プロローグ5:初陣
「私は、負けない……!」
結愛の心の叫びが、仕込み蔵の凍てつくような空気を震わせた。その言葉に応えるかのように、彼女が握りしめた勾玉が、これまでで最も強く熱を帯びて輝き始めた。淡い光は、結愛の全身を包み込み、まるで心を守る鎧のように彼女を包む。その光は、天雷の背中から放たれる大吟醸の清冽なオーラと共鳴し、蔵の空気を清めていく。結愛の胸から広がるその光は、天雷の力を増幅させるだけでなく、彼女自身の迷いを断ち切る確かな意志の表れでもあった。
「ククク……無駄なあがきを。貴様のその力は、まだ覚醒したばかり。我の『澱』に、勝てるはずがない」
澱神は、その悍ましい人型から、黒く濁った粘液の塊を吐き出した。それは、発酵に失敗した酒粕と酵母の死骸が混ざり合ったような、おぞましい腐敗臭を放つ攻撃だった。粘液は床や壁に触れるたびに、ジジジ……と耳障りな音を立てて腐食させていく。その光景は、結愛の心に「失敗」という恐怖を呼び起こそうとする。この蔵の失敗の歴史が、具現化したかのような攻撃だった。
「結愛、退がれ!」
天雷は、結愛を背中に庇いながら、巨大な櫂の剣を振るった。剣から放たれた白銀の光が、澱神の粘液を切り裂き、触れた部分を清らかな水に変えていく。しかし、粘液の量は圧倒的で、蔵の空間を埋め尽くす勢いで押し寄せてくる。天雷の剣技は華麗だったが、粘液はまるで生きているかのように、次々と新たな形を成して襲いかかってくる。
「くっ……我の力だけでは、この澱を完全に浄化することはできぬ。澱は、この蔵の失敗の歴史が生み出した負の遺産。お前の血に流れる力で、この空間そのものを浄化せねばならん!」
天雷は、粘液を払いながら結愛に叫んだ。彼の額には汗が流れ、その瞳には疲労の色が浮かんでいた。彼の力は、邪神を一時的に退けることはできても、その根本的な「澱」を消し去ることはできない。結愛の力は、天雷の力を何倍にも増幅させるだけでなく、邪神の攻撃を無効化し、その存在そのものを浄化する鍵なのだ。
「私の力……?」
結愛は、自分の胸元で輝く勾玉を見つめた。その光は、彼女の故郷を守りたいという強い思いと共鳴している。恐怖はまだ消えていない。足は震え、心臓は激しく脈打っている。しかし、それよりも、天雷と共に戦い、この蔵を守りたいという強い意志が、彼女を突き動かしていた。それは、祖母から受け継いだ、蔵への深い愛情だった。
「この蔵を守る……!」
結愛は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。彼女の心の中には、幼い頃に祖母と歩いた、満開の桜が咲く田んぼの風景、酒造りの時期に蔵に満ちる温かい香り、そして、蔵で働く人々の屈託のない笑顔が鮮明に蘇ってきた。彼女の血に流れる「禁断の酵母」の力は、この蔵の生命そのものと深く結びついている。それは、ただの力ではなく、何世代にもわたってこの地で生きる人々の想いが結晶化したものだった。
「お願い……みんなの想いを、私に貸して!」
結愛の想いが、勾玉を通じて蔵全体に広がっていく。すると、仕込み蔵の古い木桶や、壁、床から、淡い黄金色の光が放たれ始めた。それは、この蔵で何世代にもわたって造られてきた、無数の酒の酒精が持つ、清らかな生命の輝きだった。その光は、澱神の吐き出す粘液に触れるたびに、それを無力化し、腐敗臭を清らかな香りに変えていく。
黄金の光は、結愛の元へと集まり、彼女の全身を包み込む。勾玉の輝きが極限まで高まり、結愛の周囲に、彼女の心象風景が具現化され始めた。それは、満開の桜が咲き誇る田んぼと、その上を流れる清らかな水、そして、豊かに実った稲穂の光景だった。その美しい光景は、澱神の存在を構成する負の感情とは対極にある、生命の輝きそのものだった。
「な、なんだ、この力は……!?」
澱神は、その光景を見て怯んだ。黄金の光は、澱神の存在を構成する負の感情を直接的に攻撃し、腐敗のオーラを浄化していく。澱神は苦しそうにうめき声をあげ、その体が少しずつ崩れ始めていた。
「今だ、サカミツ!」
結愛の叫びに、天雷は頷いた。彼の剣は、結愛の光を吸収し、その輝きを増していく。白銀の剣は、もはや光の柱と化していた。その剣から放たれる光は、結愛の心象風景と重なり合い、桜の花びらのように美しく、そして鋭く輝いていた。
「大吟醸奥義……『清冽斬』!」
天雷は、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。光の柱は、澱神を貫き、その核を粉砕した。
「グアァァァァァ……!この恨み、必ず晴らすぞ……!」
悲鳴と共に、澱神は黒い煙となって霧散した。蔵の空気は、再び清らかなものに戻ったが、壁や床に残された腐食の跡は、戦いの激しさを物語っていた。
天雷は膝から崩れ落ち、疲労困憊の様子だった。結愛は、彼の元に駆け寄り、その肩に手を添えた。彼の体温は、昨夜よりもずっと人間らしく感じられた。
「大丈夫ですか、サカミツ……?」
天雷は、結愛の顔を見て、初めて穏やかな笑みを浮かべた。その表情は、傲慢な神のそれではなく、戦友のようだった。
「ああ、なんとか……。初陣にしては、上出来だったな。だが、奴はまた必ず現れる。戦いは、まだ始まったばかりだ。お前の力は、この蔵の未来そのものだ。大切にするがいい」
結愛は、天雷の言葉に力強く頷いた。彼女の瞳には、もう迷いの影はなかった。そこに宿るのは、故郷と、そして酒神としての自分自身を守るという、確固たる決意だった。彼女の人生は、この日を境に、大きく変わり始めた。