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透明の姫と強欲の王子〜逃亡計画その二百三十八〜

作者: 田山 白
掲載日:2026/07/05


久々に出された離宮、慌ただしく身なりを整えて私が謁見の場に駆け付けた時には、既に物々しい空気だった。息を吸うのもひりつくような重々しさ。

招かれた席で決して委縮することなく、むしろ不遜にも見える笑顔を浮かべ――レグナード王国第二王子は笑う。我が国とは比べようもないほどの大国から来た王子は、その齢にして、この場を掌握している。その王子は、尻込みするように足を止まらせた私に気づき、うっそりと笑った。


「ほら、やはりいるではありませんか。アルヴェリア王国の秘宝は。――リュシエンヌ第一王女」


言いながら王子は立ち上がり、私の方へ大股で近寄ってくる。

固まったままの私の正面に立った王子は、私の頤を指先で持ち上げた。愉快そうな瞳の中に、唖然とした顔の私が映る。


「我が国は強欲の国と揶揄されるほどの国。隠された秘宝と言われれば、是が非でも欲しい」


きっぱりとした物言いは、こちらに同意を求めるものではない。

大国らしい傲慢さと、奪う強さを持ったものだった。こくん、と一度私の喉が上下する。王子の深い碧の瞳に、飲み込まれそうになる。


「……カイウス第二王子殿下。そのように我が娘を見初めていただけるのは光栄なことではありますが、些か急というもの……」

「なぜ? 聞いたところ王女には未だ決まった婚約者がいないのでしょう? 年齢的にも立場的にも、むしろ婚約を通り越して結婚でもいいくらいだ。我が国との懸け橋ともなれます」


王子の言葉には飾りもなければ淀みもない。いっそ直線的過ぎて無礼ともとれる物言いだが、だからこそ否定の言葉が思い浮かばないのだろう。父王は一度重く息をつく。

その傍に控えていた兄王子たちは、場の空気に呑まれそうになりながらも、なんとか口を開く。


「……それでも、大切な妹なのです。不幸な結婚は送ってほしくない」

「不幸? ずいぶんな物言いだ。最低でも私はリュシエンヌ王女を愛する覚悟はありますよ」


王子の目は、私から離れない。

捕らえるか如く、私を見据えている。けれど、その視線の強さとは逆に、触れていた手は離された。彼は私に跪き、私の手をそっと取る。その手だけは、驚くほどに優しい触れ合いだった。


「――リュシエンヌ王女も、私と結婚することは不幸だとでも?」

「……私、は……、とても……名誉で、得難いご縁だと思います」


言って、目をしっかりと合わせる。

それに、王子が笑う。控えていた側近たちがどよめき、何人かがばたばたと出ていく。元より大国から婚姻を望まれたのだ、拒否権などはないに等しい。というより、今までは繋がりも薄かったレグナード王国と、強固な繋がりが得られるのだ。これほど旨味のある婚約、国としては喜ばしいことだ。大国の気が変わらないうちにと、火急に整えられるだろう。

焦るのは私の身を案じる父王や、兄王子たちのみ。


「リュシー! お前が我慢することなど……!」

「……お兄様。私の身を案じてのことと存じますが、カイウス第二王子殿下の御前でそれ以上の御言葉、控えるべきです。私は、王女として婚約が整えられれば、喜ばしいこととしっかりと認識しております」

「遠いレグナード王国になど、お前の味方がいないではないか!」


王太子である長兄が、悲鳴のように私を庇おうとするのに顔が強張る。今のところは、カイウス王子が面白がるように発言を許してくださっているが、レグナード王国にもカイウス王子にも不敬に当たる物言いだ。

私の身を案じてくれているのは分かる。私は愛されているから。しかしこれ以上は――そう思って、再度口を開こうとした時だった。


「いいではありませんか。王家として、これ以上にない良縁かと思います」

「っオスカー!?」

「……元より、リュシーは王族としては公務もほとんど行わない穀潰しという評価を受けることも少なくない。その不肖な妹が、このような名誉な婚約を打診いただけるとは」


一つ上の兄王子――オスカーお兄様の、嘲るような目が私に向く。

その横で、彼の片割れの双子であるエドガーお兄様が驚愕の表情をオスカーお兄様に向けていた。そんなことをオスカーお兄様が言うなんて信じられないと、絶句しているのだ。

年が一番近いこともあり、いつも優しかったオスカーお兄様。初めて向けられる冷たい視線に、体が一度震えた。

目があった瞬間、オスカーお兄様は少しだけ、目を伏せた。けれど、次に顔を上げたときにはもう、彼は凛々しい顔に戻っている。


「リュシーは、それでいいのだよね?」

「……はい」


しかし、その冷たい視線で再度問われても私は答えを変えるつもりはなかった。

謁見の場に重い沈黙が落ちる。

オスカーお兄様の満足したような為政者の顔、絶句する父王とその他の兄王子たち。そして、どこか気まずげにしながらも安堵した空気の側近たち。

背筋を一度伸ばすと、繋がれたままだった手を、カイウス王子が強く握り直すのを感じた。


◇◆


――鳥籠の離宮。透明の姫。


そんなふうに囁かれていることを、私は知っている。

リュシエンヌ第一王女。

国王夫妻の間に生まれた子息子女六人の中で、唯一の王女。王子たちばかりに恵まれた中での王女の誕生は、当時はずいぶんな慶事として喜ばれたらしい。


だからこそ、この鳥籠が作られた。


「こんな夜なのに、鳥が……飛んでる」


窓辺の縁に手を掛けて漏らした小さな独り言は、誰に掬われることもなく落ちていく。

父や兄たちの私に対しての寵愛は、国中が知るところである。それゆえに急所として狙われやすく、誘拐騒ぎや暗殺未遂は両手の数だけでは足りない。故に私は、いつの日か王宮の奥深くに位置する離宮から出ることを禁じられた。それが私の身の安全のためだから、と。

ここに来るのは、父や兄。そして限られた使用人だけ。最近では交渉してようやく教育係やマナー講師をつけられたけれど、それも頻度は少ない。


公務に出ることなど滅多になく、今日のような王宮主催の夜会への参加など以ての外だ。

父曰く、他国を招いたパーティーなど、一番警備の隙を突かれるのだからと。


王宮のダンスホールから漏れる明かりや喧噪など、この隠された離宮には届かない。それでも、何かを探すように窓の外を眺めてしまう。けれどどれだけ目を凝らしても、どれほど耳を澄ませても、飛び立つ鳥の姿や木々のざわめきしか、私の世界には入らない。

ふっと息をつき、窓辺から体を離し、カーテンを閉めた。今日は余計なことに考えを巡らしそうになる、嫌なざわめきがある夜だ。お気に入りの本でも読んで、もう寝転んでしまおうと思った時だった。――窓を叩く音がしたのは。

こん、こん。

風かしら。そう思っても、何か気になって離れようとした体を翻す。

そうすると、私の行動を喜ぶようにもう一度、こん、と窓から音が鳴る。

護衛なら扉を叩く。侍女なら扉の外から声を掛ける。

そもそも、今は夜会で皆が慌ただしくしており、私の方には人はあまり割けていないはず。

それでも窓からは音がする。何か、――リスでも来たのかしら。

首を傾げながらカーテンを開けば、窓枠に黒い人影が腰掛けていた。


「こんばんは」

「きゃあっ!?」

「……ちょっと、静かにしてくれよ」


思わず悲鳴を上げた私は、態度として絶対間違っていなかったのに、そんな私に男は困ったように笑う。口元に指を宛てて、シィ、と子供を窘めるみたいに私を見つめる。

腰を抜かした私の方へ、身軽に近寄ってきて同じ視線になるように屈む。

そうして、交わった視線。

男は一度だけ、こくんと喉を上下させた。心底驚いたというように私をじろじろと見た。


「……隠された離宮なんて、いかにもだとは思っていたが、いやはや、これは確かに……」


男はどこか呆然としたように私を見る。

私を害する空気は今のところは、ない。それで徐々に私の強張りも抜けていき、男を冷静に見ることができた。


元より照明を絞っていた薄暗い室内、月明かりに照らされた姿は、黒い外套に革の手袋。腰には短剣。


「野盗……?」

「傷付くなぁ」


私の小さな呟きをしっかりと拾った男は苦笑いしながら――推定野盗は部屋をゆっくりと見回した。


本棚。

机。

積み上げられた本。

壁一面の地図。

机の上に開かれたノート。


私の小さな、閉じられた世界。

彼は立ち上がり、勝手に部屋を散策し始め、入ってきて、机の上に開きっぱなしにされたノートを手に取った。


「読むぞ」


返事も聞かず、野盗はそれが当然と言うようにぱらりと捲っていく。

一枚。

また一枚。

捲るたびに彼の眉が上がる。

そんな険しい顔をされるようなノートだったかしら? と首を傾げようとしてから、その背表紙を見て納得した。思わず駆け寄って野盗からノートを取り上げようと手を延ばす、が、私より頭二つ分くらい大きな彼が頭より上に掲げてしまえば届かない。


「返して」

「…………ちょっと待て」

「返して」


私の字で背表紙にはっきりと書かれた文字――逃亡指南書ノートへ手を伸ばすが、届かない。小さな子供のようにぴょこぴょことジャンプしてみるが、相手にもされない。

その間にも野盗はどんどんページを捲っていく。


「……女中に紛れて出ていく? メイド服はどうやって調達する気だ?」

「……そう、そこなのよ。私の前で彼女らがメイド服を余分に持ってきて、且つ一着を渡してくれる手引きが必要なの。だからボツ」


彼がいかにも奇妙そうな声を上げた疑問はもっともなので、私も神妙に頷く。逃亡指南書、まだ初期の項目だったと思う。

私も彼と同じ疑問に辿り着いたため、女中に紛れる案は却下となった。

その項目、赤ペンでバツがしてあるでしょう? と補足すれば彼が妙な顔をする。

彼がそのままソファに座り、抱えるようにノートを読み始めてしまったため、私も隣に腰掛けた。どうやら害する気持ちはなさそうだからだ。かといって、ノートを持ち出されても困るため、監視の意味も込めて。


「……ロープを窓から垂らして出ていく。……その細腕で?」

「貴方はできたじゃない」

「そりゃ俺にはできるが……出ていくとなりゃ、当然夜になるだろ? 夜にそんな訓練をした経験は?」

「ないわ」

「……赤ペンを貸せ」


言うので、貸してやれば彼が容赦なくバツをつける。

それは、まだ現実的な案だと思っていただけに私がじとりと目を向ければ、彼は私の腕をちらりと見てからバカにしたように鼻で笑う。む、失礼な野盗だ。

やっぱりノートを取り返そうかしら、とまた手を伸ばすも、返してもらえない。

文句があるなら読まなければいいのに。


「宝石商が来た時に荷馬車に紛れる……そんな俊敏に動けそうもないなぁ」

「失礼よ」


気の毒そうな顔をされながらも、また赤ペンが容赦なくバツを描く。


「庭師に紛れる……こんな綺麗な手をした庭師がいるもんか」

「……っ、でも、花の名前は詳しいわ」

「そもそもこの宮廷の庭師は男の職人が多そうだった。その綺麗な髪を帽子に引っ詰めるにしても、体躯で無理があるだろう。彼らは力仕事も多いから、がっしりした奴らが多い」

「あら……詳しいのね」

「これは試したことがある」


そう言って含みがある顔で笑う彼。

彼が庭師の案を却下した時、一瞬息が詰まったのは否定されたからではない。男性にあんなに気軽に触られる経験など皆無だったからだ。

一瞬、それで指先が震えたのがどうか気付かれてませんようにと思いながらも、彼がまた赤ペンを走らせるのを見守る。


彼はその後もしばらく私のノートを無遠慮に読んでは、読んだ全てのページに対してあーだこーだと文句をつけて、赤いバツを全部につけた。

失礼な野盗だ。

気がつけば、月が大分高いところに昇っている。そんな頃にようやく彼は立ち上がった。


「いやー、いい暇つぶしになった。あと二週間、また同じ頃にくるからその窓、鍵は開けておけよ」

「二週間……王宮の夜会の期間と同じね」

「お行儀良くダンスなんてガラじゃないんだよ」

「最近の野盗は王宮に招かれるのね」


彼が窓に手をかけた時には、そんな軽口を叩くくらいには打ち解けていた。

まあ、打ち解けたと言ってもお互い名前すら名乗っていないけれど。


彼は私の言葉に一つ笑って、そのまま振り返らずに窓から飛び降りた。あまりに鮮やかな身のこなし。確かにあれは、どこかの王宮で逃亡の一つでもできそうな様子だ。なんて、そんなことを窓辺から少し身を乗り出して見送りながら思う。真っ黒い姿はあっという間に世闇に溶けて、そして消えてしまった。


彼は言った通り、きっと明日も来るのだろう。退屈な王宮の夜会を抜け出して、この静かな離宮へと。

私もきっと、この妙に所作が綺麗で身なりのいい野盗を鍵を掛けずに待ってしまう。


この離宮は静かすぎて、私もずっと暇つぶしを探していたから。




――そして翌日の同じ頃。

やはり彼は、私の部屋にやってきた。昨日と同じく、窓から。


「感心感心。ちゃんと鍵は閉めてなかったな」

「忘れてたのよ」


そんなことを言い合いながら、彼はまた昨日と同じソファに座り、私はこっそりと用意していた茶を淹れ始める。

……実は、身内以外に淹れるのは授業以外では初めてだ。少しだけ、緊張しながらコポコポと注いだ紅茶を、彼に差し出す。この緊張が、気取られなければいいのだけれど。

彼はワクワクとした様子でノートを捲りながら、紅茶に口をつける。


「ええっと……昨日はここまでか。赤ペン寄越せ」

「……ケチをつける前提で読まないで欲しいんだけど」


そう言えば、彼はからから笑う。不躾で無遠慮なのに、なぜか憎めないような不思議な距離感だ。

どちらかといえば生真面目で、口数が多くはない性質がある我が国の国民性とは全然違ったものを感じる。

少し浅黒い肌、そして全てを吸い込むような真っ黒な髪、海を感じさせるような深い碧の目。全体的に色素の薄い我が国とは、そこもまた違う。

そんなことを思いながら、彼の横顔をなんとはなしに眺める。

紅茶は、私が思う限りは下手な出来ではなくて少し安心した。


「枯井戸から水路を辿って脱出……?」

「あ、それは却下済みよ」

「理由」

「水路はとても寒いと聞いたから」

「そこかぁ!!」


笑いを堪えきれず、彼は腹を抱える。


「お前、面白すぎるだろ!」

「真剣に考えたのよ。もう二百三十個も。ちなみにそれはちょうど五十個目」

「四十九回でもっと学習しろよ」

「してるわ」

「これでか?」


また吹き出す。

彼の手は赤ペンから離れないし、ページを捲る手にも澱みがない。

そうやって、その晩の離宮も、誰にも知られない笑い声が響いた。

彼は大体、昨日と同じ時間まで昨日とは違い、彼が最後に振り返った。


「紅茶、ごちそーさん。俺んところとは違う茶葉なのかな? うまかった」


そう言うものだから、少しだけ、ほっとした。





夜会開催から、五日目の昼。

その日は、エドガーお兄様とオスカーお兄様がやってきた。

エドガーお兄様はどっさりと私にお土産を持ってきて、オスカーお兄様はその数歩後ろを少しつまらなそうに控えている。

上のお兄様たちは皆私に甘く、優しい。とくに歳が近い、この双子のお兄様たちは顕著だったけど、ここ数年はオスカーお兄様だけは様子が違った。

私の離宮に来ても言葉は少なく、どこかいつも居心地悪そうにしている。それでも、エドガーお兄様と共に私の元に訪れることはやめないのだけど。


「離宮を封鎖していてごめんね。各国の来賓が来てるから、ちょっと警戒していてさ」


そう言って、エドガーお兄様が苦笑する。

どうしても夜会会場に割く人員が多くて、この離宮に配置する警備が手薄になっているのだ。

元から、この程度の人員で充実していると言えますよ、とは言わない。公務などほぼ何もしていないに等しい、お飾りの姫に過剰だとは言わない。


私が生まれた時――国中の人が私の誕生を祝ってくれた。けれど、その手放しの祝福は数ヶ月で幕を引く。私を産み落とした後に、母は産後の肥立ちが悪く、私の産後間も無くして儚くなってしまったのだ。

故に、私は記憶の中の母を持たない。私と瓜二つだという母の顔は、その肖像画でしか知らない。

それでも私はその不幸な出生の中でも家族に愛された。あるいは、むしろ、というべきかもしれない。父も、五人いる兄たちも私を母の分までとずいぶんと可愛がり、大切にしてくれたのだ。

だからこその、鳥籠。私を必要以上に守るための、優しい檻。


「お兄様たちが来てくれるので、大丈夫ですよ」


いつも通りの言葉を、いつも通りの笑顔で述べる。悲嘆も喜びも、何もかも滲ませない。私が王族として唯一身につけた術。

エドガーお兄様は私の返事に顔を綻ばせて、さまざまな話をしてくれる。私が知らない外国の話、夜会での話、国の情勢。

それらは全て、お兄様たちのフィルターを一度通して整えられたお綺麗な世界の話。安心で安全な、この離宮に持ち込める話。


手渡されたお菓子は、この城内で作られたもの。私は生まれてこの方、他国のお菓子など食べたこともなかった。

いつも通りの優しい味を、紅茶で飲み下していく。


「変わったことは、ないよね?」


最後に、席を立つついでにエドガーお兄様が念の為に聞く。

私は一瞬だけ手を握る。私の座る横の席は、最近では一つ分、いつも沈み込んでいる。その人は、潮の香りがする。私に遠い海を見せてくれるような人。

――香りだけでも、幻でも。


「何も」


少しだけ目を伏せながら、机の上に置きっぱなしになっていた赤ペンを弄る。

それでも笑うと、エドガーお兄様は安心したように笑い、今までずっと黙っていたオスカーお兄さまは僅かに目を見開いた、気がした。




「能ある鷹は爪を隠すとはよく言うが、鷹ごと隠してしまうとは随分な国だな」


彼による本日の採点という名の逃亡指南書の赤入れも無事終わる。彼がここに来てからもう一週間以上が経ち、彼は飽きることなく私のノートを捲っていた。私が書いた逃亡計画も二百三十七ある中の、もう百九十六は却下されてしまっていた。

もう残り少なくなったページを、彼も気づき、まるで惜しむように添削の数は日毎に少なくなっている。

けれど彼は少ない添削を終えても帰ることはなく、ここ最近は私とチェスやダーツといった違う暇つぶしに興じている。

兄王子たちとしかやらないゲームが、こんなふうに役に立つ日が来るなんて、夢にも思わなかった。


私は澱みなくチェスの駒を進めていく。彼が唸ったり、チェスを動かす手が迷う方が回数としては多い。

それでも、私の一手、そして顔色を慎重に読みながら彼とチェスを続けていく。


「お前がただお綺麗なだけのお人形の姫なら、俺もここまで通わなかった。だがお前は奇怪なノートを書く、ただの奇天烈な娘なのかと思えば受け答えは明朗で、隔離されてる割には情勢にも鋭く、空気が読める。端的に言えば、賢い」

「……その割に、ノートの内容はダメ出しばかりでしたけれど」


自嘲するように笑う。彼が顎に手を添えながら、もう片方の手で駒を進める。

きっと、そこに進めるだろうなと予測がついていた一手のために、私の手は止まらない。躊躇いのない一手に、彼は今度は頭を押さえた。だが、その顔は愉快そうに笑っている。


「……なあ、なんであのノートには協力者を想定して書かない? メイド服など、女中を味方につければ容易いことだ。なのに、お前はあの案には自らバツを書いていた」

「……ルール違反だと後から気づいただけですよ」


もし万が一女中と仲良くなって手引きされたとしても、私が本当に逃亡したとなったら女中は処分を受けてしまうだろう。

私の逃亡に、味方は作ってはいけない。それは私の中で決められたルールなのだ。


彼は笑う。

とても野盗には見えない品の良さ。知性。……当たり前だ、チェスを悠々と打つ野盗など、聞いたこともない。

ゆったりとした仕草、余裕のある言動。それらはむしろ、兄達を思い出すもの。


本棚。

机。

積み上げられた本。

壁一面の地図。

机の上に開かれたノート。

――それらを彼は、あの初対面の日と同じように一つ一つ見つめる。

家族には嫌がられる努力。求められない知性。飛び立たないようにと、畳まされた翼。

それでも、交渉してかき集めた私の宝物。

公務だって、本当に僅かだけれど、私のサインをしたものだってあるのよ。……家族は、それを褒めてはくれないけれど。

私が美味しい菓子を食べ、綺麗なドレスに身を飾る方が、彼らは安心して笑うから。


彼がチェスを鈍く動かす。


「荒唐無稽な逃亡計画なんかじゃなく、お前であれば本気の逃亡計画だって練られたはずだ。お前はこの鳥籠の中でも、信じられないほどの努力で学んでいる。思考を放棄していない」


その一手に比べ、言葉は鋭く私を刺す。

飲み損ねた息を、胸を抑えることで収めて、目を伏せる。喉を上下させ、もう一度、慎重に息を吸い込む。そして、吐く。


「家族が悲しむことはしない主義なのよ」

「……それで、あえて鳥籠に入れられたままだってのか」


彼の言葉には答えず、置かれたノートをそっと撫でた。私以外の文字が、初めて書かれたノート。

私以外に、初めて見せたノート。


もう夜会は終わる。

二週間の開催期間、それが終わる。

終われば、もうこのノートはまた私だけのノートに戻るのだ。だから、最後にだけ、本音を。

目線を上げる。

今、私は笑っているのだろうか。それとも悲しい目をしているのだろうか。わからなかった。


「ここにいるのは荒唐無稽で、飾らない、どこかにいる私の姿よ」


撫でていた指先を離す。

離す一瞬、躊躇いからか指先が小さく震えた。それを恥じ、強く指先を握り込む。


「なれなかった私の、成れの果て。」


小さく息を漏らすように私は笑ってみたが、彼は笑わない。

恐ろしいほどに凪いだ目で、私を見据えてる。

その深い碧の目を見たら、少しだけ泣きたくなった。海に飛び込んで、深く深く沈んで、そのまま気付かれないように大声で喚きたくなる。

この人の目は、そういう目だった。


「夢は夢」


歌うような声が漏れる。

チェスを手に取る。


「憧れは憧れ」


――ちっとも、愉快な気持ちなんかじゃないのにね。


「だから、貴方の名前も聞かないの。野盗さん」


それでも、私は笑うのだ。

彼が僅かに目を細める。


「……どうして」

「貴方の名前を聞いたら、この夢も終わってしまうでしょう?」


小さな声で答える。

他国の主賓として招かれた身で、私と同年代の男性は多くない。

この身体的特徴、国民性。

まして、夜中に王城を好き勝手歩き回れるほど自由を与えられた人間など、なおさらだ。


だから、気付かないふりをしている。

これは、夢。

たった二週間だけ許された、私だけの夢なのだから。


ただ、それでも一つだけ。私の胸の内にずっと燻る思いがあるとすれば。

一度だけでも口にしていいというなら、誰かに教えてほしかった。

大事にされるが故に隠される。家族の思いは理解している。――けれど、ならば何故、私は役目も果たさずに、ここに今生きているのだろう。


「なんて、ね。……こんなの、ただの遊戯です」


チェスも、ノートも、この束の間の逢瀬も。

私はクイーンの駒を手に取った。


「チェックメイト」


これにて、おしまい。


彼は、しばらく睨みつけるようにクイーンの駒を見てからゆっくりと天井を見上げる格好をとる。

だらしなく、背もたれに身を投げ出しながら、細い息をついた。


それから、顔を手で隠す。

しばらくの間沈黙が流れた。私は、なんとはなしに窓へ目を向ける。夜会の音や光は、今日も聞こえない。

そうして、どれくらい静寂が過ぎたかわからなくなった頃、目の前の男がくつくつと笑い出す。

不気味な、嵐を感じさせるような笑い方だった。


知らず肌が粟立つ。

彼が私とゆっくりと目を合わせた。その顔は、もう野盗を装った顔でも、身分を名乗らない曖昧な男の顔でもなかった。


覚悟を決めた、男の顔だった。


彼は徐に立ち上がり、私の下に跪く。私の手をいっそわざとらしいくらいに恭しく取ると、気障ったらしく唇を寄せた。


「レグナード王国第二王子、カイウスだ」


短く、まるで挑発するように告げられた名。一つ息を呑んだのは、その名前に驚いたからではない。

彼の名前を知ってはいた。予想していなかったのは、彼が今ここで名乗ったことだ。

大国であるレグナード王国の、第二王子。

その王子が私に名乗る。その意味は、たとえ二人しかいない場だとしても重い。――むしろ、二人きりだからこそ、重い。


「俺は強欲の国から来た王子だぞ」


さる大国の王子は、笑う。


「手に入らないとお前が諦めたお前さえ、俺がもらってやる。今、そう決めた」

「……いま?」

「猛烈にムカついたからな」


そう言って、傲慢に、王族らしく、彼は大きく笑う。



◇◆


そこからの話は早かった。

アルヴェリア王家がどう思おうと、最早流れに逆らうことなどできようはずもなかった。ましてや、継承権が低いと言えど王籍を持つオスカーお兄様が支持をしたのだ。

王国としての理を考え、これ幸いとばかりに貴族達が私の輿入れを推し進めた。そして私は――稀代のラブロマンスだと世情を整えられた上で、婚約期間を飛ばしてほとんど攫われるような勢いでカイウス王子と共にレグナード王国へ輿入れすることとなった。

レグナード王国は、アルヴェリアより遥か遠くの海を超えた大陸だ。

海路で三日は掛かる道。アルヴェリアの貴族達の「気が変わらないうちに今すぐに」という思いが透けて見えた。最早、清々しいほどだ。


政略として、最後に役に立て。

そう背を押すように風が吹いている。

船に乗った今も、それは妙に心地よく私の髪を撫でては過ぎていく。

未だどこか呆然としてしまう私の隣に、カイウス王子は飽きもせずずっと立っていた。


出航の準備を始め、もう港を離れようとしている。

ずっと根を張るようにいた地。生まれた地。出たこともなかった国。呆気なく、その外へと。


慶事を祝う色とりどりの紙吹雪が舞い、お飾りだったはずの姫の輿入れを今や誰もが晴れやかに祝っている。

手をふられる。それに手を振りかえしていれば、不意にカイウス王子が一点を指差した。

そこを見つめると、人の行列からぽつんと外れた丘の一角。馬に乗る、その人が見えた。思わず、目を見開く。


「……くだんの夜会が開かれて少しして、どこかから噂が流れたんだ。この王国の隠された離宮に、秘宝があるってな」


カイウス王子が、そっと小さな声で私に話す。

私とカイウス王子の視線の先には、オスカーお兄様がいる。

もう、王家での見送りはとうに済ませていたのに、彼だけがそこに一人で立っていた。真っ赤な目をしながら、私をただ見つめていた。


「夜会が終わる日に、オスカー殿下が俺のところにそっと来てな。聞いてきたんだ。貴方だけが夜会に熱心ではなかった――どこかに抜け出してる間に、秘宝は見つかったのか、ってな」


カイウス王子がふっと笑う。


何事かを、大きな口を開けて、オスカーお兄様が必死に叫んでいた。何も聞こえない。船の音、海の満ち引き。船に乗るものの会話。もう、何も聞こえない。

だけれど、デッキに身を乗り出してしまう。聞こえないはずの声を、聞こうとしてしまう。


「こちらが笑うと、綺麗な鈴のような音が鳴るのが気に入ってる。そう言ったら、項垂れてな。私たちは、久しくその音を聞いてない、と。――きっと、宝の持ち腐れなのでしょう、ってな」


そう言って、力なく笑ったというオスカーお兄様の顔がありありと思い浮かんで、胸が詰まる。

涙が零れ落ちた。とめどないそれは、視界を邪魔する。オスカーお兄様を見たいのに、邪魔するくらいに。

立っていられずに、力が抜けていく。

そんな私の体を支えるように、カイウス王子が私の腰を抱く。

温かい手に、思わず縋るように手を重ねる。


「……私、愛されてたの」


思わず、言葉が溢れ出た。


「家族みんなから、とても愛されてたのよ」


大切にされ過ぎていた。

おそらく、その方向性が間違っていた。

私に割く公費の掛け方も過剰だった。

綺麗な世界だけで、王族が生きていけるわけではないとはっきり告げてくれればよかった。


けれど、それでも。


「それだけは、本当なの……」


それだけは疑ったことはないのだ。

カイウス王子は嗚咽混じりの私の言葉に、「そうだな」って言いながら頭を優しく撫でた。

ずっとずっと、私たちはそうやって出航してからしばらくしてもそこでずっと、アルヴェリアを見続けたのだ。




そうして、体が冷え始めた頃にようやく私たちは動き出す。

客室に戻ろう、と彼が私と歩き始めようとした時に不意に「例のノートは持ってきたか?」と聞いてきた。

彼に持ってくるようにわざわざ言われていたノートだ。私は赤くなった鼻を軽く啜りながらも、頷いて懐に忍ばせていたそれを彼に渡す。

下手に見つかって、レグナード王国の人々に不審を抱かせないようにと思って肌身離さずにいたのだ。


客室に着くなり、彼は私をあの時のように隣に座らせてノートを開く。

彼は荒唐無稽な逃亡計画をぱらぱら捲って、それからふと彼が読んでいなかった新しいページに気づく。


「あ、……それは、唯一成功したんです」

「は?」


そう言った彼が、やや険しい顔で覗き込む。それから、字を追って――やがて小さく吹き出した。


『逃亡計画その二百三十八・王子様に見つかる』


「……まあ、それならいいか」


そう呟いた彼は、何か思いついたようにこちらへ手を差し出した。


「ペン。あと、そのノート」


首を傾げながらも素直に手渡すと、カイウス王子はさらさらと何かを書き足し、満足げに頷いてから私へ返してきた。

何を書いたのだろう。

不思議に思って覗き込めば、思わず笑みが零れる。


ページの一番下に、大きく書かれていたのは――


『完!』


「俺の元から逃亡されても困るからな」


そう言って、彼はぽすりと私の肩へ頭を預ける。

私は肩越しにその温もりを感じながら、ノートの最後に刻まれた二文字を、そっと指先でなぞった。


もう、この先に続きはない。

逃亡計画を書き足すことも、きっと。

そう思うと、胸の奥がくすぐったくて、私は小さく笑う。

「完!」の文字をもう一度だけ、愛おしく撫でた。


end.

お読みいただきありがとうございました。

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オスカーお兄様…(涙) きっと、とてもとても愛されていて、とてもとても幸せを願われていたんでしょうね。 そしてそれがエゴだと気がついたただ一人の。 最後のチェスのシーンのやり取りが好きで、何度も読み…
喪失の恐怖から転じた執着があったかもしれないけれど、その根底には愛があって、ちゃんと伝わっていたのね。 どのみち、この送迎っぷりではそろそろ限界だったのだろうな。
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