【一】
今日も風は来ない……
おしのは店の二階から鳥波山を見て安心と落胆の混じった溜息をついた。例年なら春のこの時期、南から強い風が吹いて鳥波山に吊るし雲がかかる。しかし今年の風はどこで足踏みしているのか、一向に吹く気配がない。
「来年の春また来る。その時もう一度、返事を聞かせて欲しい」
北前船の若き船頭・重蔵がおしのにそう言い残して大阪に向かう船で去ったのは、去年の秋のことだ。望外の金が手に入ったから、おしのを身請けして女房にしたい。重蔵にそう言われたおしのだったが、そんな幸せが本当のことだと思えず、断ってしまった。それでも別れ際に重蔵は春にまた来ると言ったのだ。
坂巻から真鴨川を遡ること五里、貧しい農村でおしのは生まれた。十年前、おしのが九歳の年、この地方は凶作に見舞われた。おしののいた村でも田を捨てる者が続出した。おしのの両親もおしのを残して逃げた。両親の年貢を肩代わりした肝煎はおしのを女衒に売り、女衒はおしのをここ坂巻の遊郭に売った。
「花巻、もう起きてたのか」
窓枠に腰掛けて外を見ていたおしのの背後から遠丸屋政五郎の声がした。いつもおしのを名指す馴染みの客だ。
「すみません。寒かったですか?」
おしのが障子を閉めようとするのを政五郎が床の中から身振りで制した。
「構わんよ。今日も風は無いか……」
北前船は春の風に乗ってやって来る。風が吹かない今年は入港が大きく遅れていた。廻船問屋である政五郎にとって船が入らないのは死活問題だ。
「船の来ない坂巻は抜け殻のようなモンだ。郭も閑古鳥だな」
港の遊郭も船が入らなければ商売上がったりだ。海の男は金離れがいい。板子一枚下は地獄。いつ死んでもおかしくない彼らだ。浮世の金に未練は無いのだろう。
「まったく。こんな中でも来てくださるのなんて、遠丸屋さんくらいです」
「おいおい、こんなところで遊んでる場合じゃないとでも言うのか?」
政五郎の口調はあくまでおどけたものだ。これくらいのことで気を悪くするような二人の仲でもない。
「とんでもない。本当にありがたいと思っているんですよ」
「ありがたい……か。嬉しいと言ってもらいたいところだがな」
今度はおどけとも本音ともつかない。
「もちろん嬉しいですよ」
おしのは精一杯の品を作って応えた。
「言葉通り受け取っておくよ。どうせ今日も金策に走らんといかんのだ。心の張りがなければやってられんよ」
政五郎が自らに気合を入れるように、両の頬を手でパシパシと叩きながら床を出た。おしのは政五郎が褌を締め終わるのを待って、衣紋掛けから絣の小袖を取りその肩に掛けてやった。政五郎が帯を締めている横でおしのは羽織を持って階下に降りた。すぐに降りてきた政五郎に玄関先で羽織を渡し、そのまま店を出ていく政五郎を見送った。