長安の攻防、英雄の苦悩
劉裕が長安を離れ、次男の劉義真と将軍たちに後を託して洛陽へと向かうと、長安はつかの間の安寧を取り戻していた。慕容復の献身的な仲裁により、王鎮悪と沈田子の対立は解消され、彼らは協力して長安の守りを固めていた。しかし、その平和は、まるで嵐の前の静けさのようだった。
慕容復は、長安の城壁に立ち、北方の地をじっと見つめていた。彼の胸には、拓跋珪と赫連勃勃という二つの強大な勢力への警戒心が、常に渦巻いていた。風が、彼の髪を冷たく撫でていく。
(劉裕殿は、長安を我々に託してくれた。この地を、決して赫連勃勃の手に渡してはならぬ。しかし、劉義真様は、まだ若く、父上に認められたいという焦燥に駆られておられる……。予は、彼の独断を止めねばならぬ。この長安は、劉裕殿の天下統一の夢そのものなのだから)
彼の予感は、残酷なまでに的中した。赫連勃勃は、王買徳の献策を受け、赫連璝と王買徳に二万の精鋭を与え、長安を南伐させた。それは、まるで獲物を狙う鷹のように、東晋軍の隙を突く奇策であった。
赫連璝が率いる軍勢が長安に迫ると、劉義真は、自らの功を焦り、慕容復の忠告を無視して出陣を決意した。
「慕容復! 敵はわずか二万。我々の力をもってすれば、容易に打ち破ることができよう! 今こそ、父上に予の武勇を示す時だ!」
劉義真の瞳には、功名心と、父に認められたいという切実な願いが燃え盛っていた。しかし、慕容復の眼差しは、静かだった。
「若君様、お待ちください。敵は、赫連勃勃の主力軍ではありません。これは、我々の結束を試すための、赫連勃勃の罠です。我々が、ここで無駄な犠牲を出す必要はありません。長安の堅牢な城壁を利用し、敵の攻勢を耐え忍び、疲弊させるのです」
慕容復は、静かに、しかし力強く訴えかけた。それは、彼が知り尽くした歴史の悲劇を繰り返させまいとする、切羽詰まった願いだった。しかし、劉義真は聞く耳を持たなかった。
「何を言うか! 臆病風に吹かれたのか、疾風将軍! 予は、お前のような臆病者とは違う!」
劉義真の言葉は、慕容復の胸に突き刺さった。それは、彼が長安を守るために奮闘し、「疾風将軍」と呼ばれた、彼自身の誇りを踏みにじる言葉だった。
劉義真の独断的な命令により、沈田子が軍を率いて出陣したが、赫連璝の巧みな戦術に敗れ、多くの犠牲を出し、退却を余儀なくされた。長安の兵士たちの士気は、この敗北によって、大きく揺らいでしまった。
同年八月、赫連勃勃が咸陽に拠ると、劉裕は長安の失陥を恐れ、劉義真を洛陽に退かせることを決意した。
劉裕の書状を読み、劉義真は屈辱に顔を歪めた。
「父上は、予を信じておられぬのか……! 予は、まだ戦える! なぜ、洛陽へと退かなければならぬのだ!」
劉義真は、部屋の調度品を叩き壊し、怒りをぶつけた。彼の憤慨をよそに、慕容復は冷静に長安からの撤退準備を進めていた。
「若君様。劉裕殿の命に背くことはできません。今は、一度退き、再起の時を待つべきです」
慕容復は、そう諭しながらも、心の奥底で深い絶望を感じていた。彼は、長安を、劉裕の天下統一の夢そのものであるこの地を、自分の手で守り抜くことができなかった。
劉義真は、慕容復の言葉に反発しながらも、撤退を余儀なくされた。劉裕が救援に向かわせた朱齢石と合流するために長安を去って南下した劉義真の軍は、赫連璝の追撃を受け、壊滅的な打撃を被った。慕容復は、赫連璝の軍に包囲され、絶体絶命の窮地に陥ったが、決死の覚悟で敵を突破し、辛くも洛陽へと逃げ延びた。
そして、その報せは、洛陽へと逃げ延びた慕容復の耳にも届いた。
赫連勃勃は、長安に入ると、その地で自軍の戦勝を記念するため、敗れた東晋軍の死体の骸骨を積み上げて「髑髏台」と名付けた。それは、勝利の記念碑であると同時に、赫連勃勃の残虐性を象徴する、おぞましい塔だった。
慕容復は、遠く離れた洛陽の地で、その報せを聞き、激しい怒りと無力感に打ち震えた。
(髑髏台……! 赫連勃勃め……! その残虐非道な行為、決して許さぬ! 劉義真様……。なぜ、私の言葉を聞き入れてくださらなかったのですか……。この長安の悲劇は、劉裕殿の天下統一の夢に、深い傷跡を残してしまった……)
彼の脳裏には、長安の城壁に積み上げられた、無数の骸骨の幻影が焼き付いていた。
長安入りを果たした赫連勃勃は、統万城に北地尹を置いて都と定め、長安には南台を置いて南都とした。そして、翌四一九年に真興と改元し、この真興元年をもって皇帝を名乗った。彼は、太子の赫連璝を大将軍、雍州牧、録南台尚書事に任命し、長安に鎮させた。
劉裕は、赫連勃勃の皇帝即位という報せを聞き、慕容復と向き合った。その顔には、長安を失ったことへの深い後悔と、赫連勃勃という新たな脅威への警戒が入り混じっていた。
「慕容復。予は、またもや長安を失った。そして、赫連勃勃という新たな脅威が、予の天下統一の夢を阻もうとしている。そなたの知恵を、予に貸してはくれぬか?」
劉裕の言葉には、慕容復への深い信頼と、長安失陥という苦い経験を分かち合った者同士にしか通じ合わない、特別な絆が込められていた。
「劉裕殿。長安は、再び我々の手に戻ります。そのためには、まず、足元を固めることです。そして、赫連勃勃という男を、冷静に分析することです。彼の強みは、その残虐性と、騎馬民族としての機動力にあります。しかし、その残虐性が、彼の弱点となるでしょう。彼は、多くの民を苦しめています。その恨みは、やがて彼の国を滅ぼすことになります。我々がすべきことは、その時を待つこと。そして、その時が来たならば、一気に攻め滅ぼすことです」
慕容復は、赫連勃勃という新たな脅威に立ち向かうため、劉裕と共に、再び東晋の改革と、天下統一への道を歩み始めるのであった。長安失陥という悲劇的な経験は、二人の英雄の絆を、さらに強固なものとしていた。