石勒の野望と林暁の戦場
林暁が蕩寇将軍として三万の兵を率いるようになってから、年が明けた。彼の軍は、もはや烏合の衆ではなかった。規律正しく、その練度は石勒の本隊にも引けを取らないほどになっていた。林暁自身は、引き続き山賊の討伐などをこなし、軍の後方を固める役割を担っていた。しかし、林暁の耳には、常に石勒の動向と、趙の皇帝劉聡との間で揺れ動く権力闘争の噂が届いていた。
(後方での任務……これは、石勒殿が俺を信頼している証か、あるいは、危険な戦場から遠ざけたいのか……)
林暁は、自らの立場を冷静に分析していた。彼は、石勒の野心と、その冷徹さを間近で見てきた。そして、その野心こそが、この乱世を終わらせる力になりうると、心のどこかで感じ始めていた。だが、石勒がどのような未来を描いているのか、その全貌はまだ見えていなかった。林暁は、ひたすら与えられた任務をこなし、自らの軍を鍛え上げることに集中した。それは、いつか来るべき、避けられない戦いに備えるためでもあった。
石勒は、北方の脅威である鮮卑の段匹磾が薊に入ると、彼らと対立を深めていった。この状況を打開するため、石勒は劉聡から驃騎大将軍、東単于という破格の地位を受け、さらに講和を図るために石虎を段疾陸眷のもとに派遣した。石虎は段疾陸眷と義兄弟の契りを結び、盟約を交わすことに成功した。
「林暁将軍、石虎殿が戻られましたぞ!」
林暁の幕舎に、拓跋雷が興奮した様子で駆け込んできた。彼の顔には、安堵と喜びが浮かんでいた。
「何があった?」
林暁が尋ねると、拓跋雷は息を切らしながら言った。
「石虎殿は、段疾陸眷と義兄弟の契りを交わしたそうです! これで、北方の脅威は一時的に収まるでしょう!」
林暁は静かに頷いた。
(石勒殿は、漢の名目を利用し、着々と自らの勢力を固めている。劉聡の意向に逆らわず、しかし、その支配下には入ろうとしない。その手腕は、まさに乱世の英雄だ……。しかし、この平穏は、いつまで続くのだろうか)
林暁は、後方で任務をこなしながらも、石勒の動向を冷静に分析していた。
嘉平五年、石勒は陝東伯の称号を追加される。これは公や単于の地位はそのままであることから、東方の覇者を意味する称号であったとみられている。
麟嘉元年、石勒は拓跋部の協力を得た劉琨を撃破し、晋の并州を降した。この勝利は、石勒の勢力をさらに拡大させた。劉聡は停戦を言い渡したが、石勒はこれを無視し、三国の鼎立を念頭に置き、露骨に自立を図っていった。
「林暁将軍、石勒様は、もはや劉聡様の命令に耳を傾けておりませんな」
幕僚の一人が林暁に囁いた。
「このままでは、漢と石勒様の間に亀裂が生じるのではないかと……」
林暁は、その言葉に静かに答えた。
「もはや、亀裂などという生易しいものではない。石勒殿は、すでに自らの天下を創り始めている。劉聡への服従は、形ばかりのものにすぎない。我々は、来るべき時に備え、さらなる鍛錬を積むべきだ」
(もはや、劉聡への服従は形ばかりのものか……)
林暁は、石勒の行動を間近で見てきた。当初、石勒は漢の官職を拒んでいた。しかし、名目だけ官職を受け、その実態は漢の勢力の及ばない東方で勢力拡大を図る独立勢力だった。劉聡も、王弥殺害などの石勒の独断専行に対して、見て見ぬふりをするしかなかった。石勒の野望は、劉聡の想像をはるかに超えていた。
麟嘉三年七月、劉聡の病が重くなったという報が林暁の元にも届いた。劉聡は、皇太子・劉粲の補佐を命じるために、石勒を大将軍録尚書事に任じようとした。しかし、石勒はこれを固辞する。
「林暁将軍、石勒様は、劉聡様からの申し出を断られたそうです」
呉猛が、信じられないといった表情で林暁に告げた。
「石勒様は、漢の権力争いには関わらないと」
林暁は静かに頷いた。
(石勒殿は、劉聡の後継者争いに巻き込まれることを避けたのだ。もし補佐を命じられれば、劉粲の権力基盤を固めねばならず、自らの独立が揺らぐ。石勒殿は、自身の野望のため、劉聡の最期の願いすらも利用している……)
林暁は、石勒の決断に感嘆すると同時に、その冷徹さに震えた。劉聡は補佐の件を取りやめ、改めて石勒を大将軍に任じて十郡を与えるとする使者を派遣したが、石勒はこれも拒否した。
「石勒様は、もはや漢の官職など必要ないと考えておられるのでしょう。ご自身の力だけで、天下を治めるつもりなのです」
李炎が林暁に言った。林暁は、ただ静かに空を見上げていた。
(漢の末路か……。俺が仕えていた晋も、こうして内部から崩壊していった。権力争いは、いつの時代も変わらない。だが、石勒殿は違う。彼は、自らの力で、この絶望を終わらせようとしている。俺は、その選択が正しいのかどうか、この目で確かめなければならない……)
程なくして、劉聡は病死した。これにより、漢は内部から崩壊していくことになる。石勒は、その隙を見逃すことなく、自らの野望を実現していくことになるだろう。
林暁は、後方で山賊討伐をこなしながら、この激動の時代の流れを静かに見つめていた。彼の軍は、石勒の天下統一の礎となり、そして林暁自身もまた、この乱世の波に飲み込まれていくことになるのだった。