後追い
夫が死んだ。
脳卒中だった。
結ばれてから十年間、料理が趣味の彼は毎日台所に立ってくれた。
誰よりも健康には気をつけていたはずだった。
昨日、葬儀を終えた。
棺の中で花に囲まれた夫の顔には、皺ひとつなかった。
翌朝、誰かに肩を叩かれた気がして目を覚ます。
そこには、エプロン姿の夫が立っていた。
夢だと思った。けれど、枕元の時計の日付は確かに一日進んでいる。
促されるまま食卓につくと、いつも通りの少し凝った手料理が並んでいた。
昨日あんなに泣いたせいか、それとも心が追いついていないのか。
温かいはずの料理は、不思議なほど味がしなかった。
仕事へ向かう。
お昼、彼が持たせてくれたお弁当を開く。
鮭と白米、ポットにはお味噌汁。簡素な献立だが、彼の料理はやはり美味しい気がした。
同僚たちは、私に一度も話しかけてこなかった。
きっと、夫を亡くしたばかりの私を腫れ物に触るように気遣っているのだろう。
夕飯は、複数のスパイスを調合したというカレーだった。
鼻に抜ける香りは鋭いのに、舌には何の痺れも感じない。
ただ、添えられた水がやけに甘く、美味しかった。
土曜の朝、いつもより体が重い。
夫の目の前で、彼が残した遺品の整理を始めた。
なんだか手元の文字がぼやけて、うまく読み取れない。
そんな私を、夫は甲斐甲斐しく気遣ってくれる。
感謝を忘れないようにと、差し出された昼食をすべて平らげた。
疲れからか、唇がひどく乾燥して割れている。
夫はそんな私を覗き込み、明日はデートに行こうと誘ってくれた。
どこへ行こうか、そんな話をした気がする。
夕飯の、水だけがひどく美味しかった。
体調が、悪い。
朝、鉛のように重い瞼をこじ開けて横を見る。
夫は隣で、静かに横たわっている。
その体を揺さぶり、「気分が悪いから今日は出かけられない」と伝えた。
夫はにこやかに笑い、お粥を丁寧に私の口へと運んだ。
食べ終えると、そのままゆっくりと意識が遠のき、天井が歪んで見える。
近づいたり遠のいたりする白い板を見つめていると、心地よい酔いと強い眠気が襲ってきた。
皿を洗う夫の背中を横目に、私は静かに目を閉じた。
気づけば、また朝になっている。
朝食はトーストにトマトとチーズを乗せたもの。
自家製のトマトは酸っぱ甘く、チーズの脂とよく合う。
昼はハンバーグ弁当。冷めていてもジューシーで、美味しかった。
同僚は、もう誰も私の方を見ない。
夜はすき焼き。少し奮発したという肉が、舌の上でとろける。
そんな日々が、何ヶ月か過ぎた。
ある日、見知らぬ若い男が、スーツの男を連れて部屋にやってきた。
青年は図々しくも土足に近い勢いで上がり込み、「立地がいい」「この条件でこの家賃は安い」とはしゃぎながら部屋を見て回る。
そんなはずはない。
ここは夫と私が、必死に働いて家賃を払ってきた大切な場所だ。
ここを安いなどと言うのだから、彼は相当な資産家なのだろう。
私は青年の存在を無視して、今日も夫が差し出した「料理」を口に運ぶ。
水はもう、味をなさなくなっていた。




