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矢野の自転車は二十一段変速機と、フロント、リヤサスペンション付きのかっこいいマウンテンバイクだった。
僕の安物とは違って、フィッシャーのブランド品だ。
安く見ても十万は下らないだろう。
矢野は案外自転車マニアなのかもしれない。
「いい自転車に乗ってるな」
無言なのもなんだし、ちょっとした興味で聞いてみたが、矢野は振り向いて不機嫌そうに言った。
「別に何でも良かったんだけど、その売り場にあった一番高いの買わせたの」
「買わせたって?」
「離婚する罰よ」
なるほど、そう言うことか。
その気持ちはとてもよくわかる。
僕の部屋にある最新CPU搭載のパソコンと同じってわけだ。
周囲は静かだったが、自転車で走り始めると風を切る音やチェーンの音で大声を出さないと会話は無理だった。
でも深夜の国道で大声を出すのも気が引ける。それに特別話すことがあるわけでもない今は、そのほうが好都合だ。
ゆるい左カーブを回るとコンビニエンスストアの明かりが見えてきた。
そして、その駐車スペースには妙に長いハンドルのついた派手な改造を施したバイクが四台止まっていた。
周囲に人影は無いけどまずい。
バイクの持ち主に見つかったらどうなるかわかったものじゃない。
一瞬僕は引き返すか、そのまま突っ切るか迷った。
コンビニで買い物中の暴走族が今にも出てきそうな気がする。
僕の前を走っている矢野は、そんな事お構いなしに平然と進んでいる。
僕だけ引き返す事はできない。
僕は矢野を追い立てるように、微かに『急げ!』と声をかけてスピードアップした。
僕が何を思っているのか、やっと矢野にも伝わったのだろう。
矢野は急にこぐスピードを速めた。
やや下り坂なのが好都合だった。
スピードがぐっと上がる。
コンビニの真横を通り過ぎる。
いいぞ。このままこのまま。
後ろで『ありがとうございました』という店員の声が聞こえた。
男達の話し声も何か聞こえて、すぐにエンジン音が響いてきた。
マフラーを改造しているバイクのバリバリという音が、必死でこぐ僕達の自転車に降りかかってくる。
まずい。追いかけてきている。振り向くとバイクのライトはあっという間に近づいてきた。
このまま国道を逃げてもすぐに追いつかれる。
風前の灯だ。
何とかしなければ。
ふと、この先の倉庫の間に左側に下りる階段があって、それが公園を回る遊歩道につながっていることを思い出した。
階段だ。あいつ等のバイクでは降りられないはずだ。
「そこ、左に入れ」
矢野に叫んだ。後ろのバイク達は、面白がって余裕であおって来る。
いつでも捕まえられると思って楽しんでいるのだ。
逃げるねずみをもてあそぶ猫の気持ちなのだろう。
矢野が左の路地に入った。道幅が二メートル程度の、狭い道だ。車は当然通れない。
ユーターンする場所もないからだ。
後ろのやつらは此処で少しあせったみたいだった。
いったん入り口で止まって話し合っている。
この先が階段だということも知っているのだろう。
階段の前に立っている車止めのポールの前で、矢野が止まった。
「智樹クン、階段だよ、あたし下りきれないよ」
「情けない事言うなよ、女王様、さっきまでの強気はどこいったんだ」
でも、と矢野がまだ躊躇している。
そんな僕らに気がついたのか、暴走族の連中がバイクを降りて走ってくる。
急がなければ。
「とにかく、矢野。俺の言葉を信じろ。フィッシャーのMTBだぞ。サスペンションだってついてるんだ。ペダルに体重かけて腰を後ろに引き気味にして浮かして一気にいけ。前ブレーキは使うなよ。ある程度スピードあるほうが安定するから」
矢野はやっと決心してくれた。
暗い階段の底めがけてこぎだす。僕もすぐにそれを追った。追っ手の手がもう少しで僕の肩に触れるところだった。
待て、この野郎、という叫び声が耳元にがんと来た。
その危機をすり抜けて僕は階段を一気に駆け下りる。
後ろでバイクの爆音が聞こえてきた。追ってくるつもりなのか?
不安定で振り向く事もできないが、すぐその後に金属が擦れる音がしてひどい騒音にとって変わる。
降りようとしたが改造マフラーが階段の角に引っかかってバランス崩したのに違いない。
ざまあみろだ。
それまでの恐怖が溶けて、胸がすっとした。
不良の気配が後方に去っていくと、風を切る音が耳に心地よかった。しかし僕のMTBは安物だから、サスペンションなんかついてない。
タイヤで少しだけ吸収されたショックがもろにハンドルから腕に伝わる。
暴れる自転車を腕と膝のばねでねじ伏せていく。
いったん平坦になって、さらに階段に変わるところでは軽くジャンプしてしまった。
矢野を見ると僕のアドバイス通りかわいいお尻をこっちに突き出して軽快に階段を下っていた。
なかなかいいぞ。上手いじゃないか。
無事に階段を駆け下ったところは、T字路になっている。どっちに行っても公園の遊歩道には違いないが、左に行けば元来た方向に戻ることになる。
「自転車で階段下りたのなんて初めて。でも案外面白いね」
荒い息を吐きながらも、矢野はのんきに感想なんか言っている。
「とにかくどっちに行くかだよ。左に行けば戻る方向だから、海に行くのは諦めないといけなくなる。でも、右に行くとやつらが待ち伏せしてるかもしれない」
ここは思案のしどころだ。
「私は右に行った方がいいと思う。初志貫徹の意味もあるけど、あいつらが待ち伏せするなら、逃げる方向の左の出口だって気がするから」
確かに、僕らが目的地を持って移動していることを奴らは知らないわけだから、普通に考えれば矢野の言うとおりだろう。
裏をかくことになるかもしれない。
「わかった。矢野の言うとおりにしよう。でもしばらくは自転車のライトは消していくから。溝にはまらないように注意しろよ」
「大丈夫よ。私のは階段だって下りれる高級MTBなんだから」
離婚した罰に買わせたMTBに少しは愛着が持てたみたいな言い方だった。
月明かり以外では街灯が所々うす青い光を投げかけるだけの狭い遊歩道を先に立ってゆっくり進んだ。
もし待ち伏せの気配がしたら、すぐに全力で引き返すつもりだった。
でもそれは心配しすぎだったようだ。
遊歩道の出口が見えても、奴らの気配は皆無だったから。
冷静に考えてみれば、自転車に乗った二人組み相手に、何の恨みもないのにそこまで粘着する意味はあまりないはずだ。
階段でこかしたバイクを引き上げるのも結構時間かかるだろうし。
緊張の糸はゆっくりほぐれていく。
出口の上り階段が見えてきた。
今度は自転車を担いで上がらないといけない。矢野の分と二台を担いで往復するのには少し鬱になるけど、不良たちに捕まることを考えたらなんでもない。
「じゃあ、最初に矢野の自転車を上に上げるから、ここで待ってて」
矢野がごめんねと珍しい言葉を口にして僕に自転車を預けたとき、階段とは反対方向から恐れていた声が聞こえてきた。