第1章 天雷編 第4話:灘での修行
灘五郷での戦いを終えた結愛は、白瀧の蔵に身を寄せ、新たな修行の日々を送っていた。朝は白瀧の指導のもと、勾玉の力を操るための訓練。日中は、灘五郷の蔵元で酒造りの見習いとして働き、酒米や水、麹に触れる。夜は、天雷と共に邪神の気配を探り、酒神たちの心の声に耳を傾ける。
「結愛、もっと心を澄ませろ。勾玉は、お前の心の鏡だ。お前の心が淀んでいては、酒神の声は聞こえん。雑念は捨て、ただ、酒の声に耳を傾けるのだ」
白瀧の言葉は厳格だが、その奥には深い慈愛が感じられた。白瀧は、結愛が心のどこかに抱えている「本当にこの力を使っていいのか」という迷いを見抜いていた。結愛は、言われた通り勾玉を胸に抱き、心を無にしていく。目を閉じ、呼吸を整え、心の湖面を凪いでいく。すると、遠くの蔵から、酒神たちの声が聞こえてくる。
『今年の米は、昨年より良い出来だ……!この米なら、去年の大吟醸を超えられる!』
『だが、発酵が少し遅れている……。このままでは、目標の酒質には達しないかもしれない……。この不安を、どうすればいい……』
『杜氏の腕を信じよう。彼の長年の経験と勘が、必ず最高の酒を造ってくれる。蔵人たちの想いは、一つだ……』
力強く、そして繊細な、男酒たちの声が結愛の心に響く。それは単なる言葉ではなく、喜び、不安、希望、信頼といった、蔵人たちの情熱が込められた感情そのものだった。結愛は、その声の一つ一つに耳を傾け、彼らが抱える不安や期待を理解しようと努めた。故郷の酒蔵で感じた温かい声とはまた違う、灘ならではの骨太で、時に厳しい声だった。
「まだまだだな。お前の力は、ただ酒神を癒すだけのものではない。その声を聞き、酒神が抱える苦しみの根源を見つけ出す。それが、お前の真の使命だ。酒神が澱神に侵されるのは、酒造りに携わる人々の心が淀んだ時だ。お前には、その心の澱まで見抜く力がある」
白瀧の言葉に、結愛は再び心を集中させる。すると、ある蔵の声に、微かな不協和音が混じっていることに気づいた。その声は、他の声とは違い、まるで底の見えない沼に沈んでいくような、重く暗い響きを持っていた。それは、酒造りの工程で起こった些細な失敗が、やがて大きな後悔となり、澱として凝り固まっていく過程を物語っていた。
「サカミツさん……この声、なんだかおかしいです。すごく苦しそう……」
結愛は、すぐそばで静かに彼女の修行を見守っていた天雷に声をかけた。天雷は、結愛の指差す方角に鋭い視線を向けた。彼の瞳は、夜闇の中でも星のように輝き、その奥に潜む淀みを正確に捉えていた。
「ああ、感じたか。あれは澱神の分身。この地の酒神を弱らせ、完全に淀ませようとしている。小さな酒蔵だからと、侮っていたな」
天雷は、僅かに顔を顰めた。彼の表情は、結愛の不安を打ち消すように、どこか冷静で頼もしく見えた。その眼差しは、まるで彼女を守ると決めているかのように、揺るぎない力強さを秘めていた。
「行こう、結愛。お前の力を試す時だ」
二人は、その小さな蔵へと向かった。蔵の中は、ひんやりとした空気に満ち、甘酸っぱい酒の香りに、僅かに腐敗臭が混じっていた。蔵の片隅に、小さな木桶が一つ置かれている。その木桶の周りを、黒いもやが渦巻いていた。それは、酒神の霊力が弱り、酒造りの失敗に対する蔵人の諦めの念が実体化したものだった。
「この木桶の酒神が、澱神の分身に侵食されている」
天雷は、そう告げると、結愛に言った。
「結愛。お前の力は、酒神を浄化するだけではない。その力を、澱神の分身にも向けてみろ。淀んだ心が生んだ淀みは、浄化の光でしか消せない」
結愛は、大きく息を吸い込み、勾玉に手を翳した。故郷の温かい光が、再び彼女の心に満ちる。しかし、澱神の分身は、故郷で出会った澱神よりも小さく、動きが素早かった。結愛の放つ光を、まるで避けるかのように、木桶の周りを飛び回る。結愛の焦りが増すにつれて、澱神の分身の動きはさらに加速し、笑い声のような不快な音を立て始めた。
「くっ……!当たらない!」
結愛が焦りを覚えたその時、天雷が静かに彼女の背後に立った。彼の大きな手が、結愛の手を包み込む。彼の体温が、彼女の心に落ち着きと、温かさをもたらした。ひんやりとした蔵の中で、彼の掌だけが熱い。その熱が、結愛の不安を溶かしていくようだった。彼の息遣いが、結愛の耳元で優しく響く。
「慌てるな。心を読め。奴は、お前の不安を餌に、力を増している。恐れることはない。お前の心は、俺が守る」
天雷の言葉が、結愛の耳元で優しく響く。彼の息遣い、そして彼の手が伝える確かな力が、結愛の心に迷いをなくさせた。
「私の……不安を……」
結愛は、深く目を閉じ、天雷の言葉を反芻する。彼女が今一番不安に思っていること。それは、「自分の力は本当に正しいのだろうか?この力は、誰かを傷つけるためのものではないだろうか?」という迷いだった。故郷の澱神を倒した時、彼女は無力だった。しかし、今は違う。自分の力で澱神を浄化できると知った今、その力がもたらす責任と重圧に、彼女は戸惑っていた。
『こんな力……私は、本当にこれを使いこなせるのだろうか?』
結愛の心の声が、澱神の分身をより強くする。しかし、天雷の手が、その心の闇を優しく包み込んでくれた。
「大丈夫だ。お前の力は、人の心に寄り添う温かい光だ。迷う必要はない。お前の心は、決して淀んではいない。信じろ、結愛。お前の力を、そして、お前の心に流れる故郷の酒たちの想いを」
天雷の言葉が、結愛の心に希望の光を灯した。彼の声が、彼の温かさが、彼女の心を支えてくれた。彼女は、再び目を開け、澱神の分身をまっすぐに見つめた。もう、恐怖はなかった。天雷がそばにいてくれる、という確かな安心感があった。
『私は、私の力を信じる……!』
結愛が心の中でそう叫んだ瞬間、彼女の勾玉から、眩い光が放たれた。それは、故郷の蔵の光と、灘の力強い男酒たちの光が混じり合った、何よりも温かく、清らかな光だった。光は、木桶の周りを飛び回る澱神の分身を、一瞬で浄化し、消し去った。
「やった……!」
結愛は、安堵の息を漏らす。天雷は、彼女の手からゆっくりと手を離すと、優しい眼差しで微笑んだ。
「よくやった。お前の力は、誰よりも温かく、清らかだ。お前は、この旅で、さらに強くなるだろう」
彼の言葉に、結愛の頬が、少しだけ赤くなった。その日の夕方、白瀧の蔵に戻った二人を、菊水が出迎えた。
「おかえりなさい、結愛さん、天雷さん」
菊水は、穏やかな笑顔で二人に声をかけた。彼は、結愛に差し出すように、一つのお猪口を手にしていた。
「これは、私が造られた蔵の、新酒です。今日、あなたが浄化した蔵の酒を、私が力を込めて醸したもの。あなたに、一番に飲んでいただきたくて」
その言葉に、結愛は少し驚き、そして嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、菊水さん」
結愛が、お猪口に口を付けると、清冽な米の旨味と、ほんのりとした甘みが口の中に広がった。それは、灘の「男酒」らしい、力強くも、どこか繊細な味わいだった。澱に侵されていた頃の苦しそうな声は、微塵も感じられなかった。
「美味しい……!すごく、力強くて、でも優しい味がします」
結愛の言葉に、菊水は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、彼女の故郷の蔵人たちの笑顔と、どこか似ていた。
「よかった。あなたにそう言っていただけるのが、何よりの喜びです」
菊水は、結愛の横に立つ天雷に視線を移すと、少しだけ寂しそうな顔をした。
「結愛さんを、お一人で独占するのは、ずるいですよ、天雷さん」
菊水の言葉に、結愛は少し戸惑い、天雷は面白そうに口角を上げた。
「菊水。お前も、いずれお前の伴侶を見つけるだろう。その時まで、待っておけ。結愛は、この旅で、俺の相棒だ。誰にも渡すつもりはない」
天雷の言葉に、結愛の心は、また少し、不思議な鼓動を刻んでいた。彼の言葉の真意を測りかねながらも、その言葉が、彼女の心に温かい熱を灯したことは確かだった。