表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13


 四日前の夜の事だ。

 和夫から電話があったのは、父と二人での侘しいほか弁夕食を終えて食器類を流しに運ぼうとしているときだった。


 発泡スチロールの容器では、いくらなんでも寂しすぎるから家の器に移して食べたのだ。

 いいよ、後は父さんがやっておくからと言う父から受話器を受け取って僕は自分の部屋に向かった。


 和夫の能天気な声に、僕の不機嫌さは加速度を加えて突っ走りそうな気がした。


「よう、もう飯食ったか?」

 午後七時をとっくに回っているのだ。

 普通は終わっているだろうと言おうとしてやめた。

 あまり話をする気分じゃなかったのだ。


「何の用だよ。暇つぶしの話し相手になってやるほど今暇じゃないんだけど」

 父と二人の夕食時はいつも僕は気分が悪かった。


「いやあ、まあちょっとね。いいからベランダに出てみろよ。月がきれいだぜ」

 和夫はうちにもよく来るからこの電話がコードレスだというのはわかっているのだ。


 部屋の窓を開けてマンションの細長いベランダに出た。

 東の山の上に、黄色味をおびた満月が周囲の星をすべてなぎ払うかのように昇りつつあった。


「満月か。そういえば今日は中秋の名月だったな」

「そうさ。それで宿題のことも思い出しただろ」

 宿題……。国語の宿題があったのだった。

 中秋の名月を見て俳句をひとつ作ってくること、だった。


 目の前の道路を車がエンジンふかしながら上っていった。 

 一瞬電話が聞こえなかった。


「え、何か言った?」

 聞き返す僕に、和夫がすまなそうに言い出した。

「悪いけどさ、智樹、国語得意だろ、俳句、俺の分も作ってくれないかなと思ってさ」

 少しも悪びれていない声で和夫がそう言う。

 怒る気もしなかった。


「自分の事は自分でしろっての。そんなことならもう切るよ」

「ちょっと待って。それならお互いに作って批評し合おうぜ」

 まったく、しょうがないやつだと思いながらも和夫のつくる俳句に少し興味が湧いた。

 どんな奇妙な俳句が聞けるのやら。


「わかった、じゃあおたくからどうぞ」

 僕が言うと、和夫は少し考えてからおもむろに詠み始めた。

「細雲が うどんに見える 秋の月、こんなのはどうかな」

 月見うどんか。

 腹筋が引きつるのを感じた。

 考えてみたら今日初めて笑っている。


「それって単に腹が減ってるだけじゃないか」

 言いながら笑い声がこぼれてしまった。

「何だよ、じゃあおまえならどう詠むんだよ。お手本をどうぞ、優等生さん」

 カチンと来る言い方だ。挑戦されたのなら受けてたたざるを得ないな。

 目の前に浮かぶ黄色くて丸い岩を眺めながら僕はそのまま心に浮かんだ言葉を吐き出した。


「物干の 間に浮かぶ 遠い月、てのはどうかな」

「なんだよ、それって見たままじゃん」

「いやね、遠い月というのがミソなんだよなあ。この心境わかってくれないかな」

 つい本音が出てしまう。


「まあいいけどさ、実は電話したのはもうひとつ理由があるんだ」

 和夫が話題を変えた。やっと本題に入る気のようだ。

「おまえってさ、満月が海に沈むところ見たことある?」

 海に沈む月ときたか。考えてみると夕陽の写真は良く見るけど、満月の沈むところは写真でさえあまり見かけたことはない。


 記憶の中をまさぐっている僕に、和夫がまた突飛なことを言い始めた。


「俺さ。満月って海に沈まないんじゃないかって思ったんだ。いや、もちろん物理的に西の海に沈むのはわかってるけどさ。その映像をあまり見かけないってことは、月が沈むよりも早く太陽が出てしまって、隠れてしまうんじゃないかってさ、少なくとも日本ではね」

 そんな馬鹿なと言おうとした僕だけど、その後の和夫の理屈付けには少し納得させられてしまった。


「でもそんなことは満月の月没の時間をネットで調べればすぐにわかるんじゃないか?」

「そうさ。俺もそうしたんだよ。そして今夜がその少ないチャンスの日だってわかったんだ。月没の時間は二時になっていたし、今夜は雲ひとつ無い夜だ」

 悪い予感というのかな。次の和夫の言葉が連想されてきた。


「どうだ? 長い人生の中でもあまりこない満月の沈む海を見に行かないか」

 やっぱり。深夜外出のお誘いだ。

 父が許すはずがない。母も以前よく言っていた。

 夜出歩くのは不良の始まりだって。

 でも僕はすぐに和夫に返事をした。もちろんOKの返事だ。


 母はもういないし、父に怒られることなんてなんとも思わない。二人は僕を裏切った憎い敵なのだから。


「しかし夜中におまえと二人でサイクリングってのは、あんまり気が進まないけどね」

 僕の言葉に対する和夫の返事には意外な事実が含まれていた。


「実は二人きりって訳じゃないんだ。同行者がもう一人。実はそいつの提案なんだけどね」 

「誰だよそれ。もったいぶらずに言えよ」

「矢野さ。矢野鮎子。あいつが言い出したんだ。満月が海に沈むところを見たいって」

 思わず彼女の顔が思い浮かぶ。


 鼻筋の通った端正な顔つきに少し太めの眉毛。美少女といっていい彼女だったが、一年のときとは違って今はつんとすました感じで、なんだかとっつきにくくなっていた。


 去年は教室の中で彼女の笑い声をよく聞いたものだけど、最近は一人でいる事のほうが多いようだ。

 昼休みには食事を終えるとすぐにどこかへ行ってしまう。

 多分図書室だろうけど……。僕が苦手な女子の一人だった。


「でも、何で矢野が和夫にそんなこと言うわけ? 矢野が電話してきたのか?」

「いやね。電話したのは俺の方なんだけど。あいつも勉強はできるだろ。ちょっと俳句の意見を聞こうかなってさ」

「なるほど、それで交換条件を出されたって訳だな。でもなんで俺まで誘うんだよ」

「矢野に言われたんだ。二人きりじゃなんだし、誰かもう一人誘って三人で行こうって。まあ、俺一人じゃナイトとして心細いんじゃないのか」

「自分で言ってんなよ。なんだよ、それっておまえ馬鹿にされてるんじゃないの? むかつかないのか?」

「俺はいいんだよ。矢野の願いがかなえばさ」

 なるほど、そういうことか。和夫は矢野に好意を持っているってことだ。つまりほれた弱みって奴だ。


 そういうことなら了解、と答えた僕に、


「じゃあ十二時半に神社の近く、自動販売機の前でな」

 和夫はそう言うと目的完了とばかりにあっさり電話を切った。

 西向きの海まで自転車で約一時間だ。少し時間に余裕を持って十二時半というわけだろう。

 前もってきちんと考えていたんだな。


 僕は矢野のことを少し思い出した。あそこもちょっと前に親が離婚していたのだ。

 まったく、最近の大人はどうしてこんなに簡単に離婚できるのだろうか。子供までいるというのに?


 そういえば矢野の性格が暗くなったのも、両親の離婚の所為なのかも知れない。うちの両親が別れることになるまでにもいろんなことがあった。


 発端は父の携帯電話のメール着信音だ。

 父はタバコを買いに外に出ていたから、病院からの緊急連絡だったらといって母がそのメールを開けて読んでみたのだ。唖然とした母の顔。

 何が書いてあったの? と聞く小学生だったその頃の僕に、母は無言で立ち上がった。

 それまで見た事も無かった母の顔。

 今にして思えば、あれは恐れと不信、それに悲しみの混じった表情だった。


 それから正式に別れる事になるまでの間に、なんどもヒステリックにわめく母と言い訳をする情けない父、という大人の世界を嫌というほど見せ付けられたのだ。


 やっと協議離婚が成立して母がこの部屋を出て行ったのが半年前の事だった。

 離婚する事になって僕は本当のところほっとしていた。

 これで両親のけんかを見ないで済む、母の金切り声や皿の割れる音を聞かないで済むと、泣きながら思った。

 矢野のところも同じような事だったのだろうか。


 ひんやりとした外の空気をたっぷり吸い込んで、僕は部屋に戻った。居間を通り過ぎて父の部屋を覗いてみる。

 半開きの扉からのぞくと、父はパソコンでインターネット中だった。

 僕の気配に気づいたのか、手を止めて父が振り向いた。

 少し驚いた表情をしているのは、僕が父親に話し掛けることが最近ほとんど無い事の表れだろう。


「中秋の名月を見て俳句作るのが宿題だったんだけど、いいのが思いつかなくて……父さん何かない?」

 和夫との会話で僕は少し機嫌が良くなっていたのだ。

 深夜のサイクリングという不良行為へのわくわく感もあった。

 父親を試してやれ、という気持ちで聞いてみた。もちろん父親に教えを請うつもりなんか全然無い。


 父がどんな変な俳句を作るか興味本位だった。

 父は最初困ったような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて言った。


「俳句かあ。俳句は季語とかあって難しいんだよな。そうだな、ちょっと待って」

 目をつぶって考え込んでいる。何かを思い出すように、そのまま上を見上げて字数を合わせるように首を微かに振っていた。

 そんなに深く考える事でもないだろうに。中学生の宿題なのだ。

 適当でいいのだ。

 息子相手にそんなに格好つけなくったって。

 そんな言葉がもう少しで出ようとしたとき、父が目を開けた。そしてすっと一息吸い込んで言った。


「……去る人の 影まで照らす お月様、こんな感じでどうかな」

 父が笑った。父のそんな笑顔なんて久しぶりに見た。

 父の笑顔が見られなくなったのは僕が追い詰めたからだけど、その目じりのしわは僕自身をほっとさせてくれる優しいしわだった。


「なにそれ。意味わかんないよ」

 でも僕は笑顔を返す事も無く、そっけなくそう言うと自分の部屋に戻った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ