長安の攻防、疾風将軍の誕生
劉裕が長安を離れ、次男の劉義真に後を託した後の長安は、急速に混乱の様相を呈していた。それは、静寂な水面に投じられた一石が、やがて大きな波紋となるように、劉裕の不在が、将軍たちの間に潜んでいた猜疑心と対立を表面化させたのだ。
特に、後秦の旧臣で劉裕に投降した王鎮悪と、元々劉裕の配下であった沈田子の間では、手柄を巡る確執が日増しに深まっていた。王鎮悪は、故郷である長安を劉裕に献上した功績を誇りに思っていた。一方、沈田子は、劉裕の腹心として、幾多の戦場を共に駆け抜けた自らの武功を何よりも重んじていた。彼らの間には、言葉にはせずとも、相手への軽蔑と、互いの功績を認めない、氷のような空気が流れていた。
(このままでは、歴史が繰り返される……! 王鎮悪殿は沈田子殿に殺される。そうなれば、長安の守りは崩壊し、劉裕殿の天下統一の夢は、身内の裏切りによって無駄になってしまう!)
慕容復は、自身の知る歴史の悲劇を回避するため、両者の仲裁に奔走していた。彼は、自らの愛馬に鞭を打ち、砂塵を巻き上げながら王鎮悪の陣営と沈田子の陣営を何度も行き来した。彼の顔には、汗と泥が混じり合い、その瞳には、切羽詰まった使命感が燃え盛っていた。
王鎮悪の陣営を訪れた慕容復は、静かに彼に語りかけた。
「王鎮悪殿。あなたの功績は、この長安にいる誰もが認めるところです。後秦という大国を、内側から崩壊させたあなたの手腕なくして、長安の陥落はありえませんでした。しかし、今は内輪もめをしている場合ではありません。我々は、劉裕殿の天下統一の夢を支えるべきではありませんか? この城の守りは、あなたの力なくしては成り立ちません」
慕容復の言葉には、王鎮悪への心からの敬意と、彼の功績を認める真摯な思いが込められていた。王鎮悪は、慕容復の真摯な眼差しに、わずかに心を動かされ、静かに頷いた。彼の目は、慕容復の言葉に、わずかに曇っていた。
次に、慕容復は沈田子の元へ向かった。
「沈田子殿。あなたの功績も、決して軽んじられるものではありません。あなたは、劉裕殿の右腕として、幾多の苦難を乗り越えてきました。その武勇と忠誠心は、誰もが知るところです。しかし、今は王鎮悪殿と手を取り合い、長安の守りを固めるべき時です。劉裕殿が戻られるまで、我々は一枚岩でいなければなりません。敵は、我々が内輪もめするのを虎視眈々と狙っているのです!」
慕容復は、将軍たちの歴史的背景と、それぞれの自尊心を深く理解し、その心を動かす言葉を選び抜いた。彼の献身的な仲裁により、王鎮悪と沈田子の対立は、かろうじて表面上は収まった。長安の守りは、慕容復の存在によって、かろうじて保たれていた。しかし、将軍たちの心の中には、まだ疑念の火種がくすぶっていた。
しかし、長安の安寧は、長くは続かなかった。夏の王、赫連勃勃が、劉裕の不在と東晋軍の混乱を好機と見て、軍を率いて長安を強襲したのだ。その兵力は、長安にいる東晋軍の数倍にも及ぶ、二十万の大軍だった。赫連勃勃の軍勢は、長安の城壁を揺るがすほどの気迫で迫ってきた。
(赫連勃勃め……! 私が恐れていた通りのことが起きたか! しかし、この城は、まだ落ちぬ! 私が劉裕殿に誓ったのだ! この長安を、決して敵に渡さぬと!)
慕容復は、赫連勃勃の軍が城門に迫る中、冷静に指揮を執った。彼の顔からは、一切の動揺が消えていた。彼は、王鎮悪と沈田子に守備を固めるよう命じ、自身は、わずか三千の騎兵を率いて城外へ打って出る決断を下した。
「全軍、突撃せよ! 我らは、長安の守り、劉裕殿の天下統一の夢を、決して諦めぬ!」
慕容復は、疾風のごとく敵陣へと突っ込んでいった。彼の率いる騎兵隊は、赫連勃勃の軍を翻弄し、その勢いを削いだ。慕容復は、自らも剣を振るい、敵兵を次々と薙ぎ倒していった。彼の剣捌きは、まるで舞を舞うかのようであり、その姿は、敵兵たちに恐怖を与えた。
「あれは、一体何者だ! まるで、疾風のように敵陣を駆け抜けていく!」
赫連勃勃の将軍たちは、慕容復の活躍に驚愕し、混乱に陥った。慕容復の奮闘により、赫連勃勃は城を落とすことができず、一旦兵を引かざるを得なくなった。
この戦いでの慕容復の活躍は、長安の兵士たちの間で語り継がれ、彼は「疾風将軍」という二つ名で呼ばれるようになった。彼の名は、長安の城壁を越え、北方の地にも知れ渡っていった。
慕容復の奮闘により、長安は守り抜かれた。劉裕は、長安の危機を聞き、急遽朱齢石を派遣。慕容復と朱齢石は、協力して赫連勃勃の軍を打ち破り、長安の安寧を完全に回復させた。
そして、ついに劉裕が長安へと戻ってきた。彼は、疲労困憊の兵士たちを前に、慕容復を称えた。
「慕容復。そなたの活躍なくして、長安の安寧はなかった。そなたは、この長安、そして予の天下統一の夢を救ったのだ。その功績を称え、そなたをこの長安の守将に任じたい」
劉裕は、慕容復の肩を強く叩いた。しかし、慕容復は、静かに首を横に振った。
「劉裕殿。私の使命は、あなたの天下統一の夢を支えることです。私は、あなたのそばで、この国の安寧を築き上げる手伝いをしたいと存じます。長安の守将の任は、王鎮悪殿と沈田子殿に託すのが最善かと」
劉裕は、慕容復の言葉に深く頷いた。彼には、慕容復の真意が理解できた。慕容復は、自らの功績を誇るのではなく、ただひたすらに劉裕の天下統一を支えることを望んでいたのだ。それは、過去の歴史を知る彼にしかできない、献身的な支えだった。
長安は、王鎮悪と沈田子の二人に託された。劉裕は、慕容復というかけがえのない存在と共に、東晋の改革と、天下統一への道を再び歩み始めるのであった。二人の英雄の絆は、長安の危機を乗り越え、さらに強固なものとなっていた。