皇帝の崩御、そして新たな託宣
永初三年五月、建康の西殿で、宋の初代皇帝劉裕が静かに崩御した。その報せは、風に乗って襄陽の城壁に立つ林全こと慕容復のもとへと届いた。
その日の襄陽は、雲一つない、穏やかな青空が広がっていた。しかし、林全の胸には、何とも言えない不吉な予感が渦巻いていた。彼は、ただならぬ表情で城下から駆け上がってきた伝令の顔を見た瞬間、その予感が的中したことを悟った。伝令の顔は土気色で、その声は震えていた。
「林全様……。建康より、悲報が……」
その一言で、林全の心臓は凍りついた。彼の心の中には、劉裕という男が、永遠にこの中華を導いてくれるのではないかという、漠然とした希望があった。しかし、その希望は、無残にも打ち砕かれた。
「林全……。お前は、どこへ行くのだ?」
林全のただならぬ様子に気づき、檀道済が声をかけた。林全は、何も答えることができなかった。ただ、その場に立ち尽くし、遠い建康の方角を、呆然と見つめるしかなかった。
「檀将軍。劉裕殿が……。建康で崩御されたとの報せが……」
林全の言葉に、檀道済は絶句し、天を仰いだ。彼の目からは、静かに涙がこぼれ落ちていた。
(劉裕殿……! なぜ、この時に……! 予は、まだ、あなたと共に天下統一の夢を追い続けたかった……!)
二人の英雄は、言葉を交わすことなく、ただ静かに、その偉大な主の死を悼んだ。林全は、劉裕の崩御が、この中華にどれほどの動揺をもたらすか、痛いほどに理解していた。北魏という強大な敵が、再び南へと攻め込んでくるのではないかという懸念が、彼の胸に去来した。しかし、彼は、その不安を檀道済の前では見せなかった。
「檀道済殿。我々は、悲しんでいる暇はありません。劉裕殿の遺志を継ぎ、この襄陽という要衝を、何としても守り抜かねばなりません」
林全は、静かに、しかし力強く言った。その言葉には、劉裕という太陽を失った悲しみと、それでも前を向いて歩き出さなければならない、新たな決意が宿っていた。
後事を託された者たちと、英雄に仕えた文化人たち
劉裕は、崩御する直前、後事を託す人物たちを指名していた。それは、徐羨之、傅亮、檀道済、謝晦、そして慕容復であった。
その遺言は、建康から襄陽へと届けられた。林全は、劉裕の筆跡が残る書状を、震える手で開いた。そこには、彼が慕容氏の血を引く者であること、しかし、彼の忠誠心と才能は誰よりも信頼していること、そして、宋という新たな国の未来を、彼に託すという、劉裕の最後の託宣が記されていた。
(劉裕殿は、私を信じてくださった……。宋という新たな国の未来を、私に託してくださったのだ……)
林全は、劉裕の遺言を耳にし、その胸に熱いものがこみ上げてきた。彼は、もはや慕容氏の血を引く異国の将軍ではなくなっていた。彼は、劉裕という男が築き上げた宋という国の、かけがえのない柱となっていた。
劉裕の長男である劉義符が即位し、新たな時代の幕が開かれた。しかし、まだ若く経験の浅い皇帝を支えるため、劉裕は、林全という異国の英雄にも、その力を託したのだ。それは、劉裕という男が、どれほど林全の存在を重要視していたかを物語っていた。
劉裕という英雄の偉大さは、軍事的な才能だけではなかった。彼の元には、多くの文化人が集まり、その才能を花開かせていた。『後漢書』の作者である范曄は、劉裕の天下統一の夢を、その筆で後世に伝えようと志していた。彼は、劉裕の崩御を聞き、その筆を置いた。
『三国志』に注釈を行った裴松之は、劉裕の功績を、歴史の真実として書き残そうと奔走していた。彼は、劉裕の崩御を聞き、その注釈を一旦中断した。
そして、五胡十六国時代や南北朝時代を代表する詩人である陶淵明も、劉裕に仕えていた。彼は、劉裕の死を悼む詩を、静かに詠んだ。
林全は、劉裕の偉大さを、改めて噛みしめていた。彼は、劉裕という男が、武力だけでなく、文化によっても中華を統一しようとしていたことを知った。
一方、北魏の都・平城でも、劉裕崩御の報せは、瞬く間に広まった。
第二代皇帝拓跋嗣は、この報せを聞き、その場に立ち尽くしていた。彼の心は、喜びと、そして深い警戒心に満ちていた。
(劉裕が、ついに死んだか……! 父上が恐れ、そして予が警戒していたあの男が、ついにこの世を去ったのだ…!)
拓跋嗣は、父拓跋珪が築き上げた広大な領土と、強大な軍事力を継承し、南の宋を警戒していた。劉裕という巨大な壁が、ついに消え去った。それは、北魏にとって、南進の最大の障害が取り除かれたことを意味していた。
しかし、拓跋嗣は、決して油断はしなかった。
(劉裕という男は、死してなお、朕の前に立ちはだかる。彼の遺した宋という国は、決して脆弱ではない。徐羨之、傅亮、そして檀道済……。そして、あの慕容氏の血を引く男、慕容復がいる。彼らは、劉裕の遺志を継ぎ、朕の前に立ちはだかるだろう。この機会を逃せば、朕の天下統一の夢は、遠のいてしまうかもしれぬ…)
拓跋嗣は、南進の準備を本格的に進めるよう、臣下たちに命じた。彼の胸には、父拓跋珪の遺志を継ぎ、北魏を中華統一の覇者とするという、強固な決意が宿っていた。
劉裕の崩御により、中華は、南の宋と北の魏という二つの巨大な力に分かれる、南北朝時代の開幕を迎えた。それは、五胡十六国時代の激しい戦乱が終焉を告げ、新たな時代の幕開けを告げる、歴史的な転換期だった。
林全は、劉裕の遺志を継ぎ、宋という新たな国の安寧を守るため、襄陽の地で、静かに、しかし力強く、その使命を全うしていくのであった。彼の前には、劉義符という若き皇帝を巡る新たな権力闘争と、北魏という強大な敵が、静かに、しかし確実に迫りつつあった。
彼の心には、もはや慕容復という名はなかった。ただ、林全という一人の将軍として、新たな時代を生きる決意だけが、静かに燃え上がっていた。彼の前には、劉裕と拓跋嗣という二つの巨大な力が、互いの出方をうかがいながら、静かににらみ合っていた。林全は、その二つの力の狭間で、新たな戦乱の予兆を感じ取っていた。