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人体模型

作者: 村崎羯諦

「この人体模型、リアルすぎ。気持ち悪ー」


 生徒の声が理科室に弾んだ。笑いが起こり、誰かが手を伸ばす。


「はいはい、触らないの」


 理科教師である飯浜由佳の声がすぐに飛ぶ。生徒の指先は私に届く前に止まり、気まずそうな笑いが広がった。彼女は白衣の裾を揺らしながらこちらを一瞥し、彼女の視線と私の固定された視線がぶつかった。しかし彼女はすぐに視線を逸らし、生徒たちからの話しかけに応えていく。


 私は黙って理科室の後ろに立ち続けている。この位置からは、教卓に並ぶフラスコやビーカー、窓際の植物標本、そして黒板に映る文字までがよく見える。


 蛍光灯が一瞬だけ明滅し、ガラス瓶に沈む標本が光を返す。薬品の刺すような匂いと、空気中に漂うチョークの粉の粉末が混じり合っている。


 生徒の顔も、いつも同じ角度から見下ろしてきた。笑いながら薬品をこぼす者。居眠りをして頬杖をつく者。いたずらに骨格標本を揺らす者。授業の最中、彼らは時に無関心で、時にからかい半分で、視線を向けてくる。


 そして、ここからは黒板の前で生徒たちに語りかける彼女の姿を見つめ続けることができた。腰近くまで伸びた長い黒髪も、控えめに色が塗られた爪先も、白衣の裾から覗く陶器のように白い肌も。自信なさげに見当違いな受け答えをする生徒を慈しむ、穏やかな微笑みも。


 授業が終わり、人がいなくなった放課後、遮光カーテンにて閉め切られた暗闇の中で、私はよく彼女の輪郭を思い浮かべた。そしてその度に、私は私がここにいる意味を感じ取ることができた。


 私が立つ台座の下から聞こえてくる微かな水音や駆動音を聞きながら私は考える。


 私は彼女を愛している。そして、彼女も私のことを愛している。これは疑いようのない事実であるということを。



 ある日の放課後だった。


 いつも通り理科室は生徒の喧騒を吐き出した後の静けさに包まれており、窓際に沈む夕陽の光が、ガラス瓶の標本を赤く染めていた。


 校庭や職員室から離れた棟にあるこの理科室には、この時間帯になると人の気配が消えてなくなる。しかし、その沈黙を破って、二人の教師が入ってきた。


 白衣姿の彼女と、ネクタイを緩めた男性教師。私は彼のことを知っていた。国語の教師である大和田という男だった。大和田の声は低く押し殺されていたが、熱を帯びている。


「いつまで俺を避けるつもりなんだよ。同じ学校で働いているんだ、誤魔化せると思うな」


 彼女は背筋を伸ばしたまま、冷ややかに答える。


「やめてください。ここは職場ですよ」

「職場? それが一体なんだっていうんだよ。それに……飯浜先生こそ、つい最近まで他の教師と仲良くやってたじゃないか。なんで俺がダメなんだよ」


 大和田の声は荒くなり、机を叩く音が理科室に響く。フラスコが震え、液体がかすかに揺れた。私は黙って立っていた。いつものように、ただ見ていた。


「やめてください」


 彼女が一歩後ずさる。しかし大和田は執拗に近づき、その影が私の足元まで伸びてくる。


「なら、力づくで思い知らせてやる」


 引き出しが開く音。鈍い金属の光。大和田の手には刃物が握られていた。夕陽が反射して、その輪郭を赤く縁取る。


 彼女が声を詰まらせる。理科室の空気が凍りつく。


 その瞬間、私は動いた。


 関節が軋みを上げる。金属の支柱に固定されていた足を無理やり解放し、床を踏みしめた。身体に繋がれていた管を引きずりながら、私は彼らに近づいていく。乾いた音が室内に響き、二人の視線が同時に私に向けられる。


 大和田が私に気がつき、驚愕の表情でこちらを見た。私は腕を伸ばし、刃を握る手を押さえ込んだ。骨と筋肉が悲鳴をあげるように軋む。彼女の瞳が大きく見開かれ、吐息が私の耳にかすかに届く。


 大和田が悲鳴を上げる。恐怖に駆られ、刃を落とすと、よろめきながら理科室から逃げ去っていった。


 静寂が戻る。落ちた刃物が床に転がり、蛍光灯の白い光を鈍く反射している。私は腕を下ろした。軋む音がまだ関節に残響している。


 視界の端で、彼女が肩で息をしているのが見えた。だが、その瞳は震えていなかった。むしろ、深い安堵と陶酔がそこにあった。


 彼女は微笑み、もたれかかるように私を抱きしめる。彼女が私の左ほおをなぞる。皮膚が剥がされた箇所を彼女の指先が触れ、焼けるような痛みが骨の髄まで走る。ただ、私は叫ぶこともできない。彼女が接着剤で塗り固めた唇はわずかにも開くことができないのだから。


「愛してる、谷川先生。これからもずっと私の側で私のことを見守っていて」


 彼女は私の手を引き、再び私を台座の上へ導く。足を固定し、私に繋がれた排泄と点滴用の管を注意深く確認した後、狂気と愛情がないまぜになった表情を浮かべて私に口付けをした。


 私はわかっていた。ずっとここに立ち続ける理由を。かつてこの学校で教鞭を執っていた、谷川という教師はもういない。存在するのは、愛する彼女の手で皮膚を剥がされ、筋肉を塗装され、人体模型として飾られた模型のみ。


「助けてくれてありがとう。でも、もう勝手に動かないでね。あなたは私の永遠の人体模型なんだから」


 私は沈黙した。その言葉は命令でもあり、約束でもあった。理科室の蛍光灯が明滅し、白い光の中で俺は再び立ち尽くした。静寂な空間の中、台座の下からは微かな水音や駆動音が聞こえてくるだけだった。

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