南の英雄、二つの戦い
夜風が、窓から吹き込む。劉裕は、広げた地図を前に、険しい表情で腕を組んでいた。蝋燭の炎が揺れ、机上の光と影が、彼の顔に複雑な模様を描き出す。彼の視線は、北の北魏と南の盧循の間をさまよっていた。その瞳には、幾重にも重なる敵の脅威を前にした、孤独な将の焦燥が宿っていた。
(桓玄を討ち、この東晋に束の間の平穏をもたらしたはずが、この国は、まるで四方八方から敵に囲まれている牢獄ではないか……)
劉裕は、心の内で苦々しく呟いた。北西には桓玄の残党が逃げ込み、西の成都では譙縦が後蜀を打ち立てた。そして、北では北魏が燕の旧領を完全に支配下に収め、その南に位置する南燕が勢力を伸ばしている。さらに南では、孫恩より五斗米道軍を引き継いだ盧循が、広州を拠点に地盤を築きつつあった。地図には、まるで毒虫が這い回るかのように、敵勢力の版図が広がっている。
「このままでは、東晋は再び滅亡の危機に瀕するだろう。しかし、私がこの国の安寧を築き上げるのだ…!このまま、何もしなければ、いずれすべてを失うことになる」
劉裕の焦燥は、彼の瞳の中で燃える炎のように激しくなった。彼は、すぐさま慕容復を呼び出した。夜遅くの呼び出しにもかかわらず、慕容復は静かに彼の前に現れ、恭しく頭を下げた。
「慕容復。そなたの知恵を借りたい。この国は、今、四方八方から敵に囲まれている。そなたならば、どうする?」
劉裕は、地図を指差しながら問うた。その声には、焦りと、わずかな期待が混じっていた。慕容復は、地図を一瞥すると、迷うことなく、その細く長い指で北の北魏の領土を指した。
「劉将軍。まずは、最も危険な敵から討つべきです。そして、その敵とは、南の盧循ではありません。北の北魏です」
劉裕は、慕容復の言葉に驚きを隠せなかった。彼の予想とは、真逆の答えだったからだ。
「なぜだ? 盧循は、今、広州を拠点に、我が国の喉元に刃を突きつけている。広州から建康までは、さほどの距離ではない。一方、北魏は、まだ遠い北にいるではないか」
慕容復は、静かに首を振った。その瞳には、故郷を失った者だけが持つ、深い確信が宿っていた。
「劉将軍。盧循は、確かに目前の脅威です。しかし、彼はあくまで一時の脅威に過ぎません。彼の軍勢は、その実、烏合の衆。統率の取れた正規軍ではありません。彼を討伐することは、いずれ可能でしょう。しかし、北魏の拓跋珪は違います。彼は、燕を滅ぼし、北方を統一しつつあります。彼が完全に北方を統一すれば、その強大な軍事力は、我々にとって、最大の脅威となります。盧循は、その後でも討伐できます。しかし、拓跋珪は、今この時を逃せば、もはや討つことは叶わぬでしょう…」
慕容復の言葉には、単なる戦略論ではない、生々しい現実が込められていた。劉裕は、その言葉に、胸の奥底が震えるのを感じた。
(彼は、故郷を北魏に滅ぼされた男。彼の言葉には、単なる戦略論ではない、生々しい現実が込められている。拓跋珪の恐ろしさを、誰よりも知っているのだ。…盧循の脅威に目を奪われていた私よりも、彼の言葉の方が、よほど未来を見通しているのではないか?)
劉裕は、慕容復の進言を受け、決意を固めた。
義熙五年(四〇九年)二月、北魏軍が東晋との国境付近で小規模な略奪を繰り返していた。この動きを、劉裕は北魏征伐の好機と捉えた。同年三月、劉裕は北魏征伐を宣言。多くの者が反対する中、孟昶・臧熹・謝裕らの後押しを受け、彼は北伐を敢行した。
(北魏をこのまま放置すれば、いずれ中華の北半分を完全に統一し、我らの最大の脅威となるだろう。拓跋珪がまだ南燕との戦いに釘付けになっている今こそ、燕の旧領を奪い取る最大の好機だ! 慕容復の言葉を信じよう!)
劉裕の決意は固かった。慕容復は、そのそばで兵站や軍の指揮を補佐し、劉裕の北伐を支えた。劉裕の軍勢は、快進撃を続けた。しかし、同年七月には北魏の燕旧領の一部を包囲したものの、北魏軍は粘り強く抵抗し、広固城の攻略は難航を極めた。
「広固城が、なぜこれほどまでに落ちぬのだ!」
劉裕の苛立ちが募る。彼の焦りは、兵士たちにも伝染し、士気は低下しつつあった。そんな中、慕容復は冷静に状況を分析していた。
(この城は、かつて燕の都だった場所。拓跋珪は、この地を易々と手放すつもりはない。そして、北魏の援軍は、必ず来る…)
慕容復の予感は的中した。劉裕軍が広固城を陥落させるのに半年以上の期間を要し、義熙六年(四一〇年)二月、ついに城を奪取したと同時に、南から盧循が広州より北上したという報せが届いた。
「盧循め……! やはり、この機を狙っていたのか!」
劉裕は、地団駄を踏んだ。北魏を警戒するあまり、南の脅威を軽視してしまった自らの判断の甘さを、彼は痛感した。
劉裕の不在を好機と見た盧循は、猛烈な勢いで北上した。彼は、建康との中間地点にあたる豫章にて、劉裕の腹心である何無忌を敗死させた。その報せを聞いた劉裕は、顔色を変えた。
(何無忌が…! 盧循め、まさかこれほどの勢いとは…! 私の判断が甘かった…いや、私が故郷を離れることを決めた時、すでにこの運命は決まっていたのかもしれぬ…)
劉裕は急遽南下し、四月に建康入りを果たした。しかし、彼の帰りを待っていたのは、絶望的な状況だった。五月、劉裕の制止を振り切り迎撃に出た劉毅が、五斗米道軍に敗退。さらに、後方で兵站を担っていた孟昶は「臣が五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまった。この危機は臣の罪である」と、自ら毒を仰ぎ、命を絶った。
「孟昶……!」
劉裕の胸に、言葉にならない痛みが走る。信頼する部下たちの死は、彼の心を深く抉った。しかし、嘆いている暇はなかった。盧循軍は、すでに建康に接近しつつあった。
劉裕が建康の守りをまともに整えられないうちに、盧循軍は建康に接近した。そのまま上陸し攻め立てられれば、敗北は必至であった。しかし、なぜか盧循は、上陸をせず、様子見をする作戦をとった。
「劉将軍。盧循は、この城の守りが薄いと見ている。しかし、同時に、我々が罠を仕掛けているのではないかと、警戒しているのでしょう」
慕容復は、盧循の心理を正確に見抜いていた。その間に、劉裕は戦闘可能な兵力を石頭城に集結させ、休息及び装備の再分配をなし、周辺地域より集結してきた救援勢力と合わせて、各地に兵力を配した。
「慕容復。そなたの知恵を貸してくれ。この建康を守るには、どうすればよい?」
「劉将軍。盧循は、水上での戦いには慣れていません。ならば、我々が上陸を阻止し、水上での決戦に持ち込むのです。敵は、必ず退きます」
慕容復の進言を受け、劉裕は水上での決戦に臨んだ。彼は、命令違反をなす将兵は殺すと宣言し、兵士たちの士気を鼓舞した。その結果、水上での激戦の末、建康防衛に成功。盧循軍は混乱に陥り、逃亡を開始した。劉裕は、その逃亡する盧循軍に対し、追撃を開始。義熙七年(四一一年)には、ついに盧循を討ち果たすことに成功した。
燕旧領の一部奪取、盧循討伐の功から、劉裕は太尉に昇進した。慕容復は、その傍らで、劉裕という英雄の成長を、静かに見守っていた。二つの危機を乗り越え、より強固な絆で結ばれた二人の英雄は、これから始まる新たな時代の、確かな礎となっていた。