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「智樹クン、お父さんの浮気相手に会ったことあるの?」
急に矢野が聞いてきた。
さっきから僕が黙り込んでいたから、今度は矢野が暗い雰囲気を何とかしたかったのだろう。
「実はあるよ。二年前だったかな。父さんにバトミントンに連れて行かれて、職場の人たちと、楽しんだんだけど、そこで会ったんだ。バトミントンのうまい人だったな。父さんはコテンパンにやられてた。おでこに汗を光らせて、僕に笑いかけたあの人は、そのときは凄くきれいだと思った」
バトミントンはね、力いっぱい打つだけじゃ駄目なんだよ。フェイントっていって軽く打ってみたりして強弱をつけるの。そうすると相手はたくさん走らされて、ばててくるのよ。
コートの横でへばっている父さんを笑いながら、彼女は僕の肩を叩いて教えてくれた。
兄弟がいない僕には年の離れたお姉さんができたみたいに新鮮な喜びだった。
でもその彼女が僕の家庭を崩壊させてしまったのだ。
大好きだった母親を追い出してしまった。
今はまだ再婚なんて父さんの口から出ないけど、一年もしたらきっとそうなるのだろう。
歩く速度がとたんにゆっくりになる。
沈む月を見るために海に行こうという気持ちは、砂浜に落ちた水滴みたいにしぼんでしまった。
「初対面で好感持ってしまったから、裏切られた気持ちが強かったんだね」
「そうだと思う。その人が父さんの浮気相手、というか不倫相手だってわかった二度目のとき、泥棒猫って言ってやった。あの人、最初ぽかんとしてたけど、すぐに口がゆがんで、涙流してた。泣くくらいなら父さんを盗むんじゃないよ」
市民体育館の照明の中で、光る雫を何滴も落としていたあの人の顔が、僕の心を少しだけ痛くした。
「それってちょっとひどいよ。どんな状況でも男女が愛し合うのは正しいって何かの本で読んだよ」
てっきり賞賛の言葉を聞けるものと思っていた僕は、矢野のきつい口調につい足が止まってしまう。
それなのに矢野はお構いなしに進んでいく。
五メートルくらい離れたところで、気を取り直して矢野を追いかけた。
すぐに横並びになった。
「結婚しててもしてなくても、人が人を好きになるのはどうしようもない事だと思うよ」
また矢野が言った。
「でも、人に迷惑かけるのはいけないことだろ。その人と父さんが愛しあってしまったら、母さんや俺はどうなるんだよ。無責任じゃないか」
最初のショックが冷めてやっと矢野に言い返した。
矢野はこっちを見てさびしげに少し笑った。
「結婚してなくても、その人とお父さんが愛しあったら、悲しむ人がいる。ということもあるでしょ」
「どういうこと?」
「あなたの父さんと母さんの恋愛だって、別な誰かを失恋に導いたかもしれないじゃない。結婚したら恋愛してはいけないというのは、子供の養育を第一義に考える宗教的な理想論だって書いてたわ」
「本の受け売りするのはかまわないけど、そんな本は男の都合ばかり書いて男受け狙っただけだよ。現実的じゃないよ」
矢野は少し黙った。
自分が信じている考え方をけなされてむっときているみたいだ。
「人を本気で憎んだ事の無い人には……どんな状況でも愛しあう事が尊いという事はわからないのよ」
矢野の捨て台詞だ。
そう決め付けられると、僕も二の句がつげなくなってしまう。
矢野との言い合いに夢中になっていた所為だろう、派手な赤色灯を屋根に取り付けたその車が対抗車線に止まっているのにはまったく気づかなかった。
ドアが開いて二人の警官がするりと出てきた。
二十メートルの距離はすぐに縮まった。