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五胡転戦記  作者: 八月河
苻慕馬秦燕晋
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歴史の岐路、淝水の風声

林全は、鄴の宮殿の一室で、北方の空を見つめていた。彼の知る歴史では、前秦が淝水の戦いで敗北し、中原は再び混迷の時代を迎えるはずだった。しかし、彼がこの時代に来てからの行動が、多くの歴史を書き換えてしまった。


(苻堅と桓温を退け、慕容恪殿の病を遅らせた。だが、それでも前秦と東晋の衝突は避けられなかった。いや、この戦こそが、我ら燕の運命を左右する最大の好機だ。しかし、同時に、未来を読めない恐ろしさも伴う……)


林全の胸には、一抹の不安がよぎっていた。彼は、苻堅という男の器量と、王猛という稀代の宰相の才を知っていた。その二人が手を組んだ前秦が、果たして東晋のわずか七万の軍に敗れるとは、にわかに信じがたいことだった。


その時、療養中の慕容恪が林全の元を訪れた。彼の顔には、疲労の色は見られるものの、以前のような病的な影はなかった。


「林将軍。この度の戦、そなたはどのように見ている?」


慕容恪の問いかけに、林全は静かに答える。


「殿下。臣は、秦が敗れると見ております」


「ほう? 予は、百万の大軍を前に、東晋に勝ち目はないと思っていた。なぜ、そう思うのだ?」


林全は、深く息を吸い込んでから続けた。


「秦は、異民族と漢人の混成部隊。決して一枚岩ではありません。苻堅殿は、その才をもって彼らをまとめ上げましたが、心の底では、互いを信じ切れていない。一度戦況が不利になれば、その亀裂は一気に広がるでしょう。一方、東晋は謝玄、謝石といった、血縁で固められた精鋭部隊。団結力において、前秦の比ではありません」


慕容恪は、林全の言葉に深く頷いた。


(やはり、この男は予の先を行く。苻堅の兵力ばかりに目を奪われていたが、人心の脆さを見抜くとは……。予は、この男に、この燕の未来を託しても良いのかもしれぬ)


一方、淝水のほとりでは、前秦と東晋の両軍が対峙していた。百万の大軍を率いる苻堅は、対岸の東晋軍営を望み見て、その少なさに安堵していた。

(たかが七万の軍が、百万の軍勢に勝てるはずがない。予の天下統一は、もはや目前だ! 王猛よ、予は、そなたとの約束を果たせるぞ!)


しかし、苻堅の心には、どこか違和感が残っていた。


それは、宰相王猛が常に口にしていた言葉だった。

「陛下、天下統一は、まだ早うございます」と。

その違和感は、東晋軍の使者、謝玄の言葉によってさらに大きくなった。


「苻堅殿。渡河して戦おうではないか。堂々と勝負をつけようではないか!」


その言葉に、前秦の将兵は激昂したが、苻堅は静かに応じた。


「良かろう。まずは、我らが軍を少し引かせよう。その隙に、そなたたちが渡河するがよい」


この苻堅の言葉に、王猛がもし生きていたら、激しく諫めていたことだろう。


(陛下! そのような甘い考えでは、天下は取れませぬ! 兵力の優位を捨てるなど、愚の骨頂でございます!)

王猛の幻影が、苻堅の脳裏に浮かび、彼を叱責しているかのようだった。しかし、苻堅は、その幻影を振り払うかのように、自軍に後退を命じた。


(大丈夫だ。予の百万の兵が、たかが七万の軍に敗れるはずがない。この策は、王猛が予に教えてくれた兵法の一つだ)


しかし、苻堅の期待は裏切られた。後退することが退却することだと勘違いした前秦軍は、総崩れとなり、東晋軍の追撃によって、壊滅的な被害を被った。


苻堅は、流れ矢に当たって負傷し、単騎で戦場を逃走していた。彼の耳には、風の音や鶴の鳴き声が、東晋軍の追撃の音に聞こえ、彼の心は恐怖に支配されていた。

(王猛よ……! 予は、予は、そなたとの約束を守れなかった……! 予は、天下を統一することができなかった……!)


苻堅の胸には、自らの愚かさと、王猛への深い後悔だけが残っていた。


苻堅が慕容垂によって保護されたという報せは、鄴の宮殿にも届いた。


「やはり、林全の読み通りだったか……」


慕容恪は、静かに呟いた。彼の表情には、驚きと、そして確信の色が浮かんでいた。


林全は、その報せを聞き、安堵のため息をついた。



(これで、前秦は内乱状態に陥るだろう。慕容垂殿は、苻堅を保護したことで、前秦内で大きな勢力を築くことができる。燕にとって、中原を統一する最大の好機が訪れた……!)


慕容暐は、慕容恪と林全の顔を見つめ、静かに問いかけた。


「叔父上、林全殿。この戦、我らはどう動くべきか?」


慕容恪は、林全に視線を向けた。


「林将軍。今後の燕の行く末は、そなたに託す。予は、陛下の教導に専念しよう」


林全は、深く頭を下げた。


「承知いたしました。陛下、そして慕容恪殿。この燕を、必ずや中原の覇者といたします」


淝水の戦いは、前秦の敗北という結末を迎えた。そして、その敗北は、燕という新たな時代の幕開けを告げる、号砲となったのであった。

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