第1章 天雷編 第6話:灘五郷の決戦
澱神の奇襲から数時間後、男酒祭の準備は一時中断され、灘五郷には不穏な静けさが漂っていた。酒神たちが傷ついた身体を癒す中、結愛は天雷と共に、灘五郷の中心に位置する広場へと向かっていた。彼らの前には、これまでの澱神とは比べ物にならないほど巨大で、禍々しい気を放つ邪神が立ちふさがっていた。その姿は、まるで幾千もの失敗した酒の魂が凝り固まったかのようで、その表面からは常に黒い靄が立ち上り、周囲の光を飲み込んでいた。
「酒枯……!」
天雷がその名を低く呟いた。その名は、古くから酒造りの歴史に語り継がれる、すべての失敗と後悔を具現化した存在。酵母の活動が止まった瞬間、発酵が失敗した時の蔵人の絶望。苦心して造った酒が腐敗した時の悲しみ。そして、酒造りに対する情熱を失った者の諦め。それら、酒造りの暗い歴史が凝縮された、まさに邪神の王と呼ぶにふさわしい存在だった。
『フフフ……よく来たな、酒の巫女。そして、古き神よ。貴様らの希望など、この澱の前に無力だ。この地は、もはや私の支配下にある。お前たちの無力な力など、我が糧となるだけだ』
酒枯は、嘲笑うかのように、灘五郷の酒蔵から吸い上げた霊力を取り込み、さらに巨大化していく。その身体からは、ドロドロとした黒い液体が滴り落ち、地面に触れた途端、花も木も枯れ果てていく。芳醇な酒の香りが、腐敗臭へと変質し、蔵全体を覆っていく。
「みんな……!」
結愛は、酒枯から放たれる圧倒的な悪意と、酒神たちの苦しみの声に、再び胸が締め付けられる思いだった。その悪意は、ただの邪気ではなく、蔵人たちの心の奥底に潜む「もし失敗したらどうしよう」という不安や、「もう良い酒は造れないかもしれない」という絶望を増幅させるものだった。白瀧や菊水を始めとする灘の酒神たちは、全身から霊力を放ち、酒枯に立ち向かうも、その攻撃はまるで霧を払うように弾き返されてしまう。
『無駄だ……!貴様らの力など、すべて我の糧となる!諦めろ!貴様らが造る酒など、所詮、失敗の歴史の繰り返しに過ぎん!』
酒枯の力は、酒神たちの霊力を逆流させ、彼らの魂を蝕んでいく。酒神たちの霊力が濁り始め、その身体が次第に薄くなっていく。酒枯の言葉は、酒神たちの心の迷いを誘い、彼らの力をさらに弱めていく。
「天雷さん……どうすれば……!故郷の時と同じ……!私の力だけでは、何も……!」
結愛は、天雷の腕の中で震えながら叫んだ。彼女の浄化の光は、酒枯の圧倒的な力の前に、かき消されてしまう。天雷もまた、この強大な敵を前に、手詰まり感を感じていた。酒枯は、ただの邪神ではない。酒造りの歴史そのものが具現化した存在。破壊することも、通常の浄化も通用しない、理不尽な存在だった。
「酒枯は、我々の霊力では浄化できない。酒造りの歴史そのものだからな……。お前が、そのすべての澱を浄化するしかない……!だが、お前一人の力では……!」
天雷の言葉に、結愛の心が折れそうになったその時、彼女の背後から、温かい光が灯った。それは、傷つき、疲弊しきった灘の酒神たちが、最後の力を振り絞って、結愛に送ってくれた霊力だった。
『結愛……!諦めるな……!お前の力は、我々の希望だ……!お前だけではない。我々も、お前と共にいる!』
白瀧の声が、結愛の心に響く。彼の声は、厳格な中に、深い信頼と、彼女への期待に満ちていた。
『そうだ、結愛さん。私たちは、あなたに託した。故郷の酒たちも、同じ想いだろう……!あなたの心に流れる故郷の酒の想いを信じて……!』
菊水の声も、結愛の心を奮い立たせる。その声は、灘の力強い男酒でありながら、故郷の酒のように優しく、結愛の心に寄り添ってくれた。
「みんな……!」
結愛は、酒神たちの想いを一つに束ね、そのエネルギーを浄化の力に変えることを決意した。故郷の酒神たち、そして灘の酒神たち、すべての想いを、この勾玉に……!彼女の心の中で、故郷の蔵の光と、灘の力強い男酒たちの光が一つに溶け合う。結愛は、勾玉を高く掲げ、叫んだ。
「酒造りに携わる人々の、情熱と、希望の光……!その光は、どんな闇にも負けない!失敗を恐れない、挑戦する心……!後悔を乗り越える、希望の光……!みんなの想いを、今、一つに……!」
結愛の叫びと共に、勾玉から放たれた光は、虹色に輝き、灘五郷全体を包み込んだ。その光は、酒枯から放たれる黒い霧を吹き飛ばし、傷ついた酒神たちを癒していく。そして、虹色の光は、一本の光の矢となり、酒枯の中心へと突き刺さった。
『ぐあああああああ……!バカな……!この私が……!なぜ、浄化される……!』
酒枯は、苦しみにもがき、断末魔の叫びを上げた。その巨大な身体は、虹色の光に包まれ、次第に薄くなっていく。酒枯は、浄化される瞬間、その核となる部分が、一つの輝く光の粒となる。それは、酒造りの失敗や後悔ではなく、それらから学び、次に繋げる、未来への希望の光だった。そして、最後には、無数の光の粒となって、空へと昇っていった。
灘五郷に、再び平穏が戻った。空は澄み渡り、心地よい風が吹く。酒神たちは、結愛の前に集まり、深く頭を下げた。
『結愛……。本当に、ありがとう。お前がいなければ、灘五郷は、闇に飲まれていた……。我らの想いと、お前の想いが一つになった時、酒造りの歴史から生まれた澱すらも、希望の光へと変えることができるのだな……』
白瀧が、心からの感謝を述べる。菊水もまた、穏やかな笑顔で結愛を見つめていた。
『あなたの力は、私たちの想像を遥かに超えていた。あなたは、この時代の希望だ。そして、私たちは、あなたと共に、この時代を生きる』
酒神たちは、結愛と天雷に、次の目的地への手がかりを託した。それは、古の酒神が記した、東の空に輝く星「東方七宿」を指し示す地図だった。その地図には、灘五郷の酒神たちの霊力が、新たな光となって輝きを放っていた。
「東方七宿……!結愛、ついに故郷の酒神たちが言っていた、謎の酒神の正体がわかったかもしれない……!」
天雷は、その地図を見て、結愛の故郷の酒神たちの想いが、東方七宿に眠る、さらに強大な酒神の力と繋がっていることを悟った。東方七宿とは、単なる星ではなく、東日本に存在する、古の酒神たちの居場所を示す地図だったのだ。
「結愛、我々の旅は、まだ始まったばかりだ。次なる目的地は、東の空……!故郷の謎を解き明かし、邪神の野望を完全に打ち砕くのだ」
天雷の言葉に、結愛は力強く頷いた。彼女の心には、故郷の酒神たちの想いと、灘の酒神たちの感謝が、温かく灯っていた。彼女は、自分の故郷の謎を解き明かすため、そして、すべての酒神たちを守るため、新たな旅路へと踏み出した。