北の覇者、拓跋珪の野望
北魏の皇帝、拓跋珪は、静かに地図を広げていた。広大な中華の大地を描いた地図の上で、彼の指先が、かつて燕の都であった龍城のあたりをなぞる。燕を滅ぼして以降、その勢力は飛躍的に拡大し、今や中華の北半分は彼の支配下にあった。わずか数年で、慕容恪と林全という稀代の英雄を失った燕を併呑し、彼は名実ともに北方の覇者となっていた。
(慕容恪と林全…。彼らがもし生きていたならば、予の天下統一は、これほど容易ではなかっただろう。あの二人の才は、武勇に優れるだけでなく、内政にも長けていた。特に、林全…いや、慕容復か。彼の用兵の妙は、まるで生き物のように戦場を駆け巡ったと聞く。しかし、彼らは死んだ。もはや、予を阻む者など北にはいない…)
拓跋珪の瞳の奥には、冷酷な光が宿っていた。彼は、敵将を討ち取ることを厭わない冷徹な覇者であると同時に、優れた才能を何よりも重んじる現実主義者でもあった。彼は、燕の旧領を支配下に置くと、その地の民を北魏の民として受け入れ、統治体制を確立していった。そして、彼は、燕の旧臣たちを、積極的に北魏の官僚として迎え入れた。それは、燕の民の不満を抑えるためであり、また、彼らの才を利用するためでもあった。
ある日、拓跋珪は、かつて慕容恪の甥であった慕容虎と、林全の弟である林業を自らの執務室に呼び出した。二人の顔には、滅びた故郷への深い悲しみが刻まれている。しかし、彼らは皇帝の前にひれ伏し、静かにその命令を待っていた。
「慕容虎よ。そなたの才は、この拓跋珪が認める。燕の将として、そなたが築き上げた武功は、予の耳にも届いている。故郷を失った悲しみは察するが、その才を、この北魏で活かしてはくれぬか? 予の元で、この北方を治めるために尽力せよ。それが、そなたの故郷への、最大の弔いとなろう」
拓跋珪の言葉は、まるで氷のように冷たかったが、その中には確かな期待が込められていた。慕容虎は、故郷を滅ぼした男の言葉に一瞬、憎しみを覚えた。しかし、彼の瞳の奥には、燕の民を思う心が宿っている。
(この男は…ただ冷酷なだけではない。故郷を失った我らの心を見抜き、それでもなお、この北方の平和を望んでいる。この男の元ならば…燕の民も、再び安寧の日々を送れるかもしれぬ…)
慕容虎は、静かに頭を下げた。
「ありがたきお言葉、恐悦至極に存じます。この慕容虎、陛下のために、命を賭して働きます」
拓跋珪は、次に林業に目を向けた。林業は、兄である林全を、そして故郷を失った悲しみに暮れていた。
「林業よ。そなたの兄、林全は、予にとって最大の敵だった。彼の用兵は、まさに鬼神のごときものであり、予を幾度も苦しめた。しかし、そなたは違う。そなたの才は、この北魏にとって必要不可欠なものだ。予に、忠誠を誓ってはくれぬか?」
林業は、拓跋珪の言葉に、兄の死を改めて思い出した。しかし、彼は、拓跋珪の瞳の奥に、兄を認める光を見た。それは、故郷を滅ぼした男の言葉でありながら、同時に、兄の才能を高く評価する者の言葉でもあった。
(兄上は、この男に認められていた…ならば、兄上が果たせなかった志を、私がこの男と共に果たしてみせる。それが、兄への、最大の供養となるだろう…)
林業は、震える手で頭を下げた。
「この林業、陛下の御為に、すべてを捧げます」
拓跋珪は、彼らの才能を高く評価し、自らの配下として重用した。慕容虎と林業は、燕の滅亡という悲劇を乗り越え、北魏の官僚として、新たな時代を生きることを決意した。
拓跋珪は、軍事力だけでなく、内政の確立にも力を注いだ。彼は、燕の旧領から多くの民を盛楽へと移住させ、広大な荒地を開墾させた。農民たちには、種や農具を支給し、税を軽減することで、農業生産力を飛躍的に向上させた。また、彼は、優秀な職人を集め、鉄を精錬させ、武器や農具を大量生産させた。北魏の首都・盛楽は、活気に満ち溢れ、中華の北方の中心地として、その地位を確固たるものにしていった。
拓跋珪は、法律の整備にも力を入れた。彼は、厳格な法を定め、社会の安定を図った。
(この北方の地は、もはや乱世ではない。予が、この地を統一し、新たな秩序を築き上げるのだ。燕の民、そして中華の民は、予の元で、安寧の日々を送ることになる。そのために、予は、すべてを捧げねばならぬ)
拓跋珪の統治は、北魏を強国へと変貌させていった。彼の元には、各地から有能な人材が集まり、北魏の国力は日増しに増大していった。
しかし、拓跋珪の胸には、一つの懸念があった。それは、南の東晋に現れた英雄、劉裕の存在だった。
「劉裕…」
拓跋珪は、静かに劉裕の名を呟いた。その名は、北魏の諜報員から報告された文書の中に、幾度となく登場する。孫恩の乱を平定し、桓玄を倒し、今や東晋の実権を握っているという。
(彼は、ただの武人ではない。孫恩の反乱を平定した手腕、桓玄を討ち取った冷徹さ。それは、予と同じ、乱世を終わらせようとする者のそれだ。いや、それ以上かもしれぬ…)
拓跋珪は、劉裕という南の英雄を警戒し、東晋の動向を常に注視していた。彼は、劉裕がいつか北伐を開始し、自らの天下統一の夢を阻む存在となることを予感していた。
「劉裕よ。予は、そなたと戦うことになるだろう。その時、予が天下を統一するのか、それともそなたが天下を統一するのか…。この二つの強国に挟まれた中華の運命は、いかに…」
拓跋珪は、北魏という強大な国を築き上げ、南の劉裕との決戦に備えていた。北の覇者と南の英雄、二つの強国が、互いの出方をうかがいながら、新たな戦乱の幕が開くのを待っていた。