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第1章 天雷編 第3話:浄化の力

結愛は、天雷の言葉に背中を押され、巨大な木桶へと向かった。一歩近づくたびに、故郷で感じたよりもわずかに弱いものの、澱神の不快な臭いと、重く沈んだ空気が彼女の肌を刺した。それはただの悪臭ではなく、酒造りの失敗、蔵の将来への不安、そしてそれらが積み重なって生まれた、深い絶望と後悔の念が凝縮されたものだった。木桶の表面には、うっすらと黒いもやのようなものが絡みついており、それが弱った酒神の霊力を吸い取っているかのように見えた。そのもやは、まるで木桶の魂を蝕む癌細胞のように見え、結愛は思わず息をのんだ。


「大丈夫か、結愛。無理をするな」


離れた場所から、天雷が心配そうに声をかける。しかし、結愛はそれに応えることができなかった。彼女は、木桶から発せられる微かな声に耳を傾けていた。それは、喜びや力強さに満ちた故郷の酒たちの声とは違い、深い悲しみと絶望に満ちた声だった。


『もう、だめだ……。我の力は、澱に喰われてゆく……。蔵人たちの心も、澱に染まってしまった……。このままでは、この地の酒造りの歴史も、澱に還ってしまう……』


声は、かすれ、弱々しい。この酒神が、灘を代表する力強い『男酒』の一つだとは思えないほどだった。結愛は、酒神の悲痛な叫びを聴き、胸が締め付けられるのを感じた。


「あの澱神と、同じ……」


結愛は、故郷で見た澱神の悍ましい姿と、蔵が腐食していく光景を思い出し、恐怖に足がすくみそうになった。あの時の無力感が、再び彼女の心を襲う。しかし、その恐怖を振り払うように、彼女は強く目を閉じた。


「違う……。あの時とは違う」


結愛は、勾玉を握りしめた。祖母がくれた、故郷の想いが込められた勾玉。それは、彼女の恐怖を温かい光で包み込んでくれるようだった。その光が、結愛の心を澱神の瘴気から守り、彼女自身の「想い」を呼び覚ました。


『私には、故郷の蔵がある。祖母が大切に守ってきた、酒造りへの情熱がある。そして、蔵人さんたちの、美味しいお酒を造りたいという、温かい想いが……!私は、もう二度と、あの時のように無力なままではいられない……!』


結愛の心の中で、故郷の蔵の風景が鮮やかに蘇った。米を洗う水音、麹室に満ちる麹の香り、もろみが発酵する微かな音。そして、祖母の笑顔。それらは、澱神の淀んだ空気とは真逆の、清らかで、美しい光景だった。その光景が、彼女の中に眠っていた「守りたい」という強い意志を呼び覚ました。


結愛の胸の内で、勾玉が強く、明るく輝き始めた。その光は、故郷の酒たちの「想い」が結集した、純粋なエネルギーだった。結愛は、その光を両手で包み込むようにして、木桶に翳した。


「どうか……お願い、私の故郷の酒たちの想いよ……。この酒神の苦しみを、癒してあげて……!この蔵の、澱に染まってしまった想いを、もう一度、清らかなものに戻して……!」


結愛の祈りの言葉と共に、勾玉の光は一気に強まり、木桶を覆う黒いもやを淡く照らし始めた。すると、不思議なことに、黒いもやは光に触れた部分から、ゆっくりと溶けるように消えていった。光は、木桶全体を包み込み、澱神の瘴気を浄化していく。その光は、澱神の瘴気だけでなく、木桶に染み付いた、過去の酒造りの失敗や、蔵人たちの後悔の念までも、優しく包み込んでいくようだった。


『ああ……!この温かさは……!なんという、清らかな力……!』


木桶の中から、酒神の声が聞こえた。しかし、それはもう悲しみに満ちた声ではなかった。安堵と、驚きに満ちた声だった。まるで、長年患っていた病が癒されていくかのような、深い癒しの声だった。


光が木桶全体を包み込むと、澱の臭いは完全に消え去り、代わりに清冽で、力強い大吟醸の香りが蔵の中に満ちていった。それは、灘の『男酒』らしい、骨太で、自信に満ちた香りだった。


「なんと……」


初老の男は、その光景を目の当たりにし、驚きのあまり目を見開いた。結愛の持つ力が、ただの破壊の力ではなく、浄化と癒しの力であることを理解したのだ。そして、その力の根源が、故郷の酒造りに対する純粋な「想い」にあることも、彼の心を打った。


光が収まると、木桶の前に、一人の青年が立っていた。きりりとした顔立ちに、白く輝く肌。しかし、その体からは、力強く、そして清らかな霊力が漲っている。彼は、結愛に向かって深々と頭を下げた。


「貴女が、『禁断の酵母』の末裔か。感謝します。貴女の力のおかげで、我は救われました。我は、灘五郷の酒精、名を『菊水きくすい』と申します」


「あ、いえ……。何も、大したことは……」


結愛は戸惑いながらも、青年が救われたことに安堵の表情を見せた。


「よかろう。合格だ」


初老の男は、満足げに頷いた。彼の厳格な表情は、今、心からの信頼に満ちている。


「我は、灘五郷の酒精を統べる、大吟醸の神、名を『白瀧しらたき』という。そして、この青年は『菊水』。清冽な水と、最高級の米から生まれた、灘の誇り高き酒精だ」


白瀧と名乗る男は、結愛と天雷にそう告げた。彼の視線は、結愛が握りしめる勾玉に注がれていた。


「結愛よ。お前が持つ力は、ただの霊力ではない。それは、日本酒の未来を守るための、希望の光だ。我々、酒精の化身は、邪神との戦いに備え、力を蓄えてきた。だが、邪神の瘴気に触れた我々は、このように弱ってしまう。お前の浄化の力こそ、我らが邪神と戦う上で、不可欠なものとなるだろう」


白瀧の言葉に、結愛は自分の力の真の意味を理解した。それは、破壊の力ではなく、守るための力。日本酒を愛する人々の想いを、守るための力なのだと。


「ようこそ、灘五郷へ。結愛。そして、天雷。我々も、お前たちの旅に、力を貸そう。そして、この灘五郷にいる他の酒精たちにも、お前の力を試してもらおう。灘の酒神たちは、我々の力を束ねることで、より強大な力を発揮する。お前の力があれば、灘の酒神たちは、邪神に立ち向かうことができるだろう」


こうして、結愛は灘五郷で新たな仲間を得ることになった。彼女の旅は、ここから本格的に幕を開ける。

登場人物

桐島きりしま 結愛ゆあ

老舗酒蔵の次期蔵元候補として、家業を継ぐ運命と、普通の女子大生としての日常の間で揺れ動く19歳の少女。純粋で心優しい性格だが、秘められた運命に迷いを抱えている。代々受け継がれてきた勾玉を身につけており、「禁断の酵母」の血脈を持つ。酒神を呼び出す特別な力を持っている。


天雷サカミツ

結愛が仕込み蔵で出会った、大吟醸の酒精の化身。白銀の髪に深い青の瞳を持つ、人間離れした美貌の青年。傲慢でどこか高慢な態度をとるが、日本酒の未来を守るという使命を帯びている。巨大な櫂を模した剣を携えている。


菊水キクスイ

灘五郷の酒精の化身。結愛が浄化したことで、澱神の瘴気から救われた青年。きりりとした顔立ちに、白く輝く肌を持つ。清冽な水と最高級の米から生まれた、灘を代表する『男酒』の一つ。


白瀧シラタキ

灘五郷の酒精を統べる、大吟醸の神。厳格で威厳のある初老の男の姿をしている。結愛の持つ浄化の力に希望を見出し、彼女の旅に力を貸すことを決意する。

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