第5話 いい子でいれば、捨てられない
「いい子でいれば、捨てられない」――その言葉の意味が、少しずつ見えてきます。
扉が開いた瞬間、
小屋の中の空気が、目に見えない糸で張りつめたみたいに凍りついた。
外の風の音が、急に遠くなる。
湿った木の匂いと、古い布の埃っぽい匂いが、鼻につく。
ここは、人の出入りがほとんどない場所だ。
それなのに――三人同時に、知らない大人が入ってきた。
少年にとっては、
それだけで“日常が壊れる音”だった。
部屋の隅で、
少年の体がびくりと跳ねる。
逃げ場を探すように視線を彷徨わせ、
反射的に、両腕で胸元の何かを抱え込む。
そのまま、壁際へと縮こまり、
背中を押しつけるようにして、さらに小さくなる。
まるで、
“そこにいないふり”をしようとしているみたいだった。
小刻みに震えながら、
少年は、誰に向けるでもなく、ぶつぶつと呟く。
「……こわい……」
「……なかない……」
「……いい子……」
「……すてないで……」
「……いたい……」
「……ごめんなさい……」
意味の通る言葉と、
意味の分からない言葉が、途切れ途切れにこぼれ落ちる。
順番も、理由も、つながりもない。
ただ、長い時間、同じ言葉を繰り返してきた痕跡だけが残っている。
それは、祈りにも似ていて、
同時に、自分を縛る“呪い”みたいでもあった。
まるで、壊れたものが、噛み合わないまま回り続けているみたいだった。
その様子に、
ラーラが思わず、息を呑んだ。
ほんの一瞬、
いつもの軽い調子が消える。
「……あー……これは……」
言葉を選ぶように、視線を逸らし、
それから、低く息を吐いた。
「……相当、きてるわね。
ただ怖がってるってレベルじゃない」
経験則からの判断だった。
怪我人も、戦場で壊れかけた人間も、
嫌というほど見てきた顔だ。
ルークは、無言のまま一歩、私の前に出かけた。
無意識の動き。
“盾になる”という癖が、身体に染みついている。
だが、すぐに気づいて、動きを止める。
少年の怯え切った様子を見て、
この距離感が“脅し”になると理解したからだ。
一歩、下がる。
それでも、
私と少年の間に割り込むような位置に、さりげなく立つ。
守る。
けれど、近づきすぎない。
その微妙な距離の取り方に、
彼なりの不器用な優しさが滲んでいた。
私は、少年の前で膝をついた。
武器を持たず、
盾も構えず、
ただ、人として向き合うために。
一歩でも距離を詰めれば、
この子は、きっと“襲われる”と感じる。
だから、ゆっくり。
逃げ道を残す位置で、しゃがみ込む。
目線を合わせるように、
視線の高さを落とす。
「……大丈夫だよ」
それだけを、低く、静かに伝えた。
励ましでも、約束でもない。
今、この瞬間だけを肯定する言葉。
私は、少年の膝に、そっと手を置いた。
トントン、と。
一定のリズムで、軽く叩く。
触れられた瞬間、
少年の体がびくりと跳ねる。
逃げようとして、
でも、足が言うことをきかない。
私は、それ以上、近づかない。
引き寄せもしない。
掴みもしない。
ただ、そこに“在る”ことを選ぶ。
怖がるなら、
怖がったままでいい。
泣くなら、
泣いたままでいい。
逃げない。
それだけを、身体で示す。
時間が、ゆっくり流れる。
小屋の外の風の音が、
やけに遠く聞こえる。
やがて、
少年の震えが、
ほんの少しずつ、小さくなっていく。
呼吸の乱れが、
わずかに、整い始める。
――盾は、
ただ、受け止めるためだけのものじゃない。
私は、そう思いながら、
トントン、と同じリズムを刻み続けた。
そして――
「……おかあ……さん……」
かすれた声が、
喉の奥から零れ落ちた。
それは、助けを呼ぶ声ですらなかった。
名前を思い出しただけの、
ただの呼吸みたいな一言。
けれど、その一音で、
少年の内側に張りつめていた何かが、
ぷつりと切れた。
次の瞬間、
少年は堰を切ったように泣き出した。
嗚咽混じりの声。
喉の奥を掻きむしるような、
抑えきれない泣き声。
ずっと、泣いてはいけなかった。
声を出してはいけなかった。
弱音を吐いてはいけなかった。
――いい子でいなければ、
――捨てられるから。
その“縛り”が、
今、この瞬間だけ、ほどけた。
私は、手を離さない。
変わらず、トントンと、
今度は背を叩き続ける。
急がせない。
止めない。
励まさない。
泣き声の意味を、
言葉にしようとしない。
ただ、
泣くことを“許す場所”であり続ける。
少年の額が、
私の肩に、かすかに触れた。
寄りかかるほどの力はない。
でも、逃げる力も、もう残っていない。
私は、その重さを受け止める。
――盾の役目は、
守ることだけじゃない。
壊れかけた心が、
崩れ落ちる“場所”になることだってある。
そう、はっきりと分かるほど、
少年の泣き声は、
小屋の中に、深く、深く、染み込んでいった。
その様子を見て、
ルークとラーラは顔を見合わせた。
「……少し、外で話を聞いてくる」
ルークが小声で言う。
「魔獣の気配も見てくるわ。
この辺、嫌な感じするし」
二人は静かに小屋を出ていった。
♦︎♦︎♦︎
しばらくして、
少年の泣き声は、しゃくりあげるような音に変わり、
やがて、かすかな嗚咽だけが残った。
呼吸が、まだ不規則に震えている。
私は、背中を叩く手を止めずに、
声のトーンを落として問いかけた。
「……それ、何?」
視線を、
少年が抱え込んでいるものへ向ける。
言葉にしない問い。
奪うつもりはない、という距離感のまま。
少年は、ぴくりと肩を震わせた。
一瞬だけ、
私の目を見る。
怯えと、疑いと、
ほんの少しの迷いが混じった目。
それから、
すぐに視線を逸らしながら、
両腕の力を、ほんの少しだけ緩めた。
手のひらの中にあったのは、
歯車の形をした、金属片だった。
鈍い光を帯びた金属。
角の欠けた縁。
古びているのに、妙に“使われた”気配がある。
――私の懐に入れているものと、
あまりにも、よく似ている。
胸の奥が、ひやりと冷える。
「……それ、大事なもの?」
声を低く、
詰問にならないように。
少年は、答えない。
代わりに、
こくり、と、ほんの小さく頷いた。
けれど、
歯車を差し出そうとはしない。
むしろ、
もう一度、胸の奥へ押し込むように、
ぎゅっと抱き直した。
指の関節が白くなるほどの力で。
「……しっぱい……」
絞り出すような、小さな声。
それ以上は、続かない。
“失敗”という単語だけが、
ぽつりと落ちて、
床に転がるみたいに響いた。
私は、その言葉を、すぐには拾わなかった。
否定もしない。
問い詰めもしない。
ただ、
歯車を抱きしめるその手の力が、
“守っている”というより、
“縋りついている”みたいに見えて、
胸の奥に、
嫌な予感が、静かに沈んだ。
♦︎♦︎♦︎
小屋を出て、
村の中ほどまで戻ったところで、
ルークとラーラは、マルタばあちゃんを見つけた。
縁側に腰を下ろし、
編み物をしていた小さな背中。
「ばあちゃん」
ルークが声をかけると、
ばあちゃんはゆっくり顔を上げた。
「ああ……どうしたんだい?」
「さっきの子のこと、
もう少し聞かせてほしいんだ」
ばあちゃんは、しばらく視線を落とし、
膝の上で手を組んだ。
「……あの子ねぇ」
一拍置いてから、
ぽつりと話し出す。
「夜になると、時々、声を上げるんだよ」
「声?」
「叱られてるみたいな声さ。
誰かに“泣くな”って言われてるみたいな……」
ラーラが、思わず眉をひそめる。
「……それ、相当きついわね」
ばあちゃんは、ゆっくり頷いた。
「ご飯はね、一日一回だけは、
ちゃんと食べてくれるんだよ。
でも、それ以外はほとんど部屋から出てこない」
「名前は?」
ルークが聞くと、
ばあちゃんは首を横に振った。
「分からないんだ。
聞いても、答えられないみたいでねぇ……」
少し間を置いて、
ばあちゃんは続けた。
「街道の近くで、裸足で倒れてるのを、
村の若い衆が見つけて連れてきたんだよ。
身なりは悪くなかったのに、
まるで……逃げてきたみたいだった」
ラーラは、無言で息を吐いた。
「……放っておけないわね」
「だからさ、
あたしらにできるのは、
せめて寝る場所と飯を用意してやるくらいで……」
ばあちゃんの声が、少しだけ震えた。
「それ以上のことは、
怖くて聞けなかったんだよ」
ルークは、ゆっくり頷いた。
「ありがとう。
十分だ」
♦︎♦︎♦︎
しばらくして、
小屋の外から、静かな足音が近づいてきた。
軋む床板の音。
扉の向こうで、一瞬だけ間があってから、
ゆっくりと戸が開く。
戻ってきたのは、ルークとラーラだった。
二人とも、表情が硬い。
いつもの軽口もない。
小屋の中に足を踏み入れた瞬間、
壁際に寄りかかるように座り込んでいる私と少年を見て、
二人はすぐに状況を察したようだった。
ラーラは無言で扉の近くに立ち、
外の気配に意識を向ける。
ルークは私の横まで来て、
少年を刺激しない距離で腰を下ろした。
私は、小さく頷いて二人に応える。
それから、懐に手を入れた。
指先に触れる、冷たい金属の感触。
歯車の欠片を取り出し、
床の上に、そっと置く。
音を立てないように。
少年は、歯車を胸に抱えたまま、
両手のひらの中に包み込むようにしている。
決して、離さない。
指の隙間から、
金属の縁がわずかに覗いているだけだ。
私は、少年の手元をじっと見る。
触れない。
奪わない。
ただ、“見るだけ”。
私の歯車と、
少年の歯車。
触れ合わない距離で、
互いに向かい合うように置かれる。
刻まれていた番号は――
0824。
私の持っている番号は、
0825。
連番だった。
喉の奥が、ひくりと鳴る。
誰も、声を出さない。
けれど、
この場にいる全員が、同時に理解していた。
これは、偶然じゃない。
言葉にしなくても、
小屋の空気が、はっきりと変わった。
静かに、
重たい“何か”が落ちたように。
その瞬間だった。
遠くで、
低く、喉を鳴らすような声が響いた。
「……来るぞ」
ルークが顔を上げ、
三人はすぐさま外へ飛び出した。
次の瞬間、
「……狼の魔獣、五匹!」
ラーラが叫ぶ。
村の外れ、
森の縁から現れた五つの影。
鋭い牙。
いつもは黒いはずの眼が、
血走った赤に染まっている。
明らかに、
普段の状態じゃない。
そう感じたとき、
私は背中に視線を感じた。
振り返ると、
小屋の扉の隙間から、
こちらを見つめる少年の影があった。
歯車を抱えた手が小刻みに震え、
異様な魔力の光が、少年の周囲に滲む。
――魔法の……暴発?
そう推察しながら、
私は一歩前に出る。
異様な狼が、こちらへと走り出した。
胸の奥で、何かが静かに固まる。
逃げない。
「誓盾」
淡い光が広がり、
結界の表面に、花の紋章が浮かび上がる。
今度は、蕾じゃない。
花弁が、はっきりと開いていた。
「ルーク、ラーラ。
私が、絶対に守り切る!」
魔獣たちが、一斉に地を蹴った。
その瞬間、
背後で、歯車が――
きぃ、と、
不気味な音を立てて軋んだ。
最後の音の正体は、次回で。続きも読んでもらえたら嬉しいです。




