石勒の十八騎と、石虎の企み
石勒は、自らの幕舎に林暁を招き入れ、熱心に説得を続けた。火鉢の燃える音だけが響く静かな幕舎で、石勒は林暁の瞳を見つめながら語りかけた。
「林暁よ、わしの配下となれ。お前ほどの才を持つ男は、この乱世を統一するわしにとって不可欠な存在だ。わしと共に天下を統一した暁には、晋の再興も夢ではないぞ」
その言葉に、林暁の心は動かなかった。
(統一…晋の再興…口にするのは容易い。だが、その道にはどれだけの血が流れる? どれだけの者が、また無残に死んでいく? 俺はもう、その光景を見たくはない……)
林暁はただ静かに、その言葉を受け流す。彼は、石勒の言葉の裏にある、尽きることのない野心を理解していた。それは、かつて司馬昭の元で見た、輝かしい野望とは違う。血と暴力にまみれた、この時代の現実を林暁は知っていた。
「……石勒殿の御厚情、痛み入ります。しかし、私には、もはや仕えるべき主君も、忠誠を誓うべき大義もありません」
林暁の返答に、石勒は深くため息をついた。
「ハハハ、お前は本当に手ごわい男よ。だが、わしは諦めぬぞ。貴様の心に火を灯すまで、説得を続けるとしよう」
石勒はそう言うと、林暁を百人の兵を率いる隊長に任命した。林暁はそれを拒むことなく、ただ淡々と、新たな役目を受け入れた。それは、三百人の流民を救うという使命から、百人の兵の命を預かるという、より具体的な責任へと変わっていった。
石勒が林暁に執心していることは、古参の部下たち、いわゆる「石勒十八騎」の間でも大きな話題となっていた。彼らは、石勒が奴隷から身を起こした頃からの仲間であり、苦楽を共にしてきた自負がある。
「叔父上は、なぜあのような漢人にこだわるのですか!」
石虎は、石勒にそう食ってかかった。彼の声には、抑えきれない苛立ちと嫉妬がにじみ出ていた。
「あの男は得体が知れぬ。何より、叔父上があれほど熱心に口説くなど、今までになかったことだ!」
石虎は、林暁を排除することだけを考えていた。しかし、三百という劣勢の兵力で石虎を退け、なおかつ勝利に驕ることなく、石勒に礼を尽くした林暁の姿を見て、彼らの心境は少しずつ変化していった。
「石虎をああまで手玉に取るとは……並の男ではない」
「あの戦い方、まるで天下を股にかけてきた大将軍のようだ。俺たちとは、物の見えている範囲が違う」
「そうだな。我らは野盗まがいの戦しか知らぬ。だが、あの男は違う。石勒様が欲しがるのも頷ける」
石勒十八騎は、林暁が自分たちとは異なる、高潔な才を持つ人物だと理解し、やがて彼を一人前の武将として受け入れるようになった。
一方、石虎は、自分の幕舎に戻っても怒りが収まらなかった。
(林暁……あの男さえいなければ! 叔父上の心は、あの男に向かっている。このままでは、俺の居場所がなくなってしまう……!)
石虎は、目の前の机を拳で叩きつけた。自分の武勇を誇り、石勒への忠誠心にかけては誰にも負けないと信じていた石虎にとって、林暁の存在は許しがたいものだった。石勒が林暁に注ぐ関心は、彼の怒りを増幅させるだけだった。
石勒は、そんな石虎の怒りを知っていた。彼は石虎を幕舎に呼び出し、諭した。
「石虎よ、怒りはわかる。だが、お前はまだ林暁の真の恐ろしさを知らぬ。あの男の才は、お前を凌駕するかもしれぬぞ」
石虎は何も言わなかった。ただ、憎悪に満ちた目で石勒を見つめるだけだった。
(林暁の才が、俺を凌駕するだと? そんな戯言、誰が信じるものか! 叔父上は、あの男に惑わされている!)
石虎はそう心の中で叫んでいた。石勒は、石虎の性質をよく知っていた。どんなに諭しても、彼の凶暴な性格は改まらないだろうと、内心諦めていた。
林暁は、百人の兵を率いる隊長という地位を与えられてからも、弓の修練を続けていた。夜明け前、まだ兵士たちが眠っている間から、一人で的へと弓を射続ける。その姿は、まるで己の心と向き合っているかのようだった。
「林暁隊長は、いったいいつ休んでいるんだ?」
「朝から晩まで、あの調子だ。並の男じゃねぇな」
林暁にとって、弓はただの武術ではない。それは、心を無にするための、唯一の手段だった。
(この乱世で、俺にできることは何だ? 晋の再興? 漢趙の統一? …どちらも違う。俺は、ただこの百人の兵を、生きて帰すことしか考えられない……)
彼の射る矢は、まっすぐに的の中心を貫いた。
石虎は、林暁への嫌がらせを続けた。ある日、彼の部隊に、食糧不足を理由に危険な偵察任務を押し付けた。
「林暁、貴様の部隊に命じる。あの山を越え、敵の動きを探ってこい。ただし、食料は三日分しかないと思え」
そう言って、石虎は不気味に笑った。しかし、林暁は冷静だった。
「承知いたしました。ただ、我々だけでなく、他の部隊にも同様の命令を出されることをお勧めします。その方が、より正確な情報が得られるかと」
林暁の答えに、石虎は怒りで顔を歪ませた。林暁は、その表情を意に介さなかった。
(この男の目的は、俺を殺すことだ。だが、俺は、この百人の兵を死なせるわけにはいかない)
彼は、兵たちと共に困難な任務を乗り越えていった。林暁の冷静さと、決して動じない姿勢は、石虎の怒りをさらに煽るばかりだった。石虎は、このままでは林暁が石勒に重用され、自分の居場所がなくなってしまうと焦り始めていた。
(この男を、確実に始末しなければ……)
彼の胸中には、林暁を排除するための、新たな企みが芽生え始めていた。その企みは、やがて林暁と、彼が率いる百人の兵に、新たな危機をもたらすことになるだろう。