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祖母の魔法のことば

掲載日:2026/01/18

 不安な気持ちになると、いつも祖母の声がする。

「大丈夫、大丈夫。杏子ちゃんなら大丈夫」

 やさしい、ゆっくりとした祖母のその声と言葉は、私を安心させてくれる。大好きだった祖母が亡くなったのは数年前のことだが、いつでもあの笑顔と声を鮮明に思い浮かべることができる。

 小学校低学年のころ、学校から帰ってくると、共働きの両親の代わりに近くに住んでいた祖母が家で待っていてくれた。だからだろうか、祖母の一番覚えている姿は、玄関に立っているところだ。おかえり、と出迎えてくれる姿。いっておかえり、と遊びに行く私を見送ってくれる姿。そしてまた帰ってくると出迎えてくれる。

 厳しいところもあり、宿題が終わるまで遊びに行かせてくれなかった祖母のおかげで、やるべきことをすべて済ませてから遊ぶ、という習慣が小学一年生にして身に付き、夏休みなどの長期休暇の宿題も前半にはほぼ終わり、期限間際で慌てふためくという経験をそのころから一度もしたことがなかった。

 祖母は、いつも私の見方をしてくれた。ともだちと喧嘩して泣いて帰ってきたときも、テストで悪い点をとって母親に叱られたときも。大丈夫、大丈夫。祖母のその言葉は、またともだちとは仲直りして今まで通り仲良く遊べるし、勉強して次は良い点がとれることを知っている、という強い確信を含んでいた。

 祖母はいつも、私のことを信じていてくれた。私が自分の力で問題なくやり遂げるだろうということを。だから、その祖母の大丈夫、という言葉を聞くと、私の中の芯がしゃんとまっすぐ立つ感覚を取り戻すことができた。

 大丈夫、大丈夫。

 それは自然と私の口癖になった。

 祖母に最後に会ったのは、亡くなる二年か三年ほど前のことだった。県外の大学に進学して実家を出てからは、帰省を避けていたこともあり、祖母と会う回数は減った。就職してからはさらに減っていた。

ガンが見つかり、その治療のために入院していた祖母の見舞いに行った。ふくよかだった祖母はすっかり痩せて、小さく見えた。それでも、やさしく迎えてくれる祖母はやっぱりあのやさしい祖母だった。車椅子を押して一緒に病院の売店に行き、飲み物とヨーグルトだったかゼリーだったか、そんなものを買って病室に戻った。プリンだったかもしれない。

 最近の仕事のことや、休みの日に友人と旅行に出かけたこと、猫を飼いたいけれども悩んでいることなど、どうでもいいようなことをぽつぽつと話した。私はあまり自分の話をすることが得意ではなかったが、祖母はうなずきながら静かにきいてくれた。

 面会時間の終わる間際に、来ないと聞いていたはずの父と母が病室に来た。今日の体調はどうか、という話をひと通りした後、母はやはり私のことをしゃべり始めた。

「お義母さんからも言ってやってください。もう少しで三十になろうとしてるのにこの子は結婚もしないまま、焦りもしないんですよ。彼氏もどうせいないだろうし。だからあたしが誰か良い相手を見つけてやろうかって言っても、余計なことはするななんて言うんですよ」

「そんな話はいいじゃない」

「あなたはちゃんと自分のこととして真剣に考えなさい。ほんとにいい加減なんだから。お義母さんもひ孫の顔が見たいですよね」

「そういうことはタイミングもあるしねえ。それに杏子ちゃんは自分で決めるわよ。大丈夫、大丈夫」

 私に笑顔で頷きかけながら、祖母はそう言った。

 面会時間が過ぎ、病室を後にした。エレベータの中は私たち家族だけだった。小さな箱の中の短い時間も、母は母だった。お義母さんはいつも大丈夫大丈夫って、この子には甘いんだから。孫だからって無責任なのよ。自分の子じゃないから、あんなふうに言えるんだわ。お義母さんは息子しか生んでないし。行き遅れてる娘を持った経験なんてないんだもの。あなたも、おばあちゃんがああ言ったからって、真に受けないでよ。結婚しないままでいいわけないのよ、ちゃんと分かってるの。

 駅まで送っていこう、という父の提案を断りタクシーにひとり乗った。ドアが閉まり、肩の力が抜けるのを感じて、溜息をついた。

 窓ごしの街をぼんやり眺めながら、病室の祖母のことを考えた。大丈夫と言ってくれたこと、味方してくれたことは、やはりうれしかった。けれど正直なところ結婚についてその頃の私には真面目な考えがあるわけではなかったので、若干の後ろめたさもあった。

 むしろ私にはまったく結婚願望というものがなかった。差し迫った必要性も、あこがれも、子どもを生みたい気持ちもなかった。これまで家庭や家族というものに苦しさを感じてきた部分が大きく、願望がないというよりはむしろ積極的に避けてさえいたかもしれない。恋人を何度かつくりはしたが、相手が私の中に母性のようなものを見つけた瞬間、あるいは自分で見つけてしまったり、相手に女として見られていることを自覚してしまったりすると、強い嫌悪感がうまれ、交際はあまり長く続いたことがなかった。母親、という存在になりたくなかった。私は母のことが嫌いだ。私は、あの人と同じになりたくなかった。自分が女であることすら、苦しくて仕方がないほど。

 祖母は、大丈夫と言ったけれど、それはつまり、今ではないだけでいつかきっとするから大丈夫、という意味ではないだろうかと卑屈にな気持ちがどこかにあった。まさか結婚するつもりがないとは思っていないかもしれない。それとも、それでも大丈夫と言ってくれるだろうか。私は自分が結婚し、そして子どもを産むことを想像できなかった。

 次に祖母の顔を見たのは、葬式だった。

 そのころ祖母は、施設に入所していた。その日、たまたま父と叔父が、なにか事務的な手続きのために施設に行っていたらしい。祖母の顔を見て部屋を離れ、事務所で話をしているときに、所員が慌ててやってきて、息をしていないことを告げられたという。本当に眠るように静かな最期だったと、父から聞いた。

 職場に連絡して休みを取り、葬儀場に近い駅前のホテルを予約し帰省した。

 葬儀は親族だけで行われた。

棺の中の祖母は、病室で会ったときよりも痩せて小さくなっていた。もう大丈夫と言ってくれることもないのだと思った。しっかり目に焼き付けておこうとした。けれど、私の中にはすでにたくさんの祖母がいた。ふくよかだったころの祖母も、やせて病室にいる祖母も。いまさら焼き付けておく必要はなかった。同時に、もっと会いに行けばよかったと今更思った。また来るね、と言ったのに結局一度も行かなかったことを悔いた。

 大丈夫、大丈夫。

 声がした。

 もう会えなくて、悲しくて、大丈夫なんかではないのに。優しい声がして、優しい笑顔が浮かんできた。どれほど自分が祖母のことを好きだったのか知った。

 



 彼と出会ったのは、祖母の葬式から一年と少し経った頃だった。会社の飲み会で、初めて話した。他部署との交流をしましょうという目的の会だった。顔だけ、あるいは名前だけ知っているがあまり関りがなく直接話したことがない人の中のひとりだった。ゴールデンレトリバーみたいだという最初の印象は今も変わらない。ときどきチワワになることがあるけれど。

 二人で食事をするようになり、休みの日に出かける計画を立て、一緒に時間を過ごすことが増えていった。

 暖かいひだまりと吹く風の心地の良い日だった。川沿いに桜の木が一キロ以上にも続いて植えてある花見のスポットは、満開を少し過ぎた平日の昼間、人もぽつぽつとしかおらず、のんびり花見と散歩を楽しむには最高だった。葉桜が混じり、ちらちらと花びらの舞う土手を歩いた。

 道の少し先にひとつパラソルが開いていて、アイスクリンの売り子が立っていた。側のベンチで白髪の少し背の曲がった老夫婦らしい二人が肩がくっつくほど近くに座り、白いアイスクリンを食べていた。それを見て、彼がぽつりと言った。

「あんなふうに君と歳をとりたいなあ」

 結婚してくれと言われているのだと気付かなかった。

「つまり、あの、そういうことなんだ」

 土手を並んで歩きながら、彼は困ったように頭をかいていた。

 私たちも、露天のアイスクリンを買い、河川敷へおりる階段の途中に腰掛けた。

 コーンをかじりながら、どうやってごめんなさいと伝えるか考えていた。かじるものがなくなってしまうと、二人で黙って、川の流れをじっと眺めた。

 こちらが見上げようとした気配を感じたのか、彼もこちらを向いた。ごめんなさい、と口を開きかけたとき、声がした。

 大丈夫、大丈夫。

 祖母の優しい顔が浮かんだ。

 彼は一緒に歳をとりたいと言った。祖母は八八歳だった。今まで生きてきた年数をもう一度繰り返してもまだ足りない。祖母のように歳をとれるだろうか、と思った。

 ごめんなさい、という言葉の代わりに、私はこれまで誰にも話したことのなかった、結婚というものについての気持ちを話した。彼は相槌を打ちながら、ときどき黙り込む私を急かすこともなく、最後まで静かに聞いてくれた。

 そうか、と彼は息を吐き、きみが嫌ならしない、と言った。それからまた、私たちは土手を歩いた。しばらく無言のまま、歩いた。でも、と先に口を開いたのは、彼だった。

「ぼくと一緒にいることが嫌なわけじゃなさそうで、安心した」

 と言った。その通りだった。彼が嫌いなわけではなかった。むしろ、この人のそばにいるのは居心地が良いのだった。それは、彼が私のことをそのまま包み込んでしまうからだった。私が実は宇宙人ですと言っても、へえそうなんだ、くらいの呆気なさで、暢気に信じてしまいそうなくらいに。彼といるときは、私はただ私であればよかった。他の何者である必要もなかった。

 祖母の話をした。

 彼が幼い頃、兄と二人でサンタクロースを捕まえようとしたせいでプレゼントをもらい損ねた話を聞いた。

「二人で寂しくなったら、犬を飼うのはどう? ぼくはバーニーズがいいな」

 大型犬が二匹か、と思ったことは内緒だが、それも悪くないように思えた。

 それから結局、私は数年、彼を待たせた、こう問うた。気持ちはまだ変わらないのか、と。

 彼の答えはあっさりしていた。

「うん。ずっと、そうだよ」

 それから少しして、私は籍を入れた。

 役所を出た足でそのまま、二人で祖母の墓参りに行った。

「もっと早く、会わせられたら良かった」

「大丈夫。今、会えたよ」

 大丈夫、大丈夫。

「ばあちゃん、ありがとう」


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