中原の動乱、北の兆し
淝水の戦いで前秦が壊滅的な敗北を喫した後、ただ一軍無傷であった呉王慕容垂(慕容覇)は、苻堅を保護した上で、自らの軍を率いて反撃に転じた。彼の胸には、燃え上がるような闘志が宿っていた。
(桓温め、苻堅の敗北に乗じて、このまま燕に攻め寄せるつもりか。だが、予を侮るな。予の力は、苻堅を退けた時よりも増している! 林全殿が予に託したものは、燕の未来。この機を逃すわけにはいかぬ!)
慕容垂は、淝水での勝利に浮かれる謝玄の軍を強襲した。謝玄の軍は、前秦軍との激戦で疲弊しており、慕容垂の精鋭騎兵の猛攻を前に、為す術もなかった。
(まさか、慕容垂がこれほどの大胆な行動に出るとは……! 苻堅の敗北に乗じて、逆に我らを攻めるとは! 王猛殿も恐れた男……やはりただ者ではない!)
謝玄は、慕容垂の猛攻を前に、かろうじて軍を退却させたが、その被害は甚大だった。慕容垂は、この機を逃さず、長江の北岸を確実に制圧し、燕の版図を南へと広げた。
淝水の戦いで前秦が大敗した後、苻堅は慕容垂に保護され、長安へと帰還したが、その権威は地に落ちていた。各地で反乱が勃発する中、かつて前秦の将であった姚萇が、苻堅の身柄を要求してきた。
(苻堅よ。お前は、もはや天下を治める器ではない。その身柄を予に渡せば、この姚萇、隴西より東の地を、燕に譲ろう。これは、燕と手を結び、前秦を乗っ取るための最善策だ。慕容恪と林全……あの二人ならば、必ずこの好機を逃すまい)
姚萇の要求は、苻堅の命と引き換えに、燕が前秦の広大な領土を獲得できるという、破格の条件だった。
鄴の宮殿では、この要求を巡って激論が交わされていた。
「慕容恪殿。この要求を受ければ、燕は一気に版図を広げることができる。これは、天が我らに与えた好機にございます」
慕容恪は、林全の言葉に静かに頷いた。
(林全殿の言う通りだ。苻堅は、もはや前秦の盟主ではない。彼を生かしておいても、乱世の火種となるだけ。しかし、彼の命を奪うのは、あまりに非情すぎるのではないか……いや、これは燕の未来のため。予は、この非情な決断を下さねばならぬ)
慕容恪は、重臣たちに厳かに告げた。
「この要求、承諾する。姚萇に伝えよ。苻堅の身柄と引き換えに、隴西より東の地を、燕に譲るようにな」
林全は、版図が広がることに何の不満もなかった。むしろ、燕が中原の覇権を握るための土台ができたことに安堵していた。しかし、彼の心には、新たな懸念が芽生えていた。
(苻堅と謝玄を退け、姚萇と取引し、燕は大きく勢力を広げた。しかし、この戦乱の時代、新たな強敵が必ず現れる。それは……)
林全の頭の中には、代国の再興を成し遂げた拓跋珪の姿があった。彼は、後に北魏として中華の北半分を制し、南朝と対峙する強国を築き上げることを知っていた。
(拓跋珪……。彼は、まだ幼い。だが、その才は苻堅や桓温に勝るとも劣らない。彼の成長を放置しておけば、いずれ燕の最大の脅威となるだろう。何としてでも、彼の動きを封じなければならない)
林全は、慕容恪と共に、拓跋珪が再興した代国を警戒し始めた。
「慕容恪殿。北方の代国、拓跋珪の動向を注視すべきかと存じます。彼は、まだ幼いですが、その才は侮れません」
慕容恪は、林全の言葉に再び驚きを隠せなかった。
(拓跋珪……。その名は聞いたことがあるが、まさか、あの小国が、いずれ燕の脅威となるとは……。林全殿の先見の明には、ただただ驚かされるばかりだ)
燕の安寧は、束の間のものに過ぎない。新たな戦乱の予兆は、すでに北の空に忍び寄っていた。林全と慕容恪は、拓跋珪の動向を探るべく、密偵を北へと送り出すのであった。