第11話 0824
ルクス養育院へ通う日々は、
すっかり“日常”になっていた。
ギルドの依頼を終え、
時間が空いた時に立ち寄る。
ただそれだけのこと。
門の前に立っても、
もう最初の頃みたいな緊張はない。
――今日も、いつも通り手伝って、
少し話して、
それで帰ろう。
そんな軽い気持ちで、
私は正門をくぐった。
中庭は、変わらず整っている。
花壇も、石畳も、
子どもたちの笑い声も、いつも通りだ。
私は、何の気なしに視線を巡らせた。
――あ。
胸の奥が、ひっかかる。
右手の甲に、同じ星の印を持つ二人。
前に出てくるステラと、
少し遅れてついてくるノヴァ。
……その姿が、ない。
「……今日は、いないのかな」
独り言みたいに、呟いてみる。
たまたま別の仕事をしているだけかもしれない。
体調を崩したのかもしれない。
理由はいくらでも思いつくのに、
胸の奥が、すっと冷える。
――あれ?
――でも、いつもなら、もうここにいる時間なのに。
心配性な自分を、内心で笑おうとする。
“ただいないだけで、こんなに気にするなんて”
そう思おうとしても、
ざわつきは消えなかった。
花壇の縁。
中庭の奥。
木陰のベンチ。
視線が、無意識に二人を探してしまう。
……いない。
考えすぎだと分かっているのに、
悪い想像ばかりが浮かぶ。
私は、深く息を吸って、
自分に言い聞かせた。
――大丈夫。
――きっと、今日はたまたま会えないだけ。
それでも。
“いつもそこにいた二人がいない”という事実が、
その日の施設の光景を、
ほんの少しだけ、別のものに見せていた。
中庭の端で、
私はしばらく立ち尽くしていた。
♦︎
“たまたま”じゃない気がして、
胸の奥が、じわじわと落ち着かなくなる。
私は足の向きを変え、
クララがいるはずの建物へ向かった。
相談しないまま帰る、という選択肢は、
私の中にはなかった。
廊下を進むと、
ちょうど書類を整理しているクララの姿が見えた。
「シスター・クララ」
声をかけると、
彼女は顔を上げ、にこりと微笑む。
「あら、アイリーさん。今日は少し早いのね」
私は、できるだけ普通の声で聞いた。
「……あの、ステラとノヴァを見かけなくて」
「今日は、お休みなんですか?」
一瞬だけ、
クララの表情がやわらいだ。
――その笑顔が、
なぜか、ひどく胸に刺さる。
「ああ……あの子たちね」
クララは、悪い知らせを伝える時の顔ではなかった。
むしろ、どこか安心したような、
“よかったことがあった”時の表情だ。
「今朝、“特別推薦”で、ここを離れたのよ」
……特別推薦。
その言葉が、
胸の奥で、鈍い音を立てて転がった。
「国の支援でね」
「より良い環境で教育を受けられる場所へ行ったの」
「二人とも、あの年齢にしては珍しいくらい素質があって」
誇らしげな声。
「本当は寂しいけれど……」
「でも、あの子たちの将来を思えば、喜ばしいことなのよ」
私は、うまく相槌を打てなかった。
――喜ばしいこと。
孤児院から出て、
より良い環境へ行けるなら、
それは“救い”なのかもしれない。
でも、胸の奥が、
ゆっくりと、黒くざわついていく。
“推薦”
“次の段階”
“正解だった?”
“ちゃんと、できた?”
これまで聞いてきた言葉が、
ばらばらだったはずなのに、
頭の中で、ひとつの線になって繋がっていく。
なぜか、喉の奥が冷たい。
「……二人とも、一緒に行ったんですか?」
そう尋ねると、
クララは、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。
「ええ……ええ、二人とも、選ばれたわ」
「詳しいことは、私たちも知らされていないの」
「でも、きっと良いところよ。国が関わっているもの」
“詳しいことは知らされていない”。
その一言が、
胸の奥に、静かに沈んだ。
……知らないまま、
“いいこと”だと信じるしかない立場。
クララは、
疑いようもなく、
子どもたちの幸せを願っている。
ただ、私の直感が
はっきりと“危険”だと告げ始めていた。
理由は、まだ言葉にならない。
証拠も、ない。
ただ――
“喜ばしいはずの出来事”が、
こんなにも嫌な感触を残すこと自体が、
すでにおかしかった。
無理やり笑ってみせた。
「……そうなんですね」
でも、その笑顔は、
自分でも分かるくらい、うまく作れていなかった。
胸の奥で、
黒いざわめきが、ゆっくりと広がっていく。
――何かが、起きている。
それは確信には程遠い。
けれど、
もう“気のせい”で片付けられる違和感じゃなかった。
♦︎
それから、何日かが過ぎた。
ある日、
いつものように施設を訪れると、
中庭では今日も子どもたちが静かに遊んでいた。
走り回る子は少なく、
花壇の縁に座って石を並べている子や、
木陰で絵本を読んでいる子が目立つ。
五十人前後の子どもたち。
もう顔と名前が結びつく子も多い。
――でも。
あの星の印を持つ双子の姿は、
今日も見当たらなかった。
「……」
何も聞かない、と決めている。
けれど、
視線だけは、
どうしても探してしまう。
♦︎
配膳を終えたあと、
クララと一緒に、年少の子の着替えを手伝う。
「ありがとう」
「助かります」
そんな言葉が、
子どもたちの口から自然に出る。
丁寧で、
聞き分けが良くて、
本当に“いい子”たちだ。
――あまりにも。
ふと、
一人の子が、私の袖を引いた。
「……あのね」
しゃがんで目線を合わせると、
その子は小さな声で言った。
「きょう、うまくできた?」
胸の奥が、ひくりと動く。
「うん、できてたよ」
そう答えると、
その子はほっとしたように微笑んで、
何も言わずに戻っていった。
――この言い回し。
“できた?”
“正解だった?”
子どもたちの中に、
同じ響きの言葉が、少しずつ増えている。
それが偶然なのか、
環境の癖なのか。
判断できないまま、
私はその違和感を飲み込んだ。
♦︎
夕方になると、
シスターたちは教会へ戻る支度を始める。
「夜は、管理側の方たちに引き継ぎますから」
クララはそう言って、
いつものように穏やかに笑った。
「アイリーさんも、暗くならないうちに戻ってね」
「はい」
私は頷く。
正面玄関のほうで、
ちょうど施設責任者のオズリックが、
管理者側の職員たちと入れ替わる形で姿を見せた。
「本日も、お疲れさまでした」
穏やかな声。
丁寧な物腰。
シスターたち一人ひとりに、
ねぎらいの言葉をかけていく。
「子どもたちも、落ち着いていましたよ」
「皆さんのおかげで、“良い一日”になりました」
“良い一日”。
その言い方が、
どこか評価の言葉みたいに聞こえて、
胸の奥に、わずかな引っかかりを残す。
「アイリー殿も、ありがとうございます」
「お手伝い、助かりました」
そう言って、
こちらにも穏やかに頭を下げてくる。
「いえ……こちらこそ」
言葉を返しながら、
私は、彼の表情を一瞬だけ見つめた。
笑顔は、柔らかい。
対応も、非の打ちどころがない。
それなのに――
どこか、“場を管理している人間”の目をしている。
正面玄関の向こうでは、
管理者側の職員たちが、
すでに施設の中へと入っていく。
声の調子も、歩き方も、
昼間のシスターたちとは、どこか違う。
丁寧ではあるが、
“温度”がない。
――仕事としての管理。
それだけのはずなのに、
なぜか胸の奥が、少しだけ冷えた。
♦︎
ルークの家に戻るのは、少し久しぶりだった。
ギルドの依頼で顔を合わせることはあっても、
ここ最近は、施設と拠点の往復ばかりで、
ゆっくり腰を落ち着ける時間がなかった。
扉を開けた瞬間、
部屋の空気が、前よりもやわらいでいるのが分かる。
壁際にいた少年は、
もう、あの頃みたいに体を小さく縮めてはいない。
視線が合う時間が、
ほんの少しだけ長くなっている。
「……食べてるな」
ルークが、安堵したように言う。
木の皿は、ほぼ空だった。
「よく食ったな」
「無理してねぇか?」
声の調子は、ぶっきらぼうだが、
どこか、弟に向けるみたいな響きが混じっている。
最初に連れてきた頃の距離感とは、明らかに違った。
私は、少年の前にゆっくり腰を下ろす。
「ねぇ」
できるだけ、驚かせない声で。
「名前、言える?」
少年は、一瞬だけ、戸惑うように視線を彷徨わせた。
それから、思い出すみたいに、
ぽつり、ぽつりと数字を口にする。
「……ぜろ」
一拍、間が空く。
「……はち」
さらに一拍。
「……に」
最後に、
「……よん」
まるで、
“正しい順番を確認する作業”みたいに。
私は、喉の奥が、ひりつくのを感じた。
「……それ、名前か?」
ルークの声が低くなる。
少年は、答えない。
否定もしない。
ただ、視線を落としたまま、黙っている。
――名前じゃない。
呼ばれていた音。
覚え込まされた識別の呼び方。
誰かに“そう呼ばれていた”痕跡。
私は、少年の右手を見た。
歯車の刻まれた金属片。
その中央に刻まれた、小さな番号。
……0824。
「その数字……」
私は、できるだけ平静を装って言った。
「それ、いつも持ってるよね」
少年は、こくりと頷いた。
「……それで呼ばれてた?」
そう聞くと、
少年は、ほんの一瞬だけ、迷うように唇を噛んでから、
小さく頷いた。
胸の奥が、静かに冷える。
番号で呼ばれる場所。
名前を与えられず、
“個体”として管理される世界。
それは、
“ここ”じゃない。
でも――
私は今日、
よく似た“管理の匂い”を、
別の場所で感じてきたばかりだった。
「……もう大丈夫だ」
ルークが、ぎこちなく少年の頭に手を置く。
「ここじゃ、番号じゃねぇ」
「お前は……」
言いかけて、言葉に詰まる。
“名前”を、まだ知らないからだ。
それでも、ルークは、強引に続けた。
「ここでは、人だ」
その言い方が、不器用で、
でも本気なのが分かって、
私は、視線を伏せた。
私は、無理に笑って、少年に頷く。
「……教えてくれて、ありがとう」
少年は、
それが“正解”だったのか分からないまま、
それでも、少しだけ肩の力を抜いて、
視線を落とした。
♦︎
その夜、
私は布団の中で、目を閉じても眠れなかった。
昼のルクス養育院は、
あんなにも“やさしい場所”だった。
だからこそ、
夜の顔を見ずにいるのは、
もう、無理だった。
……誰にも言わずに行こう。
間違っていたなら、謝ればいい。
でも、
確かめもせずに“なかったこと”にする方が、
ずっと怖い。
私は、静かに身を起こした。
次に向かうのは、
シスターたちが帰ったあとの、
ルクス養育院。
ひとりで。




