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目覚ましのベルが、凪いだ浅い眠りの海をゆっくり波立たたせる。
セットしていた時間の十二時二十分だ。
予定通り僕はジーンズに着替え、足音を立てないようにして自分の部屋を出た。
父は既に寝ているみたいだった。
マンションの自転車置き場から、街灯の少ない薄暗い道路にこぎ出る。
自転車に取り付けられた懐中電灯の頼りない光で、暗い道がほんのりと浮き上がる。
冬なんかは七時になれば暗くなるのだから、暗い街並みに免疫がないわけはない。
でも、深夜の町は人影もなく物音もほとんど聞こえない。
それに家の明かりも消えて真っ黒い窓が骸骨の目玉みたいに並んでいるだけで、気味が悪かった。
満月はというと、もう西の山に半分隠れようとしている。思ったよりも沈むのは早いかもしれない。
焦る事はないと思うけど、自転車をこぐ力に自然と力が入る。
待ち合わせ場所は自動販売機が幾つか並んでいて、他の場所と比べて少しは明るい場所だ。
そこに矢野も来ているはずだ。
本当は神社の近くなんて寂れたところじゃなくて、コンビニ辺りで待ち合わせするのがいいのだけど、そもそも中学生が出歩ける時間じゃないのだから仕方が無い。
しかし目的地に着いてみると、ガードレールにもたれかかって座り込んでいる人影はひとつだった。
きっと言い出しっぺの矢野が来られなくなったのだろう。
女はこれだからな。自転車を降りて近づく。
「矢野は無理だよ。女子が深夜外出なんて出来るわけないって」
しかし、意外なことに僕の言葉に返ってきたのは女の子の声だった。
「あたしの何が無理だって言うのよ」
自販機の明かりの中に立ち上がった矢野は口を尖らせて上目遣いに僕をにらんでいた。
とにかく僕らは自動販売機の段差に腰掛けて和夫を待つ事にした。
しかし深夜に誰もいない道端で二人きりだと、今まで矢野の事を女の子だなんて意識した事なかったのに、なんだかひどく居心地の悪さを感じてしまう。
「海に沈む満月が見たいなんて、なんでまた急に思ったんだよ」
「訳なんかないよ。見た事ないから見てみたいって思っただけ」
「じゃあ和夫や俺を誘ったのも理由なんかないわけ?」
「それには理由はあるよ。女の子の深夜の一人歩きなんて危なっかしくてできないでしょ」
「じゃあ俺達は女王様をお守りするナイトって訳か」
「ちゃんと守ってよね」
「勝手な事言うなよ。和夫はともかく俺はおまえに何の借りもないんだからな」
だんだんと会話がけんか腰になるようだった。
これだから矢野と話をするのは苦手なのだ。
半年前のパンツの色事件を思い出す。
新任の英語の教師は気さくな感じの若い男性教師だった。
楽しくなければ授業じゃない、というのが口癖の彼のちょっとふざけた授業は生徒にも受けていて、僕も割と好きな教師だった。
その中本先生が英会話の実習で英語での一問一答をやっていたときだ。
ホワッツカラーイズヨアパンティ?
先生の質問に女子は大騒ぎだった。
でも、やだあ先生のエッチとか言う言葉は決して非難する言葉ではなく、みんなの表情には笑いがあった。
ホワイト。と恥ずかしそうに一言答える生徒もいれば、マイパンティズカラーイズワインレッド、とか、アイドントハブアパンティとかふざけた答えを言って男子を笑わせるひょうきん者もいた。
そして矢野の番になった。僕は矢野の後ろの席だったから彼女の表情はわからなかったが、その声は明らかに震えていた。
しかし震えながらもはっきりとした発音でこう言った。
アイスィンク、ヨアクエスションイズ、セクシャルハラスメント。
アイルテルアバウトディスレッスン、トゥミスターオガタトゥモロー。
矢野の隣の女子がハンカチを渡したところを見ると、彼女は涙を流していたのだろう。
中本先生のふざけた表情が凍りついた。
それほど激しい反応が返ってくるなんて思いもしなかったのだろう。
ちなみにミスターオガタというのは教頭先生のことだ。
その場は中本先生が、少しふざけすぎた、すまないと謝って何とか収まったが、それからの彼の授業はなんともギクシャクしたものになってしまった。
なかなか和夫は現われない。
僕はもともと矢野のことなんかどうでも良かったのだ。
和夫に誘われたから来たのに、その和夫が来ないんじゃなんだか気持ちが冷めてきてしまう。
矢野が自分と同じつらい境遇にあることはわかるけど、同情する気持ちは湧いてこなかった。
仮に両親の離婚がショックで性格が変わったとしても、それは自分自身の問題だ。
つらいのはおまえだけじゃないんだ。
僕は冷たい人間だろうか。
「なんだかなあ。俺やっぱり帰るよ。ナイト役は和夫一人で何とかなるだろ」
気まずい雰囲気の中、僕は立ち上がる。
「ちょっと待ってよ。あたしを一人で置いていく気? それでも男なの?」
矢野が焦った声で僕を非難する。
「何とでも言えって」
むっときた僕はかまわずに自転車にまたがった。
「待ってって言ってるでしょ」
今度は叫び声に近い声だった。
民家が近くに無いとはいえ、夜中に騒がれるのはまずい。
まるで僕が変な事しているみたいじゃないか。
「和夫クンに電話してみる。だから少し待って」
さっきまでの攻撃的な声とは違って素直な言葉に、僕も少し反省して矢野が電話をするのを待った。
携帯は無事につながったけど、内容はあまり芳しくなかった。和夫は家を出るときに親に見つかったらしくて、遅れるという事だったのだ。
絶対追いつくから二人で出発してくれという言葉は、携帯を借りた僕の耳に和夫から直接聞かされた。
矢野を頼むという言葉までおまけについてきた。
親友の頼みならしかたがない。
そうして、僕達は二人で田原山の西側の海岸に向かって自転車をこぎ出したのだった。




