第一回 地下室の顔
2006年から2007年にかけて第五作まで刊行されたシリーズ(現在絶版)の最新ストーリーをこちらのサイトをお借りして公開いたします。もともとは年少者向けのシリーズでしたが、今回は年齢が上のかたでもお楽しみいただけるようくふうをこらしたつもりです。
ただ、ホラーというジャンルの性質上、ストーリー上の必然性がある範囲で、グロテスクなイメージを引き起こすシーンがあります。
デリケートなかたはご注意ください。また、小学生以下のかたは保護者の了承のもとでお読みになることをおすすめいたします。
プロローグ 200x年 ハンガリー共和国首都ブダペスト
黒い空から雪が舞い落ちてくる。古都ブダペストの中心部ではドナウの川面に観光名物鎖橋のイルミネーションが光を投げかけていた。細やかな光の連なりはまるで真珠のネックレスを張りめぐらせたように見える。あと数週間でクリスマスをむかえるこの夜、市街地をはなれた閑静な裏通りを歩む長身の黒い影があった。
男だ。つば広の帽子を目深くかぶり、漆黒のコートのえりを立て、ゆっくりと、しかし力強い足取りで石畳の路地を行く。両腕を胸の前で軽く交差させ、何かを抱きかかえているようすがわかる。それはあたたかそうなケットにくるまれた赤んぼうだった。小さなからだは生後まだ間もないであろう。わが子を抱いて家路をいそぐ父親とも見える。
だが、もしこの父子とすれちがう者があればきっと顔をそむけて逃げるように遠ざかったにちがいない。それほど男の形相は異様だった。木彫りの面のように陰影に富んではいるものの人間らしい情の感じられぬ暗いまなざし。うすく大きなくちびるは邪悪な意思をひめたように軽くゆがめられている。長く高い鼻すじは彫刻家がノミで彫り上げたように人工的なものに映った。
それにひきかえ、ケットの中の赤んぼうはどこまでも愛らしい。男女の別はわからないが、ふくよかな果実を思わせる顔だちはルネサンスの画家ボッティチェルリが描く幼い天使にも似ていた。赤んぼうはいま男の腕にすべてをゆだねてやすらかに寝入っている。さいわいなことにこの男とすれちがう歩行者はいなかった。男の進む路地はやがて行き止まりになり、つきあたりに二十世紀の戦火をまぬがれたと思われる古い石積みの建物が見えてきた。屋内のぬくもりに白くくもった窓ガラスからやわらかな光がもれ、つめたげな石畳をそこだけぼんやり照らし出している。建物のかべにかかる真鍮のプレートはここが産院であることをしめしている。
重たげな木のとびらをひじで押し、男は建物の中へ消えた。数十秒後、建物の中で当直の女性看護師がはじめは恐怖の、やがては苦痛の声をあげた。だが、その声が外へもれ聞こえることはなかった。しばらくのち、男がふたたび建物の外へ姿を現した。その腕の中には変わることなくすやすや寝息を立てる赤んぼうがいた。しかし、ほかに知る者はいない。それが先ほどとは別な赤んぼうにすりかわっていることを。
201x年 日本 言の葉町
消えた先生
あきよ先生がいなくなってから三日目の朝、ぼくが教室へ入ると、とんでもないうわさが広まっていた。それを最初におしえてくれたのはクラスの〝なずな〟という女の子だ。なずななんて変な名だけど、春の七草のひとつからつけたらしい。なずなのおとうさんは漢方薬局を経営してるから草花の名をつけたのかもしれない。あんまり関係ないかな?
そのなずなが言うことには……。
「おとといの夜起きたなぞの鉄道事故あるでしょ。あの電車にひかれた人って、あきよ先生だっていううわさあるんだけど」
「マジ?」
ぼくの名は二階堂太一。言の葉町立東小学校の六年生。『ことのはまち』って変わった名でしょ? よそから来た人にも、「めずらしい名前の町ですね」とかよく言われる。ぼくらが五年生のころ出くわした最初のミステリー〝チョコ少女事件〟のとき、親友のこうすけってやつが町名の由来についていろいろ調べてくれた。 むかし京の都から旅してきた歌人がこの土地で世の中をのろって死んだときの伝説が町の名と関係あるらしいんだけど、それについてはまた別なときにおしえてあげるよ。
あきよ先生のことに話をもどすと……。
「なんで、なずながそんなこと知ってんだよ」
なずなはなぜか自慢そうに鼻をうごめかして答えた。
「あたしのパパが新聞社の人と親しいんだ。その人から聞いたらしいんだけど、事故現場の近くで携帯電話が見つかって、持ち主を調べたらあきよ先生のものだったんだって」
ぼくはなずなのなまいきそうな言いかたにちょっといらついてきた。ぼくだって言の葉警察署の松本刑事と親しいんだぞ。それに、あきよ先生が事故にまきこまれたなんて信じたくない。だから、つい、きつい口調で言い返していた。
「それだけじゃ、電車にひかれたかどうかわかんねえじゃねえかよっ。ケータイは先生がぐうぜん落としたものかもしれねえし」
なずなの言ったことを否定してやりたかった。あきよ先生のことは、ぼく、きらいじゃなかったから。先生、と言っても勉強をおしえてくれる先生じゃなくて、保健室の先生。ほんとうは養護教諭って呼ぶらしいんだけど、ぼくらにとってはあきよ先生だ。ふっくらした顔に四角いメガネ。いつも髪をうしろでむすんで、見た目はおばさんっぽいんだけど、なんて言えばいいのかな、ぼくらをいつでも見守っていてくれる、そんなやさしい先生だった。うわさだと全校生徒の名前をすべておぼえているらしい。
そう言えば、廊下であきよ先生とすれちがうといつも、○○くん、おはよう、とか、××さん、こんにちは、とか名前を呼んで声をかけてくれる。先生の中には男子でも〝さん〟づけで呼ぶ先生がいるけど、ぼくはやっぱ〝くん〟って呼ばれるほうがすきだ。
なずなの口がとがってきた。
「だって、ケータイはこわれてて、しかも血がついていたんだってよ。それって電車にひかれたときにこわれたってことじゃないのかな」
なんだかむかついてきた。あきよ先生が電車にひかれたなんてありえないっ。おまえが勝手に決めつけるんじゃねえよっ。先生はきっとぶじでいるって、ぼくは信じている。
「じゃあ、なんであきよ先生はまだ見つからねえんだよっ。電車にはねられたんなら大けがして動けるはずねえだろっ。はねられたのはぜったい犬とかねことか、動物だよっ」
「犬とかねこだって、ひかれちゃえば動けるはずないでしょ。それに電車の運転士さんだって、人らしい姿を見たってしゃべっているらしいよ」
それはふしぎな事故だった。テレビのニュースで知ったんだけど、おとといの夜おそく、この町を通る鉄道で電車が何かをはねて急停車した。懐中電灯を持った車掌さんが降りてあたりを調べたら、線路の上には血がたくさん流れていた。だけど、はねられたらしい人や動物の姿はどこにも見つからなかったんだって。とりあえず電車は発車して、つぎの朝警察と鉄道会社であらためてまわりを捜索したけど、何も発見できなかったそうだ。
どんな動物だって電車にひかれてぶじでいられるとは思えないけど……ぼくはふと〝歯車男〟のことを思い出していた。歯車男なら電車にひかれても平気かもしれない。あれもこわい事件だった。また、あれがこの町にもどってきたのだろうか。だけど、線路の血は? 歯車男のからだに血は流れていないはずだ。
急にまわりがさわがしくなった。来た、来た、とちえにくらら。ふたりはなずなの親友。これで魔女三人組がそろったわけだ。〝首なし魔女事件〟のときはこの三人組のせいで、ぼくばかりか、ぼくのかあさんまであぶない目にあわされた。べつにほんとうに魔法がつかえるわけじゃないけど、こいつらは魔法とか呪いとかそんなことがだいすきなんだ。ほかにこの三人組がすきなものって言えば、こうすけ。三人ともあの事件で大活躍したこうすけのファンになっちまって、勝手に三人だけの〝こうすけファンクラブ〟を結成しているらしい。
「ねえねえ、あたしのメール見てくれたよね?」
「うんうん、あれってマジ?」
「ぶきみだよね。また魔女のしわざかな」
うっせえやつら。こいつらに関わるとよくないことばっか起きる。ぼくは三人を無視してランドセルから取り出した教科書やノートをつくえに押しこんだ。なずながほかのふたりに言う。
「いま、太一くんにもおしえてあげたんだ」
「そうか、太一くんってケータイ持ってないんだもんね」
「いまどきダサいよね」
三人組はぼくを横目で見てけらけら笑った。
ムカッ。ぼくをおこらせたな。よし、給食の時間になったらこいつらの前で犬の○○○をふんづけたときの話をしてギャフンッって言わせてやろう。ふふんっ、かくごしておけよ。
「あっ、来た、来た、リ―ナさまだっ」
なずなが声を上げたので、顔を廊下のほうへ向けたら、廊下に面した窓ごしに歩く女の子の横顔が見えた。リ―ナさまか。〝さま〟をつけて呼ばれるのもわかる気がする。リ―ナは三週間くらい前にとなりのクラスへ転校してきた子だ。なんどか廊下ですれちがったことがあるけど、ちょっと人をドキッとさせるようなオーラがただよっている。なぜかいつもマスクをつけているんだけど、その大きな目はまるで宝石をうめこんだようにきらきらかがやいている。肩までのびた髪は黒でも茶でもないココアみたいなふしぎな色をしている。はだはミルクみたいに白くて、背も154センチのぼくよりずっと大きそう。って、ぼくもなにげによく観察してるよな。転校してくる前はずっと外国でくらしていたらしい。
「ねえねえ、もっと近くへ見に行こうよ」
「行こ、行こ」
「あたし、声かけてみよっかな」
わざわざ見に行くほどのことないんじゃないの? パンダじゃないんだから、とか思いながら、ぼくもなずなたちのうしろから席を立って廊下をのぞいてみた。リ―ナはランドセルではなく、黒いデイパックを背負っている。歩くたびにココア色の髪が肩の上でゆれる。すれちがう子たちはみんな、リ―ナのほうを見るような見ないような遠慮がちな態度でとおりすぎていく。だけど、やっぱマスクが異様だった。転校してきていらいマスクをはずした顔をだれも見たことないってうわさだ。
疑問がわく。給食を食べるときはどうするんだろう? その答えは、「リ―ナは給食を食べない」だ。これもとなりのクラスのやつから聞いたんだけど、リ―ナは食べ物のアレルギーが強い上に、おなかが弱いのでおひるごはんはいつも抜くんだって。みんなが給食を食べているあいだはひとりで読書とかしてるらしい。
リ―ナがぼくらの教室の前をすぎたとき、となりのクラスから飛び出してきたやつがいた。それはシュウジという男子だった。シュウジはリ―ナの足もとへいきなりひざまづいた。
な、なんなんだ、いったい。だれもがあっけに取られて見ていた。シュウジが片手をリ―ナへ差し出した。赤いカーネーションが一本だけにぎられている。
あれって玄関前の花びんに差してあった花じゃなかったっけ?
「ほらよっ、シュウジ、早く言えよっ」
いつの間にかとなりのクラスの男子たちが集まっていて、シュウジをうしろから見下ろし、にやにやしている。シュウジは小さなふるえる声でつぶやいた。
「ぼ……ぼくと……してください」
男子の中から声が飛んだ。
「ほらよっ、もっとでかい声で言わねえと聞こえねえよ!」
シュウジの目はなみだぐんでいる。やがてふりしぼるようにこう言った。
「ぼ、ぼくと結婚してください、口裂け女さま」
男子だけでなく女子までがいっせいにげらげら笑い出した。ぼくもつい笑ってしまったけど、もうわかった。これはいじめだ。シュウジはからだが小さい上に勉強も体育もにがてで気弱ないじめらっ子。いまのことも男子たちにむりやりやらされているんだろう。ぼくは目の前の光景に少しうんざりしてきた。男子たちがはやしたてる。
「アンコール! アンコール! ほら、もう一回言えよ。返事もらうまでプロポーズ続けろよっ」
シュウジにはもう完全に〝泣き〟が入っている。目をこすり、くちびるをふるわせていた。
「早く言えっちゅうの!」
ひとりがシュウジの頭をたたいた。まわりのやつらも調子に乗っておしりにけりを入れたり、髪をひっぱたりしはじめた。ほかの男子や女子はただ見ているばかり。リ―ナだけはマスクごしにひややかなまなざしでどこか遠くを見つめていた。
「ほら、早く言わねえとズボンぬがすぞっ」
「おもしれえ、やっちゃえ、やっちゃえ」
何人かの男子がシュウジにおそいかかった。必死にさからうシュウジのズボンをみんなが見ている前でぬがそうとしている。
ぼくはもうがまんできなくなった。なんだか自分がズボンをぬがされそうになっている気がしてむかついている。
「やめろっ」
ぼくは一歩進み出るとそうさけんでいた。男子たちの目がいっせいにぼくを見た。それは獲物を見つけた肉食獣の目だった。
「なんだよ、太一。なにいいかっこしてんだよっ」
ぼくは言い返した。
「もうやめろっちゅうの」
ぼくには〝歯車男〟や〝首なし魔女〟に立ち向かってきたっていうプライドがある。いじめっこのやつらくらいに負けたくはない。にらみあううちにぼくはあいつらにかこまれていた。
「じゃあ、太一。おめえがかわりに口裂け女にプロポーズしてみろよ」
はあ? こいつらアホなんじゃねえの。なんでぼくがそんなことしなくちゃいけないんだよっ。
そのとき、リ―ナの声がした。ぼくははじめてリ―ナの声を聞いた。マスクごしだけどよくひびく声だった。
「その子のプロポーズ受けてあげてもいいわよ」
みんなきょとんとしてリ―ナのほうを見ている。ぼくもそのひとり。リ―ナの瞳はクールな光をたたえていた。シャープなふたえまぶたの奥にふしぎな色の瞳がおさまっている。青みがかった空の色。その瞳がシュウジのほうを向いた。だけど、なんの感情も表われてはいない。
「あなたをわたしのしもべにしてあげてもいいわ」
しもべって家来のこと? ギャグには聞こえない話しぶり。いったいリ―ナはなにを考えているんだろう。だれもが言葉もなく見守るばかりだ。シュウジ本人でさえぼうぜんとリ―ナを見ている。
リ―ナはいじめっこたちのほうへひとさし指を向けた。その指の長さと白さが目立つ。つやつやかがやくつめの先がやすりでといだようにするどくとがっているのが印象的だった。リ―ナはゆっくりと声をひびかせ言った。
「あの虫けらたちをやっつけてくれれば、それだけの強さをあなたが見せてくれれば、わたしのそばにいることをゆるしてあげるわ」
うわっ、虫けらだって! しかも超マジなしゃべりかたで。言われた男子たちの顔には殺気に似たものが走った。これってけっこうやばいムードかも。ぼくにもどうしていいのかわからない。いじめ集団のリーダー役男子がつばをはくような勢いで言い返した。
「むかつくんだよっ、この口裂け女。外国で生まれたなんてかっこつけやがって。どうせ妖怪づらしてんだろっ。ひでえブスで顔見せられねえんだろっ。ブス、ブス、妖怪ブス! マスク取ってブス顔見せてみろよっ」
まわりのみんなはだんまり状態でリ―ナと男子の対決を見守っている。魔女三人組もまるでホラー映画の一シーンでも見ているように身動きひとつしない。
リ―ナはきっぱりと答えた。
「その口裂け女ってなんのことかよくわからないけど、わたしの顔を見たいなら見せてあげるわ」
リ―ナはゆっくりとした動作でマスクのひもに指をかけた。まるでみんなをじらそうとしているんじゃないかって思えるほどていねいにマスクをはずしにかかる。長い指がふしぎな生き物のように動いた。
ぼくはどきどきしている。もしかしてマスクを取ったらほんとうに口が耳まで裂けていたりして……。
リ―ナの顔から白いマスクがはなれた。そのとたん、魔女三人組のささやく声が聞こえた。
「うそ。マジきれい」と、なずな。
「完ぺき美少女系」と、くららがつぶやく。
「お人形みたい」と、とちえがため息をついた。
魔女三人組の言葉はうそじゃないって気がする。リ―ナのくちびるはやわらかにきれいな曲線をえがいて、シャープな目もとによくマッチしていた。しかも口紅をつけたようにまっかな色をしている。白い顔の中でその赤さがやけに目立つ。鼻はほっそりまっすぐで、かわいいとかってレベルじゃなくて、まるで彫刻のような顔だった。いじめっこたちももうなにも言わなくなっていた。
リ―ナはなにごともなかったかのようにマスクをつけなおすと、もうまわりには関心ないわといった態度でとなりの教室へ姿を消した。もうすぐ先生たちが来る。ぼくらはなんだかうしろめたい思いでこそこそ教室へもどっていった。廊下をふりかえると、シュウジがただひとりひざまづいた姿勢のままでいた。その手がカーネーションの花びらをぐしゃりとにぎりつぶすのが見えた。
リ―ナからの招き
「あたし、ぜったい、リ―ナさまのファンになる!」
「マジきれい、超プライド高そう!」
「将来はきっと女王さまタイプだよね!」
はじまった、はじまった、魔女三人組のおしゃべりが。いまは給食の時間。きょうのメニューはごはんに玉子スープ、ギョーザにはるさめサラダ、デザートは杏仁どうふ、と中華風。
うめえ、うめえよ。犬の○○○の話をするのはやめにした。ぼくのまわりにはなぜか三人組が集まっているのでうるせーのなんのって。
魔女たちがぼくのほうを見た。
「太一くん的にはリ―ナさまのことどう思う?」
って、なんで、そんな質問ぼくに振ってくるんだよ。
「べつに。おれキョーミねえし」
「うそ。太一くんってリ―ナさまのことじっと見てたよね」
「うん、うん、見てた、見てた」
「なんだかエッチっぽい目してたよね」
まわりの子たちがそれを聞きつけて笑った。
「太一くんっておとなになったらセクハラとかしそうだよね」
「うん、うん、チカンとかやっちゃうかも」
「きっと、ストーカータイプだよね」
まわりの子たちげらげら笑った。
もう、ゆるさないぞ、魔女三人組! このあと、ぼくは犬の○○○の話をたっぷり聞かせて三人組をギャフンと言わせてやったのだ。ざまあ見ろ。
ぼくらがわいわいさわいでいると、廊下をだれかが行くのが見えた。リ―ナだ。となりの担任の先生に肩をささえられるようにして歩いていく。
「あっ、リ―ナさまどうしたんだろ」
「しんぱい、しんぱい、超しんぱい!」
「だいじょうぶかなあ」
三人組はイスからのびあがるようにして廊下のほうをのぞいている。ぼくらの担任、岩田先生が、「はーい、みんな、さわがない、さわがない」と注意した。岩田先生は中年の女の先生で、〝首なし魔女事件〟のあと学校をやめた藤倉先生に代わってぼくらの担任になったんだ。岩田先生はとなりの先生とひとことかふたこと話をしてすぐもどってきた。
「はーい、なんでもない、なんでもない。となりの子が気分わるくなっただけ。はーい、食べて、食べて」
やっぱリ―ナがからだ弱いってほんとなんだな。保健室へ連れていかれたんだろう。ぼくはあきよ先生のことをまた思い出してしまった。いま保健室には臨時にべつな養護の先生が来ている。だけど、ぼくは白衣姿のあきよ先生が早くもどってきてくれることを願っている。
この日の放課後、そうじ当番のぼくは班メンバーと職員室へ通じる廊下のそうじをしていた。長いホ―キとちりとりで床のほこりを取り、モップで水ぶきする。そうじなんてかったるいけど、サボるほどワルになりきれないぼくだし、ちょこちょことそうじをしているようないないようなビミョーな動きで〝そうじ風〟なことをしていた。
職員室の戸が開いた。出てきた人を見たとき、ぼくは思わず声を上げていた。
「松本さん!」
言の葉警察署の松本刑事はぼくを見つけると、白い歯を見せて笑ってくれた。松本刑事とは〝チョコ少女事件〟のときからの知り合い。あぶない場面ではいろいろ助けてもらったんだ。松本さんは捜査でいつも外を歩きまわっているせいか日焼けしている。背が高くて柔道の有段者だけど、体型はいかつくないし、見た目はかっこいいほうだろう、ってなまいきこいてすいません、松本さん!
「なんでここへ来たの?」
ぼくがきくと松本刑事はちょっとためらう口調になって答えた。
「いやあ、パトロールだよ。なにか変ったことないかなと思って」
うそ。ぼくにはわかる。松本さんは、あきよ先生がいなくなった事件のことで来たにちがいないって。ここにいるのがぼくだけならほんとうのことをおしえてくれただろう。じゃあ、と片手を上げて去っていく松本刑事をぼくはホ―キをほうり出して追いかけた。
「太一くん、サボるつもりなの、ずるいよっ」
班メンバーがおこる声を聞き流してぼくは廊下のかどで刑事に追いついた。
「松本さん、ほんとはあきよ先生のことで来たんでしょ?」
「あきよ先生? ああ、養護の斎藤あきよ先生のことだね。はは、さすがきみにはしっかりバレてるな」
松本さんはすぐ笑顔をひっこめ、声をひそめた。
「きみだけにはおしえてあげるけど、じつは先生の失踪にあやしい点がいくつか出てきてね。だけど、これはほかの人にはないしょだよ」
ぼくはうなずいた。これまで五つの事件でいっしょに行動したぼくを松本さんは信頼してくれているんだ(たぶん……)。
「斎藤先生は自分のブログの中でこの学校で起きているある異変を指摘しているんだ。それが失踪と関係あるんじゃないかと思ってね」
あきよ先生のブログなんて、ぼく知らなかった。
「異変ってどんなこと?」
刑事は肩をすくめてみせた。それ以上はここで説明してくれる気はなさそうだ。その代わりにあきよ先生のブログのタイトルをおしえてくれた。うちへ帰ったら、かあさんのパソコンでチェックしてみよう。まったくケータイどころかぼく専用のパソコンさえ買ってくれないんだから、IT関係にはケチなかあさんなんだ。
ぼくはついでに気にかかっていたことをたずねてみた。
「おとといの電車事故でひかれた人ってまだ見つかってないの? あきよ先生のケータイが近くで見つかったってうわさ聞いたけど」
松本刑事の声がいちだんと低くなった。
「まだなんとも言えないね。現場に残された血液のDNAも調べているけど、だれのものかわかるまではもう少し時間がかかりそうだ」
松本刑事はそこまで話すと先をいそぐようすで、じゃあ、と手を上げて玄関のほうへ歩き出した。その背中へぼくは声をかけた。
「あきよ先生は生きてるよね? 松本さん」
刑事は顔だけぼくのほうへ振り向けた。
「それを信じよう。われわれも斎藤先生がぶじでいることを前提に捜査を進めているから」
ぼくがそうじの場所へもどると、みんなはもういなくなっていて、そうじ用具だけがかたづけされないまま残っていた。
やられた! あいつら、ぼくがそうじをサボった罰にあとかたづけをぜんぶやらせるつもりなんだな。まあ、サボったのは事実だからしかたないけど。
ぼくがホ―キやモップ、ちりとりをかかえてそうじ用具のロッカーがある場所まで歩きはじめたとき、声がした。
「二階堂太一くん」
ん? だれ、ぼくをフルネームで呼ぶなんて。振り向いたとたん、ぼくはからだがフリーズしそうになってしまった。リ―ナが立っていたんだ。マスクの上から青みがかった瞳でぼくを見つめてくる。なんだか金しばりにあったみたいで動くことができない。
リ―ナが近づいてきた。なんだろう、香水かな、リ―ナからはあまい花にも似た香りがただよってくる。マスクの中で声がした。
「けさはありがとう」
はあ? ああ、べつにあれってリ―ナを助けるためにしたことじゃないのに。でも、お礼を言われてわるい気はしないけど。
「太一くんって、これまですごい冒険をしてきたんですってね」
ですってね……か。こんな言葉づかいする子って、この学校にはあんまりいないよなあ。やっぱ、リ―ナってお嬢さまなのかな? でも、あの『虫けら』って言葉はきつかったよな。
「太一くんは魔王さまにもお目にかかったことあるんでしょ?」
魔王さま? ああ、サタンのことか。たしかに首なし魔女事件のときサタンがこの町に現れた。ぼくはこの目でサタンの姿を見たんだ。だけど、リ―ナはなんでそんなこと知っているんだろう。
「なずなさんたちからいろいろ聞いたわ」
あいつら、きょう一日でもうリ―ナとなかよくなっちまったのか。これまでこそこそうわさをするだけだったのに。
リ―ナはそれきりだまりこんでしまった。目だけはぼくの顔にじっと向けられている。いったい何を言いたくて話しかけてきたんだろう。ずっと見つめられっぱなしなのもいやなので、こんどはぼくのほうからきいてみた。
「からだのぐあいはもういいの?」
リ―ナは軽くうなずいた。
「わたし、ガーリックのにおいってにがてなの。それで気分わるくなってしまって」
ガーリック? ああ、にんにくのことか。そう言えば給食のギョーザににんにくが少し入ってた気したけど。でも、それくらいで気分わるくなったりするのかな。よほどからだが弱いのかもしれない。
リ―ナがさらに一歩近づいてきた。ぼくはなぜか背中がぶるっとふるえるようなオーラを感じた。この感じってなんだかおぼえがある……なんだろう?
「太一くんにお願いがあるの」
また背すじにぞわぞわときた。なにかがぼくの中で警告している。いま、危険がせまってるぞ、って。なんでだ? 目の前にいるのはただの女の子じゃないか。それなのにどうして……ああ、思い出した。この感じって、チョコ少女や首なし魔女に出会ったときに感じたものによく似ている。人間をこえたおそろしいものに出会ったときに……。
「わたしとお友だちになってほしいの」
へっ? お友だち。そんなこと急に言われてもなあ。返事できないよ。
ぼくがだまっていると、リ―ナはぼくの目をのぞきこむようにして言った。
「こんどの日曜日。太一くんをわたしのうちへランチにご招待したいの。ママはお料理がじょうずなのよ。太一くんならママのお料理きっと気に入ってくれると思うわ。来てくれるでしょ?」
ぼくがリ―ナの家に? お昼ごはんを食べに? ほんとうならこんなきれいな子(とうとう言っちゃった!)からの招待だからうれしくないこともないんだけど、なぜだろう、気持ちの中に大きくひっかかるものがあるんだ。
リ―ナの瞳。まるでなにかのパワーでぼくの心を吸い取ろうとしているみたいで、ぼくはそれに負けちゃいそうになって……で、とうとう、ウンとうなずいてしまった。
リ―ナの瞳に勝ちほこったような色が浮かんだ。でも、ぼくの中にこのまま言いなりになってはいけないという思いがわいてくる。で、ためらいがちにつけくわえてみた。
「ぼくひとりだけ? 友だちとかいっしょに行ったらだめかな」
ぼくはこうすけやスガオの顔を思い浮かべていた。あいつらといっしょならどこへ行っても安心だ。だけど、リ―ナの返事ははっきりしていた。
「だめ。わたしはあなただけをご招待しているの。友だちなんか連れてこないで」
なんだかことわりきれないムード。くららが言ってた「リ―ナは女王さまタイプ」という意味がわかった気がする。ぼくはいまリ―ナのしもべになってしまったようでノーと言うことができなかった。
「わかった。ひとりで行くよ。で、家はどこなの?」
「しんぱいしないで。ママに車でむかえに行ってもらうようにするから。そうね、十一時に学校の裏門で待っていてくれる? あそこなら人目にもつきにくいし。このことはだれにもないしょよ」
「えっ、なんで?」
「だってぇ」と、リ―ナは急にあまえるような声を出した。
「わたしと太一くんがなかよくしていることを知られたら、たぶん、みんながジェラシーを感じちゃうから」
ジェラシー? やきもちのことか。なんだか、てれくさいような、こわいような変な気分になってきた。そのとき、ヒョー、ヒョーとみょうな声がした。振り向くと、いた、いた、けさシュウジをいじめていた五人組だ。
「よう、おめえら、もうそんなになかよくなったのかよっ」
「あー、熱い、熱い」
「こいつらデキてるんだぜ」
うっせーやつら。リ―ナが言ったジェラシーってほんとのことかもしれない。ぼくはリ―ナにちょっと強いところを見せたくなって、やつらに言い返してやった。
「うっせーんだよっ。デキてるってなにがだよっ」
「こいつ、知らねえの? デキてるってのはよっ、男と女がエッチなこととかすることだよっ」
ひとりが腰をくねくね動かし変な声を上げた。
「あっはん~、いや~ん、太一く~ん、もっと強くだきしめて~」
やつら全員がからだをゆすって大笑いした。つぎの瞬間、リ―ナの目がするどく光るのをぼくは見た。すっきり細いまゆとまゆの間にたてじわがきざまれ、一瞬その顔が鬼のように見えて、ぼくはぞっとした。
「あなたたちって、顔だけじゃなく、心の中まできたならしいのね」
男子たちから笑いが消えた。怒った、というよりもむしろ気味わるそうな表情になっている。
リ―ナは相手をひとりひとり指さしながら言った。
「あなたたち、ほんとうにこわい思いってしたことある?」
リ―ナがマスクをはずした。氷の彫刻みたいにひややかな横顔をぼくはぼうぜんと見つめるほかなかった。
「まずはあなた」と、ひとりの顔をまっすぐ指さした。
「今夜じゅうに死ぬほどこわい思いをすることになるわ」
つぎにそのとなりのやつに指先が向けられた。
「そのつぎはあなた。悲鳴を上げることになるわよ、きっと」
そしてまたつぎ、つぎ、つぎと五人全員に同じことを告げると、リ―ナはふたたびマスクをつけた。
五人はこわごわ顔を見合わせ、なにも言わずにこそこそといなくなってしまった。
リ―ナはぼくのほうを向くと、目もとにほほえみをたたえ、別人のようにかわいらしい声を出した。
「じゃあ、日曜日ね。楽しみに待ってるわ。魔王さまにお目にかかったときのお話聞かせてね」
リ―ナは背中を向けると歩き出した。まるで赤いカーペットの上を進む王女さまのようにしなやかできどった足取りだった。ぼくはなんだか熱でも出たようなさむけといやな感じを受けていた。ともかくそうじ用具をかたづけようと向きを変えたとき。
あれっ? ぼくの目の前。廊下のかべに大きな鏡がとりつけてある。卒業記念のおくりものだ。ホ―キとモップをかかえるぼくの姿が映る。シャキッとイケメン……ってほどじゃないけど、いつものぼくが映る。だけど、鏡の中に感じた違和感。映っているのはぼくひとり。リ―ナはもういなくなっちゃったのか。
ぼくは廊下のほうを振り返った。歩いていくリ―ナのうしろ姿がある。もう一度鏡を見る。鏡の中では廊下がずっと奥までのびている。だけど……なぜ、どうして、リ―ナの姿が鏡の中にないんだ?
あきよ先生のブログ
かあさんのノート型パソコンを開いた。パスワードはなぜか〝DIET〟。松本さんから聞いたブログのタイトルを入力して検索したらすぐ見つかった。
『アッキーのそよ風モノローグ』
青空のようなテンプレート。先生のプロフィール。もちろん本名は出ていないけどすぐ、あきよ先生のブログだってすぐわかった。『自称保健室のおねーさんでーす。ほんとはおねーさん以上おばさん未満でーす』なんて書いてある。あの先生ってけっこうひょうきんなとこあったんだよな。まず最新のぺージを読んでみた。先生がいなくなった前の日の日付だ。
X月Y日
近ごろ職場で気になることあるんだ。って、また仕事の話だね。あたしってほんとワーカホリック。これじゃいつまでたってもカレシできないね(涙!)
ジョウダンはそこまでにして、ここ二週間くらい貧血でたおれて保健室へ運ばれてくる子がめちゃふえているんだ。それまでは月にひとりかふたりくらいだったのに。みんなちゃんと朝ごはんとか食べているのかな。ほんとにしんぱいになっちゃうし、それにあたしの仕事ふやさないで!
あー、でもあたしのガンバリが実ったこともあるんだ。ちょっと前から気にかかっていたBeちゃんのおかあさんが、Beちゃんの健康管理のことであたしのアドバイスほしいって。で、あすの日曜に家庭訪問することになったんだ。もち、ボランティアの休日仕事(ふたたび涙!)。だけど人からたよりにされるってうれしいよね。それにかわいいBeちゃんのためでもあるし。
ぼくは画面をながめたまま考えこんでしまった。Beちゃんってだれのことだ? そんなイニシャルの子ってうちの学校にいたっけ。それにこれってなんて読むの? べーちゃん? ビーちゃん? もっと前の日付のも見てみよう。ぼくは画面をスクロールしてみた。
X月R日
きょうまたBeちゃんが気分がわるいと言って保健室へやってきた。もしかしてここっていごこちいいのかな、あたしがやさしいから、なんちゃって。Beちゃんは海外から転校したばかりだからまだ環境になれていないのかもしれない。ところで、話かわるけど、うちの愛犬ヤヌ(オス三歳 あたしのたったひとりのカレシ!)が夜中にやたらほえるようになってうるさい。いくらかわいいヤヌちゃんでもこっちまで睡眠不足になっちゃうよ! 朝の散歩はかかさないし、ストレスためてるはずないんだけどなあ。いちど獣医さんに相談してみよっかなあ。
海外から転校してきたBeちゃんってリ―ナのことか? ぼくの学校でいま海外からの転校生っていえばあの子しかいない。でも、なんでリ―ナのイニシャルがBeなんだ? もしこれがリ―ナのことだとしたら、あきよ先生はリ―ナの家をおとずれていたことになる。しかも、ゆくえふめいになったその日に……。松本刑事が言ってた異変ってこのことなのかな? リ―ナのうちへ行ったら、あきよ先生のことをなにげなくきいてみよっかな。先生のゆくえをさがす手がかりが見つかるかもしれないし。それを松本さんにおしえてあげたらまた感謝されちゃうかもね。
X月Q日
きょうショッキングなできごとが保健室であったんだ。貧血で運ばれてきた五年生の女の子の手首にいくつか切り傷があった。どうしたの、ってわけをきいたら自分でやったんだって。まだ小学生なのにリストカット? なんで? って理由をきいたんだけど、本人はにこにこしていてぜんぜん悩みとかなさそうなようすだった。しかも自分の血をなめてみたかったなんてぶきみなことをシラッとしゃべるし。いったいいまの子どもたちってどうなっちゃってんだろう? いちど職員会議でも取り上げてみようと思う。って、きょうはとってもマジなブログになっちゃいました!
P.S. あたしの町で起きたふしぎをひとつ。星いっぱいのはれた夜空でゆうべ落雷があった。どこかの古い木に落ちたんだって。星空にかみなりなんて、なにかの前ぶれ? 奇跡でも起こるのかなあ。どうせ起きるならあたしにステキなカレシができるとかにしてほしい(そりゃ、ほんとの奇跡だね。泣!)
なんだって? 自分の血をなめる? なんだ、これは。ぼくはさらに先生のブログをどんどん前にさかのぼって調べていった。ほかにはとくに変わった記事は見つからなかった。
「ただいま」
ぼくがパソコンに向かっていると、かあさんが帰ってきた。かあさんは町のヘアサロンにつとめる美容師だ。ぼくが四年生のときかあさんはとうさんと離婚した。ぼくが三年生のころから、かあさんととうさんはけんかばっかして、なかがわるくなった。だけどほんとうの離婚の理由なんかぼくにはわからない。とうさんはよその町へ行ってしまい、かあさんとぼくもずっと住んでいた家をはなれていまのアパートへひっこした。学区も変わって、ぼくはそれまで通っていた西小学校から東小学校へ転校した。だけど、西小にいたときの友だち、こうすけやスガオとはいまでもなかよく遊ぶ。
「先にごはん食べてればよかったのに」
時計を見たらもう八時をすぎている。おなかがすくのもわすれてパソコンに向かっていたんだ。かあさんは朝のうちに作っておいたロールキャベツをキャセロールごと電子レンジに入れながらきいてきた。
「あんたの学校に帰国子女いるんだって?」
「キコクシジョってなんだっけ?」
「外国から帰ってきた転校生」
「ああ、それならいるよ。でも、なんで知ってるの?」
「きょうその子のおかあさんが髪をセットしにサロンへ来たんだ。上品できれいなおかあさんだったよ」
リ―ナのおかあさん? ぼくはかあさんのほうを見たけど、かあさんはテーブルにお茶わんとはしをならべながら、ひとりごとみたいに言った。
「でさ、あんたのことを話したら、ぜひ娘さんと友だちになってほしいって言ってた」
ぼくがリ―ナの家にまねかれていることをかあさんは知らない。おしえておこうかって思ったけど、どうせこんどの日曜もかあさんは仕事でうちにいないだろうし、だまっていることにした。それに、ランチの招待はないしょっていう、リ―ナとの約束もあるし。
ごはんのあと、シャワーをあびて自分の部屋でPSPを少しやってから、算数のプリントに取り組んだ。リビングで電話が鳴り、かあさんの声がした。
「太一。電話だよ」
電話はなずなからだった。あいつから電話なんてめずらしい。
『太一くんってなにを聞いてもおどろかないよね』
はあ? そんなこともないけど。なずなの声はなんだか緊張しているようだ。ギャグを言い出しそうなふんいきじゃなかった。
『さっき、とちえからメールがきたの』
「それで?」
『あきよ先生がとちえのとこへ現れたんだって』
こりゃ、おどろいた。
「えっ、マジ? いつ?」
『ついさっき。先生が部屋の窓から中をのぞきこんできたんだって。それで、とちえったらパニックになってるらしいんだ』
「なんでパニックになるんだよ。いままでどこにいたのかって先生にきいてみればよかったじゃん」
『そんなことできっこないよ』
「どうして」
なずなの声がうわずった。
『だって……とちえの部屋って団地の四階にあるんだよ!』
ほえる犬
「あたし、自分の部屋でなずなからのメール見てたんだ。で、窓をこつんこつんってたたくような音がしたから、なんだろってカーテンをちょっとだけ開けてみたら、あきよ先生の顔があって……」
とちえはとなりのなずなに肩をよせた。きょうは土曜日。ここはこうすけの部屋。いま集まっているのは、ぼくのほかに魔女三人組とカズマってやつだ。スガオはきょうカノジョのかなえと図書館へ行くとかいって来ていない。もうあいつのことは親友リストから削除してやろうかな?
カズマはこうすけやスガオと同じ西小の六年生だけど、おとうさんは病院の院長で、〝歯車男事件〟のとき、ぼくとカズマは力をあわせて歯車男に立ち向かった。いまはなかまのひとりだ。だけどなあ、カズマって、たいどデカくて、キザッたらしくて、キレやすいとこもあるんだけど。ちなみに見た目はイケメンでサッカー部のエースだ。
魔女三人組はこうすけファンのはずなんだけど、なずなとくららはさっきからカズマのほうをちらちら気にしている。ただ、とちえだけはゆうべよっぽどこわい思いをしたのか、ときおりしゃくりあげるようにしてなずなにくっついていた。
「先生の顔こわかった……青白くてメガネはゆがんでいて、口のまわりに血みたいなものがついてた」
おどろいたとちえは家族がいるリビングへかけこんだ。で、両親といっしょにこわごわ自分の部屋へもどって、おとうさんが窓を開けて外をたしかめたんだけど、なにもあやしいものは見つからなかったってことだ。
「窓の外にベランダとかないの? 先生はそこに立っていたとか」
こうすけは細いメガネフレームを指先でいじりながらきいた。なにか考えごとをしているときのこいつのくせなんだ。
「あたしの部屋にベランダなんかないよ。窓のまわりはかべだけ。しかも四階だし、だれも上がってこれるはずないのに」
カズマがフローリングに長い脚を投げ出し、言った。
「夢でも見てたんじゃねえのかよっ」
とちえはいやいやでもするように首を振った。
「夢じゃないよ。だって最初に窓ガラスをこつこつたたく音がしたもん」
ぼくはチョコ少女のことを思い出していた。あの事件のときはぼくの部屋の窓に異常現象が現れた。また、あんなことが起きるんだろうか。
「どう思う、こうすけ」
ぼくはきいた。ぼくらみんな床にすわっているけど、こうすけだけはつくえの前のイスに腰かけ、パソコンの画面をながめている。ぼくらは全員であきよ先生のブログを見たばかりだった。
「西小ではまだ変わったことは起きてないけど、気になることはある。パッチのことなんだ」
パッチはこうすけの愛犬で二歳になるラブラドールだ。運動能力ばつぐんでかしこい犬なんだけど、〝ビーストさわぎ〟のときに怪物に立ち向かいけがをした。もちろんいまではすっかり元気になっている。
「近ごろ夜中によくほえるんだ。それもただのほえかたじゃなくて、天敵に立ち向かっているようなはげしいほえかたで」
あきよ先生のブログにも犬がよくほえるって書いてあった。いったいワンちゃんたちに何が起きているんだろう。
カズマがあくびまじりの口調でつぶやいた。
「犬がほえるのなんてふしぎじゃねえじゃん」
こうすけはひたいにかかるひとつまみの前髪をかきあげた。
「パッチはよくしつけてあるし、もともと盲導犬になるくらいの犬だから、たいした理由もなしにほえたりはしない。それがこの三週間くらい毎晩ほえまくるんだ。しかもパッチだけじゃない。近所の犬たちまでいっせいにほえ出す。で、ある晩、ぼくは外へ出てようすをたしかめてみたんだ。そしたら……」
いつの間にかぼくだけじゃなく、魔女たちやカズマまでがじっとこうすけの顔を見つめて話に聞き入っていた。
「夜空の向こうから聞こえたんだ。長くてするどい遠ぼえが。まるで野獣の王が勝ちほこったような声だった」
「どっかの犬だろ」と、カズマがつまらなさそうにつぶやいたけど、こうすけは首を振る。
「犬とはちがうと思う。飼い犬はあんなほえかたはしない。しかもその声が聞こえたとたん、パッチも近所の犬もおびえたみたいにピタッって鳴きやんでしまった」
こうすけはパソコンに向き直るとマウスを動かした。あきよ先生のブログからべつなサイトへ画面が変わった。
「これが気になるんだ」
ぼくらはこうすけの肩ごしに画面をのぞきこんだ。フリー百科事典のページだ。タイトルは……。
『吸血鬼』
「って、マジかよっ。なんでだよっ。アホじゃねえの」
カズマがおこったような声を出した。こいつはいつもそうなんだ。すぐ人につっかかってくるようなとこがある。ぼくもそれでよくむかつくことあるんだけど。でも、こうすけはクールに反応した。
「ゆくえふめいの先生のブログに書きこんであったこと。四階の窓に現れた先生。正体の知れない相手にほえる犬たち。で、なんとなくこれを思いついたんだ」
吸血鬼がこの町にいるってこと? それって結論が飛びすぎじゃないのか。この町にはこれまでふしぎなものがいろいろ現れた。だけど、チョコ少女やビーストや歯車男にはこの町に現れる理由みたいなものがちゃんとあった。首なし魔女や死神はある人たちにみちびかれてここへやってきた。でも、吸血鬼なんて……。いきなりぼくらの町に現れるはずないだろ。ここは日本なのに。
こうすけはクリックして検索画面にもどすと言った。
「まあ、ちらっと思いついただけ。吸血鬼がこの町に現れるわけないしね。首なし魔女みたいに外国から帰ってきた人にとりついてくればべつだけど」
ぼくは三人組と顔を見合わせていた。〝外国から帰ってきた人〟という言葉にそろって反応してしまったんだ。
「もしかして、太一くん、いま、リ―ナさまのこと考えた?」
なずなにきかれて、ぼくはあわてて首を横に振ってみせた。
「ぜんぜん! それにブログの中のBeちゃんってリ―ナのイニシャルとも合わねえし」
「リ―ナさまが吸血鬼かもしれないってことかなあ」
なずながつぶやくとくららが口をとがらせた。
「リ―ナさまが吸血鬼なわけないじゃん!」
三人組の中では、くららがいちばんのリ―ナファンらしい。
こうすけがきいた。
「リ―ナさまってどんな子なの?」
なずなとくららがしゃべり出す。うっせーのなんのって。マシンガンの弾みたいな勢いで言葉が飛び出してくる。とちえだけはさすがにきょうはおとなしい。カズマはたいくつそうにケータイを取り出し、キータッチを続けている。なにげにモバゲーでもやってるのかも。こうすけがまたメガネをいじくりはじめた。何か思いついたときのしるしだ。
「ビー、イー」と、こうすけはつぶやいて、にやりと笑った。いまの笑いはちょっとぶきみだ。
「リ―ナって子は美少女系だって言ったよね」
うん、うんとなずなたちがうなずいた。
「それでわかった気がする。ビューティ。Beautyの頭ふたつの文字を取ってB、eかな?」
なんだ、つまんねえ。もっとおもしろい暗号でも隠されているかと思ったのに。ぼくはあの子のぞっとするようなオーラを思い出していた。リ―ナとの約束はまだ、ここにいるだれにもしゃべってない。
「リ―ナはどこの国から来たの?」
こうすけの問いにくららが答えた。
「たしか、ぶた……ぶた、ベストとか」
こうすけは大きくうなずいた。
「ああ、ブダペスト。ハンガリーの首都だね」
マウスを動かしクリックをくりかえすと、画面にヨーロッパの地図が表れた。
「ハンガリーのすぐとなりはルーマニアか。ドラキュラのふるさとだね」
吸血鬼ドラキュラ! やっぱ、こうすけはめちゃ吸血鬼にこだわってるじゃないか。
とちえがこわごわした口調できいた。
「ドラキュラってほんとにいたの?」
こうすけは首をかしげた。
「十九世紀アイルランドの作家でブラム・ストーカーっていう人が考え出したキャラだよ。モデルになった人物はいたらしいけど。いまのルーマニア国内に領地があったブラド・ツェペシュという貴族がそうらしい。じっさいのブラドは敵から国を守った英雄らしいけど」
あいかわらずいろんなことをよく知ってるよな、こうすけは。
「ブラドはとらえた敵をくしざしなどざんこくな方法で処刑したんだ。それで人々からは悪魔だとおそれられたそうだ」
「くしざしって?」
ぼくがきくとこうすけはあっさり答えた。
「先のとがった長い棒で突きとおす」
いやだあ、と三人組が声を上げた。そのあとこうすけはむかしヨーロッパでおこなわれたざんこくな刑罰についてえんえんと説明を続けた。
火あぶりからはじまって、さかさはりつけ、車裂きの刑、生きたままの皮はぎ、巨大な鉄のあみに人を乗っけてその下で火をたく(って、バーベキューじゃないんだから……)、鉄の長い針がたくさんつきでたふたつきの箱にとじこめる……とかね。
こうすけが熱く語るにつれ、部屋の空気はどんどん寒くなっていった。
「こうすけくんって、そういう話へいきでできる人だったんだ……」
「こんな話聞いちゃったら、もうごはん食べられない!」
魔女たちがこうすけを見る目に軽べつがこめられた気がする。このあと、こうすけのおかあさんがシュークリームとクッキーに紅茶を出してくれて、三人組はそれをぜんぶきれいに食べて帰っていった。
「なんか、あいつらってうっせえし、うざったいよな」
カズマがつぶやいた。こうすけがぼくにきいてきた。
「静かになったところであらためてきくけど、そのリ―ナってほんとはどんな子なの? 先生のブログから考えると、その子が転校してきてからいろんなことが起こりはじめた気がするけど」
たしかに。となりのクラスでは男子が六人もいっせいに欠席している。からだの具合がわるいってことなんだけど、いまはインフルエンザがはやってるわけでもないのに。その六人というのは……あのいじめっこ五人組とシュウジなんだ。これってぐうぜんなのだろうか。
ぼくはなんだかあしたのことが不安になってきた。
「おれ、塾あっから、帰るよ」
カズマはそう言い残して先に帰っていった。あいつはお医者さんの息子だから、有名中学、有名高校へ行って、大学の医学部をめざすんだろう。うちのかあさんは勉強のことはあんまり言ってこない。それだけはぼくにとっていいことだ。こうすけも勉強はばつぐんにできるんだけど、塾へ行ってるって話は聞かないな。どうやって勉強しているんだろう。こうすけは頭いいだけじゃなくて、まじめで勇気があってたよりになるやつなんだ。
ぼくはふと、こうすけだけにはあしたリ―ナのうちへ行くことを打ち明けてもいいかなって思った。パソコンの画面をスクリーンセーバーにもどして振り返ったこうすけに、ぼくはあすのことを話した。こうすけはメガネの位置を細かくなおしながら聞いている。
そのとき。
……太一くん、わたしとの約束やぶったわね……。
えっ、うそ。いま、リ―ナの声がしたような。それはどこか遠くから聞こえてきた、というよりはほんとうに耳もとでささやかれたような声だった。ぼくは思わずまわりをきょろきょろ見まわした。もちろんリ―ナがいるはずない。たぶん空耳ってやつだよな。
こうすけはそんなぼくをふしぎそうに見ていたけど、こう言った。
「吸血鬼の話はぼくの想像だから、あまり気にしなくていいと思うけど……。そうだ、ちょっと待ってて」
こうすけはすぐもどってきた。
「あした、これ持ってくといいよ」
貸してくれたのは、コンパクトになった小さな鏡だった。
「おかあさんから借りてきた。なにか気になることあったら、鏡にその女の子をこっそり映してみればいい」
「どういうこと?」
こうすけは急に声をひそめた。
「吸血鬼は鏡に映らないって言い伝えがあるんだ」
ぼくは学校の廊下でのできごとを思い出した。どうしてあのときリ―ナは鏡に映らなかったんだろう。 ぼくの見まちがいだったのか。
そうであってほしいと願った。
地下室の顔
ぼくはうしろのシートでひざをそろえてちょっと緊張ぎみ。リ―ナのママが運転する外国製らしい車の中は広くてゆったりしている。かあさんの軽自動車とは大ちがい。だけど、ぼくは落ち着かない。ママのとなりにはリ―ナがいる。きょうはまっしろなブラウスに黒っぽいミニスカートでおとなっぽいファッション。マスクもつけてない。ママの背中にかかる髪はコーヒー色で先のほうだけちぢれたようなパーマがかかっている。これってぼくのかあさんがかけたパーマなのかな。
リ―ナのママは運転しながら声をかけてきた。
「うちの娘は友だち作るのにがてだから、太一くん、ぜひボーイフレンドになってあげてちょうだいね」
ボーイフレンド? そんな言葉聞いたこともないし、急に言われても返事できないや。
ぼくがだまっているとリ―ナが笑いながら言った。
「ママ、そんなこと言っても太一くんがこまっちゃうでしょ。太一くんとはこれからいいお友だちになっていくんだから」
リ―ナママは目がちょっとつりあがって最初はこわそうに見えたけど、しゃべると明るい人だった。
車は見おぼえのある坂道にさしかかった。道の両側には大きな家がたちならび、長いへいが続く静かな坂道。三年坂だ。ここでころぶと三年以内に死んじゃうという伝説がある坂道。じっさいにだれかが死んだっていう話は聞いたことないけど。古い家も多くてよくのびた庭の木がへいごしに枝を突き出し、坂道に細い影を落としている。とちゅうにある桜の木はもう葉っぱばかりになっていた。
白い家が見えた。ぼくらがこの町で出くわした最初のミステリーはあの白い家からはじまったんだ。〝チョコ少女の亡霊〟が現れるきっかけになった家。白い家はいまでも空き家になっているみたいで、かべもよごれて静まりかえって見えた。
「すてきな家。わたし、あの家に住んでみたいな」
リ―ナがつぶやくと、リ―ナママも白い家のほうをちらっと見て言った。
「ほんと。空き家なのかしら。こんどパパを連れて見に来ましょうか。いつまでもマンションぐらしじゃせまくて息がつまりそうだし」
坂道をのぼりきると、町を見はらせる高台の住宅街。きょうは天気もよくて町なみがよく見える。その高台にレンガ色の大きなマンションが建っている。最近できたばかりらしいんだけど変わった建物だ。ビルの片側だけをななめに切り取ったような形で、遠くから見ると巨大なサンドイッチを立てたようにも見える。
このあたりはぼくが二年生のころまでは野原が広がる丘で、学校の野外教室とかで来たことがある。春や夏にはさわやかな風がふきつけていい場所だった。だけどいまは新しい道路もでき、家がたちならんでイメージが変わっちゃった。また新しいマンションでもできるのか、三角マンションのとなりにもフェンスにかこまれた工事現場があった。
リ―ナたちの住まいはその三角マンションらしい。地下の駐車場で車をおりて、エントランスホールへ上がると、管理人室と書かれたドアから紺の制服姿のおじさんが出てきて、エレベーターに乗るぼくらを見送ってくれた。管理人さんがそこまでしてくれるのがなんだかふしぎだった。エレベーターがいちばん上の十二階へ着いてドアが開いたときおどろいた。さっきの管理人さんが廊下で出むかえてくれたんだ。
エレベーターはノンストップで上がってきたのに、どうやってそれより早くここまで上がってこられたんだろう? そんなに足の速い人なのかな。見たところ、小太りでふつうのおじさんなのに。おできでもできたのか首には大きなばんそうこうをはってある。
長い廊下をとちゅうでまがるとレリーフもようがついたりっぱなドアがあり、そこがリ―ナたちの住む部屋だった。
「いらっしゃい。お待ちしてました」
リ―ナのパパは背が高い。ぼくが知ってる中で大きい人っていえば、松本刑事だけど、リ―ナパパのほうがもっと大きい。190センチくらいはありそう。大きなエリの黒いシャツ姿で髪は白髪が多いのか銀色にかがやいている。うちの中なのになぜか濃い色のサングラスをかけていた。
「パパはお仕事のしすぎで目を痛めちゃったの」
リ―ナが言いわけみたいにそう言った。
ダイニングの大きなテーブルには四人分のナイフやフォーク、グラスが用意してある。パパはリ―ナのためにイスを引いていた。そんなことをするおとうさんってはじめて見た。ぼくの席はリ―ナのすぐとなり。リ―ナママはお昼のしたくをしているのかキッチンへ引っこんだきり姿を見せなくなった。
「太一くんは魔王に出会ったことがあるんだって?」
パパの声はバイオリンの音色のようによくひびく声だった。だけど、また魔王の話? リ―ナの家族ってそういう話がすきなのかな。ぼくはあの事件のことはあまり思い出したくないんだ。とてもあぶない目にあったし、せっかくぼくらのとこへもどってきてくれたとうさんとも二度目のおわかれをすることになっちゃたから……。
リ―ナパパはぼくの気持を感じ取ったのか、話題を変え、自分の仕事のことを話し出した。フリーのキュレーターをしているとパパは言った。
なんだろう、キュレーターって?
「キュレーターというのは美術品の展示を企画したり、鑑定や研究、あと美術館の運営にたずさわる仕事なんだ。言ってみれば、芸術と世間との橋わたしのような役目かな」
パパはグラスの赤いワインを飲みながらそうおしえてくれた。
「ずっと外国にいたんですか」
ぼくはグラスのミネラルウォーターを飲みながらきいた。べつに興味あったわけじゃないけど、だまりこんでいるのもいけなと思ってそうしたんだ。
「リ―ナが生まれる前からずっと。おもに東ヨーロッパのほうにいた」
リ―ナが口をはさんだ。
「パパはキリスト教美術の研究をしていたの」
ぼくにとっては、ふーん、って感じの話。ちょっとだけおなかがすいてきた。リ―ナママが料理を運んできた。小さめのスープ皿に赤茶色のビーフシチューに似た料理が入っている。
「ビーフとお野菜のスープよ。太一くんが気に入ってくれるといいんだけど」
小さな声で、いただきます、を言ってから、スプーンでひとさじ口へ運んでみた。ハーブみたいな香りが口いっぱいに広がって、なんだかビミョーなあじ。だけど、ぼくは一応、おいしいです、とだけつぶやいた。
「魔王を見たときのこと、聞かせてくれないかな」
またパパにきかれて、しかたなく、ぼくはぽつりぽつりと首なし魔女事件のことをしゃべりはじめた。ぼくが見たサタンのイメージを伝えると、リ―ナパパはうなるような声でつぶやいた。
「すばらしい」
ワインをひとくち飲んで、感動した口調で言う。
「いやあ、この町へ来てほんとによかった。もともと日本での暮らしにここを選んだのは、町の名前に興味を持ってね。それでいろいろ言の葉町について調べてみて、さまざまなふしぎがここで起きたと知ったんだよ。どうせ住むならこういう町のほうが楽しいからね」
そんな理由で住む場所を決めるなんてなんか変。リ―ナママはこんどは大きめのお皿を持ってきた。肉のかたまりの上に赤いソースがかかっていて、ポテトといんげんまめがそえてある。
「チキンのパプリカ煮こみ。前に暮らしてした国ではいちばんポピュラーなお料理なの」
ほかにママ手づくりだというパンとサラダが出た。ぼくはフォークとナイフを緊張しつつ動かして食べ物を口へ運んだ。ふだんぼくが食べてるものとはまったくちがうあじつけなので、あんまりおいしく感じられない。黒っぽいパンはちょっと塩からかった。
食べながらきみょうなことに気がついた。リ―ナはときどき水のグラスを口もとへ運んでいる。パパはワイングラス片手にぼくやリ―ナにいろいろ話しかけてくる。リ―ナママがそれにあいづちを打つ。みんなの前には料理の皿がある。
だけど、じっさいに食べているのはぼくひとり? リ―ナもパパもママもときおりナイフやフォークを動かしているけど、けっして食べ物を口へ運ぼうとはしないんだ。食べているふりだけしているみたい。
ぼくはチキンのひときれをごくっとのみこんでから、リ―ナにそっときいてみた。
「食べないの?」
リ―ナは肩をすくめるようにくすっと笑った。
「ごめんなさい。ママのお料理はもう食べあきちゃったの」
リ―ナママはテーブルの向こうからにらむまねをした。
「ひどいわね。罰としてあなただけデザートなしよ。きょうはチョコレートソースをかけたクレープなのに」
「あー、さっきのはうそうそ。ママのクレープって最高!」
リ―ナパパがハハハッと笑う。ママもにこにこ。なごやかなムード。だけどなんか変。ぼくはめちゃくちゃいごこちわるい。三人とも決められたセリフをしゃべって家族の役を演じているみたい。ドラマの中にまぎれこんでぼくだけ台本をわたされてない、って感じかな。
早く帰りたくなってきた。もしかしてパパもママもぼくのことあまり気に入っていなくてそれでしらけてるのかも。ごはんがおわったらなにか理由をつけてすぐ帰ろうと思った。帰りは送ってもらわなくても、三年坂の下からバスに乗ればいいし。
とつぜんリ―ナの指がぼくの手にふれた。
「太一くん、すぐ帰りたいなんて言わないでね」
心の中をのぞかれた気がしてドキッとした。そういえば、きのうこうすけの部屋でリーナの声が聞こえたのはいったいなんだったんだろう……? もしかしてリ―ナはぼくが約束をやぶったことを知ってるとか? ありえない。だけど、なんだかそんな気がしてくる。
ぼくは気持ちを落ちつけようと水のグラスに手をのばした。そのとき指がすべってグラスを倒してしまった。倒れたグラスはテーブルクロスに水をまきちらしながらコロコロッところがり、床へ落ちた。
ぼくってドジ!
グラスはくだけてきらきらと破片が飛びちった。
「あっ、ごめんなさい!」
やばっ! これでほんとにみんなからきらわれちゃうかも。ぼくはあわてて床に手をのばしてガラスのかけらをひろい集めようとした。そのときひとさし指の先にチクッと痛みが走った。
「あっ、痛っ」
二度目のドジ! 指先から血が出ている。
「だいじょうぶ?」
だれより早くリ―ナママが席をはなれてぼくの手を取った。
「いらっしゃい。すぐ手当してあげるわ」
最低カッコわるっ! と、いきなり、リ―ナがまるでぼくの手を横取りするかのようにママの手をらんぼうにはらいのけたんだ。
「ママ、だめよ。太一くんはわたしのゲストなんだから、手当はわたしがするの」
強い口調だった。ぼくの目の前でリ―ナとママの視線がぶつかり合う。リ―ナの目は大きく見開かれ、ママの目もつりあがって、ふたりはマジで対決しているみたいだった。
「リ―ナにまかせておきなさい」
パパの声がして、ママはくやしそうに顔をしかめるとぼくのそばをはなれた。
「来て、太一くん」
リ―ナはぼくの手を引いてダイニングを出た。廊下の奥がリ―ナの部屋だった。入った瞬間おどろいた。部屋じゅうがバラだらけだったんだ。もちろんほんもののバラではなくて、天井、かべのクロス、窓べにさがるカーテン、すべてが赤いバラもようで統一されているんだ。部屋じゅうがまっかに見えて目がくらくらしそう。
ぼくは言われるままベッドのはしに腰をおろした。ベッドカバーやまくらまでバラもよう。よっぽどバラがすきなんだな。リ―ナは傷ついたぼくの指をしぼるようにつまんだ。
「傷口からバイキンが入らないようにしなくちゃ。ちょっとがまんしてね」
いてててててっ。
いきなりリ―ナのくちびるが指先にふれた。な、なんなんだ、と、思うひまもなく、傷からあふれた血はリ―ナのくちびるに吸い取られていた。このときぼくの中を電気のようなショウゲキがかけぬけた。思わず、〝ビーストさわぎ〟のとき傷の手当をしてくれたアイナっていう女の子のことを思い出した。アイナはあの事件のあと遠くへ行ってしまった。いまごろ、どうしているだろう。プラットホームでおわかれしたときのことを思い出すと胸がキュンッとなってくる。
リ―ナがいきなり問いかけてきた。
「太一くん、いま、ほかの女の子のこと、考えたでしょ」
えっ、なんでわかるの? ぼくの顔は赤くなっていたかも。
リ―ナはぼくをからかうようににやっと笑い、取り出したハンカチを歯でかみ裂いて傷にまいてくれた。ハンカチにはやっぱバラがプリントされている。だけど、わざわざハンカチを裂いてほうたい代わりにするなんて変な手当のしかただな。
「バンドエイドとかないの?」
ぼくがきくと、リ―ナはなぜか表情をくもらせた。
「うちにはないの。わたしたちそういうもの必要ないから」
リ―ナの家族って小さなケガとかすることないんだろうか。
リ―ナは話を変えようとするかのようにほがらかに言った。
「この部屋ってきれいでしょ。パパが業者の人に言いつけてぜんぶもようがえしてもらったの」
リ―ナはかべにかかる油絵を指さした。
「あの絵すてきでしょ。パパがわたしのために自分でえがいてくれたの。とってもめずらしい絵なのよ」
花びんに活けたバラの絵だった。なぜか花は赤っていうよりも黒っぽい色でえがかれている。だけど、べつに花の絵なんてめずらしくもないのに。
「この絵はね」と、リーナはうっとりしたまなざしで絵を見つめて言った。
「人の血でえがかれているの」
なんだって? ぼくは背のびするようにしてもう一度バラの絵を見た。絵具がこんもりもりあがるほどごてごてとえがかれたバラの花。バラはまるでくらやみで笑う魔女のように見えた。
まさか、この絵ってほんとに人の血で?
リ―ナはいたずらっ子の目つきになってぼくを見た。
「うそ。ただのジョーク」
「なーんだ」
「ちょっとおどろかしてみたかっただけ。太一くんってこわいものすきなんでしょ?」
べつにすきなわけじゃない。ただ、これまでいくつかのこわいできごとにまきこまれてきただけ。
リ―ナはふいにぼくの手を取った。
「太一くんにいいもの見せてあげる。こわいものずきの太一くんならきっと気に入ってくれると思うわ」
リ―ナの手はとてもつめたかった。まるでマネキン人形の手にふれているみたいに。部屋を出るとリ―ナママがまるでぼくらを見はっていたかのように立ちつくしていた。
「どこへ行くつもり?」
リ―ナとママがふたたびにらみあった。ママはなんだかいらだっているみたい。もしかしてこのふたりってなかがわるいんだろうか。
「しんぱいしないで、ママ。お城の外へは出ないから」
お城だって? このマンションのことか。自分がおとぎばなしのヒロインになったつもりでいるのかな。ふしぎな女の子だ。
エレベーターに乗った。ぼくはただついていくしかない。ふたりきりのエレベーターの中でリ―ナがとびらのほうを見つめたまま言った。
「さっきの絵の話。あれってほんとにジョークだと思う?」
リ―ナの口調はやけにマジだった。なにを言いたいのだろう。まさか……。
「あの絵はパパがね、わたしをよろこばせるために人からしぼり取った血を絵具がわりにしてえがいてくれたの。血ってかわくと色が黒くなっちゃうのね。だけど、わたし、黒いバラもすき」
いったいリーナはなにをしゃべっているんだ。ぼくを弱虫だと思ってからかっているのか。ちょっと腹が立ってきた。一階に到着した。おどろいたのはとびらが開くとまた同じ管理人さんが出むかえてくれたことだ。
「地下へ行きたいの。かぎを開けてちょうだい」
リ―ナは命令する口調で言った。管理人のおじさんはいやな顔もせず、ホルダーからキーを取ると、ロビーの奥にある鉄とびらのかぎを開いた。とびらには〈危険。関係者以外立ち入り禁止〉という表示がある。リ―ナはこのとびらの向こうへ行くつもりなのか。いったいなにをぼくに見せようっていうんだ。
ぼくはゴクッとつばをのみこんでからきいた。
「きけんって書いてあるけど、入ってもいいの?」
リ―ナの瞳がぼくを見た。ふしぎな色の瞳はひとまわり大きくなったように見える。
「太一くん、こわいの?」
ぼくの中ではリ―ナにばかにされたくないっていう思いとこわいって思いがぶつかり合っている。だけど、ここで弱いところを見せたくはない。
「ぜんぜん」
リ―ナは勝ちほこったような笑みを浮かべて入口をくぐった。ぼくもついていくしかない。中はまっくらだ。リ―ナがかべに手をふれると明りがついた。鉄のはしご段がついている。そこを何段かおりた先はコンクリートでぬりかためられたせまい部屋だった。正面にメーターやスイッチのたくさんついた大きな箱型の機械があって、天井にはパイプがむきだしのまま走っている。地下室の空気はひんやりしていた。
「ここはボイラー室なの。ここでお湯をわかしてマンション全体に供給しているんですって」
うしろでとびらの閉まる気配がして、続いてガチャリとかぎのかかる音がひびいた。ぼくはあわててうしろを振り向いた。とびらはもうつめたく閉ざされている。
なんでだ? なんでかぎをしめちゃったんだ。リ―ナとぼくをここへ閉じこめるつもりなのか。ぼくは不安を感じながらあたりを見まわした。ボイラーの機械のわきに古びたスチールづくえがあってその上にビニールシートをかけた箱のようなものがデンッと置いてある。床のすみには生ごみを入れるような特大のふたつきポリバケツがある。それがここにあるもののすべてだ。リ―ナがわざわざぼくに見せてくれるようなものは見当たらないんだけど。
「太一くん」
リ―ナの手がぼくにふれた。あいかわらずつめたい手だ。
「わたしとの約束やぶったでしょ」
ぼくの心臓がト、ト、トンと鳴った。やっぱ、あのときのリ―ナの声って空耳じゃなかったのかも……。それでもぼくは首を横に振った。
「やぶってないよ」
「うそ。きょうここへ来ること、お友だちにしゃべったでしょ。わたし、知ってるのよ」
だめだ、リ―ナはぼくのことぜんぶわかってる。だけど、なんでだ、なんで見てもいないことがわかるんだ? リ―ナは超能力の持ち主なのだろうか。もう、これ以上うそをついてもむだかも。
ぼくはあきらめて、すなおにあやまった。
「ごめん」
リ―ナがおこりだすかと思ったけど、むしろ悲しそうな目をして、ためいきまじりの声を出した。
「わたし、太一くんのこと、これからどんどんすきになれるかと思ったのに、悲しいな。パパもママもあなたのことすごく気に入ってくれてるのよ」
ぼくはリ―ナの両親のきみょうな態度を思い出していた。あれでぼくのこと気に入ってくれたって言えるのだろうか。
「パパはね、魔王さまの姿をじっさいに見たなんてすごい男の子だって、とっても感心していたの」
リ―ナの顔が近づいてくる。
「わたし、太一くんにおしおきしなくちゃ。約束をやぶった罰よ。それがすめばまた太一くんのことすきになってあげる」
リ―ナはクスッと笑った。
「わたしのクラスの男の子たち、ずっと欠席してるの知ってるでしょ」
ぼくはうなずいた。あれはやっぱリ―ナのしわざだったのか。
「あの子たち、きっといまでもベッドの中でふるえているわ。わたしをおこらせた罰なの。わたしをおこらせた人はゆるさない。だから太一くんにもおしおきしてあげなくちゃ」
「ど、どうするつもりなの」
かっこわるいけど、ぼくの声は少しふるえていた。
「見ればいいの」
「な、なにを?」
「だれにも見せたことのないわたしのたいせつなもの。それを見てくれる?」
リ―ナはいきなりつくえの上のシートをはねのけた。現れたのはガラスの大きな箱だった。熱帯魚なんかを飼うときの水槽だ。中は灰色ににごった水で満たされている。
「さあ、太一くん、もっと近くでよく見て」
ぼくはガラスに顔を近づけた。水中になにかいるんだろうか。熱帯魚? でも、こんなきたない水でさかなが飼えるとは思えない。目をこらしてもなにも見えてこない。
リ―ナはつくえのひきだしからペンライトを取り出した。
「これで照らしてみて」
ぼくは受け取ったライトでガラスごしに光を当てた。灰色の水がもやもやとけむりのように動くのがわかる。なにかが中にいる……。ぼくはチラッとリ―ナのほうを見た。リ―ナは水槽を見てはいなかった。ぼくを見ているんだ。ぼくをこわがらせて楽しんでいるんだ。その人形みたいな顔がだんだんおそろしいものに思えてくる。
それでもぼくの中に負けん気がわいてくる。こんな女の子なんかにビビッてたまるもんか。この中になにがひそんでいようと正体を見とどけてやる!
ぼくをこわがらせるようなものだって? ピラニア? ワニの子ども? 小さなサメ? ぶきみな深海魚?(これはありえないか)
ぼくはペンライトで照らしながらガラスをコンコンたたいてみた。
「うわあっ!」
水中に一瞬だけ姿を現したものを見て、ぼくは思わず声を上げてしまった。リ―ナがうれしそうにクスクス笑う声がした。
な、なんなんだ、いまのは。ぼくが見たものはピラニアでもワニでもサメでもなかった。それは人間の顔だったんだ。しかもふたつの顔。
ぼくはあとずさって首をかしげた。大きな水槽、とは言っても人間が中にもぐっているには小さすぎる。しかも見えた顔はふたつ。それにどうやって長い時間水中にもぐっていられるんだろう。
答えを求めてリ―ナを振り返った。リ―ナは細い腰に両手をあてポーズをつけると、ぼくを見つめて笑っている。
ぼくはしだいに冷静になっていった。いまのは人間の顔じゃない。きっと大きなカエルとかサンショウウオとかの生き物だろう。人間に見えたのはまちがいだ。むりにそう考えて安心しようとするぼくがいた。だけど……さっきの顔には目、鼻、口のほかにまゆげや耳や髪の毛まであったような気がする……。
リ―ナはつくえのひきだしからこんどはプラスチックの小さなボトルを取り出した。
「いま、もっとよく見えるようにしてあげるわ」
リ―ナはボトルのキャップをはずし、中からクスリのような錠剤をぱらぱらと水中へまきちらした。
「そ、それってなに?」
リ―ナはうす笑いを浮かべた。
「塩素。プールの消毒とかに使うあれ。見ててごらんなさい」
塩素の錠剤は水の底へしずみ、とけていく。なにがこれから起きるんだ?
ぼくは息をとめるようにして水の中のようすを見守った。
かなり長いストーリーになりそうです。完結まで全六回を予定しております。第二回目以降はグロテスクなシーンが若干ふえるかと思いますので、くれぐれもデリケートなかたはご注意ください。また、年少者のかたは保護者の了承のもとでお読みになることをおすすめいたします。