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五胡転戦記  作者: 八月河
北狄南漢
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英雄の孤立、天下への道

義熙七年(四一一年)四月、劉裕が盧循の乱を平定し、太尉に昇進した直後、荊州を任せていた腹心・劉道規が病に倒れ、帰還を願い出た。その代任として、かつて五斗米道軍に敗れた劉毅が派遣されることになった。


この人事を耳にした慕容復は、静かに懸念を抱いた。彼は、夜風が吹き抜ける劉裕の執務室を訪れ、その重い扉を叩いた。


(劉毅は、劉裕殿の同志ではあるが、その野心は桓玄に劣らぬもの。彼は、必ずや劉裕殿を脅かす存在となるだろう。このままでは、東晋は再び内乱の危機に瀕する…)


慕容復は、劉裕に直接進言するため、静かに口を開いた。


「劉将軍。劉毅殿の荊州への派遣、再考なされてはいかがでしょうか?」


劉裕は、書き物をしていた筆を止め、眉をひそめた。


「なぜだ? 劉毅は、予の同志ではないか」


「劉将軍。確かに彼は同志です。しかし、彼の心は、すでに将軍の元にはありません。彼は、荊州という地の力を利用し、将軍の天下統一の道を阻むでしょう」


慕容復の言葉は、氷のように冷たく、しかし、確かな重みを持っていた。劉裕は、じっと慕容復の瞳を見つめた。その瞳には、故郷を失った者だけが持つ、鋭い洞察力が宿っていた。


「…予も、そう思っておった。だが、同志を疑うことは、予の最も忌むべきことだと思っていたのだ…」


劉裕は、苦悩に満ちた表情で呟いた。彼の言葉には、信頼する者を疑わねばならぬ、孤独な立場の悲哀がにじみ出ていた。慕容復は、その苦悩を静かに見守り、ただ一言、深く頷いた。


慕容復の懸念は的中した。劉毅は、荊州に赴任すると、自らの派閥に属する謝混や郗僧施などの招聘を願い出た。劉裕はいったん承諾するそぶりを見せたが、間もなく彼らを捕縛し、殺害した。それは、劉毅との決別を意味していた。


義熙八年(四一二年)九月、劉裕は劉毅討伐を表明し、出陣した。この出兵は劉毅の虚を突いていた。先遣隊の王鎮悪が到着した時点で、劉毅は病に臥せっており、迎撃の備えをしていなかった。十月、劉毅は討ち取られた。


(劉将軍は、この国の安寧のため、容赦のない決断を下した。彼の心には、どれほどの痛みがあっただろうか……。だが、これもまた、天下統一のためには必要な犠牲なのだ。彼は、孤高の道を歩み始めている…)


慕容復は、劉裕の決断の裏にある苦悩を察し、彼の傍らで静かに戦況を見守っていた。それは、主従という関係を超え、互いの孤独を理解し合う、二人の英雄の絆を象徴していた。


劉裕は、荊州に到着すると、休む間もなく、さらに後蜀討伐の軍を起こした。しかし、彼は親征はせず、新進の将軍朱齢石に一任し、本人は建康に帰還した。

「慕容復。そなたは、朱齢石の才をどのように見ている?」


建康への帰路、劉裕は静かに慕容復に問いかけた。


「劉将軍。彼は、まだ若いですが、その才は確かです。彼は、将軍の理想を理解し、忠実に任務を遂行するでしょう。彼に任せれば、必ずや後蜀を攻め滅ぼすことができるでしょう」


劉裕は、慕容復の言葉に静かに頷いた。朱齢石の任用は、周囲の古参の将軍たちからは物議を醸した。


「なぜ、若造に大役を任せるのですか!」


「劉毅殿の二の舞になりかねませぬ!」


という反対意見が噴出したが、劉裕は耳を貸さなかった。それは、彼の慧眼が、朱齢石の内に秘められた才能を見抜いていたからだった。義熙九年(四一三年)七月、朱齢石は後蜀を攻め滅ぼし、劉裕の慧眼を証明した。


建康に帰還した劉裕は、クーデター決起以来の同志である諸葛長民を誅殺した後、国内の体制を整えるため、奔走した。謝晦らの手筈により土断を施行し、戸籍を整理して税収を安定させた。


(劉将軍は、もはや誰も信用できぬのだろう。彼にとって、天下統一という大業のためには、同志すらも排除せねばならぬ敵なのだ……)


慕容復は、劉裕の孤独な戦いを、静かに見守っていた。そして、東晋の皇族である司馬休之が劉毅滅亡後の荊州に赴任し、任地にて声望を集めているという報せが届いた時、彼は、再び劉裕の孤独な戦いが始まることを予感した。

義熙十一年(四一五年)の初春、建康に冬の終わりを告げる冷たい風が吹く頃、劉裕は執務室に慕容復を呼び出した。机の上には、司馬休之に関する報告書が山と積まれている。


「慕容復。司馬休之は、荊州で民の支持を集め、その声望は日増しに高まっていると聞く。このまま放置すれば、いずれ劉毅と同じ道を歩むだろう。…予は、彼を討つ」


劉裕の言葉には、以前のような苦悩の影はなかった。かつての同志を討つ決断を下した時とは違い、その声はただ、冷徹な決意に満ちていた。慕容復は、その変化を目の当たりにし、胸の奥で静かに衝撃を受けた。


(劉将軍は、もはや迷わない…天下統一のためならば、いかなる犠牲も厭わぬ。彼は、もはや一人の将軍ではない。天下を統べる器として、その心を鬼にしているのだ)


劉裕は、司馬休之らの子らが犯した小さな失態を口実に、攻撃を開始。それは、長年劉裕に仕えた者たちにとって、あまりに理不尽な理由に思えた。しかし、劉裕の決意は揺るがなかった。


四月、劉裕の軍勢に追い詰められた司馬休之は、ついに後秦へと亡命。彼の勢力は完全に一掃された。建康は、再び静けさを取り戻した。


「すべてが終わった…」


劉裕は、そう呟くと、深々と息を吐いた。その表情には、達成感とは異なる、どこか空虚な色が浮かんでいた。慕容復は、その傍らで、ただ静かに佇んでいた。


(劉将軍は、すべてを排除した。だが、その心は、今、どれほど孤独なのだろうか…)


劉裕は、国内の権力基盤を固め、天下統一という壮大な野望へと向かう準備を整えていた。彼の傍らには、慕容復という、彼の孤独な戦いを理解し、支える唯一の存在がいた。二人の英雄の歩みが、新たな歴史を紡ぎ始めるのであった。


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