第1話|盾の少女は、世界を救わない
世界を救う物語ではありません。
守れなかった後悔を抱えながら、それでも誰かを守ろうとする少女の話です。よろしくお願いします。
子どもの悲鳴が、路地に弾けた。
石畳を打つ足音。
擦れた布の音。
小さな背中が、乱暴に引きずられていく。
逃げようとして、転び、
それでも必死にこちらへ伸ばされる手。
その指先が、届く直前――
砕けた光の欠片が、石畳の上に散った。
結界の残骸だ。
砕けた、という事実が、
何よりもはっきりと、敗北を告げていた。
その光を見た瞬間、
胸の奥が、冷たい水に沈んだみたいに重くなる。
――また、守れなかった。
♦︎♦︎♦︎
この小さな街、ホームディアで、
私の顔を知らない人はいない。
剣を腰に下げていなくても、
盾を手にしていなくても、
フードを被って歩いていても、
通りを進むだけで、視線が集まる。
――盾の少女。
いつの間にか、
それが私の名前みたいに呼ばれるようになっていた。
朝の市場には、果物の甘い匂いが漂っていた。
干した香草の束が、軒先で揺れている。
石畳の隙間から立ち上る湿った土の匂いに、
まだ冷たい空気が混じる。
露店の前では、
籠いっぱいのリンゴを前に、子どもが値切り文句を並べている。
店主は困った顔で首を振りながらも、
最後には一つだけ、こっそりとおまけしてやった。
「内緒だぞ」
そう言って笑う声に、
子どもは、ぱっと顔を輝かせて駆け出していく。
ほんの一瞬、
この街は“どこにでもある平和な朝”そのものに見えた。
人々は、いつもと同じように朝の支度をしている。
荷を運ぶ者。
店を開ける者。
眠そうな顔で通りを横切る子どもたち。
その日常の中に、
私の存在だけが、ほんの少し異物のように浮いていた。
ここにいるのに、
ここに属していないみたいな感覚だった。
誰も声をかけてこない。
それでも、
視線の端で、私の動きを追っているのが分かる。
何かあった時に、
私がそこにいるかどうかを、
無意識に確かめている。
この街の人たちは、
私を信頼している。
同時に、
私に“役割”を期待している。
私は、世界を救えない。
それでも、ここにいる誰かの“盾”になろうとした結果が、
この呼び名だった。
……守れなかった時、
私は誰よりも先に、自分を責める。
だから、この街を拠点にしている。
逃げ場を作らないために。
自分の弱さから、目を逸らさないために。
♦︎
通りの奥で、
子どもたちが駆け抜けていくのが見えた。
荷車の影を縫って、
石畳を弾むように走る背中。
転びそうになっても笑って、また走り出す。
その背中を、
私は少しだけ長く目で追ってしまう。
——間に合わなかった背中。
手を伸ばしたのに届かなかった背中。
呼吸が止まったあと、冷たくなっていった背中。
過去に、
守れなかった小さな背中が、
いくつも脳裏に浮かぶからだ。
その時だった。
通りの向こうから、
喉を裂くような切羽詰まった声が飛んできた。
「アイリー!」
その一声に、
市場のざわめきが、一瞬だけ、ぴたりと止まる。
思わず足が止まった。
声の方を見ると、
パン屋の主人が、人混みを掻き分けるようにこちらへ走ってくる。
息は荒く、肩が大きく上下している。
いつもなら穏やかな顔は、血の気が引いて、青ざめていた。
「助けてくれ……っ、路地の奥で……」
喉が詰まったみたいに言葉が途切れ、
主人は何度も息を吸い直す。
「子どもが……ひどく怯えてて……」
「それを、連れて行こうとしてる連中が……いる……!」
その言葉が落ちた瞬間、
胸の奥で、嫌な音が鳴った。
周囲の空気が、目に見えない糸で引き絞られる。
人々の視線が、一斉に路地の方へ流れていくのが分かった。
誰も動かない。
でも、誰もが“何かが起きている”ことだけは理解している。
私は、パン屋の主人の横をすり抜けた。
立ち止まる理由は、どこにもなかった。
迷いなく、路地へと走った。
♦︎
路地に足を踏み入れた瞬間、
空気の温度が、はっきりと変わった。
外の市場の匂いと音が、背後で途切れる。
湿った石壁が迫り、
細い通路に、息の詰まる静けさが落ちる。
路地の奥で、
子どもは壁に背を押しつけるように立っていた。
逃げ場を探すように視線を彷徨わせ、
それでも足は床に縫い止められたみたいに動かない。
怖いのに、声を上げることすらできず、
唇を噛みしめて、小さく震えている。
目の前の闇が、
じわじわと子どもを呑み込もうとしているみたいだった。
その前に立つ男たちは、二人。
擦り切れた外套の裾。
無造作に垂れた刃物の先が、
石畳にかすかに触れて、嫌な音を立てる。
この街の人間ではない匂いが、はっきりとした。
私は、短く息を吸い、
足音を殺して一歩、前に出る。
男の一人が、
何の躊躇もなく、子どもに手を伸ばした。
その指先が触れる――
ほんの刹那の前。
私は、迷いなく前に出た。
「……その子を、離してあげて」
声は、思ったより低く出た。
路地の壁に反射して、ひどく冷たく響く。
男たちが、こちらを振り向く。
一瞬の沈黙。
獣のような視線が、私の頭から足先までを舐める。
「なんだ」
吐き捨てるような声。
苛立ちと、面倒臭そうな色が混じっている。
私は、武器も盾も持たずに立っていた。
ただの旅人にしか見えないはずなのに、
二人の視線が、ほんのわずかに揺れた。
“噂”が、脳裏をよぎったのだろう。
それだけで、空気が一段重くなる。
私は答えない。
視線を逸らさず、
胸の奥に沈めていた言葉を、ゆっくり引き上げる。
――守る。
息を吐くように、名を呼ぶ。
「……誓盾」
音もなく、
何もなかった空間に、透明な壁が立ち上がる。
淡い光の紋章が浮かび、
結界の表面に、花の形が刻まれた。
……つぼみ。
閉じたままの、小さな光の花。
胸の奥が、きしんだ。
「……弱い」
思わず、声が零れる。
この紋章の形で、
今の盾の“脆さ”が分かる。
つぼみのままの誓盾は、
かろうじて衝撃を弾く程度。
まともに攻撃を受ければ、長くは保たない。
子どもの視線が、
結界越しに、揺れている。
助けを求める色と、
逃げたい色が、同じ瞳の中でせめぎ合っていた。
私を見る目に、
まだ“信頼”と呼べるものは宿っていない。
怖い。
助けてほしい。
それでも――
“この人なら守ってくれる”とは、
まだ、信じきれていない。
その距離が、
結界よりも、ずっと遠く感じられた。
その時、
怯えきった瞳の奥に、
不自然なほど澄んだ金色の輪が浮かんでいるのに気づく。
……左目だけだ。
まるで、光を閉じ込めたみたいな色。
こんな目の色、見たことがない。
男たちが、
目の前に立ち上がった結界を見て、思わず目を見開いた。
一瞬の困惑。
次いで、理解したような薄い笑み。
「……なんだ、それ」
指先で空をなぞるように、
存在しないはずの“壁”を確かめる仕草。
初めて見る盾。
噂でしか知らなかった力が、
目の前で、はっきりと形を取る。
「お前が……あの“盾の少女”か」
確信を帯びた声。
警戒と、侮りが混じった響き。
男の一人が、
試すように、拳を結界へ叩きつけた。
鈍い音が、路地に反響する。
衝撃は、確かに弾かれた。
だが同時に――
結界の表面に、細かなひびが走る。
淡い光の花弁が、かすかに揺れた。
胸の奥が、ひくりと鳴る。
私は歯を食いしばり、
過去の後悔を、無理やり喉の奥へ押し込んだ。
守る。
今度こそ、守る。
「……お願い……」
自分に言い聞かせるように。
同時に、
結界の向こうで震える子どもに届くように。
でも、
閉じたままの蕾は、開かない。
息を吸う間もなく、
いや、吸うという動作を思い出すより早く、
短剣が、容赦なく叩きつけられた。
衝撃が、結界の表面を走る。
次の瞬間、
光の蕾に、細かな亀裂が走った。
ひび割れた紋章が、
花びらの形を保ったまま、ばらばらと砕け散る。
砕けた光が、
雪みたいに宙を舞い、路地の闇へ消えていった。
結界が崩れ落ちた瞬間、
分散しきれなかった衝撃が、
そのまま、私の身体に叩き返される。
肺の奥の空気が、強引に押し出された。
息が詰まり、
視界が、白く弾ける。
膝が、勝手に折れた。
「……っ」
喉から漏れたのは、
声にならない、潰れた音だけ。
立ち上がろうとした。
けれど、足に力が入らない。
床の冷たさだけが、やけに鮮明だった。
――迷った。
目の前にいるのは、
子どもを盾にした人間だ。
反撃すれば、
あの子を巻き込む。
そう考えた、ほんの一瞬の躊躇が、
私の身体を、その場に縫い止めた。
その隙に、
子どもの腕が、乱暴に掴まれる。
必死にこちらへ伸ばされる小さな手。
子どもは、
引きずられながら、必死に首を振った。
「……やだ……」
かすれた声。
「……おはな……あるとこ……」
「……あそこ……かえりたく、ない……」
意味が繋がらないまま、
言葉だけが、喉の奥からこぼれ落ちる。
「……おはな……いっぱい……」
「……きれい……だけど……こわい……」
男の手が、さらに強く腕を掴む。
「うるせぇ」
乱暴に引き寄せられ、
子どもの声は、路地の奥へと引き裂かれていった。
――間に合わない。
引きずられる足音が、
路地の奥へと遠ざかっていく。
私は、ただ、
砕けた光の欠片を見つめることしかできなかった。
♦︎
私は、その場から動けずにいた。
砕けた光の欠片が、
路地の床に、花びらのように散っている。
踏み出そうとした瞬間、
膝が、かくりと崩れた。
遅れて、全身に鈍い痛みが走る。
衝撃が、内側から身体を締めつける。
呼吸をしようとしても、
肺がうまく膨らまない。
――まだ、動けない。
頭では分かっている。
追わなきゃいけない。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
それでも、
足に力が入らなかった。
砕けた光の欠片が、
視界の端で、ちらつく。
つぼみのまま、
開ききることもなく砕けた光。
胸の奥が、じくりと疼いた。
守れなかった。
その事実だけが、
遅れて、はっきりと胸に落ちてくる。
……まだ、足りない。
私の盾も、
私自身の覚悟も。
だから、
ここで止まっている。
足元に落ちていた紙片が、
風に煽られて、ひらりと転がった。
拾い上げると、
そこには歯車の形をした紋章が描かれている。
乱雑な落書き……のようにも見える。
けれど、線は妙に整っていて、
子どもの手遊びにしては正確すぎた。
インクも、まだ新しい。
路地の湿った地面に落ちていたにしては、
汚れ方が、不自然に少ない。
胸の奥が、ざらりとする。
——偶然じゃない。
これは、
“ここに残された”ものだ。
誘拐の混乱の中で落ちたにしては、
あまりにも、きれいすぎる。
まるで、
誰かが——
私に拾わせるために、
ここへ置いていったみたいだった。
指先でそれを掴んだ瞬間、
砕けた光の欠片が、かすかに揺れた。
まるで、
「ここからだ」と告げるみたいに。
私は、その場に膝をついたまま、
歯車の紋章を強く握りしめる。
追えない自分を、
嫌というほど噛みしめながら。
この出来事は、
ただの誘拐なんかじゃない。
そしてきっと——
私が“守れなかった何か”は、
ここから先、
もっと大きな歪みへと繋がっていく。
胸の奥で、
言葉にならない予感が、
静かに、重く沈んでいった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
“盾の少女”はまだ強くありません。
それでも、この出来事がすべての始まりになります。
よければ、続きを追ってもらえると嬉しいです。




