9
「ところで、あたしの裸どうだった?」
矢野は悪戯っぽく僕を見て笑った。
とたんに僕の顔に血が上ってくる。多分今真っ赤になってる。でも暗いから相手に気づかれる心配だけはない。
今が夜でよかった。
「どうって、何が」
やっとそれだけ言った。
「きれいだった?」
矢野は僕を覗き込む。
どうでもいいじゃないか、しつこいなあ。
「あんまり見てなかったけど……。きれいだったよ」
僕は矢野の顔を直接見ないようにして言った。
「よかった。不細工だったらどうしようって思ってたの」
「すごくきれいだった。弱い自分が情けなくなるくらい」
「最後の言葉は余計だよ。智樹クンも必死で戦ってくれたじゃない。相手は五人もいたんだよ。下手したら殴り殺されかねないのに。だからあたしも恥ずかしいの我慢して精一杯踊ったんだから。……あたしは智樹クンのために踊ったんだよ」
胸にきゅんとくる言葉だったけど、やっぱり恥ずかしい。
「矢野の家も、離婚していたんだよね? 俺の所は半年前に離婚したけど……」
何とか話題を変えようとして、ついそんなことを言ってしまった。
言った後でまずいと思ったのは、その瞬間彼女の顔から笑みが消え、一気に表情が沈んでしまったから。
なんて馬鹿なんだ僕は。
「あたしは離婚してくれてせいせいしてるわ。あんな父親大嫌いだから」
つばを吐くように矢野は言った。
矢野の目が僕を見た。
父親を嫌いな理由を僕に聞いてほしそうだったけど、僕は黙っていた。
「智樹クンはお父さんと住んでるんだよね。やっぱり男の子はお父さんの方が好きなのかな」
僕としては、この話題はもうやめたかったけど矢野はまだ続けるつもりのようだ。
「好き嫌いは関係ないよ。経済的な理由かな。どっちかって言えば母親の方についていきたかった。なんと言っても別れた原因は父親の浮気なんだから」
「そうなんだ……。浮気って離婚の原因になるんだね」
何を言ってるんだ?
だいたい離婚の原因の第一位は浮気って決まっているじゃないか。古今東西を問わずに。
「じゃあ矢野のところは何が原因なわけ?」
「浮気なんて誰だってするじゃない。そんなのされたほうが我慢すればいいのよ。我慢できなけりゃすっぱり別れるのが正解よ。そうでしょ? 夫婦喧嘩ばっかりしてる家なんて嫌でしょ」
それには少しだけ賛成だ。悲しいけど正直な感想。
「浮気くらいって言うけど、じゃあ矢野の家は違ったわけ?」
「あたしの父親は、普段はおとなしくてやさしい人だったけど、お酒が入ると狂ったみたいに人が変わるやつだったの。大した理由も無くお母さんを殴るところを何度も見てきたわ」
「暴力夫だったのか」
「あれは酒乱よ。酔いが覚めたら必死で母さんに謝ってたもの。別れないでくれって」
「でもとうとう堪忍袋の緒が切れたってわけ?」
「単純じゃないんだけどね。あたしも何度か殴られたりしてたけど、そのくらいじゃ憎むことも無かったと思う」
そのくらいって、たいした理由も無く殴る父親に対して言う言葉かな。
憎しみを覚えるには十分な理由だと思うけど。
しばらくは黙って歩いた。
矢野の言葉は中途半端で途切れていた。僕は続きが気になったけど、黙っていた。
ふうっと息をはいて、決心したように矢野が言い出した。
「殴られたりするくらいならあたしはお父さんを許せると思うの。嫌いにはなるけど憎まないと思う。でも、あいつ……中学になるくらいからあたしを変な目で見るようになったの。あたしがお風呂に入ってるときに間違えた振りをして入って来たりして。ニヤニヤしながらおまえも大人に近づいたなあって……」
なるほど。自分の親からセクハラ受ける事は、確かに殴られるよりショックな事かもしれない。
男にはわからない悩みだ。
矢野がまたひとつため息を吐いてさらに言葉をつなごうとしたが、僕はもう聞きたくなかった。
「わかったよ。確かにおまえのほうがきつい思いしてきたみたいだな。でもさ、もう離婚したわけだし、いつまで引きずっててもしょうがないよ」
本当は矢野も話そうかどうか迷っていたみたいだ。
そうだよねと小さく言っただけで黙ってしまった。
僕の自転車の油の切れたギヤが、微かに、でも規則正しく僕らの歩く速度にあわせてキーキーと悲しげにないていた。