葛陂の敗戦と、二人の虎
石勒軍が襄国を拠点としてから、林暁は再び戦場へと駆り出される日々を送っていた。石虎からの嫌がらせは絶えず、危険な任務を押し付けられることも多かったが、林暁は百の兵と共に、それを淡々と乗り越えていった。彼は日々の修練を欠かさず、弓の腕を磨き続けていた。それは、いつか来るかもしれない石虎との決着に備えるためでもあり、また心を無にするための唯一の手段でもあった。
石虎の性格は、軍中においても大きな患いとなっていた。彼の残忍さは日増しに募り、馬を走らせて行う狩りの放蕩ぶりには限りがなかった。獲物を見つけると、部下の制止も聞かずに追い回し、周囲の陣営を荒らすことも珍しくなかった。
そして、石虎が好んで行ったのが弾弓だ。彼は的を狙うのではなく、無作為に人や物を撃ち、その混乱を楽しんでいた。石虎の放つ弾は、幾度も兵士たちを傷つけ、その存在は軍全体を恐怖に陥れていた。
(この男の凶暴さは、もはや人の範疇を超えている……なぜ、石勒殿はこのような男を身近に置くのだ?)
林暁は、そんな石虎の姿を遠巻きに眺めながら、心の中でそう呟いた。石虎が弾弓を放つたびに、林暁は眉をひそめた。その様を察した石虎は、わざと林暁の近くに弾を撃ち込むこともあった。弾が地面にめり込み、土煙が上がる。
「どうした、林暁? その仏頂面は何だ? 貴様も、この乱世の興を理解できぬのか?」
石虎の挑発に、林暁は動じなかった。表情一つ変えずに、ただ静かに石虎の暴挙を見つめていた。その林暁の態度が、逆に石虎の苛立ちを煽るのだった。
「……黙りやがって。貴様のような気味の悪い男がいるから、叔父上は俺から目を離すのだ……!」
石虎は弾弓を林暁に向け、しかし、次の弾を放つことはできなかった。林暁の目が、石虎を射抜くような鋭さを放っていたからだ。それは、敵意ではない。憐れみと、そして諦めが混じり合った、複雑な眼差しだった。石虎は、その視線に一瞬怯んだ。
石勒もまた、石虎の凶暴な振る舞いを憂慮していた。彼は密かに母の王氏に相談を持ちかけた。
「母上。石虎は凶暴無頼で、軍の規律を乱してばかりおります。このままでは軍に大きな禍根を残すでしょう。兵にこれを殺させれば、わしの評判を落とします。自ら死んでもらうのがよいでしょう」
石勒の言葉に、王氏は静かに答えた。
「快牛でも、犢子の時は多く車を壊してしまうものです。汝はこれを少し我慢なさい。いつか、必ずや役立つ時が来るでしょう」
王氏の言葉は、石勒の心に深く響いた。彼は石虎の凶暴性を知りながらも、まだ成長する余地があると考え、殺すことを思いとどまった。
(王氏の言う通り、石虎はわしにとって、いつか欠かせぬ存在となるかもしれぬ……。だが、林暁はわしの天下統一には不可欠な存在。この二人をどう導けばよいのだ……)
石勒は林暁の才を認めながらも、身内である石虎を切り捨てることはできなかった。その葛藤が、林暁に複雑な命令を下す要因にもなっていた。
三一二年二月、石勒軍は葛陂に留まり、東晋の都である建業攻略を目論んでいた。しかし、長引く飢餓と疫病により、兵の大半を失い、軍の士気は地に落ちていた。さらに、琅邪王司馬睿が江南の将兵を寿春に集結させると、石勒は遂に撤退を決断した。
「全軍に撤退を命じる! 輜重が北へ退却するまでの間、敵の足止めをせよ!」
石勒はそう命じると、石虎を呼び寄せた。
「石虎よ、貴様には騎兵二千を率いて、敢えて寿春へ向かえ。敵の注意を引きつけ、わしに時間を稼げ」
石虎は不満げな表情を浮かべながらも、命令に従い、騎兵を率いて寿春へ向かった。その途上、江南から到着した米や布を積んだ輸送船を数10艘発見した。兵たちは我先にと輸送船に群がり、略奪を始めた。守備の備えなど、どこにもなかった。その無秩序な状況を、林暁は遠くから見つめていた。
(石虎め、またしても……。これでは、伏兵に気づけまい。石勒殿は、この状況を想定して、俺にここにいるよう命じたのか……)
林暁の予感は的中した。そこに晋軍の伏兵が一斉に姿を現わし、石虎は巨霊口で敗北を喫した。500人を超える兵が水死し、多くの物資を失った。さらに退却時には、西晋軍の指揮官紀瞻により、百里に渡って追撃を受けた。
紀瞻軍が石虎軍を猛追し、石虎の騎兵は次々と倒されていった。馬を走らせる石虎の後方から、紀瞻の放つ矢が雨のように降り注ぐ。その内の一本が、石虎の背をかすめた。石虎は歯を食いしばり、必死に馬を走らせるが、疲労は限界に達していた。
(くそっ……! なぜだ!? なぜ、こんな目に……! 叔父上に、この無様な姿を見せるわけにはいかない……!)
その時、石虎の進路を塞ぐように、わずか百の兵が立ちはだかった。林暁の部隊だ。林暁は石虎に追いつく紀瞻の軍を視界に捉えると、弓を構えた。
「林暁!貴様、何故ここに! 俺の背後を取るつもりか!?」
石虎は驚きと怒りが入り混じった表情で叫んだ。
「違います。あなたの命は、石勒殿にとって重要なものです。そして、あなたの命が失われることは、この乱世の混乱をさらに増長させるだけです」
林暁はそう言い放つと、兵たちに命じた。
「全員、弓を構え! 決して敵の将を狙うな! 馬の脚を狙え! 敵の動きを鈍らせるのだ!」
林暁の部隊は一斉に弓を放った。彼の指示通り、矢は紀瞻軍の馬の脚を正確に射抜き、紀瞻軍の追撃の勢いを鈍らせた。
紀瞻は、予期せぬ林暁の妨害に舌打ちをした。
「何者だ、あの男は! まさか石勒が伏兵を置いていたとは……!」
紀瞻は石勒の本隊にまで迫ることを恐れ、追撃を諦めて寿春へと引き返していった。石勒は無事に撤退に成功し、北へ帰還すると、以後は襄国に拠点を置いた。
石虎は、石勒の本隊へと合流すると、すぐに石勒の幕舎へと向かった。彼の心には、林暁への感謝と、自分の未熟さへの悔恨が渦巻いていた。
「叔父上、お許しください!」
石虎は、石勒の前に跪き、深々と頭を下げた。石勒は何も言わず、ただ静かに石虎を見つめている。
「葛陂での撤退戦、私の軽率な行動により多くの兵を失い、さらに紀瞻の追撃を許してしまいました。しかし、その時、林暁が……林暁が私の命を救ってくれました。私は、彼の命を狙っていたというのに……!」
石虎の声は震えていた。己の行いを恥じ、林暁の器の大きさを思い知らされた、偽りのない感情だった。
「林暁は、敵の将を狙うことなく、馬の脚を射抜いて追撃を退かせました。そして、私にこう言ったのです。『あなたの命は、石勒殿にとって重要なものです。そして、あなたの命が失われることは、この乱世の混乱をさらに増長させるだけです』と……。私は、彼の才を妬み、彼を貶めようとしていた。しかし、彼は、私を救ってくれました……」
石虎の告白に、石勒は静かに頷いた。
(やはり、林暁はわしが見込んだ男よ……。石虎、貴様も、ようやくあの男の器の大きさを理解したか)
石勒は、石虎を立ち上がらせると、その肩に手を置いた。
「石虎よ、よくぞ申した。お前は、林暁という男の才と器を、身をもって知ることができた。この経験は、お前を真の将へと成長させる糧となるだろう」
石虎は、ただ静かに石勒の言葉を聞いていた。彼の心には、林暁への感謝と、自分の未熟さへの悔恨が渦巻いていた。
石勒は、林暁を漢趙の将軍として推挙することを決意した。彼は、林暁の持つ才覚と、石虎との関係修復という成果を、この軍に広く知らしめる必要があった。
石勒は、古参の部下たち、石勒十八騎を含む幹部たちを幕舎に集めた。
「皆に告ぐ。この度、林暁を将軍に任命する。これより、林暁はわしの直属の配下として、軍の指揮を執る。異論のある者はいるか?」
石勒の言葉に、幕舎内は静まり返った。誰もが林暁の才を認めながらも、彼が漢人であること、そして石勒の甥である石虎を差し置いての抜擢であることに、戸惑いを隠せないようだった。
その沈黙を破ったのは、石虎だった。
「叔父上、異論などございません。私は、林暁殿の才と器の大きさを、身をもって知りました。彼は、将軍に相応しい人物です。この石虎が、保証いたします!」
石虎の言葉に、周囲の幹部たちは驚きを隠せない。石勒十八騎の一人、孔萇が口を開いた。
「石虎様がそこまで申されるのであれば、我々に異論はございません。林暁殿の才覚は、この目で見ております。彼が将軍となれば、我らの軍はさらに強くなるでしょう」
孔萇の言葉を皮切りに、他の幹部たちも次々と林暁の将軍任命に賛同した。石勒は満足げに頷くと、林暁を幕舎へと招き入れた。
林暁は、石勒の幕舎に入ると、そこに集まった幹部たちの視線に晒された。その視線は、もはや警戒や敵意ではなく、期待と尊敬が入り混じったものだった。
「林暁よ、この度、貴様を将軍に任命する。貴様の才覚を、わしの天下統一のために存分に振るってくれ」
石勒の言葉に、林暁は静かに頭を下げた。
(将軍……。俺は、もう二度と戦場には立ちたくないと思っていた……。だが、この百人の命を守るためには、この地位が必要なのだ。そして、この乱世を終わらせるためには、石勒殿の力が必要なのだ……)
林暁の心に、新たな決意が芽生えていた。それは、過去の絶望を乗り越え、自らの手で未来を切り開こうとする、静かで確固たる決意だった。
「承知いたしました。石勒殿の御恩に報いるべく、この身を捧げます」
林暁はそう答えると、石勒、そして石虎と、互いに深く頷き合った。二人の虎、そして林暁の三者が、この乱世を駆け抜ける新たな物語が、今、始まったのだ。