北の若き狼、拓跋珪の再興
林全と慕容恪が警戒心を強める拓跋珪。その生い立ちは、決して平坦なものではなかった。彼は、代国の王族として生まれ、将来を約束された身だった。しかし、運命は非情にも、幼い彼から故郷と王国を奪った。
(祖父上……! この代国を、必ず再興してみせます!)
幼き拓跋珪は、前秦の苻堅によって故郷を滅ぼされ、亡国の公子として流浪の旅に出ることになる。母である賀蘭夫人と共に、母の故郷である賀蘭部に身を寄せた。そこは、故郷とは違う、慣れない土地だった。言葉や風習、そして何よりも、常に差し迫る外敵の影。しかし、母は常に彼を励まし、王族としての誇りを失わないよう教え続けた。
「珪よ。我らは、いつか必ず故郷を取り戻す。それまで、決して諦めてはならぬ」
拓跋珪は、母の言葉を胸に、さらに前秦の支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に逃れた。彼の幼少期は、安寧とは程遠い、常に命の危険と隣り合わせの日々だった。しかし、その苦難が、彼の心を強く、そしてしなやかに鍛え上げていった。
(生きるためには、強くなければならない。故郷を奪った苻堅に、そして、この北方の地で予を嘲笑う者たちに、いつか必ずその力を思い知らせてやる……!)
彼の瞳の奥には、故郷を失った悲しみと、それに勝る復讐の炎が燃え盛っていた。それは、飢えた狼の眼差しに似ていた。
そして、その運命を大きく変える転機が訪れる。太元八年(三八三年)十月、前秦が淝水の戦いで東晋に大敗を喫し、中華の覇権を失ったのだ。この報せは、北方の諸民族に衝撃と希望をもたらした。
(苻堅が、晋に敗れただと!? 予の故郷を奪った前秦が……。今こそ、代国を再興する時だ!)
拓跋珪は、自らの内に秘めていた野心を解き放った。
太元九年(三八四年)十月、劉庫仁が死去すると、その後継者争いが勃発した。この混乱に乗じ、拓跋珪は再び賀蘭部に逃れたが、前秦崩壊による諸民族自立の波は、北方にも波及していた。彼は、この機を逃すまいと決意する。
(予は、ただの亡国の公子ではない。拓跋氏の血を引く者だ。この混乱に乗じて、必ずや故郷を取り戻してみせる!)
そして太元十一年(三八六年)一月、拓跋珪は賀蘭部の推戴を受けて牛川で代王に即位した。年号を登国と定め、新たな国の再興を誓った。
(この日を、予は決して忘れぬ。拓跋珪、ここに代王として再興する。そして、必ずや故郷を、そしてこの北方の大地を統一してみせる!)
同年四月には、国号を魏と改め、魏王と称した。これが、後に中華の北半分を統一する北魏の建国である。しかし、建国当初の北魏の支配圏は、盛楽を中心とした限定的な地域だけで、かつての代よりもその勢力は弱小な小国に過ぎなかった。
拓跋珪は、自らの力を過信することなく、強大な燕の力を借りることを決断する。彼は燕に使者を送り、同盟を申し入れた。
(燕の慕容恪と林全。彼らこそ、この時代を代表する英傑。彼らの力を借りれば、この北方を統一できる。そして、いつか彼らを凌駕してみせる!)
その書状を読んだ慕容恪は、静かに林全に語りかけた。
「林全殿。拓跋珪との同盟、本当に大丈夫なのか? あの男の目は、まるで狼のようだ」
慕容恪は、拓跋珪の底知れぬ野心を感じ取っていた。しかし、林全の考えは、その上をいっていた。
「慕容恪殿。彼が、いずれ燕の脅威となることは間違いありません。しかし、今ここで彼を敵に回せば、我らの版図拡大の邪魔となる。まずは彼を利用し、北方を安定させる。それが、燕の国力をさらに高める最善策かと存じます」
林全の言葉に、慕容恪は深く頷いた。
(やはり、この男は予の先を行く。拓跋珪の危険性を知りながら、それを好機と捉える。予は、この男に、この燕の未来を託しても良いのかもしれぬ)
燕の朝廷では、林全の進言により、拓跋珪との同盟が結ばれた。
北魏は、燕との同盟を後ろ盾に、勢力拡大に乗り出した。登国二年(三八七年)七月、劉庫仁の後継者である劉顕を破り、登国六年(三九一年)十二月には、代の旧領西部を統治していた劉衛辰を滅ぼすことに成功した。さらに前後して、柔然や高車などにも攻勢をかけ、河套から漠北に至る地域の大半を支配下に置いた。
北方に現れた若き英雄、拓跋珪。彼の台頭は、燕の天下統一という野望に、新たな影を落とすことになった。林全は、拓跋珪が強大な敵となる未来を知りながらも、この若き王との同盟を、燕の未来を賭けた、静かなる賭けとして見守るしかなかった。