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プロローグ4:邪神との邂逅

翌朝、結愛は普段と同じように酒蔵へと向かっていた。しかし、その足取りは昨日までとはまるで違っていた。家業を継ぐか否かという迷いから解放された彼女の心には、故郷を守るという決意が宿っていた。天雷の言葉が脳裏に焼き付いている。「邪神はもう、お前の周りに現れ始めている」という警告。それは、ただの脅し文句ではなく、彼女の血に流れる本能が、漠然とした危機として感じ取っていたものだった。


仕込み蔵の扉を開けると、そこにはもう天雷の姿はなかった。昨夜の出来事は、やはり夢だったのだろうか。彼女は少しだけ安堵したが、同時に、心臓の奥が冷たくなるのを感じた。


「サカミツ……」


思わず声に出して彼の名を呼ぶ。その名に、彼女の心は確かな温かさを感じた。天雷が本当に存在したのか、あれは夢だったのではないか。そんな疑念が、再び彼女の心を揺さぶり始めた。しかし、その刹那、その疑念を打ち消すかのように、不快なざわめきが耳に飛び込んできた。


それは、もろみが発酵する、生命に満ちた音とは全く違っていた。ドロドロとした、腐敗したおりが蠢くような、吐き気を催すような異音。それは、まるで酒造りの過程で生まれるはずのない、負の感情そのものが音になったかのようだった。


「何、この音……?」


結愛は、恐る恐る音のする方へと足を進める。蔵の最も古い部分、かつて祖母が「決して入ってはいけない」と言っていた、封鎖された一角から音が聞こえていた。そこには、数十年前に酒造りが失敗した際に使われた古い醪桶もろみおけが、何台も放置されていた。失敗の象徴として、人々の記憶からも忘れ去られた場所。


結愛がその一角に足を踏み入れると、ひどい腐敗臭が鼻をついた。それは、酒の発酵を司る酒精の香りとは真逆の、死の匂いだった。そして、一つの古い醪桶から、黒く濁った煙が立ち上っているのが見えた。その煙は、結愛の心を不安と恐怖で満たしていく。


「これは……まさか」


天雷の言葉が、稲妻のように脳裏に蘇る。「邪神が造る酒は、人間の欲望を煽り、心を蝕む」。結愛は、その煙の源に、邪神の存在を感じた。彼女の胸元の勾玉が、かすかに熱を帯び始める。


「結愛よ、下がれ!」


その声と同時に、結愛の目の前に天雷が現れた。彼の瞳は、もはや月明かりではなく、警戒と怒りの炎を宿していた。手には、巨大な櫂を模した白銀の剣が握られている。その剣から放たれる清冽な光が、蔵の闇を切り裂いた。


「サカミツ……!」


天雷は、結愛を一瞥もせず、黒い煙を放つ醪桶に向かって剣を突きつける。その表情は、彼女が昨日見た傲慢さとは異なり、蔵を守る神としての厳粛な使命に満ちていた。


「姿を見せろ、澱神おりがみ!」


天雷の叫び声に、醪桶から禍々しいオーラが立ち上った。そして、黒く濁った煙が渦を巻き、人型を形成し始めた。それは、腐りかけの米と、発酵が止まった酵母の死骸でできたような、悍ましい姿だった。目はなく、ただ二つの赤い光が怪しく輝いている。その姿は、酒造りの過程で生まれる、あらゆる失敗と絶望を体現しているかのようだった。


「ククク……お前は、この蔵の守り神か……。だが、その力もここまでだ。この娘の血さえ手に入れれば、この蔵は我のものになる。そして、この蔵の酒は、永遠に腐敗し、滅びるのだ」


邪神は、結愛を指差し、不気味に笑った。その声は、何千もの澱が擦れ合うような、耳障りな音だった。邪神の言葉は、結愛の心の奥底に眠る「失敗への恐怖」を揺さぶる。


「黙れ、邪神め。この蔵は、結愛が守る。そして、この蔵の未来は、我々が守る」


天雷は、邪神に向かって一歩踏み出した。彼の全身から、清冽な大吟醸の香りが放たれる。その香りは、腐敗臭を打ち消し、蔵の中に清らかな空気を満たしていった。それは、希望の光そのものだった。


結愛は、天雷の背中を見て、恐怖で震えながらも、なぜか強い安心感を覚えていた。この青年が、この蔵を守ってくれる。その確信が、彼女の心に勇気を灯した。


「サカミツ……!」


彼女は、胸元の勾玉を強く握りしめた。その勾玉が、熱を帯びて光り始めた。それは、天雷と結愛の力が共鳴している証だった。


「私は、負けない……!」


結愛の心の声が、蔵の中に響き渡った。邪神との戦いが、今、始まった。

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