーンとした鉄のさびにも似たにおい。ザラザラッと鼻の奥に塩でもすりこまれたような刺激を感じる。
これって、まさか、血のにおい? この霧には血がまじっているのか?
手すりから下をのぞきこんでみた。下の部屋のバルコニーがせり出して見える。各階のバルコニーがちょうどだんだん畑のような形で下までつらなっているんだ。
ぼくの胸に少しのぞみがわいた。ここから下のバルコニーへおりられるかも。下までの高さはどれくらいあるんだろう。三メートルほどはないだろう。飛びおりるにはあぶないかもしれない。でも、なにかつかまるものがあれば。
ぼくは室内へもどった。ドアがブルンブルンッとゆれている。マフラーはピンッとのびきっていまにもちぎれそうだ。
野獣がうなるような声がした。
なまいきな子どもだねぇぇぇぇ。メグ、ちょっとどいてごらん。
めりめりっとドアが音を立てる。
やばっ。いそがないと。
ぼくはとっさにカーテンをレールから引きはがしていた。
あと二、三分、持ちこたえてよ。おねがい、ぼくにあと少し時間をくださいっ。
いのりたい気分だった。
カーテンをかかえてバルコニーへ出ると、手すりにカーテンのはしをむすびつけた。ほんのわずかなあいだだけぼくの体重をささえてくれればいい。ここがマンションの八階であることを思い出した。霧で下がよく見えないのがラッキーだ。もし、見えれば高さにびびって動けないかもしれない。
ぼくは手すりにまたがり、カーテンを両手でつかんだ。手すりを乗りこえる。窓ごしに部屋のドアが開いていくのが見えた。どうか間にあいますように。ぼくはカーテンにしがみつき手すりをはなれた。校庭にあるのぼり棒であそぶときのコツを思い出しながら、カーテンを伝って下へ下へとからだをおろしていく。
カーテンは左右にゆらゆらゆれて、そのたびにぼくのからだは宙をきりきり半回転してしまう。おそおそる下を見ると思ったより近い。
頭の上で声がした。
いたぞぉぉぉぉ。
その声を合図にカーテンから手をはなした。落ちる、っていうよりもずるずるすべるような感覚でぼくのからだは下のバルコニーへ着地した。バランスをくずしてしりもちを突いてしまったけどケガはしなかった。
なにかを考えるひまもなく、ぼくは正面の大きな窓にとびついた。
どうかカギがかかっていませんように。
もし中へ入れなかったらおしまいだ。
メグゥゥゥゥ。あの子をにがすなぁぁぁぁ。
そのとき、ぼくは信じられないものを見た。メグが上のバルコニーからわきのかべにとびついたんだ。あっ、落ちるって思ったけど、メグの両手足はまるで吸盤でもついているかのようにかべにはりつき、そのままはいおりてくる。やもりかクモのように……。
あきよ先生が四階のとちえの部屋に現れた話を思い出した。吸血鬼はかべをはって動けるのか……。だとしたらどこへ逃げても逃げきれないかも。一瞬そんなことを考えながら窓に手をかけた。
やった、カギはかかっていなかった。ぼくは室内へとびこみ、中から窓をロックした。ほとんど同時にメグが窓の外へおりたつのが見えた。ぼくが勇気をふるってやっとここまでたどり着いたのに、小さな女の子が同じことをかんたんにやってのけた。
メグは窓ガラスをビタンビタンとたたき、くやしそうな目でぼくのほうをにらんでいる。
ぼくは室内に向きなおった。大きなベッドがほとんどのスペースをしめている。レバーやスイッチのような装置がついた大きなベッド。わかった、からだの不自由な人が使う介護用ベッドだ。ここは病気の人かおとしよりのいるうちなのかもしれない。だけど、いまベッドに人の姿はなかった。
ぼくは奥へと進んだ。せまい廊下に車いすが置きっぱなしになっている。リビングらしい部屋をのぞいたけどここにもだれもいない。かべの時計を見たら二時ちょっとすぎ。このできごとにまきこまれてからまだ一時間ちょっとしかたっていないなんて信じられない。
リビングを出ると廊下のつきあたりからなにか物音が聞こえてくる。そこはどうやらバスルームになっているらしくて、すりガラスの向こうにもやもや動くひとかげが見えた。
ピチャピチャピチャッとなにかをすするような音。それはねこがミルクをなめまわす音にも似ていた。ドアを開けてたしかめる勇気なんてぼくにはない。足音を立てないようそっとその場をはなれて玄関へむかう。
ここも安全じゃないんだ、きっと。ぼくはうしろの物音にびくびくしながらそっとドアを開け、廊下へ顔を突き出した。だれの姿も見えない。よし、ここのフロアから非常階段を伝って一階へおりよう。そう心にきめた。
そのとき奥でバタンッと音がした。ぼくの心臓がビクンッと鳴る。こわいけど振り向かずにはいられない。廊下の奥に人のすがた。タオル地のガウンのようなものを着たおじいさんが立っている。頭がはげあがり、やせこけたガイコツのようなおじいさん。白いガウンには赤いものが飛び散っていた。
おじいさんはぼくを見ると片目を細めて、よわよわしい声を出した。
おう、かわいいぼうや。聞いておくれ。わしはこのとおり元気になったよ。からだがよみがえったんだ。もう介護ベッドも車いすもいらない。人の血を吸うたびに元気になるんだ。だからヘルパーさんの血も吸ってやった。ほら、自分の足で歩けるようになったんだよ。いまそっちへ行くからね……。
おじいさんはそろそろした足取りでぼくのほうへ向かってくる。やせた枯れ木のような足で一歩一歩進んでくる。おじいさんは笑っていた。歯のない口の中にするどい牙が見えた。
さあ、ぼうやの血もおくれ。そうすればわしはもっともっと若返って元気になれる……。
ぼくはじりじりあとずさりしながら廊下へ出た。早く非常口を見つけないと!
どっちだ?
グリーンのサインを見つけた。ぼくはそちらへ向かってダッシュした。ソックスの足うらがなんどもすべりそうになる。そのたびにぼくはあせってバランスを取りなおし、必死に走った。
おじいさんの声が追いかけてくる。
ぼうやぁぁぁぁ。逃げないでぇぇぇぇぇ。おじいちゃんに血をおくれぇぇぇぇぇ。
ああ、もっと早く走らなくちゃ。ぼくは廊下のつきあたりへたどり着くと、非常階段へ通じる鉄のドアを開いた。非常階段は外には面してなくてコンクリのかべにかこまれていた。蛍光灯に照らされる非常階段はしんと静まりかえっている。ぼくは階段をかけおりる。何度もソックスがすべってころびそうになりながらも走る。コンクリの階段はとてもつめたい。ドアがガチャンと開く音がした。おじいさんの声がかべにこだました。
ぼうやぁぁぁぁ。
ああ、しつこく追いかけてくる!
最初のおどりばを通りすぎた。まだここは七階だ。一階までがめっちゃ遠く感じられる。おどりばを通りぬけるたびにそこのドアが開いて吸血鬼が顔を出すんじゃないかって、ぼくはびくびくしている。
いま何階だろう。もう、なにも考えられない。ただ、走ること。階段を一段でも、一秒でも早くかけおりて地上へたどり着くこと。それがすべてだ。一階の非常口からならじかに外へ出られるはず。
神さま、助けてくださいっ。もし助けてくれれば、ぼく、これからもっといい子になります。学校のそうじまじめにやります。自分で食べた食器は自分で洗います。ゲームの時間へらします。勉強時間ふやします、いまよりちょっとだけ……。
ぼくのいのりはとどかなかったのかも。いきなり目の前のおどりばでドアが開いた。勝ちほこった声がした。
「見つけたぞ、ぼうず」
霧のヴァンパイア城
あの管理人が立っていた。右手にふたつ頭の怪物の足をつかんでさかさまにぶらさげている。怪物は頭をぐったり垂れたまま動かない。
「さあ、ぼうず。お嬢さまがお待ちだ。いっしょに来い」
いやだ。こんなところには一秒だっていたくない。管理人の左手につかまえられる寸前に階段をいっきにかけ下りた。
「待て!」
ぼくは階段を一段とばしに走った。つぎのおどりばもひといきにかけぬけた。と、いきなり目の前に管理人がすっと降り立った。どうして? メグと同じようにかべを伝ったのか?
管理人は怒りの表情を見せた。
「お嬢さまはおまえの血をのぞんでおられる。しあわせなやつだな」
しあわせだって? ざけんなよっ。吸血鬼に血を吸われてしあわせなわけないだろっ。そう思ったとき、ぼくを追いかけてきたおじいさんのことが思い浮かんだ。からだが不自由だったらしいあのおじいさんは元気になってしあわせな気分なのだろうか。
「来い」
管理人の手がぼくのほうへのびてきた。と、とつぜん右手にぶらさがった怪物の頭が動いた。ふたつの顔が同時に目を見開き口を開けると、からだをのけぞらせて管理人の手首にかみついた。管理人は痛みなど感じないのか、うるさそうに手もとを見やると、怪物を引きはがして床へ投げつけた。
「おまえら、いいかげんにしろよ」
管理人は手首から血を流しながらも怪物の首根っこをつかもうとした。つぎの瞬間、怪物はふたつの頭をもたげて両方の口からなにかをはき出した。それは相手の目を直撃し、ひるませた。管理人は手で目をおさえ、のろのろ動きまわっている。
怪物の声がした。
ボウヤ、ハヤク、ソトヘニゲテ。
また、この怪物はぼくを助けてくれた。
ハヤク、ハヤク。
考えるひまもなく、ぼくはふたたび階段の上をかけだした。管理人は顔をおさえたままわめきちらしている。
「おまえら、どうなるか、おぼえていろよ。どうせ逃げられやしねえんだからな」
怪物がぼくの足もとをぴょこぴょこついてくる。
なんだか、この小さなモンスターに親しみがわいてきた。
いくつものおどりばをすぎて1Fと表示されたドアが見えてきた。ぼくはドアにとびつくようにノブをひねった。そこはきっとマンションの裏がわになるのだろう、道路より少し低い場所で木の植えこみにかこまれたコンクリの階段を何段かのぼると路上に出られるようになっている。
ぼくは少しホッとして足もとの怪物を見おろした。
マダ、キケンハサッテナイ。モット、トオクマデ、ニゲテ。
ぼくにはききたいことがいくつもあった。
「さっきはどうやってあの管理人をやっつけたの?」
アノオトコノチヲ、ハキカケテヤッタ。キュウケツキノチハ、ドクセイガアルカラ、ジブンノチデモ、シバラクハ、メガミエナイハズ。
この怪物のことをなんて呼べばいいのかな。もっと話しかけようとしてまよった。あんた、じゃ変だけど、まっ、いまはしかたないか。
「あんたたちはほんとは人間なの?」
ソウダヨ。ワタシタチハ、リ―ナノリョウシンダ。アノオトコノマリョクデ、コンナスガタニ、カエラレテシマッタンダ。
「あの男ってリ―ナのパパのこと?」
モチロン、アレハ、リーナノチチオヤデハナイ。オソロシイアクマダ。ワタシタチハ、アイツニダマサレテイタンダ。
「どういうこと?」
イマハクワシクハナシテイルヒマハナイ。アイツラノナカマガオッテクルヨ。ハヤクイキナサイ。
知りたいことはまだいっぱいあるけど、この怪物くんの言うとおりだ。いまは逃げるのが先だ。だけどひとつだけきいておきたいことがあった。
「どうすれば吸血鬼をたおせるの?」
ザンネンダケド、ワタシタチニハワカラナイ。エイガ二デテクルヨウナホウホウデハムリミタイダ。
映画に出てくる方法ではむり? じゃあ、十字架やニンニクはきかないってこと? リ―ナがガーリックのにおいで気分をわるくしたことを思い出した。ほんとうに古くさいやりかたはききめがないのだろうか。
怪物はしばらくぼくを見あげていたけど、やがて植えこみの中へ姿を隠してしまった。
ぼくはなんだかわるい夢の中にいるようだ。頭がボーッとなりそうだ。でも、行かなくちゃ。ぼくは足ばやに道路に出た。
ソックスはもうどろどろによごれている。足のうらがずきずき痛む。それでもぼくは必死に道路を走った。霧のせいであたりがよく見えない。きょうはなぜか車さえ通らない。
かなりの時間走ってうしろを振り返った。霧はさらに濃くなってきた気がする。あいかわらず血のようなツンとするにおいが立ちこめている。
三角形のマンションだけが霧の中から頭を突き出していた。ずっと前にかあさんが借りてきたDVDでドラキュラの映画を見たことがある。映画の中に岩山のとちゅうにそびえるドラキュラ城が出てきた。
いま霧の中のマンションがそのドラキュラ城そっくりに見えた。空を見上げると、青かった空は霧にすっかりおおい隠されていた。
† カルとリ―ナの物語 †
ひとびとのくらしがまだ神と悪魔とに支配されていた時代。神への信仰があまねく行きわたった土地に、ひとりの天使が降り立ちました。
それはしなやかな肉体をもつ青年の姿をし、背に白いつばさのあるカルという名の天使でした。
天上界には天使にも階級というものがあり、神にもっとも近い第一階級から第九階級にまでわかれております。このうち第八階級には聖書にもその名をとどめる大天使ミカエルやガブリエルがおりますが、カルはその下の第九階級の天使でありました。
この階級の天使にあたえられた使命はつねに人間のそばにいて、悪魔の誘惑やさまざまな邪悪から人を守ることにありました。いちばん人間に近いところにおりながら、だれにもその名を知られることのない天使たち。それがカルの属する階級なのでした。かれらは守護天使あるいは守護霊と呼ばれることもありますが、人はだれもその名などに関心をはらわないのでした。
カルが守護役をおおせつかったのは、その土地の領主のひとり娘でリ―ナという少女でした。リ―ナが両親である大公夫妻とくらす城はまわりを深い森にかこまれ、白い外壁の映える美しい城でした。城下にはのどかな農村の光景がひろがり、牛ややぎののんきな声がたえない平和な村がありました。
城の美しさにもおとらないのが姫君リーナの美しさでした。はちみつ色の髪、ミルクのように白いはだ、そして湖のような深さをたたえた瞳。ほっそりとガラス細工のようにデリケートな美しさにあふれたリ―ナ姫の姿は、大公夫妻のみならずおつかえの侍女から衛兵、領民にいたるまで、たたえずにはいられないほどでした。
天使のカルも人間世界のうわさを耳にしたことはありました。けれど、いやしくも天使たるものが人のうわさに興味をいだくなどというまねはできようもありません。
ところが。
それは満月がぽっかり夜空にあなをあけたようにかがやく晩のことでした。カルは白いつばさをゆったりはためかせ夜空を散策しておりました。城の一室からもれる光の中に姫君らしき少女の姿を見出すことができました。
カルは少女をおどろかさぬようにと、そっと窓べに近づきました。そしてこのときカルは天使にはゆるされぬ気持ちをいだいてしまったのです。それは〝恋〟でした。天使が人間にたいしていだくべき愛は人々をあまねく平等に愛するものでなくてはなりません。しかし、このときカルはこのただひとりの少女にその愛をささげてしまったのでした。
「あなたはだれ?」
「わたしは天上よりつかわされた天使です。あなたをご守護するためにやってまいりました」
リーナの瞳は見開かれ、くちびるからはためいきに似た声がもれました。
「天使さま? ほんとうに天使さまなのですね?」
リ―ナははじめて目にするこの世のものではないカルの姿に心を動かされたようすでした。
「天使さまにもお名前はあるのですか」
「はい。カルともうします」
カルはうれしくてなりませんでした。これまでいく人もの人間の守護天使をつとめてまいりましたが、名前などたずねられたことはありませんでしたから。
この夜から毎晩カルはリーナのもとをおとずれるようになりました。リ―ナも白いつばさを持つやさしげな若者の姿をしたカルに心ひかれているようすでした。
こうして出会った天上の青年と地上の少女は恋におちいってしまったのでした。やがてカルは自らの使命もわすれ、人間のようなふるまいかたで愛を語り、たがいにそれをたしかめあうようになっていきました。
しかし、このようなことが天の目にふれないはずはありません。天からごらんになれば、カルはいまや堕落した天使なのでした。天上界ではカルを天使の座から追放することがきまりました。
カルはつばさをうばわれ、はだかのまま森の中へほうり出されてしまいました。つばさをもぎ取られたときのはげしい痛みはおさまることなくカルをさいなみました。天上の身から地上の身へと変化することがこんなにも痛みをともなうものであるとはカル自身思ってもみなかったことでした。天使でいたころは痛みなど感じたことはありませんでしたから。
森の木かげで何日ものあいだ苦痛のうめきをあげておりました。やっとのこと痛みがうすれるとこんどはごく人間らしい気持ちではだかの身をはずかしく思うようになっていました。カルは葉っぱを集め、木のつるを裂いて手製の腰みのをこしらえると、はだかの身を隠しました。
わき水を見つけてのどをうるおし、野生の果実をかじりつつ森の外をめざし、歩き出しました。天使であったころは飢えやかわきなどあじわったことはありませんでしたが、いまは歩けば足に疲れをおぼえ、はだをさす虫にはなやまされ、草むらをはうへびにおびえ、人間であることの不自由さをぞんぶんに知りました。けれど、よろこびもないわけではありません。
(これでリ―ナとおなじ人間になれた。天の目をはばかることなく恋ができる)
いまはひたすらリ―ナに会いたい一心で深い森をぬけ、城をめざしました。しかし、城が見える場所までたどり着くと、そのそびえ立つあまりにも巨大な姿に足をとめてしまいました。つばさがあったころにはいとも軽やかに散歩でもする気分で城の高みにあるリ―ナの部屋をおとずれることができました。
しかし、ただの人間となったカルの前では巨大な石のかべが行く手をはばんでおります。城門の前にはグレーブと呼ばれる長い武器を手にした番兵たちがいかめしい顔つきで見はりをしておりました。
(わたしの名をリ―ナに伝えてもらえば、きっと彼女が城の中へみちびいてくれるにちがいない)
カルは自分にそう言いきかせると番兵たちのほうへ近づいていきました。かれの行く手はたちまち番兵たちのグレーブにさえぎられました。
「リ―ナに会わせてください。わたしはカルです。この名を伝えてくださればきっとおわかりのはずです」
カルがいのるような思いで告げると、番兵たちはしばらくあっけに取られたようすでしたが、やがて爆発するようないきおいで大笑いしました。
「なんだ、こいつは。よっぱらいか、それとも森の野人か。ふざけたやつだ」
カルはそれでもあきらめきれず、番兵たちにすがりつくようにして、リーナに会わせてくれとたのみこみました。しだいに番兵たちは怒りをあらわにしはじめました。
「しつこいやつ。姫さまに会わせろなどとはあつかましいっ。ちっと痛めつけてやれ」
番兵たちはグレーブの柄でカルを小突き、さんざんに打ちのめし、足げにしました。やがてぐったり横たわるカルをあざ笑いつつかれらはそれぞれの持ち場へ去っていきました。
カルがようやく息をふき返し、のろのろ起き上がったときにはもう陽がすっかりかたむいておりました。痛みをこらえ、足をひきずりながらもまだあきらめられず、番兵たちに見つからぬよう木かげに身をひそめました。あたりが暗くなると城の窓に明かりがともりはじめました。
カルはその明りをたよりに何度もしのび入ったことのあるリーナの部屋をさがし求めました。いまほど、つばさをうしなったことを歯がゆく、くやしく思ったことはありません。暗がりにひそみつつ城のほうを食い入るようにいつまでも見つめていました。
いっぽう城の中では、リ―ナがひとり物思いにしずんでおりました。カルが姿を見せなくなってからもう数十日もたつのです。
会いたい。なぜあのかたは来てくれないの。
カルへの恋しさとはべつにリーナの心をしめていることがありました。自らのからだの変化をリーナは女性らしい敏感さで感じ取っていたのです。
(わたしのおなかには赤ちゃんがいるかもしれない……)
リーナはカル恋しさと、これから自分に起きるかもしれないことへの不安とで身をひき裂かれるような思いでした。カルはなぜ来てくれないのかしら。かすかな不信感がリーナの中にわきました。
あの天使はほんのひとときのたわむれにわたしとすごしたのではなかったのかしら。やさしげな面ざしと白いつばさを持ったあの若者はじつは天からのつかいなどではなく、気まぐれでいたずらものの妖精にすぎなかったのではないかしら。
カルへの愛と不信、迷いと不安とでリ―ナはもう何日ものあいだ食事さえのどを通らないのでした。
ああ、わたしがこんなに苦しい思いをするのも神さまがあの天使さまをつかわしたりしたからだわ。なんで、わたしをこんなに苦しめるの? わたし、神さまをうらむわ。
じつは天はリーナの身に起きていることもすべてお見通しでした。天使をたぶらかし、堕落させたふしだらな娘。しかも自らの罪を神のせいにしてうらんでいる。それだけでも天の怒りを買うのにじゅうぶんであるのに、リーナは身ごもってさえいる。天使と人間とのあいだに子が生まれてくるなどということは、この世界のおきてとしてあってはならないことなのでした。
天は非情とも思える決断を下されました。リーナの肉体をそのおなかの子もろともほろぼす、それが天のご意思でした。
カルはまんじりともせず、城外のしげみに隠れて夜を明かしました。しだいに闇はうすれ、空に青みがさしてきました。このままあてもなくリ―ナがいる城をただ見つめているほかないのか、カルはじりじりと胸をこがされるような思いで夜明けの空に白く映える城を見やっておりました。
自分の思いが通じてリーナが窓から顔をのぞかせてくれるのではないか、とむなしい期待をいだきました。城の一角には高い塔がそびえております。塔のいちばんの高みには大きな鐘がつりさげられ、領内になにか起きたときには打ち鳴らすことになっておりました。
いま、鐘の下にちらちら動く白いものが見えた気がしました。カルは瞳をこらしました。白い人かげ。リーナがいつも白いチュニックをこのんで着ていたことを思い出しました。
あれはリーナでは? カルはどうにかしてその姿をたしかめたいとねがいました。あたりを見まわし、大きな木を見つけると必死の思いで幹にとりつき、よじのぼりはじめました。
少しでも高いところへ、リーナらしき姿にわずかでも近づける場へと、のぼりうるぎりぎりの高さまでたどり着きました。枝にまたがり、塔のほうへ目をやると、もうまちがいありません。鐘の下にたたずむのはリーナでした。なにごとかを思いつめているように長いかがやく髪を風になびかせ、かなたを見つめております。
リーナ! カルはさけびました。けれど、姿は見えても声はとどきそうにありません。
ああ、どうすればいいのだろう。つばささえあればいいのに。自分からつばさをうばった天をにくむ気持ちがカルの中にわきあがりました。
つぎの瞬間、はげしいとどろきとともに、あたりは目がくらむほどの光につつまれました。カルは思わず目をとじると、枝に必死でしがみつきとどろきのはげしさと光のまばゆさにたえておりました。落雷です。それもすぐ間近で。
カルはようやく目を開け、あたりを見まわしました。夜明けの空には雲ひとつなく、なぜこんな空にかみなりが鳴りひびいたのか、さっぱりわかりませんでした。
カルは塔を見やり、がくぜんとしました。塔の石かべが黒く焼けこげ、屋根が燃えております。かみなりは塔を直撃したにちがいありません。そしていましも、人の姿が地上へと落ちていくところでした。
まさか、いま落ちていったのは……。
カルは死にものぐるいで幹を伝い、地上へ降り立つと、城めがけて走り出しました。番兵たちから受けた傷の痛みなど感じるよゆうさえありません。大地のくぼみに足を取られ、草むらにからまれ、なんどもころんでは起き上がり、リーナを案じる一心で走りました。
目の前に城の外壁がそびえる場所まで来たとき、カルは見てしまったのです。いなずまに打たれ、地上にたたきつけられて、むごたらしく横たわるリーナの姿を。
カルは血の海へひるむことなく足を踏み入れると、まっさきにリーナの首を胸にかきいだきました。美しかった顔はもの言わぬむくろと化し、からだから引きちぎられてしまったのでした。腕も足もはなれた場所へ飛びちっておりました。
カルはリーナの首になんども口づけし、ほおずりし、なみだを流しました。
番兵たちが顔色を変えてかけつけてまいりました。さすがにあらくれものぞろいの番兵たちも血だまりでリーナの首をだいて泣きむせぶカルの姿を見て、しばらくのあいだこおりついたように身動きできないようすでした。が、すぐにひとりが気を取りなおし、さけびました。
「こやつのしわざだ! この男を城内へ引ったてろ!」
番兵たちがじりじりつめよったとき、カルがはじめて顔を上げました。その瞳にやどる暗く凶暴なかがやきを見て、番兵たちの顔におびえに似たものが走りました。カルの口から低く、しかし力強いけだもののうなりにも近い声がもれてまいりました。
「おれは神をにくむ。罰するならおれひとりですんだものを。おれは天をうらむ。神がつくりたもうたこの世界のすべてをにくむ。なぜリーナまでうばった? うばうのならおれのつばさ、おれのいのちだけでことたりたはずだ。おれは天につばをはきかけてやる。リーナのいないこの世界を地獄に変えてみせる!」
カルは左腕にリーナの首をかかえ立ち上がりました。全身の筋肉は怒りにふくれあがり、顔は悪鬼のようでありました。天使であったころのやさしげなおもかげはもうどこにもありません。
光をうしなったリーナのガラス玉のような瞳だけが悲しげに遠くを見つめ、もの言わぬくちびるはうっすら開き、それでもまだなにごとかを語りかけようとしているようにも見えました。
カルは自らの中に自分でも信じられぬほど残忍で猛々しい力がみなぎってくるのを感じておりました。天使のころにそなわっていた天上界の力がそのまま邪悪な破壊の力へと転じてしまったかのようでした。
ひとりの番兵がカルをとらえようとたくましい腕をのばしましたが、一瞬ののち、その腕はひじのあたりでへし折られ、枯れ枝のようにぶらんと垂れさがりました。番兵は苦痛のうめきをあげその場にへたりこんでしまいました。
これは油断ならぬとさとったのか、ほかの番兵たちはグレーブをかまえ、するどい切っ先をカルへ向けました。カルはひるむどころか、突き出されたグレーブの柄をつかみ返すとすさまじい力でうばい取ってしまいました。つぎの瞬間にはひとりの番兵ののどがカルの投げつけたグレーブに刺しつらぬかれておりました。
のこる番兵たちもカルの右腕一本の反撃につぎつぎたおれていきました。
カルはリーナの首をたずさえ、門前に立つと、切り立つような石かべを見上げました。かれの中ではいま、リーナをうしなった絶望の底からふつふつとどす黒い野望がふきあげております。
(この地上に、神にそむくものたちの王国をきづきあげること。それがリーナのかたきをうつことにもなる。手はじめにこの城をわがものとし、この土地をわが領地とする)
カルはリーナの首に語りかけました。
「われは大公となってのち諸国を征服し、王の座をめざす。そしてしかるべきのち神にたたかいいどむ。それがなによりそなたの死にむくいる道だ」
カルはリーナの首をたずさえ城内へ押し入りました。城の中は大混乱におちいりました。カルはリーナの父君である大公に退位をせまりましたが、むろん受け入れられるはずもありません。
護衛の兵士たちがカルを取りかこみました。しかしいまや悪魔の力を手に入れたカルの前に兵士たちはつぎつぎたおされていきました。大公も自ら剣を手にカルに立ち向かいましたが、ぎゃくに剣をうばわれ、カルの邪悪な力をひめた一撃にたおれました。
リーナの母君である大公妃は恐怖にかられ逃げまどったあげく、城内の古井戸へ自ら身を投げてしまわれました。
こうしてカルにさからうものたちはことごとく命をうしない、生きのこったのは女性や老人、身分の低い使用人たちばかりでした。かれらは大広間に集められ、全身を返り血にそめたカルはこう言いはなちました。
「われにしたがうか、さもなくば死か、いずれかをえらべ。なんじらにそれ以外の道はない」
さからうものはありませんでした。カルは満足げに笑うとこう宣言しました。
「これよりわれが大公。そして……」
カルが頭上高くリーナの首をさし上げるや、それまで重い沈黙が立ちこめていた広間のそちこちから女たちのすすり泣く声が聞こえてまいります。
「……このリーナこそわが妻、大公妃となる。みなのもの、われのみならず、リーナの首にもつかえよ!」
こうして神にそむくものの公国がここに誕生したのです。
吸血鬼の町
ぼくは三年坂を必死にかけおりていた。最初はどこか近所に家にとびこんで助けを求めようって考えてた。だけど、その家の人がすでに吸血鬼になっていたなら……そう思えば、いまはともかく少しでも〝ドラキュラマンション〟から遠ざかりたかった。走りながらまわりの風景がどんどんぼやけていくことに気がついた。さっきまでマンションのまわりにだけ立ちこめていた霧がまるでぼくを追いかけるように坂の下まで広がってきているんだ。
坂道を踏む足のうらが痛い。だけどまだまだ走らなくちゃ。いまにも吸血鬼たちが霧の中からひたひた追ってきそうで振り向くことさえこわい。やっと坂の下へたどり着いた。コンビニエンスストアの看板が見えて、ぼくははじめて足をゆるめた。もう、心臓がやぶれそうな気分だ。
コンビニには店員さんがふたりとお客さんもけっこうたくさんいた。そうか、いまは日曜日の午後だったんだ。そんなことさえわすれてた。
ぼくはカウンターの店員さんに声をかけた。
「たいへんなことが起きてるんです。警察を呼んでください」
店員のおにいさんはじっとぼくを見つめ、きき返してきた。
「なに? 事故?」
とっさに作り話をすることができなかった。
「坂の上のマンションが吸血鬼に占領されちゃったんです」
「はあ?」
ふたりの店員さんは顔を見あわせにやにや笑った。ああ、やっぱ、ほんとのことしゃべらないで、どろぼうが入ったとかなんとか言って110番してもらえばよかったのかなあ。
「あのさ、うちらいそがしいんだから、ギャグならよそでやってよ」
しゃべってしまった以上いまさら引きさがれない。
「ほんとだってば。あのマンションで人がつぎつぎおそわれているんだ。おれ、いま、そこからにげてきたんだ!」
ぼくの声は大きくなっていた。お客さんたちもぼくのほうをじろじろ見ているのがわかる。店員さんの顔に怒りが浮かんだ。
「おまえさ、営業のじゃまなんだよっ。そんなアホな話信じられるわけねえだろっ」
やっぱ、だめか。こうなったら松本刑事にじかに伝えるしか方法はないのか。あの人ならきっとぼくの話をまじめに聞いてくれるだろう。ぼくはコンビニを出ていこうとした。
そのとき。
「きみ、いまの話もっと聞かせてくれる?」
振り向いたら、店の買い物かごを持ったおねえさんが立っていた。お客さんらしい。おねえさんは腰をかがめてぼくの話を聞く姿勢を取っている。
やった、みかたができた。ぼくは息を切らしながら吸血鬼に追いかけられた話をした。うまくは伝えられなかったけど、おねえさんはまじめな顔でうなずきながら聞いてくれた。
「まったく、そんな話よく信じられるなっつうの」
店員さんがあきれたようにつぶやくと、おねえさんは背中をのばしてそちらへ目を向けた。指先でオレンジ色のスカーフをいじりながらきっぱりと言った。
「わたし、吸血鬼の存在を信じるわ」
店員さんはうっすら笑った。
「吸血鬼がいるって証拠あんの?」
「あるわよ。ここに」
おねえさんはカウンターごしに店員さんにおそいかかった。首に牙を突きたてるのが見えた。
マ、マジかよっ! 店内はたちまち大パニックになった。人をつきとばすようにしてみんな出口に殺到した。ぼくもほかのお客さんたちといっしょに店を飛び出した。もうマンションのずっと外まで吸血鬼は広まっているんだ、きっと。このままだとどんどんなかまがふえていくのかもしれない。
いつの間にかいっしょにコンビニを飛び出した人たちともはぐれてしまった。みんな人のことなんかかまわず、勝手な方向へ散っていったらしい。
また、ひとりぽっちになってしまった。ぼくは霧の中をとぼとぼ歩き出した。かあさんのところへ行こうと思った。まず、あてにできるおとなっていえばかあさんしか思い浮かばない(あてにならないことも多いけど)。それに、かあさんなら松本刑事のケータイの番号とかもわかるかもしれない。かあさんの口からじかに松本さんに電話してもらおうって考えた。
かあさんは商店街にあるヘアサロンできょうも仕事のはず。ぼくは商店街の方角をめざして足をひきずるように歩きつづけた。霧はまるで目の前に白いカーテンを下げたようにぼくの視界をふさいでいる。まるで手さぐりで歩いている気分。
ん? なにか聞こえてくる。霧の向こうから赤ちゃんが泣くような声が。だれか来るのか。ぼくはその場に立ちどまった。耳をすますとひとりの泣き声ではない。ぎゃあぎゃあと何人いいや何十人もの赤ちゃんの泣き声が……なんなんだ。赤ちゃんをつれた人たちがおおぜいで逃げてくるのだろうか。
でも、吸血鬼でないふつうの人たちと出会えたらうれしい。ぼくは期待と不安のいりまじった気持ちでだれかの姿が現れるのを待っていた。声が近づいてくる。
変だ。ぎゃあぎゃあという声は赤ちゃんが泣いているにしては低く、まるで肉食動物がうなっているような声だ。これは人間の赤ちゃんじゃあない……。
ぼくはだんだん恐怖にとらわれはじめた。どうしよう。どっか隠れる場所はないかな。あたりを見まわす。いまのぼくなら、もしだれかに背中をワッとたたかれたらそれだけで心臓がとまっちゃうかもしれない。
電柱がある。あのかげに隠れるしかない。隠れ場所としてはたよりないけどいまはしかたない。ぼくはわずかな距離を全力で走って電柱のうしろに身をひそめた。
声だけが見えない集団となってぼくが隠れているほうへ近づいてくる。
これはぜったいにふつうの人間なんかじゃない。やがて霧の向こうからななにかが道路を流れてくるのが見えた。それはまるで押しよせる波のようにも見えた。水? まさか。ちがう。小さな生き物が何十ぴき、いいや何百ぴきと流れるようにサーッと走ってくるんだ。
ねこ。ねこ。ねこ。ねこ。ねこ。ねこのむれ。走りながらときおり声のハーモニーをかなでている。もちろんハーモニーなんていうきれいな声じゃないけど。
どうしてこんなところをねこのむれが? これって吸血鬼と関係あるんだろうか。ぼくがひそむ電柱の前をねこの大集団が通りすぎていく。ねこたちは同じ目的地をめざしているように走りぬけていく。その中には首にリボンをつけているねこもいた。もしかして町じゅうのねこが集まってきたのか?
ぼくは息をつめてその異様な光景を見守っていた。ねこたちはまっしぐらに三年坂のほうへ向かっている。むれの先頭集団はもう霧の中へ見えなくなってしまった。むれがとぎれるとべつな足音が聞こえてきた。ぼくはハッとなって全身をかたくした。だれか人が走ってくる。
霧の中から現れたのは……。
シュウジだった。
なんで、あいつがこんなところへ?
シュウジがふっと足をとめた。こっちへ顔を振り向ける。ぼくは声をかけそうになって言葉をのみこんでしまった。シュウジの顔色はほとんどまっさおでくちびるだけが赤く、目つきはけもののようにするどかった。
シュウジの口から声がほとばしった。
「そこにいるのは太一だろ。おれには見えてるよ」
ちがう。いつもおどおどして小さな声でぽそぽそ話すこれまでのシュウジとはちがう。声も太くて力強い。
おそるおそる顔を出したのはぼくのほうだった。いまのシュウジがこわかった。
あいつはうす笑いさえうかべてぼくに近づいてきた。
「なんだ、太一、もしかしておれのことこわがってるの? そうだよ、おれ、もう吸血鬼なんだ」
おそってくるのか。ぼくは思わずあとずさり、へいに背中がぶつかった。
シュウジはケラケラとあざ笑うような声で言った。
「しんぱいするなよ。太一はこのあいだおれのことかばってくれたから、かみつくのだけはかんべんしてやるよ。あいつらならこのあいだめちゃめちゃおどかしてやったけどな」
あいつらっていつものいじめっこたちのことか。あいつらが学校ずっと休んでるのもやっぱシュウジのせいだったのか。
シュウジはうれしくてしかたないといった感じでクククッと笑いころげた。きげんのいいのがかえってぶきみだ。
「あいつらのびびった顔おもしろかったぜ」
シュウジの目が暗いかがやきを見せた。勝ちほこったような目だった。
「おれ、ほんとに強くなったんだ。人間はだれもおれに勝てないんだ。おれ、いまの自分がすごくすきなんだ」
こいつ、なにをそんなによろんでんだ? 吸血鬼になっちまったことがそんなにうれしいのかよっ。
シュウジの顔がぎらぎらとした力に満ちていくのがわかる。
「だけど、おれ、あいつらの血は吸ってやらなかったよ。なんでだか、わかる?」
わかるか、そんなの。吸血鬼になったやつの気持ちなんかぼくにはわからない。
「だって、あいつらも吸血鬼になって強くなっちまったら意味ねえじゃん。おれだけがやつらより強くなくちゃいけないんだよ。やつらをすきなだけこわがらせて楽しめるほうがいいからな」
シュウジは笑いころげた。
いじめられっこだったシュウジはとうとうほんものの怪物になっちまったのか……。
ぼくはおなかに力をこめ、声をしぼり出した。
「これからなにが起きるんだよ、あのマンションで」
「だいじな儀式さ。くわしいことはおれも知らないけど、今夜じゅうにあのお城で大公さまのたいせつな儀式が開かれるんだ」
「なんだよ、タイコウさまって」
シュウジがけいべつしたような目でぼくを見た。
「リーナさまのパパのことだよ」
リーナのパパがタイコウさま? 吸血鬼のボスってことか。
シュウジはにやにや笑いを引っこめると言った。
「もうすぐこの町はおれたち吸血族の町になるんだ。そのときは太一、おまえもなかまにしてやるからよ。生まれ変わるって気分いいぜ。じゃあな」
ぼくは背中を向けようとするシュウジにひとつだけきいた。
「さっきのねこたちはなんなの?」
「ああ、あれはリーナさまの命令でおれが集めてきたんだ。リーナさまはバラの花とねこがだいすきなんだ」
「あのねこたちも吸血鬼なのか」
「ああ。人間だけじゃなくて、ねこだって犬だってカラスだってねずみだって吸血鬼になれるんだよ」
ぼくはなんだか悲しい思いになってきて言い返していた。
「シュウジ。おまえ、ふつうの人間にもどりたくないのかよっ」
このとき、シュウジはむかしのいじめっこに返ってしまったように顔をよわよわしくゆがめ、首をはげしく横にふった。
「ぜったい、いやだ! 人間のままでいていじめられるより吸血鬼でいたほうがいい! いやなやつらを自分の力でやっつけてやれるから」
シュウジはこんどこそほんとにぼくへ背中を向けた。
「じゃあ、またな、太一」
シュウジはつむじ風のようないきおいで霧の中へかけ去っていった。言の葉町を吸血鬼の町にすることがあいつらの目的なのか。
ああ、早くなんとかしないと。
かあさんのヘアサロンがある商店街をめざしてふたたび歩き出した。
ぼくは霧の中をひたすら歩き続けた。