診察室のゴッドファーザー
白と緑を基調とした、一見どこにでもある平凡な小児科の診察室。しかし今、この空間はハリウッドのクライム・サスペンス映画さながらの緊迫感に包まれていた。
「……さて、タカシ君。熱も高いし、インフルエンザの検査も陽性だ。お熱を下げるために、お注射を一本打とうね」
ベテラン医師の川田美智枝は、おもむろに銀色のトレイから一本の注射器を取り出した。
その瞬間、丸椅子に座っていた小学三年生のタカシの目が恐怖に染まる。タカシはガタガタと震えながら椅子から転げ落ち、診察室の壁際まで後ずさりした。
「お……俺が悪かった……。あぁ……ほんと……すまなかったよ……」
「え? いや、タカシ君? 急にどうしたの?」
川田医師が注射器を右手に持ったまま一歩近づくと、タカシは両手を前に突き出し、必死の形相で首を横に振った。
「ほ……ほんとだ! お……俺が悪かった! 謝るよ! ……この通りだ……許してくれ……。い……いや! ちょっと待って! はやまらないでくれ!!!」
「いや、はやまるって何が。ただの解熱剤だからね?」
「おいおい……勘弁してくれよ……俺だってよ……お……俺みたいなヤツだって家族があるんだぜ?! なぁ……。あんたにも子供がいるんだろ!?」
タカシは涙目で川田医師を睨みつけ、まるで人質を盾に取られたギャングのボスのようにつばを飛ばした。隣でパイプ椅子に座っていたタカシの母親は、恥ずかしさのあまり顔を覆っている。
「こんな事……。子供が見たら悲しむぜ? 俺をやった後、家に帰って子供を抱くってのか?! その手で?! そんな汚い手で!!!?」
「めちゃくちゃ消毒した綺麗な手だけどね! 外科医ばりに洗ったよ!」
「そんな糞ファッキン野郎じゃねぇだろ?! おめぇさんはよ?! なぁ……わかるだろ? 子供の為だと思ってよ……!? その手に持ってるクソ危ねぇモノは置けよ!? な?!」
小学三年生とは思えない語彙力でまくしたてるタカシ。川田医師は、手の中の「クソ危ねぇモノ(2mlの注射器)」を見つめ、ふぅとため息をついた。
「タカシ君、これは君の体を治すための――」
「そ……それによ……。こうなっちまったのはオレのせいじゃねぇんだ! ヤツらが……!? あのチンピラ野郎がどっからともなく……突然……突然やってきたんだ…… まるでゴーストみてぇによ……!?」
「まあ、インフルエンザウイルスは目に見えないからね。ゴーストみたいなもんだね」
「ん!? 疑ってんのか? ホントだよ! 俺はインチキ霊媒師じゃねぇし、変な壺を売るような嘘つき野郎じゃねぇ! そんな牛の小便みてぇなケチな男じゃねぇよ!」
「そこまで言ってないよ! 誰も君の職業(小学生)を疑ってないから!」
川田医師のツッコミなど耳に入らない様子で、タカシは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、壁に背中をこすりつけた。
「それによ、あんたに言われた事はやったんだぜ! 本当さ! 嘘はついてねぇ! 俺は掛け算もろくに出来ねぇ馬鹿だけどよ! 約束は守る! 誓うよ!!! 神にでも仏にでも、犬のクソにでもよ!」
「誓いの対象のクセが強いな! あと九九は頑張って覚えようね、もう三学期だよ?」
「手洗い、うがいだってしたし、なるべく早く寝た! 寝るときは布団をかけて暖かくしたんだ! 学校にいる時だってマスクつけてたし、ゴホゴホいってるヨシオには近づかなかった! 給食だって一杯食べた! 俺は悪くねぇ!」
タカシはついに決壊したように大号泣を始めた。
「ただいまの後は毎日うがいだってしてたんだぜ!? ガラガラチンチンってよ!あのカバ野郎みてぇに! だから許してぇぇぇ! お注射怖いよぉぉぉぉー! 母ちゃゃゃゃゃぁーん!!」
ガラガラガラ、と盛大に泣き崩れ、母親のスカートの裾にすがりつくタカシ。診察室に、一瞬の静寂が訪れた。
川田医師は静かに注射器をトレイに戻し、眼鏡をクイと上げた。
「……うん。よく頑張って予防してたのは分かったよ。じゃあ、お注射はやめて、イチゴ味の粉薬にしておこうか」
その言葉を聞いた瞬間、タカシはピタッと泣き止み、涙で濡れた顔にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……フッ、最初からそう言いやがれってんだ、ヤブ医者め」
「おい、そこのクソガキ。やっぱり今から色んな意味で痛い目見せるか?」
結局、タカシは母親にこっぴどく叱られながら、大人しく粉薬を処方されて帰っていった。




