北の狂気、拓跋珪の晩年
義熙十一年(四一五年)の初冬、北魏の都平城には、凍てつく風が吹き荒れていた。しかし、城内を吹き荒れていたのは、寒さだけではなかった。北魏の皇帝、拓跋珪の心に巣食う、猜疑心と狂気の嵐だった。その嵐は、城内の者たちに、冬の寒さ以上の恐怖をもたらしていた。
彼は、すでに北方の覇者としての地位を確立していた。燕を滅ぼし、後燕の残党を完全に掃討し、河套から漠北に至る広大な地域をその支配下に置いていた。その偉業は、誰もが疑うことのない、揺るぎないものだった。しかし、彼の心は、次第にその偉業とは裏腹に、猜疑心と狂気に蝕まれていった。
(予を裏切る者は、誰だ……! 誰もが予の天下を狙っている。祖父、拓跋什翼犍を裏切った者たちのように、予もまた裏切られるのではないかと……!)
拓跋珪は、自らが築き上げた偉大な帝国に座りながらも、常にその栄光が崩れ去る悪夢に苛まれていた。彼の脳裏には、幼少期の流浪の日々が鮮やかに蘇る。
父、拓跋什翼犍が前秦の苻堅に殺された後、彼は部族を追われ、凍てつく荒野を彷徨った。飢えと寒さに震えながら、常に誰かの目を疑い、信じられるのは己の力だけだと悟ったあの頃の記憶が、彼の心を支配し始めていた。
彼は、臣下や皇族を信じることができなくなり、些細なことで処刑を下すようになった。平城の都には、常に血の匂いが漂うようになっていた。ある日のこと、彼は庭に咲く牡丹の色が気に入らないという理由で、庭師の首を刎ねさせた。またある日は、夢見が悪いという理由で、夢を占う者を拷問にかけて死に至らしめた。理由なき処刑は連日行われ、城内の者たちは、皇帝の怒りに触れぬよう、息を潜めて生活するしかなかった。
忠臣であった崔宏は、幾度となく彼を諫言しようとしたが、拓跋珪は耳を貸そうとしなかった。ある日、崔宏が「陛下のご乱心は、国を危うくします」と諫言すると、拓跋珪は激怒し、彼の首に剣を突きつけた。
「崔宏。そなたも、予を裏切るつもりか? 予が天下を統一したのも、そなたの功績だけではない。予の力、そして予の決断があったからこそだ! 予の天下に、反論は許さぬ!」
崔宏は、冷たい剣の刃を前に、ただ静かに皇帝を見つめていた。拓跋珪の瞳には、かつての盟友の顔はなかった。そこにあるのは、底なしの恐怖と、それを覆い隠すための虚勢だけだった。
拓跋珪の猜疑心は、ついに彼の最愛の息子にまで向けられるようになった。彼は、皇太子である拓跋嗣が、自分を暗殺しようとしているのではないかと疑い始めた。
「拓跋嗣め……。予が寝ている間に、予の命を狙うつもりか…! 予の背後には、常に影が潜んでいる。予を欺く者には、死あるのみだ!」
彼は、拓跋嗣を自らの部屋に呼び出し、夜な夜な拷問を繰り返すようになった。
義熙十二年(四一六年)の春、拓跋珪は、拓跋嗣を自らの手で殺そうとした。その日もまた、拓跋嗣は父の部屋に呼び出されていた。拓跋珪は、酒に酔い、狂気じみた眼差しで拓跋嗣を見つめていた。
「拓跋嗣よ。予の天下は、予のものだ。お前は、それを奪おうとしているのだろう?」
「父上。私は、ただ父上の天下を継ぎたいと願っているだけです。奪うなどと、そのようなことは…!」
拓跋嗣は、震える声で訴えたが、拓跋珪の耳には届かなかった。夜陰に紛れ、拓跋嗣の寝室へと忍び込んだ拓跋珪は、剣を抜き、その刃を息子の喉元に突きつけた。しかし、拓跋嗣は、父の殺気に満ちた気配を察知し、辛うじてその場から逃げ延びた。
拓跋嗣は、人気のない宮殿の裏庭で、震える身体を抱えながら、夜空を見上げていた。
(父上……! なぜ、父上は私を殺そうとするのですか……! 私は、ただ父上の天下を継ぎ、この国をさらに発展させたいと願っているだけなのに……!)
彼の心は、深い悲しみと、父への裏切りに対する怒りに満ちていた。彼は、父がもはや正気ではないことを悟った。平城の都には、父の暴政に苦しむ臣下たちの不満が渦巻いている。彼らの不満は、次第に拓跋嗣を新たな君主として擁立しようとする動きへと変わっていった。
「皇太子殿。このままでは、陛下は国を滅ぼしてしまいます。どうか、この国をお守りください!」
臣下たちは、拓跋嗣に平伏し、涙ながらに懇願した。拓跋嗣は、彼らの言葉に胸を締め付けられた。
(父上の狂気を、これ以上放置すれば、この国は内側から崩壊する。父上が築き上げたこの北魏を、この手で守らねばならぬ。たとえ、父上を討つことになろうとも…)
父を討つという決断は、彼にとって、何よりも重いものだった。それは、息子が父を殺すという、許されざる行為であった。しかし、それは同時に、国を守るための、そして父が築き上げた偉大な遺産を守るための、唯一の選択肢でもあった。
同年十月、拓跋嗣は、ついに父拓跋珪を暗殺した。
拓跋珪の死は、北魏に大きな動揺をもたらした。しかし、拓跋嗣は、混乱を収拾し、第二代皇帝として即位した。彼は、父の築き上げた強大な国を継承し、北魏のさらなる発展を目指すのであった。
拓跋嗣は、即位後、父拓跋珪の遺志を継ぎ、南の東晋、そしてその実権を握る劉裕を警戒していた。
(父上は、劉裕という男を、最大の敵と見ていた。彼は、孫恩を討ち、盧循を討伐し、今や東晋の太尉として、その権力を掌握している。父上を恐れさせたほどの男だ。彼が、南で着々と力をつけている今、予は、父上の遺志を継ぎ、劉裕という脅威に備えねばならぬ!)
拓跋嗣は、父が築き上げた国を守るため、そして、父の遺志を継いで中華を統一するという新たな野望を胸に、北魏の国力をさらに増強させていった。
北の狂気に満ちた時代は終わり、新たな皇帝の下、北魏は、南の劉裕との決戦に備えるのであった。