11
「君たち。こんな夜中に何してるのかな。ちょっとこっちに来なさい」
背の高い警官だった。
彼は彫りの深い顔立ちで、不気味な笑みを浮かべていた。
もう一人の警官が、矢野の横に立っている。
そっちは少し太っていて、年齢も上のようだった。
これで終わりだ。
海に沈む月を見るどころじゃない。補導されて前科一犯の不良少女と不良少年のできあがり。
きっと、明朝には校長先生に呼ばれて、きついお説教が待っているだろう。
あきらめて警官の指示に従いパトカーに乗り込もうとしていたら、遠くから軽薄なホーンの音が聞こえてきた。
マフラーをカットしたバイクの爆音も聞こえる。
さっきの暴走族達なのだろうか?
ヘッドライトはパトカーにまっすぐ突っ込んでくる。
何をするつもりだろう。警官にちょっと下がってと言われて歩道側に僕らは移動した。
リーダー格の確か坂崎が、持っていた金属バットをパトカーのフロントガラスに叩き込んだ。
ミシッという音を立ててフロントガラスにひびが入る。
坊主頭も派手な叫び声をあげながら、持っていた空き缶を警官に向けて投げつけた。
慌てた警官達は、逃げていく暴走族を追うのが一瞬遅れたが、すぐにパトカーに乗り込むとサイレンを高らかに鳴らしながら追跡しだした。
遠ざかる爆音とサイレンの音。
「ひょっとして僕らを助けてくれたのかな」
静寂の中に僕らはぽつんと残された。
「憎たらしい奴らだったけど、それほど悪党でもないのかもね」
もしそうだとしたら、それは矢野がそうさせたんだ。
そう言いたかったけど、なんとなく口に出せなかった。
とにかく僕らはその場を後にして、急いで展望台の入り口に向かった。
ススキに覆われた狭い階段脇に押してきた自転車を止めると、街灯もなく月明かりだけに照らされた階段を二人で上り始めた。
まだ満月は沈んでいなかったのだ。僕らの進路を柔らかな光で照らし出してくれている。
「和夫はどうなってるのかな。こっちの展望台に居るって連絡したほうがいいんじゃない?」
ふと和夫の事を思い出して矢野に言うと、彼女は、そうね、と返事をして、頂上に向かう途中のベンチに腰掛けてジャージのポケットから携帯を取り出した。
「ちょうどよかったわ。今分かれ道に差し掛かったところだって」
矢野が携帯を閉じる。
さて、先を急ごうとして振り向くと矢野はまだベンチに座ったままだった。
疲れたのかな。まあそうだろうな、いろいろあったから。
「少し休んでいくか。和夫が来るまでここで待つ?」
暗さに目の慣れた僕には、星明かりに照らされた矢野の瞳から涙が一つ零れ落ちるのが見えた。
張り詰めていた糸が切れたということだろうか。
「実はさっきの話、まだ続きがあるんだ……」
とつとつと話し出した矢野の声は、無表情を装いながらも震えを隠し切れないでいた。
「セクハラされてたって言ったけど、直接の離婚の理由はもっとひどい事なの。母が職場の忘年会で遅くなる日の事だった。
私がベッドに入って電気を消したとたん、父がドアを開けて入ってきて無言のままで私にのしかかってきたのよ。それまではふざけた振りしていたのに、まったく何もしゃべらないで私の体を触ってきた。
お酒くさい息を吐きかけられて、乱暴に胸をもまれて痛かった。でもそんな痛みより、嫌ってはいたけど実の父が私の部屋に忍び込んできた事のほうがショックで、私は身動きもできなかった。パンツも脱がされそうになったけど何の抵抗もできなかった」
一呼吸おいた矢野に止めろと言ったが、何も聞こえないように先を話し出した。
「もうだめだ。死んでしまう。目も前が真っ暗になって吐き気がしてきたの。後ろ向きにされてパンツ脱がされたときとうとう本当に吐いちゃってね。
あたしのベッドの上はすごい事になってた。すっぱい匂いが立ち上ってさ。そしてその時玄関が開いて母が帰ってきたの。
いつもは二次会まで行って午前様になるのも珍しくない母が、一次会で悪酔いしたらしくてね。そのときの母は鬼みたいになってたわ。
変態親父は、違うんだ、この子が具合悪そうだったから。なんて馬鹿なこと言ってたけど、お尻丸出しのあたし見たら一目瞭然じゃない。
母はすぐに台所から出刃包丁を持ってきて、あなたを殺して私も死ぬって喚いていた。
でも、そうなったら鮎子はどうなるんだよなんて父ががらにもないことを叫んで危うくワイドショーネタにはならずにすんだの。
でもね。私が出刃包丁持っていたら絶対刺し殺していたと思う。その事があってから父が出て行くまでに何度も台所で包丁を手にして父を刺すことを想像していたんだから。
本当に殺してやりたかった。死ねばいいと何度も思っていたの」
矢野がそこまで一気に話して、次はいきなり笑い出した。
なんとも場違いな笑いだ。
僕は矢野の背中をさすってやる事しかできなかった。
慰める言葉なんて、何も出てこなかった。
「でもね、私の願いがかなったのよ。私って超能力でもあるのかな。先週知ったんだけど、父が癌で死にそうなんだって。離婚した後に見つかったんだけど。膵臓癌でね。もう三ヶ月もちそうも無いんだって。母は自業自得だなんて言ってた」
矢野の笑い声が電池の切れたおもちゃみたいに次第に小さくなっていって、鼻をすすり上げる音に変わっていく。
「でもさ、なんだかかわいそうで……。死んでしまえって何度も思っていたのに、本当に死んでしまうなんて。死んでしまったらほっぺたひっぱたく事もできないじゃないの。
だから見舞いに行ってやりたい気もするんだ。恨みはたくさんあるけど、楽しかった思い出だって少しはあるんだから。
でも母から絶対行くなって言われてるの。傷つくだけだからって」
無言の僕を矢野は涙にぬれた顔で見上げている。
何も言えない僕に、矢野が再び口を開く。
「私も諦めてたの。母さんの言う通りかなって。でも、……昨日手紙がきたの。父さんから」
「病院で書いたんだ」
「そう。すごく汚い字で、『すまなかった。会いたい』って、それだけ。父さんって以前習字の先生やってたくらいなんだよ。それが、小学生みたいなひどい字で。表書きは看護婦さんに書いてもらったんだろうね、きれいな女の人の字体だったから。だから母さんも気づかずに私のところまで手紙が届いたんだよ」
やっぱりなんて返事したらいいんだ?
困ってしまう。
安易にアドバイスできるような問題じゃない。