第1章 天雷編 第1話:新たなる旅立ち
澱神との激戦から数日後。
桐島酒造の仕込み蔵には、再び平穏が戻っていた。壁や床に残された腐食の跡は、結愛と天雷が体験した壮絶な戦いの記憶を鮮明に物語っている。あの戦いの後、天雷は数日間、蔵の片隅で静かに力を回復させていた。一方の結愛は、酒神としての新たな力に戸惑いながらも、蔵の日常業務をこなし、祖母と従業員には「ちょっと変わった蔵人」として天雷を紹介していた。天雷の人間離れした美貌と、どこか浮世離れした言動は、蔵人たちの間でたちまち話題になったが、結愛が「知り合いの紹介で、酒造りの見習いに来た」と説明すると、皆はすんなりと受け入れた。
しかし、結愛の心は穏やかではなかった。夜が来るたびに、澱神の悍ましい姿と腐敗臭が脳裏に蘇る。あの時、自分がもっと早く力を発動できていれば、天雷にここまで負担をかけずに済んだのではないか、という後悔が彼女を苛んでいた。
「結愛、少しは休んだらどうだ」
蔵の梁の上で胡座をかいて座っていた天雷が、不意に声をかけた。彼の顔色はようやく血の気が戻り、疲労の色も消え去っていた。天雷の鋭い瞳は、蔵の隅々まで見通しているかのようだ。彼の眼差しは、蔵の空気の流れ、発酵の微かな音、そして結愛の心の揺らぎまでも、全てを読み取っているかのようだった。
「サカミツさんこそ、もう大丈夫なんですか?」
結愛は、桶の清掃をしながら尋ねた。彼が蔵の天井にいるのは、蔵の安全を上から監視するためだった。その姿は、まるで蔵全体を見守る守護神のようだった。
「ああ。お前の力のおかげで、我の霊力は迅速に回復した。改めて礼を言う」
天雷は、結愛に向かって僅かに頭を下げた。その姿は、以前の傲慢さからは想像もつかないほど謙虚で、結愛は少し驚いた。彼の言葉は、結愛が持っている力の意味を、改めて彼女に教えているようだった。
「そ、そんな……。私、何もしてません。むしろ、サカミツさんに助けてもらったばかりで……」
「謙遜するな。お前の力がなければ、この蔵は澱に飲み込まれていた。お前は、我々の存在を浄化し、増幅させる特別な力を持っている。それは、この蔵で生まれた酒たち、そしてこの地で生きてきた人々の想いが、お前の血脈に宿っている証だ」
天雷は、結愛の胸元で鈍く輝く勾玉を指差した。その勾玉は、もはや恐怖の象徴ではなかった。結愛にとって、それは祖母との思い出、そして故郷を守るための「力」の象徴となっていた。彼女が勾玉を握りしめるたびに、祖母の温かい手が、彼女の手を包み込んでいるかのような錯覚に陥った。
「私の……故郷を守るための力……」
結愛は、勾玉をそっと握りしめた。その感触は、彼女の心に温かい光を灯した。
「ああ。しかし、澱神はまだ序の口に過ぎん。奴は、日本酒の未来を閉ざそうとする邪神の一柱。日本各地には、澱神よりもはるかに強力な邪神たちが蠢いている。奴らは、我々酒精の化身を喰らい、この世から日本酒という存在そのものを消し去ろうとしている」
天雷の言葉に、結愛は再び緊張に包まれた。戦いは終わっていなかった。いや、むしろ、これからが本番なのだ。彼女の心は、これから始まる壮絶な戦いを予感していた。
「そんな……。どうして、そんなことが……」
「邪神は、日本酒の歴史の中で生み出された『失敗』や『絶望』といった負の感情から生まれる。そして、その失敗の記憶を餌に、力を増幅させる。奴らの目的は、酒造りの歴史を否定し、全てを『澱』に還すこと。我々は、その野望を阻止せねばならん。邪神が作り出す酒は、人の心を蝕む毒酒。それは、酒を愛する者の心を、絶望と憎悪で塗り潰していく。我々は、その毒を浄化し、人々に希望の酒を届けなければならない」
天雷は静かに語った。その声には、日本酒の歴史と未来を背負う、重い使命感が込められていた。
「どうすればいいんですか?私には、まだ自分の力すらどう扱えばいいのか分かりません……」
結愛は、自分の力の使い方が分からず、不安に駆られていた。あの時、力を発動できたのは偶然かもしれない。自分の意志で自由に力を操る方法が、彼女にはわからなかった。
「安心しろ。我がお前を導こう。我々には時間がない。澱神の襲撃は、この地の邪神たちが目覚め始めた合図に過ぎん。戦いは、ここから始まる。お前の力は、この蔵だけでなく、日本中の蔵を救う鍵となるかもしれない。共に、日本各地の蔵を巡り、他の酒精の化身と契約し、邪神たちの野望を阻止するのだ」
天雷の言葉に、結愛は衝撃を受けた。日本各地を巡る旅。それは、ごく普通の女子大生だった彼女の人生を、根底から覆す壮大な物語の始まりだった。家業を継ぐか否かという小さな悩みは、もはや過去の出来事となっていた。彼女の目の前には、日本酒の未来を賭けた、壮大な旅路が広がっていた。
「サカミツさん……はい。私、やります!この故郷を、そして、祖母が愛した日本酒を、絶対に守ります!」
結愛は、強く、力強く答えた。その瞳には、もはや恐怖も迷いもなかった。そこに宿るのは、故郷を守るという決意と、まだ見ぬ世界への期待の光だった。そして、彼女の心の中には、新たな目標が明確に芽生えていた。それは、ただ邪神を倒すことではない。日本中の酒蔵を巡り、様々な酒精と出会い、日本酒の真の魅力を再発見すること。そして、その全てを、自分の酒造りに活かすこと。
天雷は、そんな結愛の瞳の奥にある光を見て、満足げに微笑んだ。
「そうこなくてはな。では、最初の旅の準備を始めよう」
結愛の決意を聞き届けた天雷は、静かに梁から飛び降りると、結愛の前に立った。
「旅の準備と言っても、荷物は最小限で構わん。我は霊体故、着替えも食料も必要ない。問題は、お前だ」
天雷は、結愛の顔を覗き込むようにして言った。
「お前は、まだ普通の人間だ。霊力に頼りすぎては、この先、身がもたん。それに、ただ酒神としての力を発動するだけでなく、この旅を通じて、お前自身の力、つまり酒造りの技術をさらに高めなければならない」
「酒造りの、技術を…?」
結愛は戸惑った。天雷との出会いは、彼女に酒神としての新たな道を示した。しかし、それは彼女がこれまで学んできた酒造りの道とは、全く別の次元にあるものだと思っていたからだ。
「そうだ。我はただのお前の守護者ではない。お前の持つ力は、蔵で造られた酒たちの想いそのもの。その想いをさらに強く、清く保つためには、お前自身が最高の酒を造れるようにならねばならん。旅の途中、立ち寄った蔵で、その地の酒造りを学び、酒神として、一人の蔵人として、お前の道を確立するのだ」
天雷の言葉は、結愛の心の奥底に眠っていた「酒造りへの情熱」を再び呼び覚ました。家業を継ぐかどうかの迷いは消えた。彼女は、日本酒の未来を守るという使命と、最高の酒造りを目指すという二つの目標を、同時に追い求めることを決意したのだ。
「はい!私、頑張ります!」
結愛の瞳は、これまでにないほど輝いていた。その日の夕方、結愛は祖母に旅に出ることを告げた。最初は驚き、反対する祖母だったが、結愛の強い決意と、天雷の神々しい姿を見て、最後には静かに頷いた。
「行ってらっしゃい。ユア。あんたの道は、あんたが決めなさい」
祖母の温かい言葉に、結愛は胸が熱くなった。
夜が明け、新しい朝が訪れた。蔵の門前で、結愛は天雷と共に旅の始まりを告げる朝日を浴びていた。手に握られた勾玉が、希望の光を放つ。彼女の心には、故郷の酒蔵で培った温かい思い出と、祖母の深い愛情が宿っていた。
「さあ、行こう。結愛。最初の旅先は、兵庫県の灘だ。そこには、我と同格の『大吟醸の酒精』が待っている」
天雷の言葉と共に、結愛の新たな物語が、今、幕を開ける。