12
「行こう。とにかく頂上まで歩こうぜ、もう少しなんだから」
矢野が力なく立ち上がる。僕らは重い足取りで階段を上り始めた。
何か僕に言ってほしいのはわかる。
僕としてはそれを考える時間がほしかった。
展望台が見えてきた。
屋根はない。木の柵に覆われた簡単な造りの展望所だった。最後の一段を上り終えた僕らを、真ん丸い月が微笑むように迎えてくれた。
まだ水平線からはいくらか高いところにある。
ひょっとしたら、和夫が来るまでなんとかもつかもしれない。
「俺は見舞いに行くべきだと思うよ。傷つくかもしれないけど、もし行かなかったら後悔するかもしれないだろ。傷はきっと癒えるけど後悔は消えてなくならないと思う。死んだ人には二度と会えないんだから。後悔するくらいなら会いに行ったほうがいいよ。本当は矢野もそうしたいんだろ。俺も付き合うから」
懸命に考えてやっと出した僕の答えは、何の変哲もないあたりまえな常識論でしかない。
しかしそれで本当にいいのだろうか。僕自身の問題だったらたぶん見舞いに行くだろう。
でも、僕は矢野みたいにひどい事をされたわけじゃない。
そう考えると、さっきの自分自身の言葉がすごくつまらない言葉に思えてくる。
どうしてもっと気の利いたことが言えないんだろう。
でもそんなつまらない僕の言葉に、矢野はうんとひとつうなずいた。
「そうだね、ありがとう。全部話したら少し気が楽になったみたい」
矢野が微かに笑った。僕はその笑顔にほっとすると同時に力が抜けてしまった。
しばらく二人とも無言のまま静かな時間だけが過ぎていった。
遠くで梟の鳴く声だけが、堰き止められていたわけではなく、ちゃんと時間が流れている事を教えてくれていた。
「矢野のお父さんは病気だというのに、うちの親父ときたらしょうも無い俳句詠んでへらへらしてるんだもんな、嫌になっちゃうよ」
とりあえず雰囲気を変えたかったから、そんな事を言ってみた。
「へえ、どんな俳句? ひょっとして今日の宿題、代わりに頼んだの?」
涙を手でぬぐいながら聞く矢野に、まさか、と言って数時間前に聞かされた句を詠んでやった。
俳句って、しょうもないと思ってもなんでか心に残って憶えているものだな、なんて思いながら。
矢野は目をつぶって、その情景を想像し始める。
そしてゆっくり言った。
「お母さんが出て行った夜も、きっと満月だったんだね」
ため息混じりに出てきたその言葉で、やっと僕にもその句の情景が見えてきた。
母が出て行った夜は確かに満月だった。
街灯に照らされた母の顔を僕は見つめていた。
マンションの前の道路で、時折行き交う車のライトが交差する中。
「別に死に別れするわけじゃないんだから、会いたくなったらいつでも会えるんだからね」
母は意外に元気な声で僕にそう言った。
頬が引きつっていると思ったけど、よく見たら笑っているようだった。
それまでずっと父と喧嘩ばかりしてわめいていたのに、その日の母は久しぶりの笑顔を僕に見せてくれていた。
「父さんなんか嫌いだよ。僕はついて行きたいよ」
声が震えてうまく言えなかったけど、なんとかそれだけは伝えられた。
「父さんの浮気は良くないけど、それだけでもないのよ。今は母さんも悪かったと思うのよ」
僕には母のその言葉は信じられなかった。一方的に父が悪いに決まっているから。
残酷なタクシーがマンションの車止めに入ってきた。
母さんがボストンバッグを持ち上げる。
「じゃあね。たまに電話するわ。離婚しても母さんは母さんだから。智樹の母親である事には変わりはないんだからね。それと、父さんと仲良くしてね」
タクシーに向かいながら母さんはつぶやく。
「もう父さんを愛してないの」
タクシーのドアを開けようとしたその手は、僕の叫ぶような問いかけに一瞬止まった。
でもすぐにドアを開けて、母さんは乗り込んだ。
唇をかんだ母さんの顔が、すぐに影に入り見えなくなった。
そしてそのままタクシーは発車した。
走って追いかけたかったけど、できなかった。
追いかけても、もし止まってくれなかったら僕はどうしたらいいんだ?
その想像が怖くて足が動かなかった。
あの時、父は僕らを上から見守っていたのだろう。
三階のベランダから見下ろした僕らの影は、街灯の反対側に伸びていたはずだ。
その影を満月は照らしていた。
影は次第に薄くなって消えていくように見えたのだろう。
それは、二人の愛の消え去り方によく似ていたのかもしれない。
最初は愛しあって結婚して、そして子供ができる。
嬉しくてたまらなかっただろうに。
やがては気持ちが離れていく。
子供が育つのと反比例して夫婦の愛情というのは消えていくものなのだろうか。
「きっとお父さんも悲しかったんだと思うよ。でもどうする事も出来ないんだよ」
矢野のそんな言葉は、昨日までの僕なら反発するだけだったと思う。
でも、今はそうであって欲しいと願っていた。