第1章 天雷編 第2話:灘の酒神
兵庫県、灘五郷。日本一の酒どころとして名高いこの地は、六甲山系から湧き出る清冽な水と、冬の厳しい寒さ、そして最高級の酒米「山田錦」の恵みを受けて栄えていた。
「すごい……!本当に酒蔵がたくさんあるんですね」
初めてこの地に降り立った結愛は、圧倒的な数の酒蔵が立ち並ぶ風景に目を奪われていた。道路を挟んで向かい合うように建ち並ぶ、重厚な木造の蔵や、近代的な設備を備えた大きな建物。どこからともなく漂う、甘く、ふくよかな発酵の香りが、結愛の心を高揚させた。故郷の小さな蔵とは全く違う、巨大な酒造りの熱気が、肌で感じられた。
「この地は、酒造りに最適な条件が揃っておる。故に、多くの酒蔵が覇を競い、鎬を削ってきた。ここには、我と同格の、いや、それ以上の霊力を持つ酒精の化身が複数存在する」
天雷は、結愛の隣を歩きながら静かに語った。彼の白い髪は、風になびき、どこか神々しい雰囲気を醸し出している。結愛は、天雷の言葉に再び緊張感を覚えた。この地は、故郷の小さな蔵とは全く異なる、強者たちの世界なのだ。それは、結愛の酒造りの知識を試され、そして成長を促される、新たな試練の場でもあった。
「サカミツさん、その『大吟醸の酒精』は、どこにいるんですか?」
「灘五郷の中心、西宮郷の一角にある蔵だ。しかし、この地に近づくにつれ、澱の臭いが濃くなってきた。どうやら、例の邪神たちが、この地にも姿を現し始めたようだな」
天雷は、鋭い視線を遠くの空に向けていた。結愛は、言われてみれば、かすかに腐敗したような、不快な臭いが漂っていることに気づいた。故郷で澱神と戦った時の、あの悍ましい臭いだ。その臭いは、単なる腐敗臭ではなく、酒造りに対する諦めや、絶望といった負の感情が凝縮されたものだと、彼女は直感的に理解した。
二人は目的の酒蔵へ向かう。その道中、結愛は天雷に促されて、勾玉に霊力を集中させた。すると、遠くから微かに聞こえてくる蔵の音が、より鮮明に聞こえてくる。米を蒸す湯気、麹菌の活動、酵母の微かな泡立ち……。まるで、蔵の中の酒たちが、結愛に話しかけているかのようだった。それは、故郷の蔵で感じたよりもはるかに複雑で、多くの声が響き合っている。力強さと、繊細さが混じり合った、雄々しい酒たちの声。
「どうだ。灘の酒たちの声は」
「はい。すごく……たくさん、聞こえます。力強くて、自信に満ちた声です。でも、故郷の酒たちとは少し違うような……」
「それが、この地の『男酒』と呼ばれる所以だ。故郷の酒が、女性的で優しい味わいを持つ『女酒』だとすれば、灘の酒は、力強く、骨太な味わいを持つ。だが、その声の中に、不協和音も混じっているだろう?」
天雷の言葉に、結愛は耳を澄ます。確かに、力強い声の奥に、微かな不安や、焦りのような声が混ざっている。それは、まるで酒造りに失敗した蔵人たちの、後悔の念のようにも聞こえた。特に、ある蔵の声は、まるで悲鳴のように聞こえ、結愛の心を締め付けた。
「はい……。なんだか、蔵人さんたちの、心の声みたいです……。特に、あの蔵からは、すごく苦しそうな声が聞こえます」
結愛が指差したのは、目的地である古風な酒蔵だった。その蔵からは、重厚な大吟醸の香りと共に、澱の臭いがかすかに漂っていた。
「その通りだ。邪神たちは、人の心に巣食う負の感情を餌に、その力を増幅させる。酒造りの失敗や、酒蔵の将来に対する不安……。この地の酒神たちは、その邪神の囁きに、今、苦しめられている」
目的の酒蔵に到着した二人は、蔵の門をくぐった。その蔵は、重厚な瓦屋根と、歴史を感じさせる土壁でできており、周囲の近代的な蔵とは一線を画していた。蔵の中に入ると、清冽な大吟醸の香りに、どこか甘く、そして重い熟成香が混じり合っている。しかし、その奥には、澱の臭いが確かに存在していた。
「誰だ、お前たちは」
奥から、厳格な声が響いた。そこに立っていたのは、背筋がピンと伸びた、白衣に身を包んだ初老の男だった。彼の顔には、何十年もの酒造りの経験が刻み込まれている。鋭い眼光は、天雷と結愛を厳しい視線で見つめている。その男は、結愛が手にする勾玉を見て、僅かに目を見開いた。
「その勾玉……。まさか、お前が『禁断の酵母』の末裔か」
男の言葉に、結愛は驚きを隠せない。天雷は、男の前に進み出ると、静かに頭を下げた。
「お久しぶりです、灘の酒神。我は、天雷。東の果ての小さな蔵で、結愛と契約した酒精です」
天雷の言葉に、男は警戒を解き、冷たい視線から、どこか温かい眼差しに変わった。その眼差しには、天雷との旧知の仲であることを物語る、深い理解と親愛の情が宿っていた。
「天雷……。お前が、ついにこの世に姿を現したか。しかし、なぜこのような娘を連れてきた。この地は、もうすぐ戦場になる」
「そのために、参りました。この娘の力は、我々が邪神と戦う上で、不可欠なものとなるでしょう。我々には、この地の酒精たちと、共に戦う力が必要なのです」
男は、結愛をじっと見つめた。その瞳は、結愛の心の奥底を見透かすかのようだった。しかし、その眼差しは、澱神に怯える恐怖の眼差しではなく、彼女の決意と、内に秘めた可能性を探る、探求の眼差しだった。
「わかった。だが、その前に、お前が本当に我々と共に戦うに足る存在かどうか、試させてもらう。この蔵には、邪神の瘴気によって、力が弱まっている酒神がいる。その酒神を、お前の力で浄化できるか、やってみせよ」
男はそう言って、蔵の奥を指差した。その先には、巨大な木桶がいくつか並んでいる。そのうちの一つから、微かに澱の臭いが漂ってきていた。澱神の臭いよりも弱いが、邪神の気配が確かにそこにある。
「澱神が……」
結愛は、天雷の顔を見る。天雷は、力強く頷いた。
「行け、結愛。お前の力を信じろ。お前の血脈に流れる、故郷の酒たちの想いを、この灘の酒たちに、見せてやるのだ。それが、お前がこの地に呼ばれた理由だ」
結愛は、天雷の言葉に背中を押され、その巨大な木桶へと向かった。彼女の胸に宿る勾玉が、再び鈍く輝き始めた。故郷の酒蔵で感じた、温かい酒たちの声が、彼女の耳元でささやいているようだった。