プロローグ1:迷子の酵母、月の夜に惑う
その日、桐島結愛は自分が何者なのか、再びわからなくなっていた。
大学の講義ノートには、マーケティング戦略とブランド論の文字が並ぶ。サークル活動では、流行のファッションや音楽の話で盛り上がった。どれもこれも、ごくごく普通の20歳の女の子の日常だ。しかし、彼女のもう一つの日常は、コンクリートの壁と分厚い扉に隔てられた、ひんやりとした小蔵の中にある。
「結愛、今日の醪の様子はどうだ?」
父親の剛造は、酒造りに全身全霊を捧げる、まさに酒蔵の主といった風情だ。その分厚い手には、年季の入った作業着と同じように、無数のシワが刻まれていた。彼の言葉には、微生物の営みに対する深い愛情と、蔵の未来を一身に背負う覚悟が滲んでいた。剛造の隣で、優しく微笑む母親の千春は、いつだって結愛の良き理解者だった。彼女の穏やかな眼差しは、結愛の心の迷いを見透かしているかのようだった。
「はい、お父さん。順調に発酵しています。芳醇な香りが増してきました」
結愛は精一杯の笑顔で応える。しかし、その声には、どうしても拭いきれない迷いが混じっていた。
老舗「桐島酒造」の次期蔵元候補。それが、結愛に課せられた宿命だ。物心ついた頃から酒造りのいろはを教えられ、大学進学と共に本格的な修行が始まった。幼い頃は、酒蔵を遊び場にするのが楽しかった。米の甘い匂い、麹の複雑な香り、そして微かに漂うアルコールの刺激臭。すべてが彼女の当たり前の風景だった。しかし、その当たり前の風景は、いつの間にか「将来」という漠然とした重荷に変わってしまった。大学で触れる新たな世界は、結愛の心に「自分らしさ」を問いかける。日本酒の未来を守るために、本当にこの道でいいのだろうか。この重圧を、自分は本当に背負うことができるのだろうか。
「本当に、私でいいのかな……」
誰もいない文書室で、結愛はぽつりと呟いた。分厚い古文書の埃を払いながら、彼女は幼い頃に祖母から聞かされた話を思い出していた。
『この酒蔵にはね、昔から神様が宿っているんだよ。お酒の神様。とってもイケメンでね、蔵がピンチになった時には、必ず助けてくれるんだ』
祖母は楽しそうに語っていたが、結愛はそれを単なるおとぎ話だと思っていた。しかし、今、この古文書の中には、確かにその「酒神」らしき存在の記録が残されていた。
『神威降臨ノ儀』
『酒精ノ御霊トノ契約』
古文書の記述は、現実離れした内容ばかりだった。それでも、結愛の心は強く惹かれた。ここには、結愛が知らない「桐島酒造」の歴史が、そして自分に課せられた宿命の真実が隠されているような気がしたからだ。それはまるで、彼女自身の血が、古文書に記された言葉に呼応しているかのようだった。
その夜、結愛は一人、酒蔵の奥にある仕込み蔵に入っていた。
今日は中秋の名月。月の光が、蔵の小さな窓から差し込み、ひっそりと佇む大きな仕込みタンクを照らし出している。空気は冷たく澄んでいて、蔵の静寂を一層際立たせていた。
「神様……本当に、いるのかな」
ぼんやりと呟きながら、結愛はタンクにそっと手を触れた。冷たい金属の感触。その向こうで、酵母たちが懸命に発酵している。微かに聞こえる泡が弾ける音は、まるで生きているかのように、静かなリズムを刻んでいた。
その瞬間、不意に、結愛の身体に痺れるような感覚が走った。
視界が揺らぎ、意識が遠のく。次に目を開けたとき、目の前には、信じられない光景が広がっていた。
仕込みタンクの中心から、淡く輝く光が立ち上っている。それはまるで、月の光そのものが形を得たかのようだった。光は螺旋を描きながら集まり、やがて人の形を成していく。
結愛は息を飲んだ。光の中から現れたのは、見紛うことなき「人」だった。
白銀の髪は月の光を浴びて煌めき、深い青の瞳は夜空の星を映しているかのようだ。純白の着物を身につけ、その背には、まるで酒造りの道具である「櫂」を模したかのような、巨大な剣が携えられている。彼の周囲には、清冽な大吟醸の香りが満ちていた。
「……誰、ですか?」
震える声で尋ねる結愛に、彼は静かに、そして傲慢なまでに堂々と答えた。
「我は、天雷。この蔵に宿る、大吟醸の酒精の化身」
彼の言葉と同時に、結愛の脳裏に、古文書に記されていた言葉が鮮明に蘇る。
――伝説の大吟醸『天雷』と契約し、酒精の力を得る。
「まさか……本当に」
結愛の動揺をよそに、天雷は彼女の胸元に視線を向けた。彼の視線の先には、結愛が代々受け継いできた、古びた勾玉が輝いている。それは、幼い頃から肌身離さず身につけていた、ただのお守りではなかった。
「お前は……“禁断の酵母”の血脈か」
天雷の声が、仕込み蔵の静寂を切り裂く。その言葉が、結愛の知る日常を、音を立てて崩壊させていった。
天雷、そして他の魅力的な「酒精」たちとの出会い。彼らが繰り広げる「酒神戦」。結愛の葛藤と、酒蔵の未来、そして日本酒に秘められた壮大な物語が、今、幕を開ける。